おっぱいさんとちんちんくん


















 芝さんの部屋は頭がおかしいんじゃないかってくらい散らかっている。
 日曜日。その日の部活は午後からだった。だから俺は朝早く芝さんの部屋に行った。朝早くといっても、彼女の部屋に着いたのは八時ごろだったから、別に非常識な時間ではないはずだ。彼女は出版社に勤めていて、そこは独特の忙しさのあるところだったから、日曜日でも働いていることはよくあった。だから、部屋のインターフォンを押したとき、俺はある一定以上の期待は全くしていなかった。別に、彼女がいてもいなくてもどうでもよかった。とは思いつつも、俺は心の奥の方では、芝さんがいなくなったらとても戸惑うだろうな、ってことぐらいは知っていた。
 白く光る街を背中に、うっすらと汚れている白いドアを見つめながらインターフォンを押すなら三回までだ、と決めた。もし芝さんが寝ていたら三回程度のピンポンなんかじゃ起きない。二回め。十秒沈黙。三回目。静か。物音無し。寝てるか、仕事に行ったか。
 もう一回だけ、と思って、俺はまたインターフォンを押した。やはり沈黙。もう一回押そうかどうか迷っているふりをしながら、俺は芝さんが気付くのを待った。ああ、足音がする。足音はドアの方に向かっては来たが、一度止まった。耳を澄ますと水道の音がして、芝さんはきっと小さなシンクの隅っこに置いてあるデンタルガムで口をゆすいでるんだろうと思った。きっと芝さんは俺が来たって思っている。ちょっとガタガタしたあと、とうとう足音はドアまで来た。俺はきっとのぞき穴からこちらを見ているであろう彼女に声をかける。
「芝さん。起きた?」
 ドアが開く。彼女は寝起きですっぴんの顔を隠そうともせずに、左手でドアを押さえながら
「ガキは早起きだねぇ……」
 と嫌そうな顔をした。俺は
「おばさんってよく寝るよね」
 と言った。こういうときに、ちょっと意地悪そうな顔で笑えればいいなあ、なんて自分の表情筋が全く動いていないのを感じながら考えたが、そんなことしても、俺の周りにいる、俺の好きな人たちは喜びそうにないのに思い至る。
 芝さんに左手に持ったままだったコンビニのビニール袋を差し出す。
「おみやげ」
 二個で一パックになってるアロエヨーグルト。
 それを見ると芝さんは、なぜかいきなり表情を崩して
「ふふふ」
と笑った。
「どうぞ上がって。
 いつものことだけど、マジで散らかってるよ」
「今さら」
 ほんと今さら。
「だね」
 彼女の部屋は山手通りから差す光で充ちていた。床に散らばったきれいな色をした女の人の服はところどころで山を成している。部屋の隅っこでは、やっぱりいろいろな背表紙の本が積み重なっていて、所々崩れていて、またさらにその上へ積み重なっていた。この部屋は、紙と服ばっかりだ。しかし、すごく散らかっているくせに部屋に漂っているのは香水のにおいと、甘酸っぱいような女の人の汗のにおいで、それはつまり彼女がこの部屋であまり食い物を食べないということなのだろう。食わねば生ごみも出ず、物は腐らない。最低限、洗濯はしているらしい。俺は靴を脱ぐと獣道みたいにかろうじて床が見えているところを歩く。芝さんなんかは、さすが家主といったところなので、器用に床が見えているところを見つけ出して歩き回っている。
「シャワー浴びるから、好きにしてて」
もしかしたら、地図みたいに、覚えちゃっているのかもしれない。もちろん覚えてるな。無事なのは、ベッドの上と、低いテーブルの周りがすこし。ベッドの近くに床が見えているところがあったので、皺ができないようにちょこっとだけ服をよけてそのスペースを広げ、背負ったままだった部活用のカバンを下ろした。服は乱雑に積み上がっているようだったけれど、よく見ると、一応は皺になりにくいように重ねてあるのだった。しかしやっぱり、床の隅のほうには細かい埃や髪の毛がうっすら見える。最悪だ。
「ねえ、芝さーん」
 シャワーの音はもうしている。それで聞こえないらしくて、返事はない。俺は頭の中で大まかに計算する。ここから学校までは一時間ちょっとだから一時半から始まる練習のためには十二時前にここを出るのが理想だ。ちょっとセックスして、二人で昼寝でもすればすぐに過ぎるだろう、と思った。

