『 mrmax 東海道を歩く  (23)  池鯉鮒宿〜鳴海宿〜宮宿 』


知立宿から有松の間に国史跡の阿野一里塚と桶狭間古戦場がある。
鳴海宿は隣の有松とともに尾張藩が奨励した絞り染めの販売で有名だった。 
宮宿は熱田神宮の門前町であることに加え、佐屋、美濃、木曽の諸街道への追分であったことから 海道一の宿場といわれた宿である。 

(ご参考)   池鯉鮒〜鳴海  11.0キロ  徒歩約4時間30分       距離と所要時間は
         鳴海〜宮  6.5キロ  徒歩約2時間10分    山と渓谷社の「東海道を歩く」による 

(注)桶狭間の古戦場跡や有松絞り会館などに寄り道したので、小生は2回に分けて歩いた。



 

池鯉鮒宿から間の宿・有松

知立宿から鳴海宿へ行くまでに逢妻川と境川を渡る。 一つ目の逢妻川に架かる逢妻橋を渡ると池鯉鮒宿は終わる (左端写真) 逢妻町交差点で国道1号線と合流し、その先の三叉路で右側の狭い道を入って行く右側に秋葉神社があり、 その先に進むと右手に密蔵院がある (左中写真)
密蔵院は三河三弘法の第参番札所で、敷地も広くゆったりとしたお寺である。  このあたりは刈谷市一里山町。 一里山は一里塚の別称で、静岡県や滋賀県でもそう呼ばれている。  一里山新屋敷交差点の手前で国道に合流、一里山新屋敷交差点のあたりに「一里塚跡」の碑があると 思ったが確認できなかった。 
少し歩くと右側に上州屋があり、その先の今岡町歩道橋のところで、東海道は左側の細い道に入る (右中写真)
入った右側には十王堂があり、左側には屋敷門の家があった。  このあたりは国道を少し入っただけなのに昔の情緒を残していて、連子格子の古い家が点在していた。   少し先で道は左にカーブするが、カーブする手前の左側に寛政八年(1796)と刻まれている常夜燈と 「子安観音尊霊場」の石碑が建ち、奥に建物が見えた (右端写真)
奥の建物は曹洞宗の洞隣寺の本堂で、本堂の隣には、地蔵堂、行者堂、秋葉堂が並んで建っていた。 
洞隣寺天正八年(1680)の開山、刈谷城主、水野忠重の開基と伝えられる寺である。 

逢妻川
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密蔵院
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今岡町歩道橋
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洞隣寺


本堂裏の墓地の奥に 「 豊前国 中津藩士の墓 」 と 「 めったいくやしいの墓 」 が並んで立っている (左端写真)
「 渡辺友五郎は寛保弐年(1742)、帰国途中の今岡村付近で牟礼清五郎を突然斬りつけ、二人とも亡くなった。   二人の遺体は洞隣寺に埋葬されたが、二人の生前の恨みからか、いつの間にか反対に傾き、何度直しても傾いてしまうので、 墓地を整理し改めて葬ったところ傾かなくなった。  」 という。 
少し行くと右側に小さな社と常夜灯と 「 芋川うどん発祥の地 」 と書かれた木札があった (左中写真)
江戸時代の東海道名所記に 「 いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也  」 とあったところで、 ひもかわうどん(名古屋のきしめん)の源流といえるところだが、現在、そうした名物の店がここにある訳ではない。 
傍らの説明板には 「 江戸時代の紀行文にいもかわうどんの記事が多くでてくる。  名物のいもかわうどんは平打うどんで、これが東に伝わりひもかわうどんとして現代に残り、今でも東京ではひもかわと呼ぶ。 」  と書かれていた。 
信号のない交差点を過ぎ、左にカーブする手前には古い家が多く残っている。 
その先の左側に「乗願寺」という寺がある (右中写真)
「 乗願寺は天正十五年の創建で、当初は真宗を内に外向きは浄土宗としていたが、 後、真宗木辺派に改めた。 水野忠重の位牌を祀る。 なお、真宗木辺派の本山は滋賀県野洲市の錦織寺である。 」 
このあたりは刈谷市今岡町。 江戸時代には立場茶屋があったところである。 
少し行くと右側に連子格子の凄く立派な門付きの家があった (右端写真)

中津藩士の墓など
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いもかわうどん発祥の地
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乗願寺
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茶屋本陣?


その先にも屋敷門がある家があり、格子を黒く塗り、白い漆喰の壁で、門から覗くと二宮尊徳の像があった (左端写真)
この先の交差点の手前に倉付きの屋敷門のある家があり、ここを越えると今川町に入る。 
次の交差点で左折すると名鉄富士松駅で、駅前のロータリーの噴水にはサッカーを興じるレリーフがあるが、 刈谷市はサッカーが盛んな地区なのである。  少し行くと県道と交差するがここは今川歩道橋を渡る (左中写真)
道は右にカーブし少し歩くと下り坂になり、国道1号が見えてくる。  国道に出ると今川交差点で、正面にシキシマパン刈谷工場が大きく見える。  そちらに渡りたいのだが歩道橋や横断歩道がない。  左側に降りる道があるので国道の下を川と一緒にくぐり、国道の右側の道に入り、シキシマパンの駐車場の前を通る。  小さな橋を渡るとサウナやパチンコなどがあるが、その先で二つ目の川・境川に出会う (右中写真)
「 三河と尾張の国境に流れる境川はそれ程大きな川ではないのに川を挟んだ両側で住民の気質がかなり違う。  一言で言えば、尾張は豊臣秀吉の性格同様派手というか、見栄ぱりで、三河は徳川家康同様質素で堅い。  言葉も「みゃあみゃ」いうのは尾張で、三河は「どんくさい(もっときたない)」し、荒い言葉に思えた。  結婚時に自宅前で菓子をばらまくという風習は尾張(名古屋以西)だけである。 」 
境橋を渡ると三河国今川村から尾張国東阿野村(現豊明市)に入る。 
「 境橋は東海道の開設時に三河と尾張の立会いのもとで作られた橋だが、 当初は三河側は土橋、尾張が木橋をほぼ中央でつなぐ継ぎ橋だった。 」 
その当時の橋を詠んだ歌碑が橋を渡った右側の川岸に残っている (右端写真)
 「   うち渡す   尾張の国の   境橋   これやにかわの 継目なるらん   」  
詠んだのは烏丸殿と呼ばれた公家の藤原光広で寛文六年(1666)である。 その後、橋は洪水で度々流された。  やがて、継橋は一続きの土橋になった。 明治に入って欄干付きになった。 現在の橋は平成七年なので新しい。 

