ねこじい
















 店のうらっかわに行くとねこじいに会える。
 ねこじいが何でねこじいと呼ばれているのかというと、いつもビニール袋をかぶっていて、その底の角の部分が猫の耳みたいにとんがって立っているからだった。ねこじいはストリップ劇場の踊り子さんの合間に漫談をやる芸人で、裏口に回るといつも控え室に上る階段のところに腰掛けていた。別に、芸人用の控え室があるからそこにいればいいようなものなのだが、俺が何度行ってもねこじいは階段に腰掛けていた。
 会いに行くと、ねこじいは賞味期限が切れかけた菓子を、傍らに置いたへにゃへにゃの布バッグから出して俺に手渡したりしてくれた。行く度に「幾つになったか」と聞いてきて、俺が百回「十四」と答えても、また次に会ったときは年を聞いてくる。俺がねこじいに年を聞くと「最近は数えてない」というが、店の人に聞いたところによると、七十半ばだという話だ。佃煮みたいな爺さんで、特に優しい感じでもなかったが、でも俺はねこじいが好きで、よく家に帰る前に道草してストリップ劇場に行った。
 俺は幼いころから歓楽街によく行った。そこが好きというわけではなかったけれど、人が集まる街には、俺を惹きつける妙な磁場があって、確かに夜の街に対する嫌悪やうっとうしさを感じてはいても、それと同時にネオンやごみの匂い、こういうところでしか見かけないような独特の人々に、たまらない懐かしさを感じるのは確かだった。部活が終わってからストリップ劇場に行くと、たいてい九時かそこらの遅い時間で、タイミングが悪いとねこじいはステージの最中なので会えないこともあった。しかしそういうときに、踊り子さんが通りかかったりして、裏口から入れてくれることもあった。十四の俺は、背ばっかり高かったが、体の端々に生硬な青臭さが充満していて、成熟した彼女らは俺の未熟さをさげすむような気配と同時に見極めるような視線を走らせる。俺はそれに、恐怖半分、興奮半分、といった具合の隠微な寒気を感じ、未だ知らぬ果てしない官能をほのかに期待するのだった。
 ステージの端から見るねこじいは手にマンドリンを持って舟を漕ぐように体を揺らしながら珍妙な漫談をしていた。内容といえば、殆どが「俺が若かった頃は」で始まる短いオチ話で、誰に振られただとか、三角関係がどうだとか、落語に出てきたような、どこかで聞いたことがあるようなネタばかりで、オチはだれだれがホモだった、とか自分が好きだったのは女の方じゃなくって、男の方だった、とかそんなものだった。ねこじいがねこじいと呼ばれているのにはもうひとつ理由があって、それは彼がホモだからだ。「ネコ」だから「ねこじい」。俺は最初の頃は漫談の内容から来る揶揄のようなあだ名だと思っていたが、どうやら、彼がホモなのは本当らしかった。なぜならば俺も、ちんちんを握られたことがあるのだ。階段に二人で座って、もらった樟脳くさいチーズ蒸パンをもそもそと食べていると、ねこじいはとても自然な動きでズボンの上から俺の股間をわし掴んで「うん」と言ったのだった。突然一物を触られた俺は一瞬怯んで、ねこじいの意図がつかめず「え」と間の抜けた声を出すと、本気とも冗談とも付かないぼんやりした口調で、「俺と寝んか」と言ってきたので、断った。びっくりして、後でこっそり踊り子さんに聞いてみたら、ねこじいは少し仲良くなった男には必ず、挨拶のように「俺と寝んか」と言うらしかった。ねこじいと仲良くなれたのはそれなりに嬉しかったが、肝が冷えたものだった。
 ねこじいはいつも好き勝手に喋った。自分が話したいことは滔々と繰り返し繰り返し話すが、興味が無いことには相槌すら打たず、そっぽを向いているのだった。ねこじいが俺を無視すると、俺は「ボケじじい」とののしり、するとねこじいは「ケツも掘ったことないガキが何を言う」と強烈な切り返しをしてくる。ねこじいといるのは家族といるのとも、学校の人間といるのとも違う不思議な時間だ。街のさまざまな場所から聞こえてくる人ごみの喧騒や、劇場のステージから振動と共に聞こえてくる音楽を綯い交ぜに響かせる暗い階段はときたま黄泉への入り口のように感じられて、ねこじいと俺はその中間地点で、中途半端に噛み合わない会話をとぼとぼと続けているのだった。

 いつも、授業時間は遅々として進まず、机の上に放り出したシャープペンは海に沈んだ五寸釘のように沈黙していたが、一転、部活の時間はいつも独特の快楽があった。試合はもちろん好きだったが、基礎練習の、自虐的とも言えるランニングや素振りの繰り返しは、俺の心を安らかにする。波のように体は静かにリズムをつくり、その放課後の三時間がなければ、俺は救われない。因数分解も太平記も俺を救ってはくれなかったが、この、スポーツひとつあればそれで満足だった。部活仲間とはレギュラー争いや集団の中における力関係のやり取りで、窮屈さを感じるときもあったが、俺よりも上手い奴はたくさんいて、その一握りの選手たちの強さだけは爽快に君臨していた。微妙な焦りと、鬱屈した若さは常に俺の体を支配していたが、ラケット一振り、ラリーひとつの為にその衝動を我慢できる忍耐強さが中学以降には付いた。

俺は髪の毛を出来る限りに脱色している。坊主でもいいと思ったのだが、俺の黄白い顔で坊主にしたらかなり気持ち悪いと思ったので、脱色することにしたのだ。髪の毛が黒いというのが俺にはどうしても不思議で我慢ならなかった。腋毛もすね毛も生えてきた途端に全部剃るようにしたし、陰毛すらも剃刀を当てられるところは剃ったし、そうできないところは鋏で慎重に切った。髪の毛の中ごろや先の方は構わないのだが、生え際がどうも嫌いだった。だから、5ミリでも毛が伸びてくるともう気持ち悪くて、すぐに剃刀を当てる。頭髪はそう毎日脱色することもかなわないが、それでも二週間に一度は根元の少し黒く伸びた部分を脱色した。