 今日もそうだったけれど芝さんはいつも、明るい部屋でしたがった。俺は薄暗い中で見るほうが芝さんが美人に思えたから、夜にセックスするほうが特別な感じがして好きだったのだけれども。
 初めてした日、彼女は真っ白に光っている昼間に遮光カーテンを全開にして素っ裸になった。俺は自分の体が劣っているとは思わないけれど、芝さんが見てきた男の人たちと比べられて、少しでも貧弱だと思われたら、なんだかちょっと申し訳ない気分になるなあと思った。でも、いつも彼女は俺の体を、大好きな兄弟にするみたいに屈託なく触ってくれたので、その手指の動きに安心し、やっと欲情するのだった。腹の辺りの色は俺のほうが白かった。
 芝さんは緩く立ち上がった俺のペニスを指先でそっとつまんで「キレイだねえ」と言った。「若いねーきれい!いいなあ。若い男の子のからだって、こんなにきれいなのねえ。ごちゃごちゃしてないしさあ」。俺は彼女が純粋に俺の身体を褒めてくれているということはわかったが、その言葉にはやはり俺の未熟さを感じて、恥ずかしかった。きれいな身体と言う言葉を俺は違和感とともに迎え入れ、彼女の柔らかいけれど尖ったつめを持った指先は少しばかりの恐怖だった。
 彼女の乳房は左右でだいぶん大きさが違っていて、右かたっぽの乳首は埋もれたように突起していない。はじめに、芝さんはどこよりもまず先に自分の体の不均衡な部分を俺に見せた。「触るとね、一応立って出てくるの」そう言われたとき、俺は人生ではじめて女に人の身体を目の前にして激しく勃起し、欲情とはこういうことなのか、と下半身と脳髄が同時に振動する感覚に戦慄すら覚えた。指一つ動かすにも不安が付きまとっていた。別に芝さんだって同い年の女の人の中ではセックスに関しては普通だったんだろうけれど、何しろ相手にしているのは十三歳のガキなので、時々困ったような顔をした。おれはいちいち、初めて触る女の尻の意外な冷たさに吃驚し、自分の身体から香ったことのない女の人の体液の匂いにおののき、頭がおかしくなりそうだった。
 芝さんは俺のペニスをゆっくり舐めた。
「大きくなーれ、大きくなーれー」
「なにそれ!」
「いや、源くんの成長を願って」
「なにそれえ!」
「キレイだなーほんと!」
 彼女の目は、なんだか妙に集中して輝いていて、俺はなぜか、そのまま自分のペニスが齧り取られる幻想に行き着いた。彼女の喉をねずみのように飲み込めれてゆく俺のちんちん。怖い。怖い。そして気持ち良い!
「ねえ芝さん。分かんないよ。
 女の人って、こんななんだね。
 グチャグチャしててよく分かんない。
 どこに入れんの?」
「グロい?」
「うん。グロい」
彼女の手に導かれて指を触れたそこはぬるっとしていて熱くて、血がむき出しに流れているようだった。どうにかこうにか導かれて彼女の中に入れてもらったときはお互いぐったり、といった感じだった。芝さんにどう動けばいいの、と聞くと、気持ち良いようにやればいいよと言った。確かにセックスは今までのすべてを凌駕するような衝撃的な事実だったが、女の人の膣内は意外にもおれを甘やかしてくれない不可解な洞窟で、おれは迷うばかりだった。最初の律動は、静かに、深くいった。動くたびに頭に血液がぐん、ぐんとめぐり血管が切れそうだった。俺と芝さんの陰毛がべったりと体液で張り付いた感触が気持ち悪くもあり、果てしなく淫蕩でもあった。やったすぐ後は、ショックで何もしゃべれなかった。気持ち悪いとか、感動したとかじゃなくて、なんだかひたすらショックだったのだ。射精した後、人も殺せそうな冷静な気持ちの中で、今まで俺を取り巻く人々の誰ともかかわったことの無い「セックス」と言う新しい関わりを持ってしまったということが、なんだかとんでもないことのように思えた。長々と童貞でいるのは恥ずかしいことだと思っていたので、高校生くらいでセックスをできればいい、と思っていたが、まだ十三の自分には早すぎるのではないか、俺は早まってしまったのではないか、と少しの後悔もあった。別に二十歳過ぎてからこういうことをしたんでも良かったんじゃないか?芝さんでよかったのか?俺は明日からどうなるのだろう、と。夜中目が覚めたとき、不安で不安で、それこそ胸が張り裂けそうになることもあった。別に何も起きなかったけど。
 大きなショックを受けたあの日以降、時が過ぎれば別にたいしたことなかったじゃないかと言う安心感が沸いてきて別に芝さんとすることに抵抗は感じなくなった。何度かのセックスで、彼女の身体には慣れたような、慣れないような不思議な感じがする。慣れてしまえば、女の人の身体に触れることは単純に楽しかったし、彼女のおっぱいは柔らかくて気持ちよかった。皆を出し抜いたような良い気分でもあった。でも、芝さんとは、年齢的にも釣り合わないし、身体的にも俺のほうがずいぶん未熟だ。それがいつも不安だった。芝さんが俺と会うのは、きっと俺といる時間が気楽で息抜きになるからだと思うし、俺みたいな若いのをペットみたいにかまってやるのが面白いからだということは判るけど、いつか、俺の生硬さにあきれて、ぽいっと関係を投げ捨てられるんじゃなかろうか、という漠然とした不安がある。
 今日も俺は、小さな金平糖みたいな形の見慣れたネックレスが彼女の鎖骨の上を這っているのを見ながらそんなことを思う。
「ねえ源くん」
 芝さんが突然世間話を始める。
「何?」
「学校にさ、好きなことか、いる?」
「つまんないこと聞くんだね」
「何それ」
「だってさ、年上ぶってそう言うこと聞いてきてさ、芝さんが本当は俺のこと本気で好きだったりしたら、どこの三文芝居だよって」
「あはは
 でもわたし本当に源くん好きだよ」
 二人ともが腰を動かしているので、二人の声がゆれていた。でも芝さんはあえて笑った。
「やだよ」
「ひっどい」
「あ〜きもちいい」
「うん……うん……ああ…………」
「…………好きな人は?」
「………………」
「いるよ」
「……うん」
「じゅんぺーくん」
「誰それ」
「芝さん覚えてるはずだよ。昆川純平」
「あ〜あの子。髪真っ黒で。
 その子がどうしたの?」
「おれね、じゅんペーくんが好きなの」
「へええ……」
「芝さん好きな人いないの」
「……忘れた」
 本当に?でもおれは聞き返さなかった。この年上の人が忘れてしまった、と言うならば俺は聞き返しようがないし、たぶんほんとに半分くらいは忘れているのだろうし。大人の女の人は恋愛とか結婚とか仕事とかいろいろ大変そうだ。あんまり深くは考える気がしないけど。
「ねえ。おれがじゅんペーくんのこと好きなのって、どう思う?」
 日の光を受ける芝さんの茶色い髪が、俺の身体の動きに合わせてつやつやしている。
「何が?」
 つやつやつやつやしている。
「だって、じゅんペーくん男だもん。変じゃん」
 乾ききっていない髪からは、なんだかちょっと高そうなコンディショナーの香りがする。彼女によると、時間がある日は「執拗に」トリートメントしているらしい。
「まあねえ……」
「ねえ、どう思う?」
「いいんじゃない?
 わたし女の子のこと好きになったことないけど。
 源くんが好きだって思うなら、それで正解でしょ。今は」
「何それ。絶対適当言ってるし」
「甘ったれんな」
 ふとしたときに芝さんは絶対的に大人で、遠くて、その遠さは不安なものだったけれど、それと同時に心休まるものだった。二人の距離感は遠すぎて、ゆったりしている。俺は芝さんに飽きられるのが嫌だとは思うけれども、彼女のことを恋愛感情で好きかと聞かれると、それはノーだった。例えるならば、芝さんと俺はお互いにとって公園のような存在だった。気が向いたときにふらりとやってきて、遊ぶなりぼんやりするなりして、気が済めばまたふらりと去ってゆく。無くても生きてゆけるけど、なくなったらそれはそれなりに辛く寂しい。

 昼寝してる芝さんが目を覚ましたとき、俺は近くのコンビニにいた。帰ってきて、テーブルの上から勝手に借りていった鍵を差し込むと、閉めたと思った鍵は開いていた。ドアを開けると、芝さんは下着のままベッドに座って、俺が差し入れたアロエヨーグルトをくっついてきた安っぽいプラスチックのスプーンで食べていた。すぐ横にある窓から外を見ながら気もそぞろにスプーンを口に運んでいるので、ベッドに落ちやしないか、と少し気になった。彼女はちょっと泣いたみたいな目をしている。
「誰もいなかったから、とうとう終わりかと思った」
 俺はどうしていいか分からなくて、一先ずごめん、とあやまった。芝さんは「ちがう」と言った。
「ねえ、源くんにはこういうことある?」
「何が」
「しいんとして爆発したみたいに明るい部屋に一人でいると、不安で不安でどうしようもなくなったりすんの。
 で、誰かに電話でもかければいいのに、それもできない。
 なんだかよくわかんないけど、かかんないかも知れないって思ったりして。
 番号が、うまく押せないの。何度やっても。
 なんだかよくわかんないけど」
 芝さんは少し寝ぼけているようだった。でも一応、言いたいことは伝わってきた。彼女はスプーンをヨーグルトのカップにさしたまま、なぜか右手をブラジャーの中に差し込み、自分の胸を包み込んでやわやわと揉んでいる。
「そうだね」
 と俺は、何かに同意するあいずちを打つ。
「世界中みんな死んじゃってる。
 そういう時って」
 芝さんは相変わらず窓の外を見たまま胸を触って、めそめそしている。うんざりはしなかったけど、あきらめたような気持ちで、かわいそうだと思った。
「俺、死んでないよ」
 そう言うと、芝さんはこちらをチラッと見た。でも、見ていない振りをして、また窓の外に視線をやる。芝さんが着ているのはベージュ色のブラジャーとパンツだった。女の人らしい白い肌が午前中の疲れていない光の中に溶けていた。僕は手のひらに彼女のもたりとして冷たい尻の感触を覚えていて、彼女の身体はその通りの柔らかさで陰影を作っている。相変わらず、芝さんは右手で自分の左胸を触ったままだ。
「知ってる。
 知ってるけど、そう思っちゃう」
「そう……。
 てか、なんで芝さん自分の乳揉んでんの?」
「え?あー……。
 なんか安心するから。
 おっぱいやわらかくて気持ちいいし」
「ふうん」
「女はおっぱいついてるからべんりだよ」
 彼女は何かを嗅ぐ仕草をした。
「源くん」
「なに?」
「何買って来た?」
「カラアゲ」
「キモ」
「芝さんの分はないよ」
「寝起きによくそんな重いもん食べられるねぇ」
 芝さんはいつも俺といるときは学生みたいな言葉で喋る。確かにそれは聞きなれた語感のはずなのに、大人の女の人が発しているということで、びっくりするぐらい俺にとっては新鮮で異質な響きだった。
「若いから」
「あ、そ」
 とか言いながらも、芝さんはきっと最後の三個くらいになったときに「一個ちょうだい」って言うに決まってる。俺は滴る肉汁をずるりと飲み込みながら、彼女の白い肩を見た。俺は彼女についてそれくらいのことはわかる。つまり、それくらいのことしかわかんないけれど、そういう部分がかろうじて俺がここに通う理由になっているのだろうし、芝さんが部屋に入れてくれる理由なんだろう。
 「あ〜部屋が唐揚げくさい」と彼女はいやそうな顔をした。

