Mongolia
大沼芳徳@札幌『しゃりばり』編集長さま、田原洋朗@江別BooxBoxさま、お元気ですか? 沼田町の久保元宏@ただのオヤジです。 いつも、お世話になっています。 本日は「韃靼(だったん)そば」についてメールを差し上げました。 お二人同時に同じ文章を送信するのは、同じ質問が可能であると同時に情報を共有する意味も感じたからです。 大沼さんも2003年2月26日(水曜日)の北海道新聞(夕刊)で書かれておりましたが、「韃靼(だったん)そば」が地味ながらも浸透してきております。 ただ、ここにきて江丹別産ソバとして中国産ソバを販売していた偽装事件が起こり、生産者の中には「輸入ソバ」の生産に対してアレルギーが起こっています。 ちなみに、この偽装事件を起こしたのが私と同じ姓の「久保恒雄@元神居農協組合長」であるので、同業者から問い合わせがいくつか来ました(笑)。 さて、私なりのルートで先日、「韃靼(だったん)そば」の玄ソバを入手しました。 今年、沼田町と江別市で植えてみる予定です。 ご存知のように、「韃靼(だったん)そば」はモンゴルが原産地です。 そこで、江別市、モンゴルと来れば、かの有名な田原@BooxBoxさまを思い出してしまうのが世間の常識です。 そこで、お忙しい中恐縮ですが、下記に関することで何か情報があれば教えていただけますと幸いです。 ①「韃靼(だったん)そば」を商品化しているメーカー。 ②「韃靼(だったん)そば」の認知度。 ③「韃靼(だったん)そば」の料理方法。 ④モンゴルにおける「韃靼(だったん)そば」料理のレシピ。 ⑤過去、および現在のモンゴルにおける「韃靼(だったん)そば」の認知度。 ⑥貴殿の「韃靼(だったん)そば」に対するご意見、イメージなど。 ⑦その他、「韃靼(だったん)そば」をめぐる、あれこれ。 また、下記に蛇足ながら、私のHPのゲストブックにて画家の東誠さんと交わした「韃靼(だったん)そば」をめぐるやりとりを転記しておきます。 ↓ のどうたの会 The Throat-Singing Society ホーミーと馬頭琴☆嵯峨治彦 [email protected] I said yeah, Oh yeah, Oh yeah♪ Mr.東 誠'll never make a saint of me♪ >だたんそば、最近函館でもよく見かけます。初めて食べたのは、大沼グリーンピア入り口にあるおそばやさんです。「ダタン人の踊り」とは関係ないですか。 ↑ ■なんだか、各地で有名だそーですねぇ。今日、いただいた大阪の美女(←未確認)からも下記の情報をいただきました。
■東画伯は、高校生の時は「帰宅部」であったけれど、中学生の時は吹奏楽部にいたんじゃあーないですか?「ダタン人の踊り」って、吹奏楽部の定番曲ですよね? ↓ アレキサンドル・ボロディン(1834〜1887)(浜幸雄編):歌劇「イーゴリ公」よりダタン人の踊り(作曲を始めたのは1869年) ↑ この曲は、NHK大河ドラマみたいな曲ですよね。 時は12世紀、ロシア建国時代の英雄・イーゴリ公はロシア南部に侵攻してきた「だったん人(=ポロヴェッツ人。東部モンゴルの遊牧民族)」と闘って敗北し、だったん側の捕虜になってしまいます。 だったん【韃靼】 モンゴル系の一部族タタール(塔塔児)の称。のちモンゴル民族全体の呼称。明代には北方に逃れた元朝の遺裔に対する明人の呼び名。また、南ロシア一帯に居住したトルコ人も、もとモンゴルの治下にあった関係から、その中に含めることもある。「だったん海峡」(間宮海峡の旧称)・・・『広辞苑』より だったん軍の将軍コンチャークは、捕らわれの身となってもなおプライドを失わないイーゴリ公に心を打たれ、捕虜転じて「客人」として宴の席を設け、手厚くもてなします。その時に、だったん人の乙女による哀愁を帯びた踊り、だったん軍の兵士、さらにはロシア軍捕虜も加わった合唱(合唱は省略する場合もある)による情熱的に踊られる舞曲が、この「だったん人の踊り」なのです。 ■東さんと同じ函館東高校の出身者の井内正樹さんの趣味でコジツケると、司馬遼太郎『韃靼<(だったん)>疾風録』(中公文庫)という歴史小説もあります。 江戸時代、越前の人が松前(北海道の函館)に向かう途中、難船して韃靼(女真)の地に漂着し、清朝に手厚く保護されたことがあり、その時の見聞を著したのが「韃靼物語」または、「異国物語」とも「韃靼漂流記」とも言うそうです。それをモチーフに波乱万丈の物語を書いたのが司馬遼太郎です。 函館とからむトコロも、東画伯との歴史の共犯(?)を感じますが、江戸時代は私たちが思っている以上に国際的な時代であったのですねぇ。 ■と、ゆーコトで、東画伯のスルドイ疑問は、関係大有り!とゆー答えです。
