完璧な世界ルール
















 幸村が部活からいなくなったのは真田にとってはとても寂しく辛いことではあったが、その代わりになるものがすぐに彼を補ってくれたので、どうにか耐えられたのである。幸村は大変心やさしく、何よりも真田を愛していたから、彼にしても真田をおいて不在をするというのは大変心苦しかったのだろう。なので、幸村は自分のロッカーの中をきれいな庭に作り整えた。そこは十坪くらいの非常にささやかな土地で、真ん中に猫足の白いテーブルを一つと、いすが二脚置いてある。真鋳の上に白く塗装がしてあり、屋外に適したセットであるが、座り心地が大変冷たく堅いので、腰掛けるとき、二人はタオルを敷くようにしているのだった。
そして、そのテーブルの回りをぐるり取り囲むように、幸村の好む花、草、木が、配されている。それが途切れているのはロッカーに細く続く通路になっている部分くらいだ。そこは元より真田と幸村以外の人間に見せるために造ってはいないので、好き放題なものを植えられる庭だった。
やはり、いくら自分が世話を担っているからといって、自宅の庭に珍しすぎる花や、気味の悪い草、においの強すぎるものは植えられない。だから最近の幸村は、自由に出来るその狭い庭のほうにより気をかけているほどだ。とくに形の気に入っている時計草が花を咲かせたときの幸村の喜びようときたら、まるできち×いにでもなったみたいに奇声を上げて、真田は彼の身体を気遣って止めに入らなければならないくらいだった。

 実のところ、幸村の庭に幸村がやってくるのはそんなに頻繁な話ではない。何より、患っている身体であるし、一番は真田のために造った庭であるから、幸村自身にあまりお邪魔しては、と変な遠慮がはたらいたためである。真田はそれが寂しいが、時々、気に入った夕飯が出る程度の頻度で現れる幸村を待ちながら、花咲き木茂る庭でゆっくりするのはなかなか心の休まる時間であった。
 真田が幸村の庭に入るのは、朝早くか、昼休みか、部活が終わったあとである。幸村から、庭に入るとき人に見られないように、と厳しく言い渡されているので、おのずと人目につかない時間帯を選ぶようになるのだ。しかし、部活が終わった後、幸村の庭に入ると、家に帰るのが非常に遅くなってしまう。故に、朝早くにやってきて薄い夜明けの庭を楽しんだり、昼休みに一人幸村の庭で食事をとったりすることが多かった。幸村の庭に通うようになってからこちら、真田は昼休みふと人前から消えるようになったが、そこはまじめな彼のこと、一人練習でもしているのだろうとほかの生徒たちは勝手に納得していた。
 幸村の庭で幸村に会えるのは、朝早くのほうが多かった。彼は真田が庭に入ったときからいることもあるし、途中から現れることもある。最初からいる場合はロッカーを開けるとこちらに背を向けて座っている幸村の寝巻きの色がまず目に入るのですぐに分かる。そうでないときは、花を咲かせ始めたあめん桃に目を奪われていて、視線を前に戻すといきなり彼がいる、といった具合で、出没の如何は遥として知れない。
「やあ、真田。おはよう」
「おはよう。今日はどうやら新しく一つあの花が咲いたようだが……」
「あめん桃だね。あの木はかわいらしいのだけれど、ぽんぽん花が咲くし、一つの木に二色咲くもんだから移り気な感じがするよね」
「伸びるのも早いな」
「馬鹿だから。あめん桃は。でもそこが良い」

