スーパーヒロインすみれ



 いわゆる容姿端麗、いかにも文系少女な色白の肌に小動物的な黒い瞳と長いつややかな黒髪を持つ坂本すみれは、一見ごく普通の高校生だった。これでメガネでもかけていればずいぶんマニアに喜ばれるのだろうが、病弱そうにすら見られがちな外観とは裏腹に全身至って健康、視力も左右とも2.0を軽く突破しているのだった。
 白いブラウスに赤いリボン、紺色の短いスカートをそよ風にゆらして坂本家の玄関を出たすみれは、ごく普通に学校へ向かうところだった。何事もなければ、すみれは近くの駅まで十五分ほど歩いて行って、満員電車に三十分ほど揺られて、私立の高校に到着できる。ところが、何かしら事件があれば、すみれには世のため人のため首をつっこむ義務がある。なぜならば、坂本家はスーパーヒーローの一家だからなのだ。



 駅のホームで、キヨスクの方から駆けてくる男がいた。泥のついた汚いアーミーグリーンのパーカーに、ジャージズボン。よどんだ目と無精ひげが、印象悪い。手にはエロ雑誌数冊が握りしめられている。キヨスクの店員が「お客さん、お金!」と叫んでいる。万引きだ。
 万引き犯は不幸なことに、真っ直ぐすみれのほうへ駆けて来た。その後を、キオスクのおばさんが凄い形相で追いかけてくる。男の異様なオーラとあまり触りたくならない薄汚い容姿のせいで、通勤時間中のホームの人混みがモーゼのように左右に割れていく。そこにぽつんと一人とりのこされた女子高生が、すみれだった。万引き男の口元がニヤリと歪んで、黄色っぽい歯が覗いた。男は、きょとんとしているすみれの後ろに回り込み、どこからか取り出した文化包丁をすみれの喉元にあてがった。
「そこまでだぁ、ばばぁ! それ以上近づいてみろ、この娘の喉をかっ切るぞ!」
 それを見て、キヨスクのおばさんは青くなった。
「ちょちょちょいとお待ち。エロ雑誌三冊のために、あんた人生をダメにするつもりかい」
「うっせぇ、俺の人生はとっくにダメになってんだよぉ。こいつ三冊手に入れるのにも、こっちぁ命張ってんだぁ」
「エロ雑誌はくれてやるから、その女の子は離しておやり。それ以上やると、たかが万引きじゃ済まなくなるよ」
「騙されねぇぞ、こいつを離したとたん追いかけてくるだろうが」
 おばさんは、ちっ、と舌打ちをした。通勤途中の群衆は、やや遠巻きに珍しいイベントを見物している。
「おじさん、万引きしたんですか?」
 すみれが、男に尋ねた。
「おうよっ! それがどーした」
「万引きは、犯罪ですっ」
 語尾にハートマークがつく可愛い声で宣言すると、すみれは文化包丁を握る男の腕をひっつかみ、片手で軽く投げ飛ばした。取り囲む群衆から、おお、と声があがった。男の手からすっぽ抜けた文化包丁は、すみれの手の中で紙屑のように握りつぶされていた。
「ねえちゃん、強いねぇ。空手家かい」
 見物してたおじさんが尋ねた。すみれは包丁をこっそり後ろに捨てて、困ったように笑いながら答えた。
「いや、その、テレビで見た護身術です」
 キヨスクのおばさんは、白目を剥いている男からエロ本三冊を取り戻していた。