屋敷門がある家
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今川歩道橋
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境川
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藤原光広の歌碑


橋を渡ると少し先に愛知万博開催時に開通した伊勢湾岸道路が見えたが、 ここは国道1号、国道23号、県道などが交差する交通の要路である。  東海道はこれらの道路が並ぶ反対側にあるので、 道を下り、二百メートル程先で国道1号下のトンネルをくぐって左側の道に出る。  東海道が残るのはここまででこの後は国道1号を歩いていく。 
左手に名鉄豊明駅があり、道には車が多く渋滞しているが、それを尻目に進むと県道が通る陸橋が見えてくる。 
陸橋の手前の三叉路には 「 国指定史跡阿野一里塚200m 」 の標示板があるので左に入っていく (左端写真)
二百メートル先の「阿野一里塚」は両側とも残っていた。  塚の部分が崩されて原形を留めているとはいえないが、木を植えられ、小公園のようにして大事にされていた。 
左側の一里塚の中に入ると 「  春風や 坂をのぼりに 馬の鈴  」 (市 雪) という歌碑があった (左中写真)
「 ここから前後(地名)に向かって上り坂になっているが、 春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる  」 という意である。  愛知郡下之一色(現名古屋市)の森市雪の作で、嘉永元年(1848)の「名区小景」に載っている。  その下に文化五年(1808)の折れた道標があった。 
一里塚を出るとその先の交差点からやや急な坂になり、左側に大きな松の木が見える。 
豊明小学校の前に一本だけあるのは東海道の松並木の生き残りである (右中写真)
その先左側の三田皮膚科クリニックの隣に立派な建物があるが、塀に囲まれ門が閉まっている。 
外から覗くと「文部省」と書かれた高札、そして、隣に「明治天皇東阿野御小休所跡」という石碑が見えた (右端写真)
「 明治天皇は明治元年から弐年にかけて東京と京都の間を行き来した。  明治維新で京都から江戸に遷都するためと京都に戻り再度、東京に戻るためであったが、 その際三田邸で休息をおとりになったのである。 」

陸橋手前で左に入る
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阿野一里塚
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松並木の名残
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明治天皇御小休所跡


その先右手にある坂部善光寺あたりで上り坂は終わった。  前後駅前交差点の左側はスーパーが入る高層ビル・パルカス、その一角に名鉄前後駅がある (左端写真)
「 前後という地名は珍しいが、桶狭間の戦いの後、織田方の雑兵が褒賞をもらうため、 自分が倒した敵方の首を切り取って前と後に振り分け荷物のようにして肩に担いだという話から名が付いた、といわれる。 」 
神明社の石柱と常夜燈を右に見て進むと落合公会堂の前に「寂応庵跡」の石碑があった。 
このあたりは古い家と新しい家が混在しているが、それを見ながら進むと左にカーブする正面にマンションがあり、 ここで再び、国道1号に合流した。 
三叉路の競馬場入口交差点の右側に馬蹄の上に疾駆するサラブレッドの姿をしたレリーフが立つ (左中写真)
名鉄の高架をくぐると右手に名鉄中京競馬場駅があり、 中央競馬が開催される土曜、日曜は周囲が大混乱するが今日は平日なので静かだった。 
その先の左側の角に「香華山高徳院」の案内板が立ち、右側には「桶狭間古戦場100m」の表示がある。 
東海道は直進だが、桶狭間古戦場跡に向かう。 左折すると左に橙茶色の立派な建物があるが藤田学園本部とあり、 沓掛でキャンバスを持つ藤田保健衛生大学の本部である。 
その隣は「史跡桶狭間古戦場」と書かれた石柱がある桶狭間古戦場公園である (右中写真)
傍らの案内板には 「 永禄六年(1560)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死したところと伝えられ、 田楽狭間とか館狭間と呼ばれているところで、今川義元、松井宗信、無名の人々の塚があり、明和八年(1771)七石表が建てられた。   文化六年(1809)には桶狭間弔古碑が建てられた。 ここが有名な田楽桶狭間である。 」 と記されていた。 
園内に入ると左側に細長い標石が建っているがこれは「七石表」の一つである (右端写真)
「 七石表は今川義元の戦死した場所を明示する最も古いもので、 明和八年(1771)十二月、鳴海下郷家の出資により人見弥右衛門等により建てられたもので、 この標石には北面に今川上総介義元戦死所、東面、樋峡七石表之一、南面、明和八年辛卯十二月十八日、と刻まれている。 」 
その他の七石表も境内にあり、その前に花が手向けられていた。 

前後駅前交差点
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中京競馬場前
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史跡桶狭間古戦場
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七石表之一


「 七石表の先の樹木に囲まれたところが今川義元が亡くなったところと伝えられ塚になっていたが、 有松の人が主唱し、明治九年五月、墓を建てた。 」 とあったが、遺骸はない訳だから慰霊碑といった方が正確なのではないか? (左端写真)
その先の「古戦場案内板」の脇に「桶狭間弔古碑」と呼ばれる大きな石碑が建っている。  これは文化六年(1809)五月、津島神社社司、氷室杜豊長が建てた桶狭間合戦の戦記である。 
左側には香川景樹の歌碑 「  あと問えば  昔のときのこゑたてて  松に答ふる   風のかなしさ  」 があった。 
「 香川景樹は桂園派の巨匠で、江戸で己の歌風を広めようと上府したが迎えられず、 失意のまま帰途の途中ここを通り、今川義元の無念を思ってこの歌を詠んだ、という。 」 
義元の墓は公園の隣の「高徳院」の斜面にもあった。 これは万延元年(1860)、義元の三百忌に建てられたもので、 法名が刻まれている (左中写真)
この斜面の左側には小さな石仏が並んで祀られていたがその中に「徳本上人の名号碑」があった。 
高徳院への石段を上り山門をくぐると「義元本陣の跡」と書かれた石柱が建っている。 
また、寺院の敷地の一角には桶狭間合戦の敵味方の戦死者を弔う石仏群があった (右中写真)
高徳院は桶狭間合戦の跡地に建っている。 昔からここにあると思っていたが、意外に歴史は浅いのである。 
寺の由来によると 「 高徳院はもとは高野山にあった寺で、空海が高野山を開創して頃、河内国高貴寺より本尊の高貴徳王菩薩を勧請して建立された。  明治維新の神仏分離で高野山にあった多くの院坊が廃寺され、 この寺も同じ運命を辿るところを東京本所吾妻橋の遍照院の僧侶、諦念和尚がこの地に本尊、仏具、法具等を移転し存続された。 」  とあった。 
墓地に遠州二俣藩主で義元に従った「松井宗信」の墓がある (右端写真)
なお、桶狭間古戦場はここ以外に名古屋市緑区桶狭間北にもあり、豊明市と名古屋市はそれぞれが主張しているが、 国は昭和十二年、これまでの伝承と江戸時代に建てられた七石表を根拠としてここを狭間古戦場として国史跡に指定した。  しかし、異論を唱える学者もいる。 