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『韃靼<(だったん)>疾風録』司馬遼太郎 著 中公文庫 浅田次郎さんの『蒼穹<(そうきゅう)>の昴<(すばる)>』『珍妃<(ちんぴ)>の井戸』により中国・清朝に興味を覚えていたところに本書の「韃靼」という文字が目に入ったことでした。この2作は清朝末を描いたものですが、本書は明末〜清初を舞台としたものです。 書題にある韃靼とは、あまり聞き慣れないことばです。広辞苑の引用をしましょう。 だったん【韃靼】 モンゴル系の一部族タタール(塔塔児)の称。のちモンゴル民族全体の呼称。明代には北方に逃れた元朝の遺裔に対する明人の呼び名。また、南ロシア一帯に居住したトルコ人も、もとモンゴルの治下にあった関係から、その中に含めることもある。「—海峡」(間宮海峡の旧称) だそうです。あまり一般的なことばではありませんが、題にこれを持ってきたのは、日本において江戸時代はこう呼んでいたからと作者があとがきに書かれていました。越前の人が松前(北海道)に向かう途中、難船して韃靼(女真)の地に漂着し、清朝に手厚く保護されたことがあり、その時の見聞を著したのが「韃靼物語」または、「異国物語」とも「韃靼漂流記」とも言うそうです。 本書は海賊(倭寇)の親分のような九州・平戸の松浦家に仕える下級武士、桂庄助が主人公です。日本では豊臣家が滅び、徳川家がようやく天下太平を作り上げた頃です。この少し前には秀吉の命により「壬辰<(じんしん)>ノ倭乱(朝鮮侵略)」が行われましたが、空しく敗退しました。その後も倭寇が朝鮮や中国の沿岸を荒らしていましたが、実は、この頃には実際には日本人は倭寇10人のうち1人程度でした。そのほとんどが江南の中国人で、当時恐れられていた「倭寇」というブランドネームを利用していたのです。中国や朝鮮から見ると、女真族やモンゴル族は程度の低い夷狄<(いてき)>でした。日本人も同様で、夷狄以下と見られていたかもしれません。このような時代背景ですが、当時数百年続いていた明朝という漢族の王朝が末期症状を呈していたころです。 英雄ヌルハチは明の政策で分裂していた女真族をまとめ、大汗となっていました。そしてかつての女真族の建てた金にならい、後金と号していたのです。そして、かつては自分たちの支配者であったモンゴル族も取り込み、大きな勢力になっていました。 平戸島に一人の女性が流されてきました。彼女はアビアという韃靼の公主であることがわかり、松浦家では手厚く遇します。当時、女真族が勢力を強めており、松浦家では彼女を無事送り返すことで女真族とのコネを作ろうとしたのです。松浦家は交易による利を得ることに聡く、中国の情勢が自身に大きな影響を及ぼすことを知っていました。そして、彼女を無事送り返すと同時に中国(明)と女真族の行方を調べさせるべく、庄助を韃靼の地に向かわせます。 しかし、幕府との関係でこのような使者を正式に送り出すことはできず、あくまでもこっそりと向かわせるしかありません。朝鮮の人々は朝鮮侵略により甚だしく日本人を憎んでおり、そこに上陸することはできなかったので、それを避けて行くしかありません。 最近のことかと思っていたら、日本人はずいぶん昔から憎まれていたようです。でも、そのちょっと(?)前には元寇で日本がずいぶんひどい目にあわされたのですがね。 庄助は無事アビアを女真の大汗、ヌルハチの元へ送り届けるのですが、アビアの両親初め一族は誅殺されていました。アビアも誅殺されるところでしたが、日本人庄助の妻ということで助かります。つまり、庄助が命を懸けて送り届けても、女真族にとっては何のありがたさもないのでした。結局アビアは庄助の妻となりました。 ヌルハチが戦いで受けた傷がもとで没し、その子のホンタイジが大汗となりました。ホンタイジは当時中国でも恐れられていた「日本人」というブランドを利用するために、庄助を日本差官<(チャイコワン)>と呼び、厚遇しました。庄助はホンタイジの軍とともに戦場へ行きます。 そうこうしているうちに、日本では家光の時代となります。そして鎖国令が発せられ、海外にいる日本人は帰国することができなくなってしまうのです。庄助に与えられた主命も自動的に消滅してしまうことになりました。 ホンタイジは清帝国を建て、自らは皇帝を称します。長城の外にあり、明の本土までは攻められないものの、着々と土台を固めていきます。それに対して、明は末期症状を呈しており、各地に流賊が起って暴れはじめていたのです。 ホンタイジが没したのち皇帝となったのは、幼いフーリンでした。