異類婿


















 幸村は聞く度に将来なりたいものが違う。
 「プロテニスプレーヤー」「登山家」「花屋」「詩人」「小説家」「冒険家」「僧」「俳人」「怪盗」「探偵」「モデル」「俳優」「フリーター」「消防士」「医者」「科学者」「ケーキ屋」「物理学者」「評論家」「F1レーサー」「ホスト」「ジゴロ」「ギャンブラー」「ヒモ」「旅人」「考古学者」「映画監督」「引きこもり」「サッカー選手」「数学者」「哲人」「料理研究家」「町工場の技術者」「アナウンサー」「王子様」他、多数……。
 そして幸村はそれらのどれにもならなかった。
 幸村は、本当のところそれらのどれにだってなりたいわけじゃなかった。言っているときは確かに本気でそれになりたがってはいるのだが、当の幸村自身が、その気持ちが持続するわけないと確信してしまっている。それでは何の意味もない。
 真田の結婚式に呼ばれたときも、相変わらず幸村はただの幸村で、何者にもなっていなかった。柳は久しぶりに会う幸村がまだ何者にもなっていないことに安堵し、自分の安堵が残酷なものだと思いもした。
 柳はいつものように幸村に聞いた。
「お前、将来何になりたいんだ?」
幸村は笑って「真田のおよめさん」と言った。そして、すぐに「うそ」と言った。
 真田の隣りに座る女性を嬉しそうに眺めながら幸村は笑った。「ああ、きれいな花嫁さんだねえ。夢みたいにきれいだねえ」。
 あんまりその様子が嬉しそうだったので、幸村の本心は分からず仕舞いだったが、幸村の夢がかなえられそうもなかった真田を思うと、柳は彼に対して八つ当たりのような怒りと不甲斐なさを感じてみたりもしたのだった。
 かといって、自分が幸村を嫁にできるかと言うと、それも到底無理な話だったので、結局のところ自分が何に腹を立てているのか分らなくなってしまった。
結婚式が終わり、夜の電車に乗って乗換えで分かれるとき、幸村は「俺、ひとまず絵描きになることにしたんだ」と言った。「何でまた絵描きに」。「今は俺を描かなきゃならない時期だと思う」。

 結婚詐欺に大成功した仁王が、ウエディングドレスを捨てるというので貰い受けることにした。もったいないと思ったのと、ふと、幸村に着せてやろう、と思いついたからだった。
 右手にはドレスの入った箱を抱え左手にはタッパーのはいった袋をぶら下げて三ヶ月ぶりに幸村のアトリエに行くと、精市が絵の具まみれで部屋の隅に落ちていた。「やあ蓮二!相変わらず美しいね!」。彼の笑顔こそ美しいものの一つだと思うが、なにしろテレピンでイっているらしい。あんまり汚くてくさいので、風呂に引き摺っていって容赦なく水で洗う。一応今はガスが通っているらしく、湯沸かし器をセットして赤いボルト止めの蛇口をひねったら、ありがたいことに湯が出た。幸村が寒いのは一向に構わないが、水しぶきを浴びるこっちまで風邪を引きそうになるのは辟易だ。
部屋の隅でゴミに埋もれていた可哀想なイームズの椅子を発掘して、一通り洗い終え脱水乾燥まで済んだ幸村を座らせる。「蓮二!聞いて蓮二!俺、お前に会っていない間に、いくつ仕上げたと思う?二十だよ!二十!絵というのはねえ、仕上げなけりゃ、何の意味もないものだと俺は思うんだけど、小説と一緒だね。俺はその点、仕上げるって事に関しては素晴らしい決断力と、勇気があると思うんだけど、どう?ああ、小説といえばさあ、蓮二カフカ読んだ?カフカの変身。浅識ながらもさ、先日やっと読んだんだけど、あれはいいね。いい。背中にりんごが刺さり虫だよ。命を削るようだって?命削って描けるんだったらいくらでも削るさ。もうここ三ヶ月、俺、降りっぱなしだよ————」。まくし立てる幸村の話を右から左、俺は台所と思しき場所で家から持ち寄った肉じゃがと白米を温めなおす。棚の中から茶碗を二膳出して、きれいに洗いなおし、飯をよそう。急須も洗って、茶も二杯用意する。すべてを盆に載せ幸村の前においてやると彼は感嘆の声を上げた。「ワオ!気温以上に温まっているものを久しぶりに食べる」。「機関銃のようにしゃべるな。そのうち舌が回らなくなって噛み切ってしまうぞ。ほら、黙って食おう」。「素晴らしいね。いっただきます!」。
 柳が幸村にものを食わせる理由は沢山あるが、端的に言えば、食っている幸村を見ると安心するからであった。幸村は十代の中ごろに一回、大きな病気をした。幸村の病を聞いたとき、柳は、なんとなく、本当になんとなくであるが、幸村がそのまま死ぬものだと思ってしまった。見舞いには足繁く通った。意識が無いときも、あるときも。ひどい時期は一ヶ月近く続き、その間にはベッドに沈んだまま指一本さえ動かすことがかなわなかった。