 満員電車を降りて駅を出ると、駅前には銀行がある。すみれが初夏を思わせるまぶしい青空の下に出ると、銀行の前でパトカー数台が取り囲むようにしてパトライトを輝かせているのが目に入った。スーパーヒーロー坂本家の一人娘、すみれとしては、その輪の中に入らないわけにはいかないのだった。
 しかしパトカーの周囲には、警察官の人間バリゲードをものともせず野次馬の群れがドーナツを作っている。さながらカリスマアーティストによるコンサート当日の東京ドームか、バブル絶頂期に開催される万博会場のよう。実際、何が起こっているのかわけもわからないまま、その行列の最後尾に並ぶお年寄りがいたりもする。そんな様相なので、すみれはそう簡単に最前列にたどりつけない状況だった。
「犯人に告げる〜。お前は〜、完全に包囲されている〜」
「んなもん、見りゃばわかるわ、バカヤロー!」
「無駄な抵抗をやめ〜、武器をすて〜、投降しなさい〜」
「するかよ、アホー!」
 すみれは、気合いの落差が激しいやりとりを遠くに聞きながら、四歩五歩とじりじり後ずさった。そうやって適度な距離を作ってから、「せ〜の」でダッシュした。そして、短いスカートをひらめかせながら、群衆の輪の上を妖精のように飛翔した。そんなすみれに気付いた人間は、警官隊や群衆の中に一人もいなかった。そして、血走った犯人の目にも、すみれの姿は映っていなかった。
「あ〜、犯人に告ぐ〜。武器を〜・・・」
「しゃらくせぇ!」
 サングラスの犯人は、どこで手に入れたのかわからないサブマシンガンのトリガーを引いた。ちょうど、その目の前に学生服姿のすみれがすとんっと着地した。犯人は、あっと思ったが、止める間はなくて、すでに発砲していた。耳をつんざく轟音に、群衆や警察官までが耳をおさえた。悲鳴が上がる。
 すみれは、無数の銃弾をマトリクスっぽく回避、とかはせず、小さな体でまともにそれを食らった。後ろから見て、すみれの体がけいれんしているように震える。犯人から数メートルという適度な距離、ほとんど全弾がすみれの体で受け止められ、そのおかげで警官隊や群衆に流れ弾が届くことはなかった。わずかに外れた弾丸は、空の彼方とか警官隊の盾とかに防がれた。
「どあっ、やべえ!」
 犯人はほとんど全弾撃ち尽くしてから、事態に気がついた。目の前に、女子高生が立っている。
「銃を人に向けて撃つのは」すみれが、言った。語尾にハートマークつき。「犯罪ですっ」
 すみれの左ストレートが炸裂した。犯人は頸椎を倍の長さぐらいまで伸ばして後ろに吹っ飛び、自動ドアの強化ガラスを二、三枚砕いて、ついさっき出てきたばかりの受付カウンターに体半分めりこませて、失神した。放り出されたボストンバッグから、連番の一万円札が花吹雪のように舞い散った。



「え〜ん、すっかり遅刻・・・」
 すみれは学校への道を急いだ。ずいぶんな寄り道をしてしまったのだから。
「それに、制服がぼろぼろ・・・」
 すみれの超人的肉体はまったくの無傷だが、化繊100%のブラウスとかスカートとかはズタボロになっていた。けっこう通行人の視線を集めている。
 あとちょっとで校門が見えてくるというところで、救急車と消防車数台がすごい勢いで駆け抜けていった。
「あ〜・・・」
 今日は事件の多い日だ。いつもいつもこうというわけではないのだが、集中する日は不思議と集中するものだ。すみれが迷っていたのは、ほんの短い時間だった。すぐに駆け出し、すごい速さで走って、やがて消防車のスリップストリームに入った。そして、そのまま現場までついて行ったのだった。
 それは古いアパートだった。すぐに消火作業が始まったが、炎はかなりの勢いだった。このての場面でたいがいどこにでも出没する「まだうちの子が中に!」と叫んでいるおばさんもいる。すみれの耳にも、そのおばさんの声は届いた。すみれは、ためらいもせず炎の中に飛び込んだ。制止しようと取りすがった消防隊員を、軽々と振り払って。
 廊下はすでに炎に包まれていた。すみれは炎の壁を平然と抜けて、きょろきょろと辺りを見回した。右も左もオレンジ色の炎で視界が悪い。
「ああ、せめて部屋番号ぐらい聞いてくればよかったな」
 すみれは、ひとつひとつドアを開けてみた。ドアを開けたままの部屋は良かったのだが、留守で鍵がかかってたりした部屋は、開けた瞬間にバックドラフトをまともに食らったりもした。中に誰かいても炭化してそうな気もしないでもない。
「ここで最後ね」
 すみれは、一番端の部屋に入っていった。幸いにしてドアは開いていたので、バックドラフトもなかった。一番奥のせいか、まだ火の回りは酷くない。すみれは部屋の床をはい回るようにして、誰かいないか一生懸命探した。