 幸村の庭は真田の身長より少し高さがある程の塀でぐるり囲われていて、外に出るにはロッカーの扉だけだ。幸村がやってくるのも消えるのもロッカーでは無いように思われるので、最初真田は不思議だったが、なにしろここは幸村の庭である。幸村にとっては思いのままだろうということは想像に難くなかった。真田にとって幸村は万能であった。
 一人で昼食を食んでいると、何とも穏やかな気持ちになる。毎日ここにきているので、どの花が咲いただとか、どの木の葉が落ちただとかは自分の体のことのようによく分かっていた。ここの庭にいる生き物は、人間では真田だけであったが、小さな虫などは普通の草むらのようにたくさんいた。つつじの花にありが行列をなす姿は微笑ましく、気をつけなければ薔薇には油虫がたかってしまう。蝶はまだ見かけたことがないが、椿の木に色鮮やかな幼虫がいるのでそのうち揚葉蝶などが見られるかもしれない。そして、何より真田が気にかけているのはほっそりとした蛇一匹であった。薄茶色の長い胴にはまだらと縞が合わさったような模様が少しだけ濃い茶と白で描かれていて、なんとも美しい蛇だ。大きさといえば真田の中指の先からひじくらいの長さであるが、胴などの一番太いところでも小指ほどの太さしかないので、華奢なものだ。
その蛇は真田が始めてこの庭に招かれたとき幸村が咽から吐き出したものだった。

「お前、身体の中でそんなものを飼っていたのか」
「俺の蛇だからね。大人しいものさ」
「蛇など飲み込んでいたら身体に悪かろう」
「そんなことはない。むしろ蛇を身体の中で飼うことはとても健康に良いのだよ」
「本当か?」
「人間は人間一人で生きているのではなくって、身体に様々な生き物を住まわせて、それに助けられて生きている。ほら、学者の藤田氏の本にも書いてあるだろう。
 この蛇だって、今までずいぶん世話になった」
「ならば逆に、そんな大切な蛇を、出してしまってよいものなのか」
「この庭は俺の身体の様なものだからねぇ。ここにいれば大丈夫」
 真田はその蛇がものを食べているのを見たことがないので、虫を食らっているのか、それとも小鳥の卵でも食べているのかは分からなかった。あまり近くに寄ってくることも無く、本当に密かな葉ずれに振り向くと、木の上にくるりと巻きついて居座っていたり、遠くの地面を這っていたり、触れることは難しそうだった。一度木にぶら下がっているそれに強引に触れたことがあったが、威嚇されてひるんだ隙に、蛇はすぐ草陰へ身を隠してしまった。その場にいた幸村はまいったね、と苦笑し、真田ももう蛇のことをかまおうとしなかった。

 この頃、以前は庭に来る回数も少なかった幸村がたいてい庭に居ることが、真田には少し不思議であった。朝早くに運がよければ会えた程度だったのが、昼休み庭に入っても幸村がそこに居る。そのことは真田にとって喜ばしいことであったし、幸村は気分が変わるのが早かったから、自分の庭に自分が居てどこが悪いと開き直ったに違いないと理解した。
 幸村は電子機器を使わない古風なゲームを好んだので、最近はよくオセロやら将棋やらを真田に持ちかけた。というか、性格からして彼はひどく飽きっぽく、何か相手のいる盤上ゲームでないと最後までやり遂げられないのだ。道具が無いぞと真田が言うと、草の間を分け入って、塀の隙間からどんなものでも出してくる。
「お前のような見目のものは、チェスなどのほうが似合う気がするが、今日は人生ゲームと来たか」
「俺の車のピンはまず左側に立てよう。外車だ。あはは」
「昼休み中使っても終わらんぞ」
「終わらなかったら明日の朝真田が来るまでこのままにしておいて、再開すればいいだろう」
 どんなゲームでも幸村は強く、真田が勝てるのは五回に一度程度だった。だがしかし、幸村とするゲームが退屈だと思ったことは無く、誘われるままにルールを知るゲームには付き合ったのだった。あまりに熱中しすぎて、授業の始まる時間を忘れそうになって冷汗したことは、ここ何日かでも一度や二度ではない。ずっと庭に居るようになった幸村の不思議を真田は聞いてみることにした。
「俺は最近、暇でしょうがなくて」と幸村は答えた。
「どういうことだ?入院生活などは大抵暇なものだろう」
「それはそうなのだけれども、ここにきて真田と話したり、ゲームをしたり以外の用事が全然無くてね。
 眠ってばっかりだから本当に本当の意味でまったく忙しくないのさ」
 幸村の言うことが今ひとつ解せなかったので、真田が首をかしげると、幸村は彼の手を引いて、いつもゲームを出してくる壁の隙間に導いた。そこは壁の積み重なっているブロックが割れ、テニスボール一つほどの空洞が開いていた。
「のぞいてごらん」
 言われるまま穴の向こうを眺めると、向こう側に眠る幸村が見えた。
「これは」
「ねえ、俺、眠っているでしょう?」
 幸村の横たわるパイプベッドもその後ろの壁も、どうやら病院のものだった。
「病室か」
 しかし、今まで見舞いに行ったことのある幸村の部屋とは少し様子が違ったのでそれを不思議に思い、真田がたずねると、幸村があそこは集中治療室のようなものだ、と教えた。
「最近の俺はあそこから外にはなかなか出ないものだから」
「そうか。俺は前からお前がどこからこの庭に入ってくるのかと不思議だったが、なるほど、ここの割れ目から来ていたのだな」
「うん。でもまあ、ここ十日かそこらは一回も目を覚ましていないからね。ずっと庭に居て、ここを通ることも無いのだけれど……」
「なるほどなあ……」
 真田はことの次第に非常に感心した様子である。