喉から送管されている幸村は静かに静かに呼吸をしながら、時折柳がいる方に目線をやるのが精一杯なようだった。そしてそれが、唯一生きている証拠であった。ある日、そんな幸村を見ながら彼が物食う姿をどれだけ見ていないかと、唐突に思った。数えたら、それはあまりに長い期間であり、食うことが好きな幸村が喉に食物を通せない苦しみと言うのはどんなものだろうかと柳は戦慄した。体が動かなくなることの不自由さや、痛み、痺れなどにくらべて、その苦しみはわかりやすく心に浸透し、柳にとって食わぬ幸村というものは胸痛む悲しいものの一つになった。だから食わすのだ。
 幸村とともにする食事は、柳にとって同胞意識や友情以上の、よすがなのであった。それに何より、幸村は何でも旨そうに良く食う。食うことの生命に思いを馳せ、野蛮さもかすかに感じるのが幸村との食卓だ。キャンプに出かけたときに食べる飯のような、妙なライブ感がある。そこでは米は米であり、煮物の中の莢隠元や馬鈴薯は大地にあったときの威厳を主張し、植物の強さが横たわる。塩味や甘味は際立つように感じられ、咀嚼の一回一回が驚きだ。
競うように箸を動かせば、瞬く間にすべては胃に収まった。ぐったりと疲れる。
いっそ闘争的ともいえる食事を終えて、ゆったりと放心している中、幸村がふと言った。
「ねえ蓮二。俺と結婚しようよ。俺に毎朝味噌汁作って」
「ごめんだ。お前みたいに生活を回していく能力がない精神的放浪者に付き合えるほど達観していない。それに俺は、金で苦労したくない性質なのでな」
「愛があるじゃない」
「愛で部屋は片付かん」
「うそ。俺、蓮二が結婚してくれるって言うんなら、愛パワーで部屋掃除できるもん」
「何なんだ愛パワーとは。
 三十路も近いのにもんとか言うな。品位を疑われるぞ。
……とまあ、お前は品位など子宮に置き忘れて来たくちか。
 第一、愛というものは、歴史的にみても生物学的に見ても継続が不可能なものの一つではないか。
 ゆえに、愛に頼った掃除が永続的に行われることは不可能であると言うことになる」
「そんな論理的に否定しなくってもいいじゃないか……」
 ひとまず、人が歩ける程度にゴミを浚おう、という話にはなったので、ゴミ袋を手に捨てまくる。
 といっても、スケッチブックの断片やら、モチーフとも着かないガラクタなど、どれがゴミでどれが取っておくべきものなのかが柳には分らない。
「精市。一応俺がゴミだと判断したものは容赦なく捨てているわけだが、何かあったら言ってくれ」
「いや、平気平気。キャンバスさえ捨てなけりゃ後はどーでもいーよ。苦労かけるね」
「まったくだ」
 柳はオレンジ色の絵の具がべったりついたシャツを再起不能と判断して、ゴミ袋に叩き込む。
「そうだ」
「なに?」
「お前が喜びそうなものを持ってきた」
「あのご大層な箱?ずっと気にはなっているんだけど、俺のための荷物なのかい」
「部屋が片付いたら見せてやる」
 途中で何度も横道に逸れ、なんやかんやで遊びだそうとする幸村には手がかかった。しかし、彼を追い立てながら男手二人でばたばたとしているうちに、床の面積はすっかり広くなり、どうにか許せるほどに部屋が片付く。掃除も終盤になると幸村は柳が持ってきた箱の方にばかり気をとられて、開けていいかい、もういいだろう、と煩くなった。それを駄目だと一喝し、これもまたごみに埋もれていたスタルクの椅子を重石に乗っける。しばし箱の蓋と共に幸村の好奇心を封じ込めると、彼の不満げな顔は憎憎しくも滑稽で、柳の手に余るほどった。勿体つけた方が幸村は喜ぶと知っているから、焦らしてやるのに。
「すごい!」
 やっと、自分の思うままにウエディングドレスが入った箱を開けた幸村は、目をきらきらさせて非常に喜んでいた。
「触ってもいいのか?」
「どうぞ」
「すべすべだな。
シルク?」
「さあ、タグなどがついていれば判るだろうが」
「んー。縫い目からしてオーダーメイドっぽいからなさそうだねえ……シルクかな。シルクだな。
シルクとオーガンディー。レースもすごく良くできてる。
 それにしたってどこから持って来たんだいこんなドレス」
 幸村が聞くので仁王の結婚詐欺の顛末を教えてやると、彼は手をたたいて笑った。