 二階の窓ガラスをぶち割って飛び降りてきたすみれは、両手の中に抱いていたそれをおばさんに差し出した。
「探していたのは、この子ですか?」
 それは、「みぃ〜」とか細い声で鳴いた。手のひらサイズの子猫だった。おばさんは涙を浮かべて、その子猫をすみれから受け取った。
「ありがとう、本当にありがとうございます」
「いえいえ、これがわたしの義務ですから。それと、ひとつだけ」
「はい?」
「このアパートで、ペットを飼うのは規約違反です」
 語尾にハートマークがついた。
「あのねお嬢さん。あんたのその格好も、犯罪的だよ」
「え・・・?」
 制服の大部分が、消し炭と化していた。



「たいへんなデビュー戦だったようだな、すみれ」
 真っ赤な全身タイツをまとったボディビルダーのような体格の男が、腕を組み、満面の笑顔を浮かべて仁王立ちしていた。坂本家の主人、坂本勇その人である。言うまでもなく、彼はすみれの父親であった。
 学校には体調不良を理由に休みをもらった。もちろん体調は万全元気いっぱいなのだが、制服がアレ状態なので登校どころの話ではない。公共交通機関を使えるような格好ですらないわけで、すみれは半泣きになりながらビルからビルを飛び越えて走って家に帰って来たのだった。
 本当なら、スーパーヒーローの超人パワーは世のため人のためにしか使ってはいけないという坂本家の家訓があり、自分のためにそれを発揮するのは固く禁じられている。スーパーヒロインデビュー初日からその禁を破ったのだから、きっとお父様に叱られるだろうと、すみれは覚悟を決めていた。しかし父は、すみれの活躍を遠くから(すごい視力で)見守っていたので、特別に大目に見てくれたのだった。
「どうだ、わかっただろう。我々スーパーヒーローにとって、そこいらのデパートで売ってるような衣服や学校指定の制服では、役に立たないのだよ」
 すみれは、うなずくしかなかった。アニメのコスプレみたいだから嫌だ、と言ってスーパーヒロインの格好を拒んでいたのだった。せめて何事もない時ぐらいは普通の女の子として過ごしたい、だから通学は制服が良いし普段はおしゃれもしたい。父の勇は、そんなすみれの主張を強く否定したりはしなかった。すべてお見通し、ということだった。
「我が家に代々伝わるこのスーツは、人知を越えたスーパー繊維でできている。強靱な肉体を持つ我々にとって、これは決して防護服として役に立つものではない。その逆なのだよ、すみれ。我々の強靱な肉体に対応できる強度を持つのが、このスーツなのだ」
 そう言って父の勇は、自分の胸を親指でかっこよく指した。
「でもお父様、やっぱりわたし、メイド服とかバニーとかエロチャイナとか、そういうアニメのコスプレみたいな格好は、恥ずかしいです」
「わかった、わかった。そういうひらひらした飾りのないやつを用意すれば良いのだろう」
「よろしく、お願いします」
 できるだけ地味なやつ、とすみれは心の中で祈った。