 頭皮に接した部分を脱色するのは、ものすごく痛い。侵され、燃えるようだと思う。頭全体が熱を持ってズッキズッキと脈を打つ回数を脳味噌の中で数えながら、洗面台に置かれている時計を見て、あと二十分、あと十五分、と長い長い時間を過ごす。その痛みと、じっとりした時間は何故か俺に便意を催させ、困ったときは脱色液を洗い流している途中で頭にタオルを巻いてトイレに駆け込むこともある。髪から色が抜けてすっかりドライヤーで乾かし、プールから上がって日光に当たったときみたいな、ぼんやりと暖かい憂鬱な気持ちになったとき、腸の中もすっきりしていると、体重が五キロくらい減ったような、バレエみたいに爪先立ちでジャンプできるような、軽い感じがするのだった。
 授業中に教師が俺のことを揶揄して、お前はカブキモノだ、と言ったことがある。国語の時間だったと思う。俺はどの授業もそうだったけど、その日もぼんやりしていて、うとうとしながらノートもまともに取らずに座っていた。そのときに、いきなり先生が、仁王みたいな髪の毛の奴はカブキモノと言うんだ、と言って、クラス中が一斉に俺を見た。俺ははっとして、心臓が一回ドクンと波打った。でも、ここで恥ずかしがったり、ひるんでしまったら、俺のクラスの中でのキャラクターが変わってしまうと思い、それがちょっと怖かったので、すぐさま「誰じゃそれ?」と教師に丁寧語も使わずに聞き返した。クラス中が小さな波みたいに、ど、と笑う。俺は自分が見事に危機を乗り切ったことに安堵して、体が緩むのがわかった。俺は、周りからちょっと変わっているけれど、機知のある男というふうに思われることを望んでいて、実際その役割を器用に定着させているはずだ。あとで隣の女の子に聞いたところによると、歌舞伎者というのは江戸時代(?)にいた、奇妙な格好をして、突飛な行動をしたがる若者のことだそうだ。いわゆる今で言う暴走族や不良の類じゃないかと思ったが、カブキモノという響きはなんだか強そうで、颯爽としているし、ジャパニーズカルチャーって感じで悪くないかもなあと思った。ただ、俺は、教師が俺の事を歌舞伎者と呼んだと言うことを、少し自慢げに外のクラスの奴に話すなんてことは、死んでもしたくないと思った。
 俺が廊下で教師に呼び止められて、注意されなかった日は無い。当たり前だ。
 立海大付属は、神奈川で一番偏差値が高い私立中学だった。だから、逆に校則がゆるい部分があったが、それにしたって俺の頭の色は異常に違いなかった。服も、きっちりと着込むよりは布みたいにまとっているのが気持ち良いと思ったから、シャツのボタンは二つくらいしか留めていなかった。教師に服を引っ張られたり、髪の毛をつかまれたりすることは良くあったし、朝礼や終業式のときは、事前に職員室に呼ばれてスプレーで無理やり髪の毛を黒く染められたりした。
 二年生のころ、熱心に俺を叱ってくる若い男の教師がいて、そのしつこさたるや、もはや怨みつらみの域に達しているほどだった。あんまり彼がしつこいので、周りの教師は、もう俺を注意しなくなったくらいだ。俺はその教師のことを特に忌んではいなかった。むしろ、その、俺に向いてくる異様なほどのサディスティックな執着は、個人的な関心と言って良いほどに密接な距離感があり、時折、彼は、ほかのどの生徒よりも俺のことを特別に思っているんじゃないか、と思うことすらあった。俺はその教師に叱られている間、隠微な喜びが沸き起こってくるのを感じ、髪の毛を引っ張られると、頭皮に感じる快感で寒気が走った。妄想は妄想を呼び、教師の方はさらに俺に対してしつこくなった。しかし、彼は俺が三年に進級すると、何故か学校を辞めてしまっていて、多分それは俺にも原因があったかもしれないが、少し裏切られた気がして悲しかった。俺は、別に彼とキスしてしまっても、かまわない、くらいのことは思っていた。
 俺は、確かに不良じみていた。だがさらに、人が思う以上に、もっと自分は根底から悪い子だと思っていた。俺の心の中には、小さな沼みたいなものがあって、俺が要らないと思ったものや、聞きたくないと思ったことは、いつもゆっくりとその中に飲まれていった。沼の奥にはきっと希釈された母の記憶や、小さく腐ったあの若い教師への気持ちが埋もれているに違いなかったが、表面には泥ばかりで、揺らぐ心の地盤に安定して定着するものなんて何一つなかった。俺は、どろどろになった沼を抱える、餓鬼だった。
 
 ダブルスを組んだ。同じ部活の男と。なんとかかんとか「でしょう」とか言う男で、俺のことを名字でくん付けとかしてきて、なんだか変だった。毎日母親が作る弁当を持ってきていた。俺とは決定的に育った環境や感覚が違っていて、細かいしぐさがいちいち神経質で、俺はそれを見ていると、いらいらするより先に彼の繊細さがものめずらしく、恥ずかしい気持ちが沸き起こった。この年の男子の癖に、綺麗に畳んだハンカチを持っていたり、小さなケースの中に箸を入れていたりすることを隠しもしない、信じがたいある種の無神経さはものすごい居心地の悪さを生み出し、きっとこの男は家でスリッパを履くに違いない、と思った。全く悪ぶらない彼を見て、不良であろうと振舞う自分が馬鹿らしく思えたというのも、居心地の悪さを生み出す一つの原因かもしれなかった。
 どうやら彼は彼なりに俺のことを慕ってくれているようで、部室の屋根の上から飛び降りて、それでは別に怪我をしなかったのだけれど、その後真田に思い切りぶん殴られたとき、ぱりっと折りたたまれたハンカチを貸してくれた。俺は、そのハンカチの糊の匂いに計り知れない異物感を感じながらも、転んだときにすりむいた肘をぬぐった。勧められたハンカチは一回断ってから受け取るほうが彼に対しては正しい反応な気もしたが、そんなことをしても彼と俺との間では意味がないと思った。俺が洗って返す、と言うと彼はかまわない、と予想通りの言葉を返し、俺からハンカチを静かに奪い取り、そのままポケットに仕舞った。その丁寧さはやはり気持ちが悪かった。