義元の墓
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もう一つの義元の墓
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石仏群
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松井宗信の墓


東海道に戻り歩き始める。 この先に左へ入る細い道があるが、すぐに歩き終わり国道に合流してしまった。 
大将ヶ根交差点で国道を別れ、右側の細い道に入るのが東海道で、ここから有松を経由し鳴海宿まで続いている。 
国道から右に別れて入ったところが有松の入口で、このあたりは最近の家が大部分だが、 進むに連れて漆喰で塗られた家が現れてくる (左端写真)
「 池鯉鮒宿から鳴海宿まで二里三十町(約11㎞)なるが、江戸時代にはこの間になにもなく、特にこのあたりは樹木が生い茂り、 追剥も出る物騒なところだった。 尾張藩は慶長十三年(1608)、桶狭間村の有松集落を分村し、 知多郡阿久比村から十一戸を移住させ、安永弐年(1125)、有松を間(あい)の宿にした。  有松は耕地が少なく、茶屋としての営みにも限界があったため、尾張藩は副業として絞染を奨励し、それが新しい産業に育った。 」 
少し行くと右側に飛騨高山と同じようにからくりを演じる山車を保管する山車倉があり、有料だが見学できる。 
その先にある有松鳴海絞会館では絞り商品の展示や絞り技術の実演を行っている。 
有松絞り染めが全国津々浦々まで名声をとどろかせるようになったのは、 五代将軍綱吉への献上品、絹布(きんぷ)に絞りを施した手綱であったという。  以来、有松絞は尾張徳川家の庇護奨励のもと、ますます技に磨きをかけ、あるいは様々な技法を編み出し、 繁栄を極めていく。 商人達は絞り産業で儲けた富を店先の装飾や家並みにあてることで繁盛ぶりを競いあったので、 町並も洗練され、いつしか 「田舎に京の有松」 といわれるようになった。 
そうした景観を維持するため、有松地区は文化庁の町並み保存地区に指定されている。 
右側にある絞り問屋の「井桁屋服部家」の建物は特に素晴らしい (左中写真)
「 店舗兼住居部は瓦葺に塗籠(ぬりごめ)造りで卯達を設け、蔵は土蔵造りで腰になまこ壁を用い、 防火対策を行っている絞り問屋を代表する建築物である。  その他、井戸屋形、客室部、絞倉、藍倉、土倉、長屋数棟などが連なっていて、県の有形文化財に指定されている。 」 
街道に沿った処に 「  有松や  家の中なる  ふじのは那  淡 淡  」 という歌碑があった (右中写真)
「 淡淡は大阪の人で、東京に出て、晩年は大阪で過ごした。 」 と案内にあった。 
その先にも昔から有松絞りを生産販売をして来た店が多い。 
「 有松絞り染めは初めは九九利染めといわれていた。  名古屋城普請に集められた大名の家臣のうち豊後のものの絞りの手拭に竹田庄九郎が目をつけたのが始めといわれる。  四十年ほどの後、豊後からきた医師の妻が絞りの手法をつたえ、産業としての準備ができ、三河、知多の木綿産地を背景として発達した。  十八世紀後半には隣村の鳴海、大高あたりまで拡大し、その営業権をめぐって有松との紛争をおこすほどまでになった。 」 
有松絞りのルーツともいえる竹田家の主屋は江戸時代、茶室などは明治から大正時代にかけて整備されたもので、 これまた絞り問屋の繁栄した様を感じることができた (右端写真)
その他にも岡家や小塚家住宅のほか数多くの古い建築が残っている。  漆喰の壁が多いのは天明四年(1784)の大火で村の大半が焼失してしまったが、その後火災に備えて漆喰による塗籠造とし、 萱葺き屋根を瓦葺としたことによる。 
祇園寺を過ぎ、名古屋第二環状線の高架をくぐり、橋を渡ると間の宿・有松は終わる。 

有松の入口付近
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井桁屋
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淡淡の歌碑
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竹田家住宅


間の宿・有松から鳴海宿

四本木の右側の山裾には左京山住宅が拡がり、左側の名鉄左京山駅周囲はマンションが林立する。 
平部北交差点の左側に秋葉大権現常夜燈が建っていて、常夜燈の正面に「秋葉大権現」、左側に「永代常夜燈」、 右側に「宿名内為安全」、裏面に「文化三丙寅(1806)正月」と刻まれている (左端写真)
江戸時代にはここが鳴海宿の江戸側の入口だった。   昭和三十年代まで鳴海町、現在は名古屋市緑区鳴海町。 
平部も名古屋のベットタウンとしてマンションや団地が立ち並び開発が進むが、 それでも旧東海道の両脇には古い家も散見された (左中写真)
平部北から五百メートル程で下中地区に入る。 有松からだと二キロ弱。  途中の民家前には飛脚と旅女のレリーフが置かれていたりして、都会に近いのに昔の面影もかすかに残る道だった。 
扇川に架かる中島橋を渡るとそこはもう鳴海である。  鳴海宿も有松同様、絞りで知られた宿場である。  絞りの生産、販売が上り調子だった有松が、鳴海にまで生産を拡大し、鳴海が有松の絞りを販売していたからである。  これゆえ、有松絞りはまた別に「鳴海絞利」と呼ばれる一方、販売権をめぐって両宿の間に紛争が起きることもあったという。 
鳴海は数多くの社寺を残す宿である。  入ってすぐ右手にあるのが瑞泉寺で、重層本瓦葺の黄檗風四脚門の総門は宇治黄檗山万福寺を模したもので、県の指定文化財になっている (右端写真)
「 根古屋城主、安原宗範が応永十一年(1404)に大徹禅師を開山として、平部山に創建した曹洞宗のお寺である。  文亀元年(1501)に現在の場所に移建したが、明暦弐年(1656)の火災で焼失。  寛保元年(1741)以降、呑舟和尚により再建され、宝暦五年、堂宇が完成した。  境内には宝暦六年(1766)に建立した本堂、書院、僧堂や秋葉堂などの伽藍が並び壮観である。 」 
少し入った右側の立派な御屋敷は桶狭間の七石表の製作に金を出した江戸時代から続く下郷家である (左端写真)