 芝さんと会った日、午後の練習中、昆川にわざとボールをぶつけられてすっ転んだ。でも昆川自体が自分がわざとぶつけたと思っていないから、黄色いボールが右目のしたあたりの頬骨を直撃したすぐ後に俺が言われた言葉は「大丈夫?」だった。そんな顔で大丈夫?って言われるくらいならとろいだの避けろだの言われた方がちょっとはマシだと思った。いつも、昆川は、俺といるときあまり喋らない。
 このままボレーボレーの練習を続けたかったが、隣のコートで季楽とやっていた一斗君が「バカ!拓馬!とろいんだよ!自分の怪我くらい自分で気付けバカ!」と言ったので、びっくりして右目を触ると確かにそこは熱を持って熱かった。が、「バカ!目じゃねえよ。右足!」とまた彼が言ったので、ふと目線を下げたら、確かにくるぶしから出血していて、白いシューズが血だらけになっている。
「あー……」
「コーチんとこ行ってこい」
「うん」
 この間、昆川はコートの反対側にずっと立ったまま、何も言わずに俺のことをじっと見ていた。あやまる気はゼロのようだ。俺は羽生とすれ違うとき「ありがと、一斗くん」と言った。羽生は嫌そうに鼻を鳴らした。一斗くんはいつも優しい。

 季楽コーチのところに行って、救急箱を出してもらい、自分でマキロンを傷口に振り掛ける。傷口がどくんどくんと脈を打って、痛みというよりもそのことにおれは怪我を実感した。マキロンで血液と汚れをあらかた流し落としてしまえば、傷自体はくるぶしを丸く印すようにやや広範囲だったけれど、実際のところ大して深くもなくちょっと拍子抜けする。おれは薬箱に入っていた一番大きい絆創膏をぴっちりと貼り付けてひとつため息をついた。昆川のほうを見るともう別の新しいボレーボレーの練習相手を見つけていて、俺は彼に治療してほしいとは露ほども思わなかったのだが、どうも、納得がいかなかった。斜め後ろ辺りから顔を見つめる。ただ、夕方に近い、終わりを感じさせるほのかに赤い景色の中で、昆川は美しかった。俺は普段、美しいなんて言葉は頭の中でも使わないが、美しい、と思った。多分。これは美しいってことだろう?最近、言葉だけは知っているけど、俺の心の中では実感を伴っていなかった単語がとても多かったことに気づいた。「美しい」だとか「悔しい」だとか「やさしい」だとかそういう言葉だ。最近はっとするそれらの単語には俺なりの意味を見つけ始めたということだと思う。俺は昆川にたくさんの単語を見つけた。気持ちよい単語も、苦しくなるような単語も。俺を呼び覚ます昆川を俺は好きになったのだ。
 一通り処置が終わって、道具を薬箱にしまうときに、俺がマキロンだと思っていた消毒液は、実はマキロンじゃなかった。微妙に似ている、また別の商品だった。
「バァーカ」
 コートに戻ると一斗君が言った。
「うん」
 昆川はじっとこっちを見て、そして目をそらした。俺は今年の、昆川の誕生日のことを思い出した。

 以前。彼の誕生日の何日か前、学校の近くにあるのスーパーマーケットへポカリスエットの粉を買いに行ったとき、昆川を見かけた。昆川は野菜売り場の棚の前に立って、商品をぼんやり見つめていた。回りは新鮮な野菜のにおいが充満していて、陳列棚からの冷気で肌寒い。俺は彼の近くまで言って声をかけた。
「何見てんの?」
「白鳥のたまご」
「え?」
 でも確かに、彼がずっと視線を送っているものを見ると、不思議な色をしたまるいものが白い発泡スチロールのネットに包まれて、かごの中に十個くらい陳列してあった。薄むらさきと水色の混じったような、なんともいえない色で、一つ一つは手のひらに収まるほどの少し細長い卵形だった。朝焼けと反対側の空みたいな色だ、と思った。値札には一個380円と記してあって、その上にアケビと書いてあった。あんまり不思議な色なので食べ物とは思えなかった。
「これって白鳥のたまごなの?」
と俺が聞くと
「うん」
と昆川が答えた。
「何で?」
「昔見た本に、白鳥のたまごが載っていて、これにそっくりな色だったはずなんだ。
 ずっと本物が見てみたいと思ってた。
 そっくりだ」
「でもこれ、野菜売り場にあるよ」
「そだね」
 俺も昆川も、アケビというものを知らないので、果物なのか野菜なのか茸なのかいまいち分からなかったが、丸い実から茎がちょこっとだけ出ていたので、色から見てもおそらく果物だろう、という察しはついた。
「魔法みたいだ」
昆川は言った。
 そんなことを言う昆川を見ながら、俺は彼のことを好きになるだろうな、とぼんやりと思った。あまりに取るに足らないことだけど、なんだかいつもとは違う、だけど彼らしい昆川の一言に俺はしびれてしまった。
 俺はその三日後の昆川の誕生日にマーケットへ行って、彼曰く白鳥のたまごを一つ買った。そのまま携帯で彼を公園まで呼び出して、プレゼントした。昆川はありがとうと言ったが、あまり嬉しそうではなかったので、俺は自分の思い付きが成功しなかったらしいことに少し落胆した。三日後昆川に、あれどうした、と聞くと
「しなびるのを見るのは悲しいから、マンションの庭に埋めた。
 でもホント、あれ、綺麗だった
 写メ撮ってあるんだ」
と言った。そのときになってやっと昆川は初めて笑った。
「でも、目で見たのが一番きれいだった」
 そして俺は昆川が好きになった。

