時速一万キロのギブリ















 「ジャッカルお前さあ普段何食って生きてんの?オートミールとか?ってか俺オートミールが何だか知らねえけど。汁?なんかの?」
 ジャッカルは荒野だ。俺の。

 俺はジャッカルを初めて目にした時、あまりの異質さに胃のあたりがムカムカして鳥肌が立った。
 全く奴の容姿は日本の中学校にいるにはあまりにも浮いていたし、色が黒けりゃ黒いでまだ良いが頭と来たら全くのつるっつるで、最初の頃はなんかの病気の所為でそうなっているんじゃないかと思ったくらいだ。日本語喋れんのか、と危惧したが別に言葉の方は至極普通の日本語で、それがまた奴の容姿におかしいくらいにミスマッチで、俺は、こいつは、何者なんだろうと思った。

 入学して初めてのスポーツテストで3キロメートル走をした時、たまたま同じクラスだったジャッカルも俺と一緒に走っていた。俺は俺自身の運動神経を信じていたし、信頼もしていた。俺は誰にも負けないと思っていたし、一位を取る気でいたのに、ジャッカルと来たらバカみたいに、風みたいに足が速くて、とても追いつけるもんじゃなかった。俺は自分が負けることが許せなかったし、3キロも半ばになれば自分が何でこんなに必死なのか分からなくなるくらいにすべての力で二番手を走っていた。しかしその、俺にとっては長い長い中距離走が終わりに近づくと、ジャッカルは目に見えておかしいくらいにスピードを緩めた。誰が気付かなくったって俺は気付いた。あのブラジルは手を抜こうとしている。頭が沸騰した。俺はそれこそ相手を殺したいくらいの気持ちで、ジャッカルが俺に抜かされそうになった時、思い切り足を蹴った。そして、思い付く限りの罵倒の言葉を吐いた。死ねだとか、糞だとか。
 ジャッカルは最初、その時の俺の言葉は自分に投げかけられた言葉だと思わなかったという。きっとこの人は疲れていて、気合入れの為に色々喋っているんだろうと。なので、そのままスピードを緩めようとし続けた。俺はそんなジャッカルが更にむかついて、本当にむかついて、体育の授業中だというのに思い切り引き倒して、殴ってやった。走れよお前。何で走んねえんだよ。ふざけるな。バカにしているのか。死ね。
 俺はジャッカルが何故一位になろうとしないのかが何となくだが、心の奥底では確信的に分かっていた。きっと奴は目立つと苛められるからだ。入学した初日から、ジャッカルのことを一回も口に出さなかった奴なんてほとんどいなかっただろうし、奴はよくひそひそ噂と揶揄の対象になっていた。ジャッカルをぶん殴りながら、いつだって奴が誰かと話しているのを見たことがないと思った。いつだって奴は一人で、いやに高い身長を持て余しながら、それでもまっすぐな背骨と、足で歩いていた。そうして、その姿をよく知っている俺自身は、入学してから、ジャッカルばかり見ていたことに気付いた。
 結局、ジャッカルを殴った俺は八発目を食らわせる前に体育教師に襟首を鷲掴まれ、その間一回も抵抗という抵抗を見せなかったジャッカルは遠く、諦めた目で引き離された俺を見つめた。俺の愚かさが救われるように、神にでも祈っているのではないか、と教師の怒鳴り声で鼓膜を震わせながらも、俺は脳の片隅で思った。きっとジャッカルの中には、俺の知らない世界の神様がいる、気がする。
 その後二人ともが呼び出され、バカみたいに長々と俺がジャッカルを殴った理由を問い詰められた。教師の方としても、ジャッカルが学校から浮いている所為で苛められ始めていることを知っていたので、俺は酷く責められたが、ジャッカルが「俺が挑発したんです」と訳の分からない捏造を一点張りしたおかげで、親呼び出しとなることもなく、開放された。
 説教が長引いた所為で日は傾き、誰も居なくなった教室で、まだ部活にも入っていない俺らは黙々と鞄の中に荷物を詰め、帰りの支度をした。ジャッカルはうつむいていて、俺は奴のつるつるの頭が夕日で真っ赤になっているのを見た。固まるような沈黙の時間だったが、ジャッカルが、小さく、フウ、とため息をついた。俺はその、ため息を聞くと、冷めたはずの怒りがまた湧き起こってきて、思い切りばねを利かせてジャッカルに飛び掛った。そのままがっちりとジャッカルを掴み伏せたはずなのに、次の瞬間には、くらくらした景色と逆さまになった奴の赤い頭が回った。俺は殴られたのだ。
 ジャッカルは何か、小さく呟いた。聞き取れなかった。それは外国語だったからかもしれないし、あるいは俺がそれを外国語だと思って聞いたからかもしれない。俺は声を荒げて「ハア?」と聞き返し、そのまま奴の襟首を掴んで引き倒した。腹の上に馬乗りになると、シャツとズボンの薄い布地を通じてジャッカルの体温が俺の太腿を鉄板のように熱した。俺はなぜかその瞬間、勃起を通り越して初めて射精までしそうな気分になり、脳味噌が真っ白になった。
 ジャッカルは、入学してから初めて、初めて俺と目を合わせ、憤っていてしかし健康的な熱量で俺に腹を立てていた。
「俺も悪かったとは思う」
 何のことか、と思う。
「は?日本語喋れよ。意味わかんねえ」
 俺が殊更口悪く罵ると、なぜかジャッカルは十二歳らしからぬ優しい目になって身体から力を抜いた。
「お前が、怒った理由は分かるよ」
 きっとこのクラスの誰もが、こんなに奴が感情をこめて喋るさまを見たことがないのではないかと思った。それくらい、私的な、個人的な感情の言葉だった。俺は、今まで、ジャッカルは俺と同じような人間ではなく、誰かに伝えたい何かや感情などがないと思っていて、それが恐かったのだと思った。俺がジャッカルから受け取れるものが何もないのではないかという推測は、俺を恐怖させるのに十分な喪失感だったのだ。
「分かってねえよ」
 ジャッカルの身体は熱かった。間近でじっくりと見ると、彼の皮膚は、優しい動物をおもわせる、不思議な、滑らかな褐色で、日本人の血も混じったハーフだと言うのだからその奥には、俺と同じ黄色い色も溶け合っている筈だと思った。シャツからは、俺が今まで知り合った誰からも香ったことの無い、植物のような太陽のような匂いがして、それはブラジルのにおいかと思った。そして、ああ、こいつは、俺とは違う、俺からはちょっと遠い、不思議な男の子なのだとも。俺はジャッカルの身体を咽るほどに身近に感じながら、涙が出た。
「お前、バカにしてるよ。俺、別にお前が一位でも嫌だとおもわねえよ」
 俺はジャッカルを侵したかった。
「……今度、競争しよう。走ろう。
 俺はきっとお前に勝つよ。走るのでは」
 ジャッカルはそう言って、幾筋も雨水のように涙をたらす俺の頭を一回、ぽんと叩いた。
「それって、何?ブラジル式?」
 と俺がいうと、ジャッカルは
「何でもブラジルにするな」
と言った。












2006.5.1加筆修正

ブン太とジャッカルの馴れ初め。








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