秋葉大権現常夜燈
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平部集落
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瑞泉寺総門
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下郷家


鳴海には小さな寺を含め寺院が多く、正面に万福寺、右側に淨泉寺があった。 
万福寺の山門をくぐり中に入ると本堂は大きく立派だった (左端写真)
寺の案内には 「 万福寺は永享年間、三井右近太夫高行の創建で、真宗高田派、 永禄三年(1560)の兵火で焼失したが、再建され、江戸末期に再々建された。  明治六年(1873)、鳴海小学校の仮校舎となり、校名を広道学校とした。 」 
とあった。 街道に戻るとその先は鉤型のように右に曲がっていたが、宿場特有の鉤型で、 このあたりからが鳴海宿場の中心になる。 
「 鳴海宿は天保十四年の東海道宿村大概帳によると 東西十五町十八間(約1.6km)の間に家の数が八百四十七軒、 三千六百四十三人の人が住み、本陣は一軒、脇本陣は二軒、旅籠の数は二百六十八軒 と大きな宿場町だった。 」 
安藤広重の東海道五十三次「鳴海宿」には旅籠の様子が描かれている (左中写真)
左側の緑生涯学習センターは江戸時代の「問屋場跡」で、昭和三十八年の名古屋市との合併までは鳴海町役場だった。 
本町交差点を右折すると幾つかの寺があるが、曲がってすぐの左側にあるのが「誓願寺」である (右中写真)
誓願寺は天正元年(1573)の創建で、本尊は阿弥陀如来である。 
境内には安政五年(1858)に建てられた芭蕉堂がある (右端写真)
「 芭蕉の門下の下里知足は鳴海宿で千代倉という屋号の造り酒屋を営んでいた。  下里知足は芭蕉のスポンサーの一人で、芭蕉との交流を示す芭蕉の手紙が数通残っている、という。  また、笈の小文の旅の途中、芭蕉はここに休息している。  安政五年(1858)に下里知足の菩提寺であるこの寺に芭蕉堂が建てられた。 」 と案内にあるが、 芭蕉が手ずから植えた杉の古木を彫ったという芭蕉像が安置されている。  

万福寺
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東海道鳴海宿
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誓願寺
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芭蕉堂


芭蕉堂の傍らに市の指定史跡となっている芭蕉供養塔が建っている、 (左端写真)
「 芭蕉供養塔は芭蕉が没した一ヶ月後の元禄七年(1694)十一月十二日に追悼句会が営まれた折、 鳴海の門下達によって如意寺に建てられた日本最古の芭蕉碑である。  高さが六十センチ位の青色の自然石で、 表面に芭蕉翁、背面に元禄七年(1694)十月十二日とその没年月日が記されている。  下里知足の菩提寺に芭蕉堂が建設されると如意寺にあった芭蕉供養塔もその脇に移された。 」 とあった。  境内には文政弐年の徳本上人の名号塔もあった。 
誓願寺の隣に聖観世音のお堂があり、 その隣に赤い幟が並んでいるのは四百年以上前に創建された曹洞宗の尼寺「庚申山円道寺」である。  ご本尊が青面金剛尊(庚申様)であることからこの坂は庚申坂と呼ぶ。 
上って行くと道が別れる右側に神社があり、「天神社 成海神社旧蹟」の石柱が建っている (左中写真)
天神社は鳴海城の鎮守としてこの場所に祀られた神社だが、この地は成海神社の御旅所でもある。 
熱田神宮寛平縁起には 『 日本武尊が東征の折、鳴海浦に立ち寄り、対岸の火高(現在の大高)丘陵の尾張氏館を望見し
 「  鳴海浦を見れば   遠い火高地  この夕浦に   渡らへむかも   」  と叫んだ。 』 と記されている。 
「 成海神社はこれに由来する尾張氏の神社で、延喜式神名帳にも登録されている古社である。  根古屋(鳴海)城が築城された時、敷地にかかることから北方に移された。 」 と案内板にあった。 
神社の左側の道を上り、左の小道の先が根古屋(鳴海)城祉で、現在は鳴海城址公園になっている (右中写真)
「 鳴海城は応永年間(1394頃)に安原宗範によって築かれた城で、その後、今川方の城になっていたが、 桶狭間の戦いで信長軍に攻められて落城し、織田方の佐久間信盛、信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になった。 」 
天神社の右側の坂を上ると「円龍寺」がある  (右端写真)
寺伝では「今から七百年前には奈良の法隆寺に匹敵する伽藍が建つ善照寺という寺だった。 」 とあるが、 今はその面影はなかった。  更に登ると鳴海小学校で、道の反対側に「善照寺砦跡」の道標があったが、そこで引きかえした。 

芭蕉供養塔
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天神社
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鳴海城址公園
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円龍寺


坂を下りて本町交差点まで戻りここを右折する。 この通りは家の建て替えが進んでいて、古い家は壊されてしまっている。 
右側の自転車屋辺りが二軒あった脇本陣跡のような気がするが、表示杭の類がないので確認できなかった。 
その先左側の山車倉の前に「本陣跡」の表示があり、  「 鳴海本陣は間口三十九メートル、奥行五十一メートル、建坪二百三十五坪、百五十九畳の規模だった。 」  と案内板にあった (左端写真)
右側の路地の奥に「如意寺」があり、本堂の左側の「蛤地蔵堂」は尾張国六地蔵の第四番である (左中写真)
「 如意寺は康平弐年(1059)に鳴海町上の山で地蔵尊を本尊として「青鬼山地蔵堂」として開山したが、 応永五年(1398)に無住国師が如意輪観音を本堂に祀った際当地に移転し、応永二十年に現在の寺名になった。 」 
金塗りの大きな地蔵さんが祀られていると聞いたので訪れたが、 地蔵堂はすりガラスで覆われ、拝もうとしたが賽銭箱もないのでそのまま立ち去った。 
名古屋市は戦災で焼け野原になった。 伊勢湾台風でも大きな被害があったので、東海道はなくなっていると思っていたが、 この先かなりの長い区間が残っている。  有松や鳴海などの緑区は戦災当時は田舎だったため焼失を免れ、 戦災を受けた南区あたりも区画整理計画がなく、道路拡張もハイピッチで行われなかったため、旧道が残ったらしい。  街道に戻ると「作町交差点」の三差路に突き当たったので、交差点を右折する (右中写真)
作町の地名は桶狭間の戦い後、鳴海城主を務めた佐久間信盛、信栄父子から付いたとされる。 
ここから二百メートル位の道の両脇には古い家がところどころ残っている。 
作町のはずれの右側に白壁に黒い板の塀を張り巡らした屋敷が特に大きかった (右端写真)