 芝さんとはじめて会ったのは関東大会の会場だった。テニス雑誌の取材で来ていた彼女が俺たちに話しかけてきて、季楽とか昆川とかが適当にあしらっていた。季楽の大人嫌いは筋金入りなので、俺はあーあ気の毒に、くらいにしか思わなかった。俺は別に年の差とかは季楽程には気にならない性質だったが、ミーハーっぽい芝さんの第一印象はあまりよくなかった。
 緑山テニス部の面々は結構ジャニーズ系の顔の奴が多くて、本人たちもそれを自覚していた。多分学校で一番もてる部活な訳だけど、逆になんだか空しくなるときがある。俺は別にそこまで騒がれないが、昆川とか津多とかは本当によくもてた。「女の子」って一括りにするとまたそれも少し違うかもしれないし、普段話す子とかはキャーキャーする子じゃないけど、でも皆、女の子が怖かった。いい匂いがするし、かわいい子はかわいいと思うけど、彼女たちの前で俺たちはいつも置いてきぼりの気分になる。こっちを見ながらこそこそ話したりする子達の存在は最初のうちなら俺等の自尊心をくすぐる素敵なものだったが、今はもう見たくない気分だ。何を話しているか分かったもんじゃないし、俺らの誰かを好きになったって、なんだか女の子のグループ内で話しているうちにお祭りみたいに盛り上げっているだけで、ちょっと上滑った感じがしなくも無い。もっと地道にじっくりと人を好きになればいいのに、といつも思う。いや、もちろんそういう子もいるだろうけど。こういう風に大きく括る俺こそが、つまんない男なのかもしれないとは思う。たぶん、俺は彼女たちの誰かを本当に好きだと思って、恋をしたりする可能性を持っていないことはない。確かにそれは素敵な感じだと思う。切なかったりしたりもして、今の俺には似つかわしい何かだというのはわかるのだけれども。
 一斗君曰く
「あいつらが付き合いたいのは「テニス部の○○君」な訳じゃん。
 そんなん付き合っても絶対途中でハタンするのがわかんねえのかねー……」
だそうだ。一斗君はこういうことを言葉にするのがとても上手い。
 フェンス越しの彼女たちは今日の俺たちを見ながらこそこそ何を話してる?悪口?それともほめ言葉?どっちにしろ、俺たちにとってたいした違いはない。
 もっと、なんかこう、こうさ、土に水がしみこむように、ゆっくり、ゆっくり、足下で起っている何事かのように、恋は始まるんだと俺は思っているんだ。告白とかじゃなくてさ。自分勝手なのはかまわないけど、もっとじんわりくるもんなんだよ。
 ともかく、俺にとって最初のうち、芝さんはそんな俺たちを置いてきぼりにする女の一人だった。

 二度目に会ったのは電車の中だ。日曜の午前中、ゆったりと晴れた日だった。立つ人がちらほらいるくらいの空いた埼京線に乗って、俺はちょっと気取って渋谷に出る途中だった。芝さんが居るのに気がついたのは、池袋で結構な人数が降りて、ぐんと空いてからだった。芝さんはドアの近くで手すりに掴まり立っていた。座っていた俺からは7人掛けの座席の半分離れていた。俺が彼女に気づいたのは、知った顔だったからじゃない。泣いていたからだ。なんか変な気配がするなあ、と思って車両を見渡したら、女の人が泣いていたのでびっくりした。ほかの乗客も特にアクションをとっては居なかったが、泣いている女性の存在に少し居心地が悪そうだった。公の場で泣くなんてなんかよっぽどのことがあったんだろうか、などとぼんやりと考えていると、その女性の顔を知っていることに気づいた。月間プロテニスの記者じゃないか。知り合いだと気づいたとたん、彼女が泣いている理由を意地悪く推測してやろうかとも思ったが、それよりも前に、なんだかとても哀れな気持ちになってしまった。芝さんは一言も声を出さずに、鼻もすすらずにぼたぼた泣いていた。白いスカートに、オレンジのストライプが入ったカットソーを着て、しゃんとしたハイヒールなんか履いていたのにがんがんに泣いていて、その窓から差し込む光を反射謝する白いスカートはきらきらしてるのに、あんまりに押さえ込んで静かな様がなんだかとても惨めな感じで、俺は可哀想だと思った。だから、電車から連れ出そうと思った。
 次の新宿に着くと俺は自分に勢いを付けて立ち上がった。そのまま何も考えないようにして、泣いている彼女に近づく。少しも降りる気配のない彼女に俺は前からの知り合いみたいな口調で「新宿だよ。降りよう」と言った。それでも特に反応はなく泣いていたので、俺は手をとった。不意の接触に彼女ははっとしたようだった。「あ」と小さくもらした彼女が何かしゃべる前に、俺は彼女を連れて駅のホームに下りた。
 ホームから人がはけると、俺は「大丈夫?」と聞いた。芝さんは「わからない」と言った。
「どうしたの」
「痴漢にあったの」
 痴漢、と言う言葉を聞いたとたん、僕にはお手上げだ、と思った。これはもう、生理とかと一緒で、俺の手には負えない。ちょっと怖い。
「え……。じゃあ駅員さんとかに言ったほうがいいんじゃない?」
「現行犯じゃなきゃ意味無い」
「そっか」
 そういうものなのか。
「……でも痴漢かもわかんない」
「は?」
「手が当たってただけだから、痴漢じゃないかもしれない。わかんない」
「じゃあそんなに泣くことないじゃんか」
「違うの……」
「何が違うの?」
「わかんない」
「わかんないの?」
「違うの」
「だから何が?」
 少しいらっとする。何で女の人ってこういう話し方ができるんだろう。相手に理解してもらえないってことが怖くないんだろうか。
「痴漢じゃないかも知れないけど、痴漢だと思ったら、なんかもう、すごく悔しくなっちゃって。何で私こんな目にあうんだろうって」
「女の人はそういうの大変だよね」
「……なんか、最近いろいろあったから。別に痴漢じゃ泣かないんだけど。普段は。気持ち悪いけど。
 なんか、いろいろ、あって。その上に痴漢っぽいのにあって、で悔しくって、さらに、もしかした痴漢じゃないかもしれないのにめちゃくちゃ動揺している自分に動揺しちゃって、別にいいじゃないとも思ったんだけど、とにかく、混乱したんだ……。とても」
「分かりにくっ」
「ふう」
 思う様話して、芝さんはずいぶん落ち着いたようだった。
「君さあ、あれだよね。緑山中の」
「源拓馬」
「そう。源君」
「てかごめんね。おれ、おねーさんの名前知らない」
「芝砂織です」
「うん。芝さんね。分かった」
「ありがとう。連れ出してくれて。すごく助かった」
「よかった。
 今仕事中なの?」
「今日はお休み」
「ふーん……。ねえ、どっか、お店入って落ち着いたら?なんかふらふらしてるよ」
「そうしようかな……。
 できれば来てくれる?
 すっごい泣顔だし、今ちょっとな、一人になりたくないっていうね……。
 もちろん、用事があるならそっち優先してください」
「てかね、実は俺、スタバのキャラメルマキアート飲みたいんだ」
「あはは。タカってもらえると逆にお礼がしやすくてありがたいわ。
 おごる」
「あざーっす」
 その後、芝さんと俺はスターバックスコーヒーで温かいコーヒーを飲みながら少し話した。芝さんはその時、男と別れたばかりだったそうだ。端的にそのことしか聞かなかったが、大人の女の人だから、仕事とかでもいろいろ大変なんだろうなあと漠然と思った。本当に漠然と。彼女の言葉以上に、彼女自身は複雑に苦しんでいるんだろう。皆そうだ。回りが思う以上にみな悩んでる。知ってるはずなのに忘れてしまうが、他人ていうのはいつも悩んでるもんだ。
 彼女が泣いていた原因の話はすぐにやめにして、テニスの話を聞いた。他校のこととか、取材に行ったプロ選手がどんな人だったかとか。面白い話だった。芝さんは「テニスについて勉強し始めたのはここ半年ぐらいだから、まだまだよく分からない部分は多いけど、不思議なスポーツよね」と言った。
「そう?どう不思議だと思うの?」
「選手同士の距離感とか」
「ふーん?」
「なんか、個人対個人で対決するスポーツなのに、遠いような気がしない?不思議な感じ」
「?」
「剣道とか、プロレスとかは、近いと思うの。相手との距離が。
 間合いに入れるじゃない?相手に触れるし。ガツーンと。
 でもテニスは対戦としては濃密なのにあくまで自分の陣地に留まんなきゃならないし。なんか、ひとりきりだと思った。相手が居る分余計に孤独と言うか」
「そんなこと俺考えないなあ……」
「まあ、実際やるとなるとそうだろうけどね」
「でも、時々、すごく相手の何かが分かった!て思えるようなことはある」
「へえ」
「何が分かったのかはわかんないけどさ……」