 だけど、そのあと柳生は、俺の血が付いたハンカチをそのまま、血が付いている面を内側に折りたたんだ形そのまま、コンビニのゴミ箱に捨てていた。ああ、なんて酷い、と思った。彼はとても理性的で論理的で誠実で、それが残酷に転化するなんてことをあまり考えていないようだった。そして、その彼の残酷さを見て、俺は、何かに勝利したような、許されたような、愉快な気持ちになった。見事なまでに彼を貶めた気分になった。彼の無神経さをあざ笑い、自分の屈折した精神の方がある意味勝っていると思った。そこで俺は柳生の中の泥の沼をまるで鏡を写すように見る。彼の中にも悪鬼が確かにいるはずだ。俺は柳生がいかに最低な男であるかが見たかった。深く付き合うにつれて露呈してゆくに違いない、柳生の匙加減の狂いを、自虐的な気持ちで眺めたいと思った。あの、ありえない誠実さと混ざり合った彼の泥沼は、明らかに俺の沼よりも複雑であり、混沌としてさまざまなものが沈んでいる。
 彼のあごはとんがっていて、俺はそのあごが、自分と似ていると思った。三年になれば、部活の後にシャワールームを使うことが出来た。そのとき、タオル一枚でうろうろしていたら、ブン太が俺と柳生がなんか似ている、と言い出した。俺は最初そんなことはありえないとなんとなく思ったが、面白がった幸村に俺と眼鏡をかけていない柳生は前髪を持ち上げられ、ためつすがめつした後、柳までが「似ている」と一言呟いた。確かに似ていないこともなかった。俺がそう思うのだから、回りからすれば結構近い顔立ち体つきをしているんだろうと言うことは予想できた。ただ、明らかに柳生の肌色は俺みたいに不快な黄色ではなかったし、剃毛は施されておれず、腋毛も脛毛も普通に生えていた。俺は、自分の生え際は気持ち悪いと思うけれど、人のものはあまりそう思わない。でも、柳生が自分に似ていると思うと、なぜだか異物感がせりあがってきて、かみそり片手に、まつげまで剃ってやりたい気持ちになった。
 柳生は、腋毛もない俺の体を不審気に見た。腰はタオルを巻いていたので、下の毛がないことは知られていなかったが、俺くらいの身長でどこもかしこもつるつるなんてことは、ほぼありえない。視線を走らせる柳生に、俺は「やぜらしか」と一言言って、脱衣所にひっこんでしまった。いたたまれない気持ちになったからだ。柳生と二人、裸で向かい合っていると思うと、妙な罪悪感と、隠微な喜びを感じた。それは危険だ、と思った。鼻の奥に、昔暮らしたあの部屋の、古い畳の匂いがよぎった気がした。
 思えば、俺はいつもその匂いをどこかに感じ、探している。ふとしたとき。電車でどこかの母親と少年が会話しているとき、狭い窓から西の空を見たとき。気付いたことにも気付かないくらいに小さくふと、よみがえるのだ。その感覚を捕まえることは不可能だ。
 脱衣所には誰もいなかった。俺は自分の衣類がしまってある籠の中から新しいタオルを一つ取り出し、頭を拭いた。足音がして扉が開いたので振り向くと、柳生がいた。そのまま俺の隣においてある籠の前に立つと、自分のものには手を付けず、俺の腰に巻いてあったタオルをぺろりとめくった。特に表情を変えないで。一瞬目をよぎった、気になる何かを確認するように、とくに激しい感情もなく、俺のタオルをめくって、そのまま元に戻した。俺の陰毛が全部剃ってあるのに驚きもせず、一度見直したらもう、関心がなくなった、と言うふうにしていた。俺は仰天したが無言で、なぜかとんでもなく桁違いに淫靡なことをされたと思った。素手でペニスを掴まれるくらい、乱暴で、ぞんざいな何かが俺の心を掴んだ。柳生は俺に性的な関心を強く持っている、と直感した。やるせなく、気持ち悪い、何かを侵しているような気持ちになる。胸の奥から不安と共に沸いてくる隠微な卑猥さを感じた。
 直感的に、セックスはこうやってやってくるのではないか、と思った。柳生の突飛な行動を怒ることも、からかうことも出来なくなって、無言で突っ立っていたら、柳生はそのままくるりと後ろを向いて着替えだした。真意を知るといろんなことが動き出す、と思った。

 ねこじいは若いとき結核にかかっていて、戦争に行かなかったそうだ。清瀬にあった結核病院で戦争をまたぎ十四年も療養していたと言う。
「昔は栄養状態が良くなかった。十四かそこらでお前みたいに大きくて男らしい子はいなかった。身長と言ったら今の小学生くらいだ。おれぁ清瀬の病院に入ったのは十九のときだったが、だいたい今のあんたぐらいだな。もっとやせてた。酷いもんだよ。ペニシリンなんて、聞かないくらい昔だった。死ぬのと生きるのと、半々ぐらいだった。おれぁ何故か死ぬ気はしなかったが、いつ出られるかもわからない。調子がよければ出歩けるが、それだって、隔離されってるわけだからなあ。庭だけだな。
 殆どは壁のしみ眺めながら、ぼんやりしてたよ。情けねえと思ってられたのは最初の三、四年だ。あとは、何も考えねぇようにしてた。徴兵なんかも、来るわけねえしな。軍隊行ってどうとかってのは、ほんと、人事みたいだったよ。食うには困ったし、怪我人収容のために、結核の患者を一つの棟に押し込めてた時期もあって、それは、つらかった」
 そして、そのあとにはいつも、防空壕に逃げる途中に機関銃を載せた飛行機が上を通って、必死で道端の芋畑の葉っぱの中に身を隠した話をした。途中で雨が降ってきて、でも、敵機は去らず、密かに息を殺す。雨はどんどん体をぬらして、髪の毛にしみこんだ雨水がとても冷たくていやだった。頭が冷たくて、冷たくて、痛くなって、もう、撃たれてもいいから、立ち上がって走り去りたいと思った……。
 ねこじいが初めて好きになった大学生は、ルソンで死んだらしい。「残っているのは、女とか、子供とか、後は病人ばっかりだ。結核にかかる前に、近所のおっきな家にな、帝大生でいい男がいてな。そんときゃ俺も、自分がおかしいってことを知っていたから、あれが一等最初に、きちんと好きになった男だな。入院してから、兵隊さんになってルソンに行ったって聞いたけど、二度と見なかったってことは、死んだってことなんだろうなァ……」