本陣跡
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如意寺
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作町交差点
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立派な屋敷


作町交差点から五百メートルほど歩くと三皿交差点で、左右に県道36号が通り車の行き来が激しい。 
東海道は交差点を越えて北に向かって進む。 作町までは東海道は西に向かっていたのに変に思ったが、 江戸時代は鳴海から熱田にかけての南側は干潟か海だったのである。 道の両脇には民家が建ち並んでいた (左写真)
その先の右側に「村社式内成海神社」の石柱がある。  神社の創建は朱鳥元年(686年)で、草薙剣が熱田に還座された時日本武尊の縁により鎮座された、と伝えられ、 根古屋城を築城の際、この東方にある二子山に転座した (中央写真)
少し歩くと「丹下町常夜燈」が建っているが、ここまでが鳴海宿である (左写真)
常夜燈の正面には「秋葉大権現」右面に「寛政四年(1792)」左面に「新馬中」裏面に「願主重因」 と刻まれている。  名古屋市教育委員会の案内板には 「 鳴海宿の西の入口、丹下町に建てられた常夜燈で、 旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方集の安全と火災厄除けなどを秋葉社に寄願した火防神として大切な存在だった。  平部の常夜燈と共に鳴海宿の両端に残っているのは旧宿場町として貴重である。 」 とあった。  
隣には天正十五年の「子安地蔵大菩薩光明」の石柱もあった。 

三皿
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村社式内成海神社の石柱
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丹下町常夜燈


鳴海宿から笠寺立場

鉾ノ木に入ると道路の右側は民家一軒か二軒先から奥は高台になっていて、この先三王山の先まで続いている。 
右側の野原に「鉾ノ木貝塚」の案内板が立っていた (左端写真)
説明板には 「 縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主とし、縄文の荒い土器や薄手の細線文土器などが出土した。  上層部から出土した土器は鉾ノ木式と呼称される。 」 とあったので、今歩いているところは太古は海だったのだろう。  五十メートル先の右側狭い道の入口に「正一位緒畑稲荷神社」の石柱と「千鳥塚」の道標が建っている。  坂を上ると「千句塚公園」と書かれたレリーフが現れ、  「  星崎の  闇を見よとや  啼く千鳥  」 という芭蕉の句が刻まれている (左中写真)
ここは三王山で左から上は広場公園になっているが、俳聖芭蕉の有名な千鳥塚は直進で、五分程上るかなり急な坂だった。  木の下にある「千鳥塚」と呼ばれる碑は高さ五十センチ位の小さな青ぽい自然石で出来ている (右中写真)
松尾芭蕉が貞享四年(1687)冬十一月 寺島安信宅での歌仙の巻が満尾した記念に建てたもので、 碑の表面に「 千鳥塚」 、その下に 「武城江東散人芭蕉桃青」 と芭蕉直筆の文字で刻まれている。  裏面には「 知足軒寂照、寺島業言、同 安信、出羽守自笑、児玉重辰、沙門如風 」 と連衆の鳴海六俳人の名が見られる。  側面には 「貞亨四丁卯十一月日」 と興行の年月日が刻まれている。  芭蕉存命中の芭蕉塚は全国でもここしかない貴重なものということで、名古屋市の重要文化財になっている。  その北側には「緒畑稲荷神社」があった (右端写真)
三王山の高台は見晴らしがよいので、しばし市内を眺めて、東海道に戻った。 
この先すぐの三王山交差点で県道59号線を横断し直進すると、山下西交差点で広い道と合流し、その先少し上り坂になる。 
天白川に架かる天白橋を渡ると名古屋市南区。  天白川は江戸時代にはすでに同じ名前で、東海道宿村大概帳には「天白川有」と記されている。  東海道名所記には同じ名前ではないが、田畠橋(でんばくはしとあり、長さ十五間(約30m)と書かれている。 

鉾ノ木貝塚
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千句塚公園レリーフ
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千鳥塚
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緒畑稲荷神社


天白橋西交差点を越え、赤坪交差点を渡る。  東海道(県道222号線)はその先は右にカーブし道が細くなるが、その先の三差路の右側に「笠寺一里塚」がある (左端写真)
「 笠寺一里塚は直径十メートル、高さ三メートルの土を盛った上に大きく育った榎(えのき)が生えている。  現在は東側だけが残り、西側は大正時代に消滅している。 」 
ここから笠寺の立場で、江戸時代には立場茶屋があったところである。 ここで寄り道をする。  右側の狭い道を入って行くと小高い岡という感じの場所に出る。 ここは「見晴台遺跡」で現在も発掘が続けられている (左中写真)
簡単なブランコと滑り台もあり、遊び場も兼ねた公園のようになっているのだが、案内板には  「 見晴台はこのあたりから熱田、御器所、名古屋と台地が続く土地で、旧石器時代から人が住んでいて、 台地の上に幅四メートル、深さ四メートルの大きな濠がめぐらされ、集落が作られていた。  もっとも栄えたのは弥生時代後期から古墳時代前期で、これまでに百八十軒以上の竪穴住居跡が発見されている。 」 とあった。 
街道に戻ると、茶屋は残っていないが、古そうな家が数軒あった (右中写真)
五百メートル程行くと、右側の池の向こうに山門があり、「天林山笠覆寺」という石柱が建っていて、 道の反対側には「玉照姫」と書かれた大きな石碑かあり、その上には本尊の玉照姫像を祀る泉増院がある (右端写真)

笠寺一里塚
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見晴台遺跡
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笠寺立場跡
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泉増院