 そして、俺と芝さんはそのまま夕方まで話しこんで、携帯の電話番号とメルアドを交換した。赤外線通信をしているときに、芝さんは「こんな若ーい子のアドレスなんて、入ってないからなあ、なんかねえ、悪いことしちゃいそうだなぁ」と言った。
 年齢も性別も違うのに、なぜか妙に俺と近しい人だと思った。
 俺は、今まで、テニスをやっている自分の心の話をしたことがなかったし、人の気持ちの揺れ動きの話をされたこともなかった。芝さんと俺が話すのは、いま二人がそれぞれ直面している悩みだとか、愚痴だとかとは少し違って、自分が物事をどう見ているかだとか、どう生きたいと思っているかだとか、もう少し根本的で抽象的なことばかりだ。俺も芝さんも俗物と言えばそうであったが、お互いが一緒に居ると、浮世からは30センチくらい浮いているような気分になった。芝さんと居るときは心がとてもいい感じに安定していて、いろんなことがくっきり見える気がした。それが幻覚だったとしても、俺は芝さんと居ることで、自分について考えることを学んだ。
 そして、俺と芝さんは二度目に会ったとき、セックスをした。

 俺は昆川のことが好きだけど、いつも見ているだけで、あとはどうしようもしなかった。
 それは、昆川が男だったからと言う理由も多分にあるが、基本的には彼の性格によるところが大きい。昆川は、すごく冷たい。テニス部の仲間内でも、無口なほうだ。特に女の子相手の場合、ほぼまともにしゃべらない。
 けれど、俺の足首の怪我がかさぶたになり始めたころ、一斗君がよからぬことを言った。
「なんか、昆川、女と付き合い始めたらしーべ」
「……え、嘘」
「まあ、嘘くせーけど、本当っぽい。
 あの昆川のことだし、はしゃいじゃった女子に付きまとわれてるだけかと思ったら、なんか、マジで付き合っているという話らしい」
「誰に聞いたん?」
「津多」
「わー茜ちゃんかー。リアルだなー」
「津多の情報は妙に的確だからなあ」
「てゆーか、一斗くんそういう噂嫌いじゃん。
 何で俺に教えてくれたの?」
「だってお前、やたらと昆川のことは気にしてるだろ」
「え?」
「いや……知られたくないことだったら悪かった。
 でも、お前、普段はあんまり人の行動とか気にしないだろ。
 でも、練習中とか、昆川のこと良く見てるしさ、気にしてるんだろうなって」
「え……うん。まあ」
「残念だったな。あいつ、先に彼女つくっちゃったみたいで」
「あ、うん……そうだね
 …………いつから?」
「は?何が?」
「じゅんペー君が付き合い始めたの」
「あー、いつっつってたかな……。
 あー、多分、一週間くらい前か、な。
 お前がボールぶつけられたあたりだった気がする。多分な」
「へえ。そう」
 いつも、俺は、なんだか置いてきぼりだ。特に、誰が誰を好きだとか、誰が誰とつきあっただとかそういう話に関しては。
 ふらっとした。手がしびれた。もう少しで震えるところだった。少なくとも、心臓と肺と喉の辺りは震えてた。

 俺は電話を手に取る。
「芝さぁん」
「どうした?」
「ねえ、今から行っていい?」
「ダメ。
 あんた、今から東京出たら帰るの何時になると思ってんの。
 親御さんに心配かけるんじゃないわよ」
「うん」
「どうしたの?」
「じゅんぺーくんが彼女つくったぁ」
「あーららー……」
「どうしよう芝さん。
 すげえショック。
 びっくりするくらい動揺してる。
 泣いてはいないけど、喉の奥がヒクヒクいうんだ」
「そっか」
「ねえ、今からは行かないけど、芝さん次の休みいつ?」
「…多分、土曜のお昼からなら平気だよ」
「会いに行っていい?」
「一緒にキャラメルマキアート飲もう」
「ありがとう芝さん」

 わたわたしてて、ふらふらした気持ちのまますごしていると、遠いと思っていた土曜日はあっけない速さでやってきた。新宿の新南口で、芝さんは薄水色のニットを着て待っていた。胸の形がとってもきれいで、それはちょっと高いブラジャーを毎朝時間をかけて付けているからだよ、と教えてもらったことがある。直に触るともちもちしているけれど、ブラジャーをつけた胸はなんかよそ行きで、いい感じにまとまってて、俺はどっちも好きだった。そんなことを考えられる自分はちょっと大人、だとか思いながら純平君のことを思う頭を紛らわせようとした。
「なんだ。見た目は元気そうじゃん」
 俺は彼女の顔を見たとたん、ああ、これからいろいろ話を聞いてもらえるんだ、と思ってほっとしてしまった。
 店に入ると芝さんはさっさとレジに並んで「おごるよ中学生。キャラメルマキアートショートで二つ」と俺の意見を聞かずにさっさと言った。「あと、ベリーパイ」。
「なんか食べ物いる?」
「いいデス。
 ありがとう」
 芝さんと会ってほっとしてしまったら、逆に俺は何も言うことができなくなって、ずっと黙って甘いコーヒーを飲んでいた。第三者である芝さんに、純平君のことに関していろいろ説明しようと思ったけれど、頭の中で整理していたら、口に出したとたん自分がもっと情けなるような気がして、何も喋る気が起きなくなったのだ。
「芝さん、ごめん」
「何が?」
「無理やり会ってって言ったのに、何も喋らなくって」
「いいよ」
「ごめん」
 芝さんはあんまり情けない俺を見かねたのか、向かい合わせで座っているテーブルの向こうから手をずっと伸ばして、俺の頭を一回叩くように触った。一瞬のことだったので、手の暖かさも何も感じられず、髪の毛がカサッという感じだけだったけど、俺は彼女に触られたとたんバターが溶けるみたいにぐんにゃりとなってしまった。どうしようもなくなったので、目の前においてあるコーヒーのカップを横によけて、小さな丸テーブルすべてを占領するように突っ伏した。芝さんがベリーパイが乗っかったお皿をすっと引っ込める。
「げ。あんたの頭、整髪料べったりじゃない」
 芝さんが嫌そうな声を出したのが聞こえた。言った後に、紙ナプキンががさがさいう音がする。
「だって髪の毛立ててるもん」
「ガキのくせに」
「……芝さぁん」
「どうした?」
「俺、情けないよう」
「そう?」
「うん。だって、俺、純平君のこと何にもわかってなかったもん。
 何もわかってないのに勝手に好きだったんだ。
 周りの女の子のことも何も知らなかった。
 馬鹿みたいだ……」
 芝さんはコーヒーを一口飲んでから話した。
「あんた。たしかに馬鹿だけど。
 でもさ、ほら、あれよ。
 こんな風に仲良くして、セックスまでしちゃってる私たちだってお互いのことなんてほとんどよくわかってないじゃない?」
 芝さんは「セックスまでしちゃってる」の部分だけ周りを気にしてすごく小さな声で言った。俺は少し笑ってしまった。
「こ、ら。笑うな。
 ……特に、人を好きになるときとかって、いろいろ事情や打算はあれど、ほぼ見切り発車で始まるわけよ。
 仕方ないでしょ。
 あんたは、わからない部分も含めて昆川君のことが好きだったんでしょう?」
「うん」
 芝さんの前に置かれた真っ白で丸いお皿の上に、菱形のベリーパイがざっくりと納まっている。生地の割れ目から、鮮やかな赤紫のベリーがきらきらしていた。
「大丈夫よ。
 昆川君。今の相手とだって、いつまで続くかわからないんだから…」
「あー今すげえいやな感じなこと聞いた」
「は?当たり前のことじゃない。人はいつか別れるし」
「やだー……それやだー。
 純平君とどっかの女子が別れちゃうってことは、もし俺が純平君と一緒にいられたとしてもいつか別れるってことでしょ?
 やだな……」
「中学生らしいこと言ってんじゃないよ」
 芝さんは笑った。俺が帰ろうか、というまで、彼女はずっと前に座っていてくれた。そして、俺に気を使わせないためか、ベリーパイを食べながら、持ってきた雑誌なんかを広げてかかりきりのふりをしていた。俺が彼女のほうを見ると、ベリーパイに噛り付いたまま「ん?」と笑って視線をくれた。芝さんは普段、もっとぞんざいな女性だけれど、こんなときばっかりそんな風に大人らしく気を使ってくれると恥ずかしくもあり、けれど結局俺は感謝でいっぱいになって涙が出そうだった。パイの甘くてすっぱいにおいがぱっとはじけて、余計に良くできた感じで感傷じみていた。
 ここに来る前に言いたいと思っていたことはほとんどいえず、何も解決しなかったけれど、芝さんに頭をひとつはたかれて、刺激的なほどに甘いコーヒー一杯飲んだだけでずいぶん気持ちは穏やかになった。昆川のことは、まだ思い出すと胸に注すような痛みがあるが、話も聞かずに慰めてくれる人一人がいるということがとんでもない僥倖に思え、ずいぶん慰められた。
「ありがとう」
 俺は彼女にお礼を言った。そうして、最近ありがとうの五文字をきちんと発音して人に感謝したことが無かったなあ、と気付いた。こんな風に、自分を反省して悩んでいるのに、最近は人への感謝すらまともに言えていなかったことに思い至って、少し忸怩たる気持ちになる。俺は、もっと澄み渡っていて、色々なことに気付ける人間になりたい。丁寧に生きなければ。昆川のことも、ほかのことも。俺は自分の心に「どんな親しい人にもきちんとお礼を言う」とつぶやきかけて、日が暮れる中、駅へと小走りに急いだ。ありがとう芝さん。