 俺はねこじいが戦争の話をするときは、何も返事が出来なくて、黙ってうなずくだけだ。何か慰めるようなことをいって、何も知らない俺にねこじいが腹を立てるのは嫌だったし、かといって、無邪気に感想を言えるようなかわいい子供でもなかった。ただ、ねこじいは壁よりはましだと言う理由で俺に話しかけていたのかもしれないし、真意はわからない。俺は積み重なる話に埋もれ、まるで自分が清瀬の結核病院にいるような気分になってきて、ルソンに行ったと言う学生さんの姿を白黒で想像してみたりした。ねこじいは、何度も読んだ小説の筋を話すようにこの話をした。多分、何度も、何度も思い出して、たくさん確認しているうちに、ねこじいの戦争はゆっくりと風化していって、最後に残った骨の部分だけを俺は見ているのだろう。きっと昔はふつふつと沸いていたねこじいの若い頃の記憶が内包していた内臓や筋肉は、ねこじいの中の泥沼に呑まれていって、外のものと一緒になっていったのだろう。
 ある日、ねこじいのところに、柳生が来た。裏路地で白く光る蛍光灯を眼鏡に反射させて、シャツの折皺に陰影を作りながら、俺とねこじいが座る階段の前に、まるで来慣れた所のようにあらわれた。おそらく、柳か幸村か、あるいはその二人両方に俺の素行に気を配るよう言い渡されたのだろう。そうでもなければ、柳生はいちいち俺の後を付いて、ストリップ劇場までやってくる必要性を感じないだろうから。そういう意味で、彼はちょっと薄情といえた。
「あ、こいつ、おいん学校の友達」まず俺はねこじいに紹介した。ねこじいはじっと柳生を見た。柳生は、たじろぐでもなく、逆に、自分を凝視するねこじいに興味が引かれたように立っていた。ねこじいは右手でごしごしと顔を擦って「ガキの来るところじゃねえ」と一言言った。頭のビニール袋ががさがさ言っていた。「仁王君と一緒になら、帰ります」柳生は言った。俺は、それ以上柳生とねこじいに会話をさせるのが嫌になり、なんだかとても不毛だと思ったので、ねこじいに帰るとことわって、さようならを言い、半ば柳生を押し出すように裏路地を出た。
「わい、相当気持ち悪いど」
 俺はこんなところまで柳生にやってこられたことが腹立たしかった。大切にとっておいて、学校の人間には侵されたくなかった秘密基地を知られたと言うのは、自分が特別だったのが急にそうじゃなくなったみたいで、不愉快だった。
「部活であれだけ疲れていながら、よく寄り道できますね」
 柳生は柳生で、いつもの鉄面皮で押してくる。むかつく。
「話聞かんか。うっつらかすど」
「幸村君が遠まわしに、注意するように言いました。
 ストーカー的興味で仁王君の行動に注意を払ったわけではありません。
 そんなことは無意味ですから」
「ふーん。幸村……」
 幸村。幸村か。別にかまわないのだが、なぜ皆、幸村の言うことを聞くんだろう、と時々不思議になる。そういう意味で、幸村は特殊だった。それが気の毒だと思うときすらあった。
「部長からは何か懲罰があるってゆっとっと?」
 幸村は苦手だ。結構底意地が悪い。知っていることを知らない振りをして、こちらがその茶番に付き合おうとした途端に、いきなり自分がどれだけのことを把握しているのか手の内を見せたりする。そんなふうに、気持ちの上で、人を振り回す癖がある。多分、そんな幸村の隠微な加虐性も、彼の、人を靡かせる不思議な特性が作り出した、小さな屈折だと思う。そして、俺がそう思っていることを、幸村も良く知っている。
「いいえ。初回においては特に。
 彼も、ああ見えて、部活さえ上手くいくならば、外のことには大分寛大ですからね。
 クール」
「真田のほうのケツの穴が小さすぎるんじゃ」
 まだ真田の方が相対していて気分がましだ。かといって、あそこまで幸村に入れ込んでいるさまも正気の沙汰ではなかったけれど。
「ケツ……」
「そう、ケツ」
 柳生は俺が話さないと、会話を続ける気がないらしい。いつもそうだった。そういう部分で、自分を取り繕ったり、俺に対して主張したりするような手段をとらない男だった。それはそれでいいけれど、そうなると逆に、自分が会話を振ることがいかにも彼を懐柔して行くための白々しい儀式のような気もして嫌になる。柳生の真意は、見えないけれど。
 柳生はいちいち顔を横に向けてじっと俺を見た。
「……仁王くんは、人と、すぐに、話ができるようになりますね」
 とくに嫌味でもなんでもなく、話すことがないから、暇つぶしにひとまずひりだした文章みたいだった。柳生は機嫌を取るような話を投げかけないのに、不意に俺をほめるようなことを言い出したりもする男だった。そこが、柳生という人の不思議さだった。あまり人に関心がないのだろうか、と思う。
「ねこじいのこと?」
「私は、難しい」
「何ば聞きたいっと?」
 方言のせいで柳生は聞き取れなかったらしい。瞬時、助けを求めるような口元になって、でも何も言わず疑問を表した。俺はきちんと関東語で言いなおした。
「何が聞きたい?」
「——いいえ。何も」
 こういうときに彼が「何も」以外のことを答えることは稀だ。本当に心をよぎっていたことはさらりと後ろに流して、柳生は話を少しだけ変えた。
「あの方、あそこで何してるんでしょうね」
 「あの方」なんて言い回し、身近では殆ど聴いたことがない。
「あー。ねこじいな。ストリップ劇場で前座やっとる」
「何でビニール袋かぶってるんでしょう」
「知らん。ねこじいじゃけん」
「はあ。
 家族とか、いるんですか?」
 柳生はあんな場所で仕事をしている一人の爺さんをそれなりに心配に思ったみたいだった。
「んー。詳しくは知らんけん、なんとも言えんが。
 おらんじゃろうなあ。多分。
 ねこじい、ホモじゃき、嫁さんもおらんっと違うか」
 ねこじいは男が好きだ、と言うと、柳生は下を向いた。ワイシャツのすそを直した。
「へえ……。
 仁王君、ゲイとか、同性愛とか、結構、気にしない、質ですか?」
 来た、と思った。俺が知らない振りをして、でも周到に導いてきた一つの結果が。推測したことにこなをかけて探るなどと言うのは卑屈で到底気分が悪く、俺らしくもない気がしたが、別に柳生のこととなると、そんな逡巡はどうでもよいとも思えた。第一、柳生と俺じゃ履いてる靴が違う。
「別に……。その人の勝手じゃないんね?」
 柳生は小さくため息をついた。
「そうですか。
 じゃあ、私がそうだといっても?」
「は?」
 俺は周到に、聞き返した。
「私が、あなたを好きだといっても、気になりませんか?