しかし、その摂政となったのは若きドルゴン(睿親王)でした。彼は大いなる野望を持つ英雄でした。わずか5〜60万人しかいない女真族が数億人の漢人<(ニカン)>を支配するという一見奇蹟のようなことを考えていました。 睿親王はホンタイジと違い、庄助を家来のように扱います。アビアを人質として、庄助に蘇州を調べに行くように命じます。庄助は蘇州に行き、カルチャーショックを受けます。貧しい世界しか知らない庄助はその豊かさに驚くのでした。 しかし、奇蹟は起こりました。明の皇帝は闖賊<(ちんぞく)>(李自成の蔑称)に攻められ、自害してしまうのです。李自成は順王朝を建てるのですが、長城を越えてきた女真族の軍にあっさりと追い出されてしまいます。睿親王はついに、北京に念願の清王朝を建てるのです。 女真族の建てた王朝といえば、宋を南に追いやった金がありますが、金は中国全土を支配したわけではなく、その時代も長くはありませんでした。ところが、清は中国全土どころかそれ以上の土地を支配したのです。その少ない人口から言えば、本当に奇跡的なことでした。 庄助とアビアがその後どうなったかは、読んでのお楽しみにしておきましょう。 |
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『日本の吹奏楽’77 Vol.2 中学編』 A.ボロディン(浜幸雄編):歌劇「イーゴリ公」よりダタン人の踊り(北海道・紋別中学) ボロディン:歌劇「イーゴリー公」〜だったん人の踊り A.P.Borodin:"PRINCE IGOR"〜Danse Polovtsienne -------------------------------------------------------------------------------- 本日の演奏会は「だったん人の踊り」で幕を開けましょう。アマチュアオーケストラの拙い演奏ですが、どうぞごゆっくり…ちなみに、このとびきり美しい旋律の作曲者ボロディンも、実は私達同様アマチュアなのです。 アレキサンドル・ボロディン(1834〜1887)は、13歳でフルート協奏曲を作曲したり、家族や学校の友人等あちこちのアマチュア室内楽団でチェロを弾いたり、おまけにピアノの腕は玄人はだしだったり等、音楽の才能に秀でていた少年でした。しかし彼はあくまでも音楽は趣味と割り切り、大学では化学を修め、卒業後は陸軍病院の薬剤師などを経てペテルブルグにある大学病院に勤務し、また学者としても母校を始め医科大学の教授として教鞭もとっていました。そして、並行して同じくアマチュア作曲家(本業は陸軍将校)であるムソルグスキーなどと親交を深め、徐々に作曲家としても頭角を現していったのです。 したがって、今日残っている彼の作品はすべて、そういった激務の合間を縫うようにして捻出した、限られた時間で作曲されたものなのです。でも作曲技術や作品の出来はプロ以上の水準で(同時代の「プロ作曲家」であったバラキレフより数段ポピュラーですよね)、残された作品群からはドイツ・ロマン派の流れを汲んだかっちりした構成にスラブ民族特有の熱さや旋律の美しさがブレンドされているボロディンの個性がはっきりと聴き取れます。 当時のロシア国民楽派の作曲家は、音楽の題材としてロシアの歴史や人物を使うことが多かったようです(いわば「時代劇」)。ボロディンもその一人で、ロシア建国時代の英雄・イーゴリ公を題材にしたオペラに着想し、作曲を始めたのは1869年のことです。 時は12世紀、イーゴリ公はロシア南部に侵攻してきただったん人(=ポロヴェッツ人。東部モンゴルの遊牧民族)と闘って敗北し、だったん側の捕虜になってしまいます。だったん軍の将軍コンチャークは、捕らわれの身となってもなおプライドを失わないイーゴリ公に心を打たれ、捕虜転じて「客人」として宴の席を設け、手厚くもてなします。その時にだったん人の乙女による哀愁を帯びた踊り、だったん軍の兵士、さらにはロシア軍捕虜も加わった合唱(合唱は省略する場合もある)による情熱的に踊られる舞曲がこの「だったん人の踊り」なのです。 この「イーゴリ公」はプロローグと4幕もののオペラで、時代劇と言いつつも、さしずめ大河ドラマに匹敵する?大作です。そして、ただでさえ「本業」で多忙を極めていたボロディンですから、いざ手掛けてはみたものの、完成するまでの道のりはとてつもなく遠かったようです。そういうわけでこのオペラは未完成のままボロディンは1887年にこの世を去ってしまい、リムスキー=コルサコフやグラズノフによる大掛かりな補筆の上オペラ「イーゴリ公」が初演されたのは、作曲者の死後3年経った1890年だったのです。 | |