「ねえ」
 昆川がいきなり話しかけてきたので、俺は飛び上がるほどに驚いてしまった。ぱっと目が開いたので、その驚いた顔を見て、昆川も少し驚いたようだ。
「何?」
「襟。片方だけ立ってるよ」
「お。本当だ
 ありがとう」
「ダセ」
「ひど!」
 そうして、少し笑った。昆川は俺の襟が立っていることを指摘するためだけにやって来たわけではないらしく、笑顔が引っ込んだ後も、なんとなく俺の隣にずっといた。俺はどきどきしてしまって、居心地が悪かったので「どうしたの?」と聞いた。
「津多の」
「茜ちゃんがどしたん?」
「あいつが流した情報、嘘だぞ」
「え?」
「嘘、というか、勘違い」
「何の話?」
「彼女の」
「あー……。
 へー……。
 うん。そう」
「こういうときはテニス部やめたくなるよな……」
「なんかあったんだ」
「ストーカーまがいだよあれ。
 付き合ってもいないのに、付き合ってるとか噂流されて、マジ気分悪い
 津多も信じちゃうし。馬鹿じゃん」
「お疲れ様…」
「お前さ」
「何?」
「俺のこと見てるんだったら、もうちょっと俺がこういう被害にあっていることとか気付けよ」
「え」
「もっと気付いて、助けたりしろ」
「え」
 俺が昆川を見ていることに本人が気付くとは夢にも思わなかったので面食らってしまった。世界は僕が思うより僕を仲間外れにはしていなかったんだ、と思った。ねえ芝さん、物事って言うのは、実は自分の眼前で激しく回っていたものなんだね。
 それを知ることができた僕は走らなきゃならない。

 芝さんとは2ヶ月くらい会わなかった。理由はあるような、無いような。俺は親しくなりかけていた昆川に夢中で、ぽつぽつとやり取りするメールによると芝さんは芝さんで一枠特集を任されたらしく、嬉しさと殺人的な忙しさでばたばたしていたらしい。個人的なメールを打つ時間すらなかなか取れないらしく、俺が出したメールの返信が翌々日に来る、なんていうのはざらだった。

仕事?生きてる?メシ食ってる〜?
忙しかったら返事いらない
がんばれ

生きてる。多分。。。
中学生に食事の心配されるなんて私も終わりだ。。。
質はともかく、一応量は食べてるから平気(笑)

今日スタバでキャラメルマキアート飲んだ
うまいけど、自分で買うと高いね;
マックのほうが¥得した気分
芝さん思い出したからメールしてみた

そりゃおごられる物はおいしーでしょーよ(笑)
暇できたらまたスタバ連れてってやる
そういえば、この前紹介した本読んだ?