 真田は柳と連れ立って、久々に幸村の見舞いに行った。近頃は庭で頻繁に幸村に会っていたし、だいいち病院のほうに居る幸村は眠ってばかりだと聞くと、見舞う必要性をいまいち感じないので、それは本当に久しぶりの訪問であった。真田などはそんな事情があったので見舞いに行かずとも平気な顔をしていられたが、彼が庭で幸村と会っていることを知らない柳は心配で仕方ないらしく、引っ張っるようにして真田を連れてきたのだ。
最初はそんな剣幕をしなくとも、と見舞いに行かない不義理を責める柳に辟易したが、まあ、確かに傍から見れば自分は薄情に見えるかもしれないと思うと、真田は大人しく付き従った。
 幸村の眠る病室に入ると、風呂に入っていない人間の暖かくすえた匂いと、リネンの糊のにおい、そして消毒液のような、点滴のような妙なにおいがまぜこぜになって香ってくる。入院した当初に居た普通病棟ではなく、常に患者をモニターできるようになっている機械いっぱいの病室に幸村は収められていた。真田と柳はその異質さに少し眉をしかめたが、特に口に出すこともなく、幸村のベッドの横に丸椅子を二つ並べて座った。しかし、当の幸村が眠り続けているので、何も話すことがない。
「精市はもう二週間昏睡状態だそうだ」
 柳があんまり心配そうに言うで、真田は幸村なら毎日に庭に来ているから大丈夫だと言ってしまいそうになったが、口外するなと言ったときの幸村の厳しい様子を思うと「そうか」という以外になかった。
 真田は沈黙を苦と思う性質ではないので、黙りっきりの柳をどうしようとも思わなかったが、ふと顔を見たとき彼が涙を流しているのには驚いた。
「かわいそうに」
 柳はつぶやいた。しかし真田は今朝も庭で幸村に会っていて、あっけらかんとした様子が記憶に新しいので、柳には同調できなかった。柳は次から次へと涙を流し、滔々と言葉を重ねる。
「こんなになってしまっている精市を見ることはとてもつらいが、どうしても俺は今日ここへ来なければならなかったんだ。この現実を見るために。
 こいつの喉を見てみろ。送管されてしまって苦しみの声を上げることもかなわない!
 一番つらいのは精市だのに、俺ときたら、こいつの病気に動揺してしまって、ろくに支えてやることもできずにいるのだよ。
 弦一郎よ、どうしよう。
 精市が死んでしまったらどうしよう?
 精市が居なくなったら、俺は太陽を一つ失ったようになってしまうだろう……」
 柳が泣くというのは常にもないことだったので、どちらかというと真田は彼の涙に動揺してしまった。切れ長の目から、よくもまあそんなにというほどつるりつるりと涙を流している。
「落ち着くんだ蓮二。
 幸村なら大丈夫だ」
 そういって柳の背中をさするのが真田にできる精一杯であった。面会は十分だけ、と看護士から言い渡されていたので、長居することはできなかったが、柳は時間いっぱい幸村を眺めながら泣いていた。呼吸がままならなくなるほどだったので、真田は柳の幸村に対する深い友愛と悲しみを知り、胸が痛くなった。柳を支えながら病室から去るとき、彼のために庭を造ってやらなかった幸村を真田は叱ってやりたい気持ちになった。そして、最後まで気持ちを乱さず冷静でいた真田を見る柳のまなざしには少しばかりの悲しみが込められていた。
「精市もお前も、あまりに可哀相だ」
 柳は確かにそう言った。