 気持ち悪くはないですか?」
「……」
 気持ち悪いですか、とまず聞いてくる神経が信じられず、何も答えを言えなかった。
「それだけ、言おうと思っていたのです。
 だからどうと言う話ではありません。
 今日はいい機会でした。
 忘れてくださって結構です。
 でも、答えてくださるなら尚結構です」
「——はあ」
 俺のことなんか、好きになってしまって。かわいそうに。
 答えてくださるなら尚結構、だって。ばかみたい。

 今日は来るかな、と思ったら、相変わらず柳生は弁当を持って音楽室に現れた。無言で包みを解き、無言で箸を運んでいた。俺はいつも一時間目の休み時間と、部活前の放課後に適当に買い食いするので昼は食べなかった。こんな風にまとまった時間自由にできると言うのに、物を食って、いくばかのロスをするのが惜しかった。だから、食わない。
 俺は覚えたばかりのスカボローフェアを歌っていた。柳生は無言で飯を食い、上手いとも下手だとも言わなかった。遠目で見ると、彼が箸で崩して食べている小さな丸いおにぎりには均一にゴマがまぶしてあって、細い海苔がくるりと一巻きしていた。それを見たら、俺は昨日彼が言ったのことがなんだか馬鹿らしくなってしまって、「柳生、昨日の正気?」と聞いた。「さあ」と柳生は答えた。
「俺を好いとうって、どういう意味」
「そのままの意味ですよ」
「ホモなん?」
「男を好きになる人をそう呼ぶなら」
「へえ……」
 彼の基本的性向は知ったところではないが、柳生が、俺のことを好きなのではないかな、と思うことはよくあった。不思議だった。なぜ、俺なのだろう。なぜ、もっとわかりやすく、簡単に思えるような他の誰かではないのだろう。俺は彼に特別思われることから来る優越感だとか、喜びだとか、選ばれた、みたいな気持ちはなかった。ただ、単純に、俺を好きだと言う柳生の妙に入り組んだ思考が不可解なのと同時に、不愉快なのだった。俺はとくに継ぐ言葉もなく、沈黙した。
「誰にも、言わないでください」
 柳生はいきなり言った。
「何を」
「私が、あなたを、好きなことを」
 一瞬何のことを言っているのか理解できなかった。
「あなたは、そんなこと、しないとは思いますけど、物笑いの種にされるのはつらい。
 私自身、どうしたら良いかわからないんです」
 こう言う柳生を見て、俺はやっと、彼は本気なのだ、と思った。なんて地道な人。あんまり彼がきちんと悩んでいるので、いっそ楽しくなってきた。
「わい、俺とセックスしたいん?」
「……いえ」
「本当に?」
「——考えたことがない、と言えば嘘になります」
 いかにも柳生らしい言いまわしだと思った。
「そう」
「ごめんなさい」
 柳生がいきなり泣き出した。
「ええよ」
「ごめんなさい。
 つらい。
 何でこんなことになったんだろう」
 何でだろう?何を言っているのだろう?彼を浚ったこの波はどういうものなのだろう?俺は人事のように目の前で泣く彼の涙に呆然とした。俺は一生、人にこういうふうに思われるなんて思いもしなかった。なんとなく。俺には関係ないことだと思ったのだ。今となってはその理由がわからないけれど、何故かそう思っていたのだ。悲観的なものではなく、当然のことのように。
「柳生」
「——ああ」
「柳生。
 柳生。
 キスばせんか」
「え?」
「キスしょう」
 だって、俺を好きになって泣くなんて、ちょっと面白くて、嬉しくなってしまったのだ。
 窓枠から降りて、柳生に近づいていって、椅子に座っている彼の肩に手をかけた。柳生はどこを見ているのかわからない、遠い目になって、何も言わなかった。俺は彼の口の端に口をくっつけた。すると、まるで頭を打った人みたいに一回、盛大に痙攣して、ひざに載っていた食いかけの弁当が落っこちた。俺は「あーあ」と言い、柳生はかがんで弁当箱を拾おうとしたが、床に手を伸ばし、しかしもっとすることがあると思いついたようで、また体を起こした。
「あなたは……」
「ん?」
「あなたは……」
 柳生は両手で顔を覆って、それは一瞬、後悔して泣いているふうに見えた。

「ねえねこじい」
 ねこじいは相変わらず白いビニール袋をかぶって階段に座っている。頭、蒸れないのかなあ、と思う。
「何だ」
 ビルの隙間から夜の冷気と通り一つ向こうの喧騒が降ってきた。ゲームセンターから聞こえる電子音がこだまして、人の声が地面を這っている。俺は聞いた。
「ホモって、どがんしてセックスばやるっと?」
 ねこじいは、無感動に「手でしたり、口でしたり、尻の穴に、ちんこ突っ込むのさ」と言った。
「へえ……」
 なかなか、生々しいと思った。そういわれると、ちっとも気持ちよさそうに思えない。
「目覚めたか」
「いや……。
 だけんが、目覚めさせられそうじゃ」
 ねこじいは横目でこっちをチラッと持て、何かを言おうとして、でも止めて、しばらく黙っていたが、その後に「何でも、一回はやっときゃいい」とぽつりと言って、それでさよならを言うまで、俺とねこじいの会話は、なかった。そういえば、俺とねこじいはいつも人一人分以上の間隔を空けて、同じ階段の段に座っているから、殆ど目を合わせたことがないなあと思った。真っ暗な二階に背中を向けて、いろいろな色の明かりが遠くから反射するアスファルトを眺めながら、今まで二人でどんな会話をしただろう、と思った。しかし、思い出せるのは、合計して精々三十分にも満たないくらいの分量で、別に俺がここにいることはそんなに意味あることじゃないと思ってはいるけれど、心を空虚が襲った。