読んだ
ちょっと難しかった
でも、今まで読んだ本と、少し違ってなんか世界開けた感じ?
次会ったとき感想言う

 「次会った時」、はなかなかこなかったけれど、十一月に入ったら芝さんから「なんかおいしいもの食べたくない?」とメールが来たので「うん」と送ると「いつ暇?」と来たのでお互い予定を調整しあって、二人で食事することになった。彼女は午後二時という、夕食を食べるにはいささか早い時間を指定した。昼ごはんとして食べるつもりなのか、あるいは外出する前にセックスしようと言うことなのか分からなかったけど、俺はあまり何も考えることなく待ち合わせの時間に芝さんの家に行った。一応ちんこは洗ってった。玄関の前に立つと、チャイムを押す前にドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
 芝さんは、ちょっと今まで見たことも無いような普通の面で満面の笑みだった。俺は少し面食らった。
「いきなり開いたから驚いた」
「足音で分かる」
「俺の足音聞き分けられるの?」
「ううん。でも、あんなふてくされた足音、中学生でもなきゃ」
「何それ」
「入って。
 今日は私の家でご飯しよう」
 芝さんはかつてない愛想のよさで応対し、俺を部屋の中に入るよう促した。俺はてっきりどこかの店で食べるものだと思っていたので少し驚いた。第一、こんな汚い部屋のどこで料理をするって言うのだ。コンロに火をつけたとたん、洋服やら本やらが燃えてしまうではないかと思っていると、またさらに驚いた。廊下の様子がまず違う。芝さんの部屋は、ゴキブリが這っても目視できないほどに酷い状態から一転、きれいに、片付いていた。服はひとつも外に出ておらず、積みあがっていた本は慎ましやかに本棚に納まっている。心なしか、光の様子も少し明るい。
「すっごい。
 よく片付けたね」
 俺は素直に感嘆しまくった。物だらけの部屋だったのに、水が流していったみたいに、すっきりがらんとしている。部屋の真ん中にある小さなテーブルの下には触り心地のよさそうなベージュ色をしたラグマットが引いてあった。ベッドには洗ったばかりと思われるシーツががけてあった。俺が見たことの無い青い花柄で、多分新しく買い足したのだろう。芝さんが「マリメッコだよ」と嬉しそうに言う。俺はマリメッコが何であるかよく分からなかったが、「そっか」と言って笑った。彼女はとても清々した顔をしている。
「どうしたの?」
「片付けたのよ」
 俺はもっと精神的なことを聞いたのだが、芝さんは勢いづいた声でわざと的外れな回答をした。しかも、むちゃくちゃ得意げだ。こういうときは深追いせず、素直に話の流れを変えたほうが彼女と俺の関係がうまくいくことを知っていたので、俺はそのとおりにした。
「洋服は?」
「着てないの以外は全部捨てたっ。
 他はクローゼット」
「本は?」
「百冊だけ厳選して、残りは古本屋」
「思い切ったねえ」
「ホンットすっきりした。
 もうね、だめだ。汚い部屋は。
 もうホントだめ」
「うん」
「鍋買ったの」
 と、芝さんは小さな台所のコンロにおいてある青くて大きな鍋を指差した。
「フライパンもフッ素加工のを買ったの」
「へえ」
 俺は、なんだか今まで来たことのある彼女の部屋とは別世界の空間にあっけに取られ、へえへえやたらと感心していた。彼女の部屋が片付いて、祝福してやりたいような嬉しい気持ちでもあった。部屋が片付いただけでここまで感動することがあるなんてはじめて知った。
「よし、ご飯の支度しよう」
「え、芝さんが作るの?」
「甘ったれてんじゃないわよ。
 二人で作るの」
「え。
 俺、料理なんかしたことないよ?」
「実はさあ、私もほとんどしたことが無いの」
 あまり不安な様子もなく芝さんは言った。
「無理じゃん」
「でも、ちょっとやってみたくなったの」
「何つくるの」
「春巻きとポテトサラダと」
「え。まだつくんの」
 俺は彼女の野望にたじろぐ。
「うん。ほうれん草の胡麻よごし」
「ごまよごし?」
「ああ……胡麻和え、のこと」
「てかさあ、初料理が春巻きってハードル高くない?」
「いや、だって、なんかこう、出来上がったときに、おーすごーいってやつ作りたいんだもん」
「えー」
「いざとなったら近くにバーミヤンあるし」
「志高い割には弱気だね。
 うん。まあ、作ろうか」
「うん。うん」
 芝さんはなんかもう本当にいろいろやる気で、新しいボウルやポテトを潰す変な道具とか、新しいエプロンまで買っていた。二人で同じ紺色のエプロンをすると、俺自身もなんだか頑張らねばならない気がしてきて、芝さんと俺は手術前みたいに手を念入りに洗った。「よし」と芝さんは言った。

 まず、何はともあれ米だ、ということで、無洗米を静かに水につけて炊飯器にセットする。「ひとまずこれで、八十パーセントは終わった」と芝さんが冗談を言った。
 サラダ用のジャガイモと卵をぐらぐらと炊く鍋を横目に、挑むように台所に立った俺達には、まず最初の最初、春巻きの材料を刻むのが難関だった。別に、手を切りそうになったりだとか、切れた野菜の大きさがめちゃめちゃだとか、そんなことはなかったけれど、俺がやっても芝さんがやっても、とにかくものが切り揃うのが遅いのだ。芝さんは恐ろしく慎重な手つきでピーマンをやっつけ、交代した俺が戻した干し椎茸を刻もうとすると、包丁の柄が体温で暖かくなっていた。夏休みの工作だってこんなに真剣にやらないってくらいに俺たちは真剣に材料たちを下ごしらえして、手が余ったもう一人は、その様子を真剣に観察する。効率が悪い。しかし、すべてを切り終えると、バットの上に並んだそれらの整然とした様子にひどく満足になった。「豚肉には下味をつけるといいらしいよ」と芝さんは自分の手柄のように言う。
「ご飯作るって長い道のりだなあ……」
 俺はため息を付いた。
 ごま油を強いて熱したフライパンに肉を叩きつけ野菜を追従させる。俺はそれを混ぜる楽しい作業を芝さんに譲ってもらって、彼女は茹で上がったジャガイモをシンクの笊に盛大な湯気とともに開け放っていた。ボン!とステンレスが鳴って、景気がよい。芝さんは周到に俺が炒める材料にも気を配っていて、「さあ!いま!片栗粉溶いてあるやつ!」とせかす掛け声に俺はあわてて鶏がらスープの素がといてある水をフライパンに投入した。予想外に片栗粉がだまをつくり、俺と芝さんは悲鳴を上げた。大騒ぎになる。もうもうと上がる湯気が、いっそう気持ちをはやし立てた。
 どうにか駄々をこねる片栗粉を説き伏せると、材料はキレイにとろみを持ち、コンロの火に沸騰を始める。ぐつぐつふつふつと沸きたてるそれを木のへらで混ぜ返すと、じゅわじゅわぐちゃりと重たく淫靡に水気が鳴った。しかし、芝さんは横でジャガイモの皮をむくのに熱い熱いと大騒ぎで、俺の感傷は速やかに邪魔をされた。よくみたら、長めに伸ばされていた彼女のつめは、短く切りそろえられていた。
「つめ、切ったんだ」
「だって、料理するじゃない」
 彼女は芋との戦いに全身全霊で、上の空に受け答えた。俺は自分の仕事の成果を教えるために艶々とキレイにいたまった具材を小皿に乗せて彼女に差し出した。
「芋、ちょっと置いて。味見」
「味見!」
 俺は自分で味見する前に芝さんにしてもらったほうがなんだか彼女に対して礼を尽くしているような気持ちになって、彼女が熱々の筍の細切りだとか椎茸豚肉だとかを一緒くたに口に入れるのをじっと見ていた。
「おいしい?」
「おいしい!」
 俺はそれを聞くとすぐさま自分も味見を決行した。仕事の成果に二人とも、とてもすばらしい気持ちになった。
 さて、丸裸にしたジャガイモをマッシュポテト用のみょうちきりんな銀色の器具で潰し、押し出す。テニス部の握力で一気に潰し果てると、まだホカホカとした芋はすんなりとペーストになってくれた。そこに切っておいた野菜とレンジで温めたベーコン、切り刻んだ卵を混ぜ込み、塩コショウ、マヨネーズを実験もかくやという慎重さで足していった。一品がもうすぐ出来上がる。色々なものが混ぜ合わさって、良いにおいが思いがけない鮮やかさで香ってくる。それだけで、もう、踊りだしたいほどの、驚き、喜びがあった。妙なものだった。
 出来上がったボウルごとポテトサラダを冷蔵庫に休ませると、後は春巻きだ。台所では少しせまいので、居間のテーブルの上に道具を異動させる。バットに広げて少し冷ました具を向こう側に、手前には粉を打ったラップの上に既成の春巻きの皮。よーいドンで始まる内職に、俺を芝さんはしばしお互いの成果を報告しあいながら打ち込んだ。馴れないもので、二人がつくった最初の二本は、妙に大きいものとなってしまった。
「具が多いんだろうね」
「欲を張ってはいけないってことだろうねえ」
 芳しくいたまっている具の匂いにうっとりとしながら、俺たちは一生懸命春巻きを巻き続けた。十枚ある春巻きの皮を半分ずつ分け、二人とも五本目にいたるときにはさまざまな工夫を身につた。たとえばそれは、封をするための水溶き片栗はなるべく広い範囲に付けたほうがまとまりが良いとか、具を置くときの位置やスプーンの使い方だとかだ。大皿の上に具材をうっすらと透けさせながら並ぶ生の春巻き十本はいびつながらも頼もしく、たくさんの色がそろっている真新しい色鉛筆を眺めているような気分にさせる。
 春巻きたちにはしばし休んでもらって、次は青々としたほうれん草に取り掛かる。芝さんの調べによると、茹でるよりもレンジで暖める方が栄養分のロスが少ないらしい。彼女は恥らうようにピンク色をしたほうれん草の根元を広げて、その隙間の泥をきれいに洗い出す。俺はその横で、残ったきゅうりやらセロリやらを切り刻んで、ポテトサラダの彩りになりそうな飾りをつくる。芝さんがざっざっとほうれん草の水を切れば、そのしずくが俺の頬に飛んだ。頬を伝ってにあごまで流れた水がくすぐったくて、俺はぞくっとする。
 洗ったほうれん草は大皿に乗せられ、ラップで包まれる。五百ワットのレンジで四分。そのあいだにも芝さんは隙なく大きなボウルに水を貯め、熱々な根菜を待ち構える。チーン、とゴングが鳴ると、俺はすばらしいコンビネーションでレンジの扉を開け、芝さんが布巾を持った手で皿をつかむ。「熱い」という暇も有らばこそ、そのままラップをはがし、ほうれん草を水の中に落とし込んだ。
「見ててごらん」
 芝さんがそういうので、俺は意味もわからずボウルを覗き込んだ。ボウルの中では、放り込まれたほうれん草が流水に冷やされて目に見える速さで鮮やかな緑色に変わっていく。
「すごい」
 俺は、とっても感心してしまった。
「料理は科学なんだって」
「誰が言ったの?」
「むかしの彼氏」
「へえ」
 水の中で踊るほうれん草の薄い葉がきれいな色に落ち着くと、そのまま引き上げて軽く水分を絞る。程よい大きさにとんとん刃をいれ繊維が断たれる。ボウルのなかでしょうゆやら砂糖やらと合わせ、芝さんが用意しておいた擂り胡麻を投下してさらに馴染ませれば簡単に胡麻和えも完成した。何にも知らないで見れば砂にまみれたあおっぱみたいなものなのに、どうしてこんなにおいしそうに感じるんだろう。