右側の池の橋を渡り、笠覆寺の楼門をくぐると正面に本堂があり、赤いのぼりが林立していた (左端写真)
「 笠覆寺は笠寺観音として多くの参詣客を集めているが、正式の名前は天林山笠覆寺(りょうふくじ)である。  奈良時代の天平八年(736)、善光上人は呼続(よびつぎ)の浜辺に漂着した流木で十一面観世音菩薩像を刻み、 粕畠に小松寺を建てて観音像を祀ったが、いつしかお堂は荒廃していった。  平安時代に入り、近所の鳴海の娘が野ざらしになっていた観音像に笠をかぶらせお参りをするようになる。  都から来た公卿の藤原兼平(藤原基経の三男)が鳴海宿に立ち寄り娘の話を聞いた。  彼は心優しき娘を妻として迎えた。 彼女は玉照姫(たまてるひめ)と呼ばれた。  藤原兼平はこの地にお堂を建て、名前も小松寺から本尊の十一面観世音菩薩像が笠をかぶっているので、 笠覆寺に改められた。 笠寺観音の通称で呼ばれてきたので、笠寺の地名もこれに由来するといわれる。 」 
京の公卿、藤原兼平と鳴海の少女、玉照姫のロマンスに笠寺観音が係わる話は面白いと思った。 
先程訪れた泉増院が縁結びとして売り出しているのはこの話による。  また、笠覆寺でも燃失した玉照姫と兼平を祀るお堂(玉姫殿)を本殿の右前に再建して、 玉照姫の本家はこちらと主張し、PRに努めていた。 
笠覆寺の境内は広い。 本堂の右手に「宮本武蔵供養碑」と「千鳥塚碑」があった (左中写真)
宮本武蔵供養碑は、百年忌の延亨元年(1744)に建立された「新免武蔵守玄信之碑」と刻まれている石碑で、 武蔵の孫弟子に当たる左右田邦後の子孫と門弟が建立したものである。 < 隣にある芭蕉の「千鳥塚碑」は、名古屋の医師で俳人だった人が芭蕉三十六回忌に建立したもので、鳴海にある句碑よりはかなり遅い。  石柱には痛んで良く読めないが
  「  星崎の  闇を見よや  啼千鳥  芭蕉翁  」  と刻まれている。 
本堂の左手の多宝塔の建立時期ははっきりしないが、江戸時代中期(1753)頃の建立らしい (右中写真)
塔の奥に幾つかの句碑が建っているが、湿気で風化して文字が読めない状態。 
その左側に「春雨塚」と呼ばれる芭蕉の句碑があった (右端写真)
芭蕉の弟子の鳴海の俳人「下里知足」の孫「鐵叟 亀世 」が 安永弐年(1773)に建立したもので、
句碑の表には 「 此の御寺の縁起の人のかたるを聞侍りて 」 とあり
  笠寺や  もらぬ岩屋も  春乃雨      芭蕉翁桃青
  たびねを起す  花の鐘撞           知足
  かさ寺や  夕日こぼるる  晴しぐれ     素堂
  大悲の  この葉  鰭となる池       蝶羽
     という句が刻まれている。   裏面には 「  かさ寺や  浮世の雨を  峰の月  鐵叟 亀世  」 とあった。 
寺の境内には多くの常夜燈や延命地蔵尊を始め多くのお堂があった。  また、参拝者も多く訪れていた。 

笠覆寺
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武蔵供養碑と千鳥塚
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多宝塔
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春雨塚


笠寺立場から宮宿

西門を出るとアーケードのある笠寺商店街だが、大力餅の看板があり門前町のような通りだった (左端写真)
商店街を抜けると笠寺西門交差点で、広い道の左側に「笠寺の由来」の石碑が建っていた。 
交差点を越え、名鉄の踏み切りを渡ってすぐ右折して狭い道に入るのが東海道で、ここからしばらく車の少ない道が続く。 
「 これより呼続(よびつぎ) 」 とある道案内の「旧東海道」の道標が新しいが、 それはそのはず、宿場制度四百年を記念して造られたものである (左中写真)
「 呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついたことからといわれるが、 江戸時代は四方を川と海に囲まれた陸の浮島のようなところだった。  巨松が生い茂っていたことから松の巨嶋(こじま)と呼ばれた。 」 
しばらく行くと左に入る道があり、突き当った右側に「富部神社」がある (右中写真)
  「 富部神社は慶長八年(1603)、津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社で、 尾張の領主、松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により百石の所領を拝領し、本殿、祭文殿、回廊が建てられた。  本殿は一間社造、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、国の重要文化財に指定されている。  祭文殿も回廊もほとんど当時のまま残っている。  明治維新の神仏分離で神宮寺は潰され、神社もその目に遭いそうになったが、 素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀るということで難を免れた、という。 」 
街道に戻ると道の右側に「桜神明社あり」の案内があるので、右の小道に入り道なりに歩く。 
狭い道なのに両側の家には車が駐車している。 うまく入れるもんだと感心しながら歩いた。 
目当ての桜神明社の社殿は名鉄踏み切り手前の左側の木が茂る奥にあった (右端写真)
社殿は五世紀に築かれたという直径三十六メートル、高さ四メートル五十センチの古墳の上に造られていた。 

笠寺商店街
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新しい道標
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富部神社
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桜神明社


街道に戻ると左側に大正時代に建てられた「名古屋十名所」と書かれた石柱と赤い鳥居があった。 
中に入って行くと羅漢様かどうかわからぬが、石仏が至る所に置かれていた (左端写真)
清水稲荷神社は豊川稲荷のように寺院系の稲荷で、西隣の長楽寺の鎮守・清水叱尼真天 が安置されている。 
「宿駅400年記念石碑」 があり、 「 江戸時代、東海道が通っていた呼続浜は潮騒が磯を洗い、大磯の名を残す。 
ここで作られた塩は星崎あたりから北にのびて飯田街道に接続する塩付街道を通って小牧や信州に運ばれた。 」 
と書かれていた (左中写真)
呼続小学校を過ぎ、車道を横断し進むと、左にあった「誓願寺」は民家と変わらない造りの家である。 
その先右に少し入ると左側に秋葉神社があるが、その手前の質素な建物は「地蔵院」で、 その前にある石像は「湯あみ地蔵」といわれ、湯をかけて拝むと願いがかなうという言い伝えが残る (右中写真)
街道に戻ると、左側に北西に進む道があるので、 三百メートル弱行くと突き当たりに元亀弐年(1571)の創建と伝えられる「白毫寺」がある。  建物はそれほど古いものではないが、門前の楠は名古屋市の保存木に指定されている。 
ここは高台で 「 年魚市潟勝景 」 と刻まれた石碑が建っていた (右端写真)
昔、このあたりは「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれ、知多の浦を望む勝景の地であったという。 
万葉集に 『  桜田へ  鶴鳴き渡る   年魚市潟  潮干にけらし  鶴鳴き渡る  』
     『 年魚市潟  潮干にけらし  知多の浦に  朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ  』
と歌われ、歌の枕詞に使われる名勝だった。 愛知県は上記の歌の年魚市潟に由来するといわれ、「 あゆちがあいちに転じた 」  と愛知県史にある。 しかし、この周辺は埋め立てられ、また、家が立ち並び、海は遠くなってしまったので、 万葉の風景を想像することは難しかった。 