 翌朝、すみれが目を覚ますと、枕元にリボンのかかった包み紙が置いてあった。パジャマののままで、それを開けてみた。中には、着替えが入っていた。今日からすみれが着用する、スーパーヒロインとしてのユニフォームだった。
 確かにひらひらした飾りっ気はないようだし、やたら露出してるとかそういうこともなかった。むしろ、全身をくまなく覆い尽くすような、ようするに父とおそろいの全身タイツスタイルだった。
 パジャマを脱いで、おそるおそるといった心境でそのスーツを着用してみた。すごいことになった。想像以上に生地が薄くて、下着の様子がくっきりわかる。すみれの顔が真っ赤になった。包み紙の中に小さなメモが残っていた。拾い上げて読んでみると、「精密にフィットする構造のため、下着はつけないように」と書いてあった。
 すみれはいろんなことを考えながらゆっくりと深呼吸して、それから一度着たスーツを脱いで、さらにそれから下着も脱いで、そしてもう一度そのスーツを着た。特殊な肌触りのスーパー素材に全身がぴったりと包み込まれ、なんだか変な気分になってきた。薄い生地のようだけど、ふともものあたりはしわひとつないのが不思議で、なんとなく指で触ってみると、まるで直で触っているようにしっかりと繊細な感触が伝わった。
「これ、すごい」
 すみれは、妙なところに心から感心した。
「い・・・いってきまぁ〜す・・・」
 そう毎日毎日仮病で休んでいては、スーパーヒーローとしてどーかということになる。すみれは、今日も元気に家を出た。
 ピンクと白でデザインされた全身を包むパイロットスーツのような格好で、胸元には一応制服のなごりを思わせる赤いリボンがあしらわれている。すみれはこれからいつものように、近くの駅まで十五分ほど歩いて、満員電車に三十分ほど揺られて、私立の高校に到着する。もちろんその途中で何かしら事件があれば、世のため人のためすみれは首をつっこむ義務があるのだった。
 なんとなく通行人たちの視線が熱っぽいのを感じる以外は、今日はたいした事件もなく電車に乗ることができた。電車はいつにも増して満員で、すみれはぎゅうぎゅうに押しつぶされた。不思議なことに、他の車両よりもすみれが乗り込んだ車両にばかりどんどん人が乗り込んで来たのも、超満員の理由のひとつだったかもしれない。




 完全武装で挑んだ日に限って、何事もなく平和に過ぎ去っていく。ヒロインスーツで登校したすみれは、まったく普通に高校に到着した。しかしそんなすみれを待ち受けていたのは、学生生活という厳しい試練であった。
「坂本さん、校則違反なのよ」
 生活指導の先生に呼び止められ、そう言われた。学校指定の制服でないことは、もう誰がどう見ても間違いない。それはそれでしかたないとして、世の不正をただす立場であるすみれが校則違反を指摘されていることが、本人にはいたたまれない現実だった。
「これには、事情が」
「いったいどんな事情があれば、ウェットスーツで登校することになるのですか。まったく、何を考えているの、あなたは」
「いや、ウェットスーツじゃないんで、これ」
「まったくです。ウェットスーツよりもタイツに近いわ。そんなに薄くて。それに見たところ、下着もつけていないでしょう。破廉恥にもほどがあるでしょう」
 すみれとしてはできれば忘れていたかった事実を、生活指導の先生は頬を紅潮させながらハイテンションでまくしたてた。けっこう若くて美人の先生で、生活指導される男子生徒からも人気がある。だがいまこの状況では、通りすがりの男子学生たちの視線は、どちらかというと凄い格好で立たされているすみれの方に注がれている。
「罰として、しばらくそこに立っていなさい」
「そ、そんなぁ」
「それと、ご両親にもこのことをお話ししますからね」
 ぜひそうしてください、とすみれは思った。



 昨日に引き続き、今日もよく晴れていた。屋上から見上げる青空は、また格別に気持ちが良かった。
「よかったね、すみれ。誤解が解けて」
 クラスメイトが一緒にお弁当を広げて言った。ごま塩ごはんと、たまごとソーセージと、プチトマトだった。すみれのお弁当は、白飯に梅干しという典型的な日の丸弁当と、バナナだった。いつもだいたいこんな感じなので、クラスメイトも今更驚きはしない。
「わたし、これからも毎日こんな格好で出歩かなきゃいけないのかな」
「そうねぇ。デビューしちゃったものは、しかたないんじゃない? ね、スーパーヒロインすみれちゃん」
「やだぁ、そんな言い方やめてよ。これ、ちょっと恥ずかしいんだから」
「ちょっとなんだ・・・」
「・・・すごく」
「だよね」
 いつも楽しみにしているはずのランチタイムは、会話がはずまなくなった。二人ぼそぼそとお弁当を食べる。
 そのとき、すみれの超嗅覚がタバコの臭いを嗅ぎ取った。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
「なに、どうしたの? すみれ」
「うん。どこか近くで、犯罪みたいなのっ」
 語尾に、ハートマークがついた。すみれはてすりを軽く飛び越えて、4階建ての屋上から地上へと飛び降りていった。



おわり。