「蓮二のために庭を作る気はないのか?」
 翌日の朝、庭に入ると真田は開口一番こう言った。真田が幸村を強く必要としているのは確かだが、柳だって幸村を大切に思っている。真田は柳があんなになるまで何もしてやらない幸村が歯痒く思えた。しかし、真田の言葉に幸村は少し困った顔をして返答した。
「確かに蓮二を悲しませたのは俺の罪かもしれないけれど、こればっかりはどうしようもないんだよ」
「どういうことだ」
「俺の庭は、望まれなければ造ることができないもの。
 蓮二は俺の庭を欲しいとは思っていない。
 だったら無理に作るのはおせっかいだ」
「あんなにも悲しんでいるのに、蓮二はお前の庭を望んでいないのか」
 それが真田には少し驚きだった。
「そう。蓮二は俺の庭を望んでいない」
「どうにか会ってやることもできないのか。俺の庭ででもいいだろう?
一時会ってやれば、蓮二の心だって落ち着くはずだ」
「無理だね」
「では、俺がここでお前に会っていて、まったく元気な様子だと教えてやるだけでも出来ないか。
 俺は蓮二があんなに泣くのを見たことがない。
どうにか慰めてやりたいのだ」
「それも無理なんだ」
「なんて強情なんだ」
「真田がここのことを人に言ったら、この庭だってなくなるよ。
 蓮二であっても言うことは許さない。絶対だ」
 真田は幸村の頑なな様子にかっとなってしまって、後先考えず怒鳴り散らした。
「薄情者め。
 もう知らん。
 蓮二に教えてやれないのなら、俺だって、しばらくここには来ないぞ」
そう言うともうどうしようもなくなって、ロッカーの扉から出て行くしかない。
最後にちらりと幸村を見ると、まったくあせった様子はなく、むしろ聞き分けのない真田に苦笑をもらしているくらいだったので、いい加減真田は腹が立ってしまって荒く扉を閉めたのだった。

 幸村の容態が悪化したという知らせが来たのは翌々日だった。いくら親しくとも、所詮真田や柳は学校の友人であったので、連絡が来たのは遅かった。本当に幸村が危険な状態になったのは柳と真田が見舞いに行ったすぐあとだったそうだ。知らせがきたからといって、親族でない彼らは病院に出向くことも出来ず、テニス部一同は沈黙を守り粛々と彼の無事を祈ることしか出来なかった。真田は自分が幸村に腹を立てたせいかと思うと居ても立ってもいられなくて、部活中に部室の鍵を中から掛け人が来られないようにし、急いで幸村の庭に入った。
 幸村はこの前のままそこにいた。特に気分を害している様子はなかった。
「幸村、お前、死ぬのか」
 と真田が聞くと、幸村はまだ新しい椿の花をもぎながら言った。
「さあ。分からない」
 幸村があんまり普通な様子なので、真田はほっとしてしまった。幸村の容態が悪くなったとしても、この庭に居る幸村は常と変わらず美しいし、花がこんなに咲いている。よく見ればどの株の花も満開であった。真田は、もし幸村が死んでしまうとしたら、そんな瞬間や知らせには立ち会いたくもないので、もうずっとこの庭に居ようかと思った。幸村はもいだ椿の花を頭に飾ろうとしたが、花の部分だけしかとらなかったので、茎のないそれは髪に差し込みようがなくうまく頭にとどめることが出来なかった。あきらめてテーブルの真ん中に置くことにする。
 真田はしばらく呆けたようにその花を眺めていたが、思い立って一つ聞くことにした。
「幸村。お前が死んだら、ずっとこの庭にいることになるのか?」
「多分そうなるねえ」
「そうか、ならば、俺も、ずっとここにいることにしようかな」
 真田がそういうと、もう二人とも何も言うことがなくなってしまって、しばらく黙りきりになった。