 ここから見える景色と言ったら、つぎはぎだらけで腐ったみたいなアスファルトと、劣化したビルの壁や、さびた留め具くらいだ。その中で、ねこじいの、地を這うような低くて小さい声と、青臭い生意気な俺の声が途切れ途切れ。それを思うと、空しくなった。
「お前は、悪い餓鬼だよ。
 こんなところに毎日来るってだけで、お前の心根が良く知れる。
 そんなふうじゃ、いつか転ぶぞ」
「うん」

部室でまた柳生とキスをした。今度は、舌を入れてみた。すると、柳生の喉が引き攣るみたいに、く、と鳴って、その後、二の腕をものすごい力で握り締められた。俺は笑いそうになったけど我慢した。朝練のあと皆が部室を出て行って、俺と柳生だけになると、柳生は明らかに俺のことを意識していて、だからキスした。柳生も俺の口の中に舌を入れて、暖かかった。目を開けて柳生の顔を見ると、眉をしかめて、とても悲しそうな顔をしていたので、ああ、きっと気持ちよいのだ、と思った。気持ちよいのを我慢するとき、それは何故かとても悲しい顔になる。俺も、人の舌が口の中で動く、気持ち悪いような、気持ちよいような不思議な感じに、寒気がした。一分くらいそうしていると、柳生のほうがもう耐えられない、といった感じで、体を引き離した。「授業?」と俺は聞いた。「そうです」
 二人とも、嬉しいような、釈然としないような気分だった。柳生の妙に柔らかい口の感触がしばらく残っていて、授業中もキスしているような気分だった。
 昼休みに、柳生は心持気後れしながら旧校舎の音楽室にやってきた。俺はなんだかとても苦しくなった。
「柳生。
 柳生」
 柳生は弁当の包みを解かず、いつも座る教卓用の椅子に無言で腰掛けていた。彼のズボンから覗くくるぶしは白いソックスに包まれてもり上がっている。俺はそれを見て、自分がはだしだということを思い出す。
「何でしょう」
「しようか」
 もう夏だった。窓から吹く風はほのかに熱く、空は暗い教室を吸い込むようだった。音楽室中が気だるくて、ゆったりしていて、二人とも喋らないと、静かさで耳が鳴る。
「何を」
「えっち。
 セックス」
 柳生が、俺を好きだと、なんとなく気付き始めたときから考えていたことだ。とってもしてみたかった。俺はいつだって、誰かの特別にはなれないとなんとなく思いながらも、誰かに触って欲しかった。柳生は、居心地悪そうに身じろぎ、現実感が抜け落ちたような目をして、「どうやって」といった。
「触るんじゃ……。
 大事なトコを」
 柳生は、この前ここでキスしたことを思い出したのか、嫌そうな顔になった。まるであれが彼の今までの中の決定的な汚点だ、とでもいうふうに。
「……仁王君。
 止めましょう。
 あなたは今おかしい」
 彼の声は抑制しすぎて少し振動している。
「そげんこつなか。
 なあ、しよう。
 お願いじゃ。
 なあ
 なあ」
「頼みますから!」
 俺は今までにないほどしつこく食い下がった。柳生は深くため息をついた。自分が拒否する理由がわからなくなったみたいだった。俺はそれで満足だった。

 柳生は俺のペニスとすっかり剃られている陰毛を見て、「奇妙だ」と一言言った。
 柳生の、だらりと垂れたペニスを握ると、柔らかくて、妙に暖かくて、その感触に集中しすぎてぼんやりしてしまった。自分が自慰をするときのように、擦っていると、だんだんと起き上がって、硬くなった。柳生が握っている、俺のペニスもそうだった。最後にびゅ、と出てきた白くてぬるぬるした精液が生き物の内臓みたいに温かくて、ぞっとした。一通りが済むと、ものすごい脱力感があった。射精と共に、俺の体の中にあった一本の芯が、出て行ってしまった。体中がぐんにゃりして、ぼうっとした。だるかった。裏切られた、と何故か思った。
 柳生は「こんなこと、するんじゃなかった」と言った。
 柳生が出してきたティッシュが、駅前とかで配られてるやつじゃなくて、薬屋とかに売ってる、市販のポケットティッシュだっていうのにも、なんだかうんざりした。
 俺は、人と抱き合うってことが、あんまりいいものじゃなかったので、悲しくなった。
 セックスをしたら、いろいろなことがわかって、いろいろなことが始まるのではないかと思っていた。そんなことは嘘だと知っていても、なんとなく期待していた。クリスマスが、もう、絶対的に喜びに満ちた楽しい日でなくなってしまったのと同じように、人と向き合うっていうのは、小さくて、切ないことだと思った。
 しばらく二人とも無言で抱き合い、横になっていた。床から、古く湿った木の匂いがした。柳生と俺の体からは、果物みたいな汗のにおいがした。肩の骨がゴリゴリいっていたが、動く気がしなかった。はだけた服を直しもしないで、全快の窓から吹き込んでくる風にゆっくり体を晒していると、髪を脱色し終えたときにも感じる、倦怠感が襲ってくる。散々泳いで、はしゃぎまわった後に正気に戻ったみたいな。体中の細胞はまだざわついているのに、皮膚は静かに沈黙していて、骨も筋肉も、しばらくは動くことを嫌がるような。
 だけど、予鈴が鳴ると、気持ちがそわそわして、急いで二人で身づくろいをして、教室を出た。思えば、たった、十五分かそこらの話だった。柳生は途中で俺と別れてトイレに行った。体を拭いたティッシュをハンカチに包んで手に持っていたので、多分それを流すためだろう。確かにあれを学校のゴミ箱に捨てるのは気がひけた。