「———で、まあ、奴が言うに本物の詐欺師と言うのは、すべてが終わってもそれが詐欺だと気づかせない仕事をする人間のことを言うそうだ」
「あっはっは!そりゃあ、なんと言うか、……何とも言えないね!彼らしくて。いや、彼らしいのかな?まあ、良かった、仁王は元気そうだな」
 幸村は柳に注意され何度も洗った白い手で、すべすべとウエディングドレスを撫でている。
「よし、じゃあ着るか!」
 柳が提案する前に、さっさと幸村は服を脱ぎ始めた。
 幸村は学生の時分から殊のほか色が白い。色が白く、髪は青光りするほどに黒い。柳も色白で髪もよく黒いが、幸村のそれとはまた趣が違うのだ。幸村の肌色や髪色には一種けもの的な濃密さがある。幸村は生え際などの産毛が濃い。手足のそれも同様に濃い。まつげなども瞬きのたびに音がするほどに生えている。気持ちが高ぶると化粧でも刷いたかのように頬はバラ色になった。しかしそれは西洋的というのではなく、東洋的、または中東的な香りがする。
 相変わらず幸村は胡散臭いほどに美しいが、彼の裸など久しぶりに見る柳は学生時代との違いが気になった。特に病気をする前の幸村は、内圧がかかっているかのような張りを持ち、見苦しいほどに若かった。しかし、最近の幸村は骨が良く目立つ。スポーツから離れて久しく、筋肉や肉が落ちたせいで、余計に青年期の盛りを感じさせる骨の強さがある。一種反抗的な美しさだ。幸村は学生時代とは違う魅力で、ある意味柳を、〝打ちのめした〟。真田の結婚式のときにも感じていたことだが、もうそこにいるのは、テニスをやっていたひと時の幸村ではなかった。当たり前の、ことではあるのだけれども。
「うわ。やっぱり女物って入らないもんだな」
「きつかったか」
「うわー。ぜんぜんチャック閉まる気配がない。蓮二助けて。背中」
「……本当に閉まらないな」
「肩幅がねー。肩幅
 まーいーや。ベール被っちゃえば分かんないな」
「よし、ピンを挿すから頭を動かすなよ」
 あっちをひっくり返し、こっちを裏返しでどうにかこうにかドレスの中に幸村を押し込めると、やたら背の高い花嫁が出来上がった。自画像用にでも買ったらしい姿見に映して幸村は満足気だ。
「おーそれっぽい」
「化粧でも注せば一層らしくなろうな。あいにく何も持ってこなかったが……」
「スカーレットでどうにか代用を……」
「やめろ死ぬぞ」
 柳が諌めたにもかかわらず、幸村は古い靴箱いっぱいに詰められた絵の具の中からスカーレットを一本選び出し、指先が汚れないよう摘むようにしながらふたを開けた。そこまでしたら止めても無駄、あるいは止めたほうが良くない結果を生み出すので、柳は黙って見ていた。幸村は小指に僅かばかり染料を取ると、鏡を見ながら慎重な手つきでくちびるに塗り広げた。内側からぼかすようにうっすらと色を乗せているので、なかなか、自然な感じが美しいものである。絵の具箱の傍らにおいてあった、筆をぬぐうために裂いたTシャツで、幸村はぎゅ、と小指を拭う。
「舐めるなよ。
 体に良いはずがない」
 それでも柳が助言すると、幸村は何を思ったか、
「んー。死なばもろとも!」
 と言いながら、柳の口にべったりくちびるをくっつけてきた。
「んむう。精市!せっ……ん、ん、む」
 柳も最初は面食らったが、染料がごく微量であったことを思うと、なんだかもうどうでも良いか、と言う気持ちで幸村のなすがままに任せた。幸村はちゅうちゅう音をさせながら何度もキスをして、一分くらい経ってからやっと柳を開放した。口の中では舌がひっくり返りそうな珍妙な味がする。
「やっぱ蓮二、結婚しようよ。
 でさあ、毎週さ、煮物とか持ってきて。
 俺は、蓮二のために稼ぐから」
「………」
「お願い」
 黒曜石を割った断面みたいに、ぬるりと光る目が柳に向けられた。
「…俺と、お前で?」
 幸村は剥き出しの長い腕で柳の腰を強く抱いている。柳はさっき風呂に入ったばかりなのに、香ってくる幸村の濃密な体臭をかぎながらキスでずれたベールを直してやった。
「そう。だって蓮二は俺のこと愛してる。
 俺だって蓮二が好き」
「弦一郎の嫁にはならないのか」
そう。幸村はずっと真田が好きだった筈だ。
「ならない。
 もうならない。
 ねえ蓮二。違うんだ。
 俺は変わってしまったよ。お前もだ。
 良くも悪くもね。
 良く変わったほうが少しばかり多いとは思うけど」
 幸村は目を細めて笑ったようだった。
「真田を好きだった俺を、俺はもう殺したんだ。