 さいご。満を持してきれいに並べられた春巻きたちは戦場に繰り出す。時々ぱりぱり音を立てながら静かに煮えたぎる油を目の前にして、俺たちは息を呑んだ。
「大丈夫かな……」
「わかんない。跳ねたりしないかな」
 芝さんが一つ目の春巻きをそうっとつかみ、コンロから最大限体を離しながら、そうっと油の中に滑らせた。暴れまわるかと思った油は意外にも静かで、春巻きの周りにはプチプチとかわいらしい無数の泡が生まれる。金色に光るゆるい液体の中で、春巻きはゆらゆらとゆれながら確実に化学変化を成し遂げている。最初の一投が安全なものであったと確認できた俺は、二個目三個目を投じる芝さんがうらやましくなって、自分の分を入れたいとお願いした。いいよ。と芝さんは笑って場所を空けてくれた。
 鍋はそこまで大きくないし、あんまり一気に入れると油は冷めてしまいよろしくないということなので、一度に火を通す春巻きは五個にとどめて、後は菜箸でくるくるとちょっかいを出し様子見だ。
「どう?」
 俺が聞くと芝さんは一番最初に投じた、一番大きな春巻きを慎重に菜ばしで持ち上げた。
「まだ。
 だと思う。
 もっと、きつね色、なんじゃないの?」
 目指すところにはまだ足りない。
 一つ一つの品が作業の積み重ねで確実に料理と呼べるものに変わって、なるほど、自分は今まで「食う」ということの営みに関して、ごく一部からしか見ていなかったのではないかと思い知る。熱が音を立て、野菜が水気を飛び散らせながら口に収まる大きさに整えられてゆく。芝さんと俺が料理のさなかに交わす言葉は、まるですばらしいダブルスのように少なく、的確で、お互いをリラックスさせた。料理は確実に出来上がってゆく。何かを整理するみたいに。芝さんはとても楽しそうだ。そして俺も。二人とも、出会った頃と比べて確実に変わった。でも、俺は、変わったり、新しく切り開いたり、決別することが怖くないと思った。それはすばらしく、正しいことだと思えた。
 テーブルの上にすべてが出揃ったとき、俺と芝さんはなんだか泣きたいほどに幸せな気分になった。気がつけば外は赤い夕方だった。
 つくるのには、あんなに手間隙気力がかかったのに、食べるのにかかった時間は本当に一瞬だった。本当に、思い出せないくらい短い時間だった。ただ、確実な満足が、物質となって俺たちの腹をカチカチになるほどに満たしてくれた。熱い米、熱い春巻き。冷えたサラダと和え物。すべてが舌を撫で上げ、食道を進んでいく。生きる熱になる。

 ご飯を食べ終わった後はとても速やかに後片付けをした。芝さんも俺もほとんどしゃべらなかった。最後にきれいなタオルを渡されて手を拭いた。俺たちは向かい合って座って示しあい、自分の携帯電話に登録されている相手の電話番号とメールアドレスを消した。二人とも、今までで一番お互いのことが良くわかっていた短い瞬間だったと思う。
 芝さんは「ありがとうね。源くん」と言った。泣かなかった。「感謝していますよ」とも言った。二人でいた時間はとても居心地が良かったのは確かだった。色々なことが許されていたし、色々なことを後回しにできたし、駄目なところは駄目なままでよかったから。でも、芝さんは部屋を片付けてしまったし、俺は純平君を眺めるだけの日々を終えた。そろそろ、出かけなければならない時間だった。そういうタイミングの見極めはとても重要だと、俺はわかっていた。俺も芝さんに「今までありがとう」と言った。
「私たちは本当にお互いに良く助けられたねえ」
「そうだね。とてもね」
「そろそろ、自分の時間に戻ろうね」
「うん」
「うん」
「芝さん。
 いろいろ教えてくれてありがとう。
 俺は芝さんが初めての女の人でよかったと思う。
 いま、本当にそう思う。
 そういうことだけじゃなくてもさ。
 本当、感謝しているんだ」
「どういたしまして」
「芝さん。
 俺、芝さんにとって、いい子だった?」
「ええ。とても。とっても」
「ご飯、おいしかった」
「ね、とてもおいしかったね」
 どんなに覚悟していて、すばらしい旅立ちでも、何かに別れを告げるというのはやっぱりちょっと寂しいものだと最後の最後に思ってしまった。未練がましいかな、と感じたけれど、小さな余韻ぐらい残してもかまわないか、と思い直す。それに、俺が芝さんからもらったものや得たもの、奪ったものはとてもたくさんあって、それは物ではないからいつまでも消えることがない。だから、確実に、俺の中にも彼女の中にもお互いは残る。別れるときになると改めて自分が得たものがわかる。消せなくなった歴史がわかる。
 部屋を出るとき、芝さんは「じゃあね」と言って俺の背中をひどく景気よく叩いた。
 俺と芝さんはもう会えないかもしれないけれど、またどこかで、別々の二人になって会うことがあるかもしれない。俺は、びっとしたよそ行きの芝さんのおっぱいを思い出しながら、これからのことにいろいろ覚悟を決めた。風にさらされて体中が冷たい。二人とも、しくじることなく明日をいければいいと思う。































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