清水稲荷の石仏
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記念石碑
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湯あみ地蔵
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年魚市潟碑


街道に戻り少し行くと交叉点があるが、東海道が南北にこれと交差して鎌倉街道が横切っている。 
江戸時代の公家、「土御門泰邦」は陰陽家で宝暦の改暦の当事者であるが、 宝暦十年(1710)に江戸に下った際の紀行文「東行話説」には東海道宮の渡しの 呼続の浜 を  「  松風や 夜寒の里に なれていた つるは千年を ゆびつぎの浜 」  と詠んでいる。  交叉点を過ぎると少し先から坂道に変わったが、江戸時代には「山崎の急坂」と呼ばれたもっと急な坂である。  山崎の立場茶屋が建ち、かなりの賑わったといわれるところだが、今は住宅地帯である。 
坂を下ると山崎川で、橋のたもとに「山崎橋」と刻まれた橋標が残っていた (左端写真)
橋を渡ると名古屋市瑞穂区で、道を左折して進むと左側に名四国道事務所があり、 右側にブラザー工業の建物群があり、有松から続いた東海道は国道1号線に合流してしまった。  松田橋交差点は国道1号と都市高速道路とが交差して交通量が多いが、陸橋があったので安心して渡れた。  三百メートル程国道を歩くと内浜交叉点で、右側のトヨトミの大きな広告塔のところで国道は坂道になり、陸橋である。  東海道はここで国道と別れ、左側の小道を下ると東海道線の踏み切りがあり、 東海道線を越えると左側に石仏を納めた小さな社がある。  その先に新堀川が流れているが、小高くなっている熱田橋を渡る。  橋を渡ると名古屋市熱田区伝馬三丁目だが、 江戸時代には「宮縄手」と呼ばれ、松並木になっていたという。  今は松並木はないが古そうな家が数軒あった。  名鉄の鉄橋の下を通り抜けると右側の三角地(伝馬街園)に宮宿の案内板が建っているが、 このあたりに「伝馬町一里塚」があったようである (左中写真)
少し歩くと道の左側のコンクリート製の建物の前に「裁断橋」と書かれた橋状のものがあった (右中写真)
江戸時代には建物の手前に精進川が流れ、裁断橋を渡ると左側に姥堂があり、宮宿(みやしゅく) の東側の入口だったという。  精進川は暗渠になり今は川は見えない。 川が無くなってしばらくして復元されたのが上記で、裁断橋の三分の一の大きさとあった。 
「 裁断橋とは変な名だが、熱田神宮の社人が罪を犯したときにこの場所で裁断されたことに由来する。 
小田原合戦に出陣し病気で亡くなった十八歳の息子の供養として、母が菩提を亡うため、老朽化していた裁断橋の修築を思い立ち、 天正十八年(1590)に橋を架け替えた。  その際、橋の欄干の柱頭に付ける擬宝珠にかな文字の銘文が刻まれたが、それが橋を渡る人々の心を打ち有名になった。  なお、擬宝珠は市の博物館に保管されている。 
姥堂前の左側にある「裁断橋橋桁」と表示された石柱は打ち棄てられていた橋石の一部である (右端写真)

山崎橋橋標
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宮宿案内板
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復元した裁断橋
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裁断橋橋桁


宮宿から七里の渡し

安藤広重の東海道五十三次「宮宿」には七里の渡しの風景が描かれている (左端写真)
宮宿は熱田社の門前町であることに加え、佐屋、美濃、木曽の諸街道への追分であったことから海道一の宿場といわれた。  江戸後半には二千九百軒を越える家があり、人口も一万人を越えた。  宿内には本陣が二軒、脇本陣が一軒、旅籠は実に二百四十八軒もあった。  駿府宿は一万四千人だったが、家康の隠居城のあった城下町なので、宮宿が宿場としては一番といえよう。  道の左側の「姥堂」と刻まれた石柱の奥にあるコンクリート製の建物が姥堂である (左中写真)
案内板には 『 姥堂は延文三年(1358)、法明上人により創建されたといわれるので歴史は古い。  本尊の姥像は熱田神社より移したと伝えられる。  「オンバコさん」 と呼ばれる姥像は高さが八尺の大きな坐像で、江戸時代の俚謡に 「 奈良の大仏を婿にとる! 」 と歌われ、 東海道筋にあったことからお参りに寄る旅人が多かった、といわれる。  昭和二十年三月の名古屋大空襲で建物も仏像も燃失した。 現在の仏像は平成に入り作成されたもので、四十センチ位と小さい。 』 
とあった。 また、右奥には「都々逸(どどいつ)の発祥の地」の碑があった。  その先の交差点を左折し、三つ目の交差点を右折すると左側の白いブロック塀の上に「徳川家康幽閉地」 と書かれた案内板があった (右中写真)
「 天文十六年(1547)、徳川家康が六歳の時、織田信秀(信長の父)に人質に出され、熱田の豪族、加藤順盛の屋敷に幽閉され、 その後、那古屋城内にも幽閉されたといわれる。  天文十八年(1549)一月、竹千代八歳の時、岡崎城に戻されたが、再び、今川家の人質として駿府に送られた。 」 
街道に戻ると「鈴之御前社」という神社があった。  東海道の道筋を辿ると大きな道が現れ、その先に伝馬町商店街のアーケードが見えた。  大きな道は南西の内田橋に向う道路で、横断歩道がないので右手の伝馬町交差点まで行く。 
折角なので寄り道。 交叉点を左折し北に向うと熱田神宮の広大な社域が現れ、森の奥の方に社殿がある (右端写真)
「 日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造の娘、宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手許へ残した。  日本武尊が能褒野で亡くなった後、宮簀媛命は熱田に社地を定め、その剣を奉斉鎮守したのが熱田神宮の始まりと言われる。  熱田神宮は地元では熱田さんと呼ばれて信奉されているが、初詣は二百万人とすごい人出である。  宮宿の名はここから生じたが、今でも鬱蒼たる社叢や広大な神域を持ち、荘厳で風格が漂っている。 」 
熱田神宮南にある蓬莱軒神宮南門店の近くには「林桐葉旧宅」という表示板があり、 「 林桐葉は松尾芭蕉の弟子というか、スポンサーのような存在で、 鳴海で酒作りをしていた下里千足を芭蕉に紹介したのも彼であり、 貞享四年(1687)には熱田三歌仙を編纂している。  松尾芭蕉が貞享元年(1684)冬、野ざらし紀行の際に立ち寄り、句会が実施されたが、その後もしばしば訪れている。 」 とあった。 