 殺して、食って、腹に治めてしまった」
「殺して、食った」
 復唱した。
「そう、殺して食った。
 俺は、今までずっと真田の恋人にしかなりたくなかった。
 でも、この前の結婚式でさ、ああ、俺のそういう時期は終わったんだなって、思ったんだよ。
 花嫁さんはあんなにきれいだったしさ。なんか、あれ見て、もういいな、って。これでいいじゃんって。
 これまでも、両親だとか、学校だとか、テニスだとか、俺はいろいろなものを殺して生きてきた。
 次へ行くために。
 人が変わるには気持ちの中で殺して消化しなきゃならないものがあるって、病気したあたりくらいからかな、思うようになったんだ。
 それが今は真田だったってことさ。
 真田のことは今でも大好きだけど、そうじゃないんだ。
 わかるかい?」
 幸村は、いつも、彼が一番真剣なときの顔で、柳に一つ一つ言って聞かせた。
幸村は殺し、そして食って、消化して生きてきたという。切り裂くような進み方だ。彼の人生における血肉のこわさに、少し身震いがした。そして、そんな進み方を良しとし、他を知らずそのやり方だけで生き抜いてきた彼が少し気の毒でもあった。でも、それでこそ幸村なのだ、と柳はなぜかとても満足な気持ちになる。
「弦一郎を殺して、行き着く先が俺だと言うのか」
「今は」
「いつか俺も殺すのか」
「わからない。
 でも、いつかそんな日が来るかもしれない。
 もしくは蓮二が俺を殺す日が」
「それで、俺に伴侶になれと?」
「そう」
「なぜ?」
「なぜなら、蓮二が、俺にご飯を食べさせてくれて、掃除しろと叱ってくれて、生活で俺を愛してくれているから」
「ふん?」
「俺、絶対蓮二といたら幸せ。
 俺は食わねば生きていけないもの。
 蓮二は、俺に食べ物くれるの、好きでしょう?
 俺は、そういう人と寄り添うことにしたんだ」
「……」
「お願い蓮二、結婚して」
「……」
「お願い」
「……。
 ベタな返しをさせてもらうとだな、日本の法律上、男同士で婚姻関係を結ぶことは不可能だ。
 仮に可能だったとしても、俺自身は結婚と言う制度があまり好きではない」
「えー」
「えー。ではない」
「蓮二ぃ」
「…しかし、以上のことをもってしてもだ、俺はお前が三回以上「お願い」と言ったときに断れたことが一回もないんだ。
 したがって今回も断れない、と推測される」
「回りくどいよ」
「ひとまず、お前が望むなら、毎週この塵溜めみたいなアトリエに来てやってもかまいはしない」
「ふふふ」
「さてどうする。これがお前の望む結婚なら」
「来週は、カレイの煮付けたのとかがいいなあ」
「善処しよう」
幸村はすべてをだますような笑顔でうれしそうに笑う。しかし柳だけはそれにだまされたことがないので笑い返しはしなかった。彼は笑い返しこそしなかったが、幸村にしっかり腰を抱かれながら、背中のファスナーが閉まらないような花嫁くらいが自分にはちょうど良いのかもしれない、と思った。
 自分はきっと幸村の良い伴侶になろう。
 それに、こんな美しい花嫁を、もらえるならそれは幸せなことだろう。
 と、柳はすべてに目をつぶった。
 
今は一応画家ではあるけれども、なにか、彼の中で決着がつけば、いつか幸村は画家である自分からまた旅立つだろう。それは明日のことであるか、五十年後のことであるかはわからないが。何者でもない幸村は諸々を食らい尽くした挙句、いつか何者かになるんだろうか。少なくとも、彼の行き着く先に何があるのか、柳は見てみたい。あと、幸村が、いつか行き着くところにつく前に飢え死にしないように、彼が望むまま飯を与えるくらいのことはしてやりたい。
そういうことだ。
 幸村は来週のカレイの煮付けの約束を取り付けると大層満足したようで、さっさとウエディングドレスを脱ぎ捨てて、柳にしかられる前に箱へ仕舞いこんだ。
「これもらっていいの?」
「俺が持っていてもどうしようもないからな」
「わあい」
「お前が待っていてもどうしようもなかろうが。
 まあ、結婚詐欺の折には流用するが良いのではないかな」
「そうだね。
 あ、次さ、俺、仁王の真似して結婚詐欺師とかどうだろうね?」
「冗談だ。やめておけ。洒落にならん」
「ま、時間はあるから、ゆっくり考えよう……」








2006.5.1加筆修正








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