 相変わらず、とても苦しかった。射精した気だるさで下半身がぼんやりと重かったけれど、刺すように苦しい気持ちは次から次へと沸き起こった。死にそうだ。俺から抜けていった芯はどこへ行ったんだ。柳生が持って行ってトイレに流してしまったのか。本当に、みんな、大嫌いだ、と思った。泣きたくなった。

 ねこじいがいなくなった。五日間通って、一回も会えなかったので、ちょっとおかしいと思い、店のおねえさんに聞いたら、風邪だといって休んでいるらしい。「だいじょぶかなあ、あの人」とおねえさんは言った。俺は「住所を教えてください」と言った。
「え」
「ねこじいをお見舞いに行きます」
 おねえさんは手垢の着いた名簿を持ってきて、すぐにねこじいの住所を教えてくれた。「死んでいないか、見てきてあげて」と言った。
 ねこじいは意外と新しいアパートの一階に住んでいた。ベルを押しても何の反応もなくて、何回繰り返しても一向に中の動きがない。もしかして死んでるのか、それか、入院でもして不在なのかと思い、庭の方に回ってベランダの柵を乗り越えると、ガラス窓が半分くらい開いていて、網戸が引いてあった。
ねこじいは、布団に寝ていた。今日はビニール袋をかぶっていなかった。死んでるか生きてるかはわからなかった。俺は「ねこじい」と呼びかけた。それでも反応がないので、こわくなって、バンバンと窓ガラスのほうを叩いて激しく音を出すと、やっとねこじいが目を開いて、こっちをみた。「ねこじい。入るど」と言うと、ねこじいはゆっくりゆっくり布団をはいで上半身を起こした。入ってよいともいけないとも言われる前に俺は勝手に網戸を開けて、靴をベランダに脱ぎ捨て部屋に上がった。扇風機が壁の方向を向いてブーンと鳴っていた。
「くたばっちょるかと思うた」と俺が言うと、「まだだ」とねこじいは無表情に言った。部屋の中の匂いが、なんだか老人っぽいと思った。それに、風邪のときの重たい雰囲気が混ざっていた。
「あんばいはどうじゃ?」
「風邪だ」
 もっと外の理由もありそうだったが、ねこじいは反論を許さない強さで風邪だと言った。ねこじいがそう言うなら、そうなのだろう。
「医者ばきよっと?」
「はァ?」
 ねこじいは聞こえなかったのか、意味が分からなかったのか、とにかく聞き返してきたので「お医者さんには、行きましたかっ?」と言いなおした。
「行ってねえ」
「そがん不養生ばしとったら、そのうち本気で死ぬど」
 本当に、ねこじいはいつ死んでもおかしくないと思った。俺は、こんな爺さんを見ると、棺に入っている姿が簡単に想像できてしまって、嫌だった。老人や小さな子供の病気は恐ろしい。
だって、本当に、すぐ死んでしまう気がするから。
「あんな最低なところ行くくらいなら、死ぬね」
 とねこじいは嘯いた。あんな最低なところ、というのが十四年暮らしての感想なら、どうしようもないけれど。でも、ねこじいはすぐ死んでもいいって思っているようには見えなかった。
「うそつき」
「……」
 見回すと、以前は片付いていた様子の上に洋服や、ビニール袋が散らかっていた。よくよく見ると、ねこじいは一回り小さいように見えた。病気をしたら、誰がモノを食わせるんだ、ということに思い至った。俺は勝手に部屋を横切って、冷蔵庫を開けた。キムチや佃煮が入っていた。でも野菜はしんなりしなびていて、ねこじいがしばらくきちんと物を食っていないことをうかがわせた。
「なんか、食うとっと?」
 狭い台所を見ると、小さな手持ち鍋があって、その中にはおじやが入っていた。
「これ、いつ作りよった?」と聞くと「昨日か……」とあいまいな答えが返ってきた。一人で寝込んでうつらうつらしていたのでは、時間の感覚がぼんやりしてくるのは否めない。このまま行くとねこじいがぼけてしまいそうだ、と思った。
「覚えとらんのか」
 と聞き返すと、俺がねこじいをぼけたんだと思ったことを悟ったらしく、少しむきになった口調で「昨日だ」と言い直した。
 俺はねこじいから三千円もらって、近所のスーパーマーケットとドラッグストアに行き、買い物をした。料理なんて殆どできないけれど、コンビニのものよりは家で火を通したものを食わせた方がいい気がした。帰ってくると、ねこじいは眠りもせず天井をじっと見ていた。少しこわかった。
 俺は、ねこじいに、今まで誰かと暮らしたことがあるかどうか聞けなかった。親兄弟以外の誰とも暮らしたことがない老人、というのが想像できなかった。だけど確かに、結婚もしなくて子供も、孫も居ないんだったら、そうなることは当たり前だ。ねこじいは、見舞いに来た俺に、ありがとう、とは言わなかった。もそもそと俺が作った卵かゆを咀嚼して、俺が買ってきてやった薬を二錠飲んだ。生きることに、酷く雑な人だと思った。こういう生き方があるのかと思うと、恐ろしいのと同時に、少し安心な気持ちにもなった。それは、良くない考えかもしれないけれど。
「なあ、ねこじい、ねこじいはボケよったらどがんする気じゃ?」
 ちょっと勇気を出して聞いた。
「さあ。
 アパートで野垂れ死ぬだけだろうなァ」
「さみしい?」
 ねこじいが目をぎゅっと閉じながら言ったので、寂しいんだなあ、と思う。
「毎日、寂しくて、死にそうだよ……。
 なあ。手を握ってくれないか」
 ねこじいが俺を手招きした。
「え」
「お前みてえなケツの青いのに、何する気もねぇよ」
「うん」