「それで良いのかい?」
 突然幸村が気遣わしげに聞いた。真田はうなづいたが、どうにも心に引っかかるものがあって、やはり、と思い踵を返した。
「いや……部活中に抜け出してきたのだった。
 号令をかけに戻らねば」
 真田はそのようなことをきちんとしておかないと、どうにも気持ち悪くなる性分だった。
「そう。
 がんばるといいよ」
 幸村は引き止めることもなく真田を送り出した。

 部活が終わると、多くの部員が死ぬか生きるかのところであろう幸村の様子を案じ、なんとか病院まで足を運ぼうではないかということになった。真田としては、親族や病院に迷惑がかかると思われたので最初は反対したが、赤也などが泣きながら、たとい会えなくとも良い、近くに行くだけでも、と訴えるので、それをかなえてやろうと思った。
 レギュラーメンバー一同が病院に着くと、幸村の親族がひどく憔悴し切った様子で集中治療室前の廊下にあるベンチへ腰掛けていた。それを見ても誰も声がかけられない様子だったので、真田は全員を代表して幸村の母親に質問した。
「精市君の容態は」
 彼の母親は確かに草臥れてはいたが、安堵の顔をしてもいた。
「今日のところはどうにか助かるようです。
 さっき一度意識が回復したんです。
 今は薬で眠っています
 でも、薬が切れればまた目を覚ますでしょうって」
 その言葉を聴いて初めて、一緒に来た部員の皆が大声を出して泣き出したので、真田は少しびっくりしてしまった。
 
 帰る前、ガラス越しに幸村を見ることが出来た。真田にとってその行為は珍しい動物を見学するようでおかしかった。
 皆何も言わず幸村を見つめる中、真田は一言「あ」と漏らした。なぜなら、幸村の咽から送管されている酸素を送る管の中を、庭に居るはずの蛇が通ったからである。半透明の管の中を薄茶色の蛇はするすると進んで行き、最後に差込口を通って幸村の咽に入っていった。きっとあの壁の割れ目をくぐってここまで来たに違いない、と真田は思った。しかしそんな真田の驚きを誰も気には留めなかった。

 真田は翌朝、幸村に会いに庭へ入ろうとしたが、彼のロッカーを開けると、そこは自分のものと同じ造りである普通のロッカーになっていた。念のため奥の板に手を当ててみたが、冷たい金属に触れただけで、開く様子もなかった。真田は少し焦り落胆したが、幸村が庭を閉めてしまった理由はきっと彼がこちらに戻って来ようとしているからだと思った。ならば良い、と彼は思った。
 そしてその通りに、しばらくたつと幸村はだいぶ痩せて帰ってきた。あまりに痩せたので、首の周りに皺が出来てしまっていた。そして喉の真ん中には送管した痕の傷がついている。真田はそこに目をやるたびに幸村の庭のことを思うが、まだ誰にも彼の庭の話をしたことはない。幸村自身にもだった。退院してからも、幸村は庭の話をしなかった。つまりそれはもう忘れろということなのだろうと真田は受け取ったのだ。幸村が庭を閉めてしまった後、彼が退院してくるまでの日々は真田にとって辛いものではあったが、ガラス越しに幸村を見たときの皆の様子を思い出すと、つらいのは自分ばかりではないと思えたので、どうにかこらえることが出来た。
 まだまだ病気の爪あとは残しつつも毎日の生活の中に幸村が戻ってきたのであれば、あの庭は確かに必要のないものだ。けれど、あの咲き乱れる花たちを思うと、真田は少し名残惜しく思うのだった。
 もう幸村のロッカーの中には普通に彼の荷物が詰まっていて、やはり庭の痕跡などは跡形もなく残っていない。なんだか全部、無かったことのようだ、と真田は思った。









2006.5.1加筆修正








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