浮世絵宮宿
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姥堂
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徳川家康幽閉地
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熱田神宮


伝馬町交差点まで戻り、先程の東海道の対面にあるアーケードのある伝馬町商店街を進む。 
突き当たりの三叉路には小さなお堂があり、「ほうろく地蔵」が祀られている (左端写真)
「 ほうろく地蔵は三河の国の重原村(現在の知立市)にあったが、野原の中に倒れ、捨て石のようになっていた。  三河より焙烙を売りに尾張に出てきた商人がこの石仏を荷物の片方の重しにして運んできたが、 焙烙が売り切れた後、石仏を海岸のあし原に捨てて帰ってしまった。  地元の人が捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしたが動かない。  その下の土中から台座が出てきたのである。 そこでこの地蔵を台座に乗せてここに祀ることにした。 」 と由来書にあった。 
三叉路の左側の民家の片隅には大変重要な道標が建っている (左中写真)
道標の「 北 」と刻まれた下には 「  南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁 道   」、  「 東 」の下には 「 北 さやつしま 同みのち 道 」 、「 西 」には 「 東 江戸かいとう 北なこやきそ 道 」 、 「 南 」の下には 「 寛政2庚戌年 」  とあり、道標を南に行けば東海道で七里の渡しへ、北に向えば熱田神宮、 佐屋、津島、美濃路、名古屋、木曽道、東に向えば江戸への東海道を示す追分道標で、寛政弐年(1790)に建てられたものである。 
舟で京に向う旅人は東海道を、舟を利用しない人達は右折して、佐屋街道か美濃街道に向かったのである。 
東海道は左折すると国道247号に突き当たる。 当時の道はここで斜めに国道を横断する形になっていた。 
歩道橋を利用して国道を横断するが、歩道橋の上からその道が見えた。  歩道橋を降りると古い建物の畳屋があったが、東海道はその先の「蓬莱陣屋」の脇を斜めに通る細い道である。  このあたりに「熱田奉行所(陣屋)」があった。 
蓬莱陣屋は、陣屋の名を借りたのだろうが、明治六年創業の老舗割烹である (右中写真)
「 宮宿には本陣が二つあり、赤本陣と白本陣と呼ばれたが、赤本陣は陣屋の北にあり、二百三十六坪の規模だったが、 空襲で消滅してしまい、駐車場になっている。 白本陣は伝馬町に、脇本陣は渡しの前にあった。 」 と記録にあるが、 場所は確認できなかった。 どちらにしても蓬莱陣屋付近に陣屋と赤本陣があったことは間違いないだろう。 
陣屋の角を曲がり、細い道を歩くと右側にモダンな宝勝院という寺があった (右端写真)
  名古屋市は戦後、空襲で破壊された市内の寺社の墓地を郊外の平和公園に集めるという政策を採ったので、 市内の寺には墓地がないのが普通である。 戦災にあった建物もビルやマンションのような建物も多い。  例外でない建物の前に 「 当寺は七里の渡しの常夜燈の燈明を承応三年(1654)頃から明治二十四年(1891)まで管理していた。 」  と書かれた説明板があったが、これだけが過去を語っているような気がした。 

ほうろく地蔵
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道標
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蓬莱陣屋
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宝勝院


程なく、掘川の岸にある宮の渡し公園に到着した。  ここは江戸時代の「七里の渡し」の跡地を整備したという公園で、 時の鐘を鳴らす鐘堂があった (左端写真)
「 時の鐘は延宝四年(1676)、尾張藩二代目、徳川光友の命により、熱田蔵福寺に設置された鐘で、 その正確な時刻は住民や七里の渡しを利用する旅人に重要な役割を果たした。  昭和二十年の空襲で鐘楼は焼失したが、鐘は損傷もなく蔵福寺に今も保存されている。  鐘楼は昭和五十八年に、往時の宮宿を想い起こすよすがとして、この公園に建設された。 」
時の鐘の先には「七里の渡し」の石柱と「常夜燈」が建っていた (左中写真)
「 常夜燈は寛永二年(1625)、熱田須賀浦太子堂に建立されたが、その後、承応三年(1654)に現位置に移り、宝勝院に管理が委ねられた。  寛政三年(1791)付近の民家からの出火で焼失し、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃し、 現在のものは昭和三十年に復元されたものである。 」 とあった。 
桑名に渡る舟が出たところには当時を再現した船着場がある (右中写真)
「 桑名に渡る渡しは慶長六年(1601)に東海道の宿駅制度が制定され、「桑名宿と宮宿間は海路七里の渡船」と定められたことにより 誕生したが、潮の満ち引きや海流の変化に左右され、三時間から四時間かかった。  七里の渡しは往々にしてしけにあって欠航することがあり、また、海便を苦手にする人は陸路をとった。 」 
伊勢湾台風以降、港湾の整備が進み、この辺りの景観が変ってしまい、江戸時代の渡し場という雰囲気は感じられない。 
公園前の道の反対側にある熱田荘とその右側の江戸時代に脇本陣格だったという旅籠の建物だけが、 宮宿があった街道の面影を伝えていた (右端写真)

宮の渡し公園
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七里の渡しの石碑と常夜燈
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船着場
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旅籠




(24)七里の渡し                                        旅の目次に戻る






本稿はホームページ 「 街道を行く by mrmax 」 の  「 東海道を歩く(東海道てくてく旅) 」
東海道を歩く - 鳴海宿
東海道を歩く - 宮 宿
これから東海道を歩かれる方のため、わかりやすく編集し直したものです。 
  







かうんたぁ。