 俺はあぐらをかいたままねこじいににじり寄り、布団の上に放り出してあって手をとった。乾いた土地の動物みたいな乾いて暖かい皮膚で、骨ばっていた。ねこじいは言った。
「おれぁ、戦争が終って、病院を出たとき、まず子供が欲しいと思った。
 女を抱くのが恐ろしくて、とうとう無理な夢だったが。
 どっかから、子供が降ってこねえかと思ったよ。
 なんだろうなあ。やっぱり寂しかったんだろうなあ。
 男と一緒に暮らしても、長く続かないしなあ。
 子供なり結婚なり、縛るもんがねえと、人は長く暮らせないのかもな。
 おれぁとうとう一人だ。
 やっぱり、一人というのはのはな。
 こたえる」
 俺は何も言えなかった。俺がねこじいの孫になってやるって言うことも出来たけど、確かにそういったらねこじいは喜ぶかもしれなかったけど、そうは言えなかった。それは俺がねこじいと深くかかわりあうのを嫌ったからかもしれない。俺はこういうとき、都合よく人に優しくできない薄情な子供だった。ねこじいは俺をちらりと見て、俺が思っていることを全部見透かしたみたいに笑って、俺が握っていた手を布団の中に引っ込めた。
「さあ、治ったらまたあの店で働かなきゃな……。
 もう、雇ってくれねえかもしれないが」
「ねこじい、年金ばもらっとらんと?」
「言ったろ。
 おれぁ寂しいって」
 彼は過去の遺物にもなりきれず、未だに朧ながらもこびりついたような執念で、日々を暮らしているのだろう。俺は、年をとるということは、たとえば、悟りを開いてゆくみたいに、安らかな気持ちになってゆくようなものだと思っていた。いろいろなことに決着が付いて、死への準備は着々と進むようなものだと、なんとなく思っていた。だけど、そんなのは全くの想像に過ぎず、まるで木の瘤のように茶色く、小さく硬く、乾いて凝り固まったねこじいの妄執は人が行き着く場所のひとつを示していた。年を重ねるということは、船が傾いてゆくように一方向へ、沈んでゆくみたいだ、と思った。
「お前、男を好きになるんだったら、覚悟をしろよ」
「うん」
 一応うん、と答えたけれど、俺は何もわかっていない、と思った。俺はまだ何もわからない。または、少ししかわからない。

 柳生が、明らかに俺を避けるようになった。それも当たり前か、と思う。きっと、柳生はもっと、きちんと、ゆっくり、したかったに違いないのに、俺が無理やりうそもんのセックスをしようなんて言ったから。あの日、明らかに柳生はショックを受けていた。俺も気分は悪かったが、柳生のほうがかわいそうだった。柳生は柳生でそれなりに自分勝手だったが、別にそれは不誠実なものじゃなくって、一生懸命な彼に、あんな形で報いた自分は残酷だと思った。柳生が居なくなるのかと思うと、絶望的に寂しくなった。彼は、俺の懸念であり、瘤であり、泥沼の中にうまれた対流だった。それがなくなるというのは、俺の心に張りを作っていた重石が無くなるようなものだと思った。
俺はきっともっと、柳生にわかりやすく愛して欲しかったのだと思う。しかし、柳生の泥沼は冷たくて、俺を優しく沈めてはくれなかった。彼のそういう部分は、こちらを甘やかしてくれる隙もなく、とても残酷だった。分かりやすく、俺を褒め称えてくれて、恋してくれる人が相手なら、とても楽だと思ったけれど、現実がそうでないならしかたがない。もっと、良い意味で外面を上手に使って好き合えば良かったとも思えるが、深い深い泥沼を抱える餓鬼同士、やはりその腹のうちを深く探り合わずにはいられなかった。本能のように俺たちは探り合って、近づいて行っている。こんな言い方をしたくはないが、誤解を恐れず言うと、とても俺たちは似ていた。とてもとても似ていて、そして果てしなく、理解しあえない。二人とも、何をしても、たまらなく別々に一人だということを良く知っていた。柳生は俺の気持ちをよく察していたのだろう。だから俺とセックスするのを嫌だと思ったのだ。もっと、柳生に対して、きちんとしておけば良かった、と思った。明日、柳生には、謝ろう。上手に言えないと思うけれど。

 翌日の朝錬の前、部室に来るように柳生にメールした。朝とても早かったけれど、夜にまぎれるよりは、そっちの方が良いと思った。「行きます」とだけ返事が来た。柳生は律儀に、鍵を預かっている柳が来るより前に部室に来てくれた。彼は逃げなかった。まだ空中が薄紫で、これから暑くなる予感はあったが、静かに冷気が降り込めている。気管を通る空気が静かで、体の中がすうすうした。柳生はまだ体が完全に覚醒していないゆったりした空気を携えていたが、それなりに緊張しても居た。
「柳生」
「はい」
 律儀だ。誠実すぎて無神経なくらいに。
「俺、これからは柳生にもっときちんとしようと思う」
「どういう風に?」
「わからんけど、今までみたいに、あんまり、すぐ、キスとかいろいろできんと思うけん」
「はい」
 柳生の声は少し上ずっていたが、不安定ではなかった。
「なんじゃろう。
 柳生に、愛想を、つかされると思うと悲しゅうなる。
 柳生。多分、俺は今まで知り合った他人の中で、今いちばん、おまんを好いとうよ。
 多分な。
 触ってくれて、ありがとう」
 そう。俺は好きだって言ってもらって、ただ単純に嬉しかった。
「いいえ。こちらこそ」
 柳生は俺が一生懸話していることを分かったみたいで、きちんと聞いてくれた。俺はそれだけでもう十分嬉しくて、これから柳生と話すときは、本当に気をつけて、しっかり話そう、と思った。









2006.5.1加筆修正








戻る