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「韃靼(だったん)そば」
大沼芳徳@札幌『しゃりばり』編集長さま、田原洋朗@江別BooxBoxさま、お元気ですか?
沼田町の久保元宏@ただのオヤジです。
いつも、お世話になっています。

本日は「韃靼(だったん)そば」についてメールを差し上げました。
お二人同時に同じ文章を送信するのは、同じ質問が可能であると同時に情報を共有する意味も感じたからです。

大沼さんも2003年2月26日(水曜日)の北海道新聞(夕刊)で書かれておりましたが、「韃靼(だったん)そば」が地味ながらも浸透してきております。
ただ、ここにきて江丹別産ソバとして中国産ソバを販売していた偽装事件が起こり、生産者の中には「輸入ソバ」の生産に対してアレルギーが起こっています。

ちなみに、この偽装事件を起こしたのが私と同じ姓の「久保恒雄@元神居農協組合長」であるので、同業者から問い合わせがいくつか来ました(笑)。

さて、私なりのルートで先日、「韃靼(だったん)そば」の玄ソバを入手しました。
今年、沼田町と江別市で植えてみる予定です。

ご存知のように、「韃靼(だったん)そば」はモンゴルが原産地です。
そこで、江別市、モンゴルと来れば、かの有名な田原@BooxBoxさまを思い出してしまうのが世間の常識です。

そこで、お忙しい中恐縮ですが、下記に関することで何か情報があれば教えていただけますと幸いです。

①「韃靼(だったん)そば」を商品化しているメーカー。
②「韃靼(だったん)そば」の認知度。
③「韃靼(だったん)そば」の料理方法。
④モンゴルにおける「韃靼(だったん)そば」料理のレシピ。
⑤過去、および現在のモンゴルにおける「韃靼(だったん)そば」の認知度。
⑥貴殿の「韃靼(だったん)そば」に対するご意見、イメージなど。
⑦その他、「韃靼(だったん)そば」をめぐる、あれこれ。


また、下記に蛇足ながら、私のHPのゲストブックにて画家の東誠さんと交わした「韃靼(だったん)そば」をめぐるやりとりを転記しておきます。




★ホーミー!のどうたの会 The Throat-Singing Society
ホーミーと馬頭琴☆嵯峨治彦 [email protected]

I said yeah, Oh yeah, Oh yeah♪ Mr.東  誠'll never make a saint of me♪

>だたんそば、最近函館でもよく見かけます。初めて食べたのは、大沼グリーンピア入り口にあるおそばやさんです。「ダタン人の踊り」とは関係ないですか。

■なんだか、各地で有名だそーですねぇ。今日、いただいた大阪の美女(←未確認)からも下記の情報をいただきました。
>そうそうダッタンソバ茶なら近所のスーパーにありました。
>血液がさらさらになるそうです。裏に書いてありました。(大阪・吉原 美紀)

■東画伯は、高校生の時は「帰宅部」であったけれど、中学生の時は吹奏楽部にいたんじゃあーないですか?「ダタン人の踊り」って、吹奏楽部の定番曲ですよね?

Iconアレキサンドル・ボロディン(1834〜1887)(浜幸雄編):歌劇「イーゴリ公」よりダタン人の踊り(作曲を始めたのは1869年)

この曲は、NHK大河ドラマみたいな曲ですよね。
時は12世紀、ロシア建国時代の英雄・イーゴリ公はロシア南部に侵攻してきた「だったん人(=ポロヴェッツ人。東部モンゴルの遊牧民族)」と闘って敗北し、だったん側の捕虜になってしまいます。

だったん【韃靼】
モンゴル系の一部族タタール(塔塔児)の称。のちモンゴル民族全体の呼称。明代には北方に逃れた元朝の遺裔に対する明人の呼び名。また、南ロシア一帯に居住したトルコ人も、もとモンゴルの治下にあった関係から、その中に含めることもある。「だったん海峡」(間宮海峡の旧称)・・・『広辞苑』より

だったん軍の将軍コンチャークは、捕らわれの身となってもなおプライドを失わないイーゴリ公に心を打たれ、捕虜転じて「客人」として宴の席を設け、手厚くもてなします。その時に、だったん人の乙女による哀愁を帯びた踊り、だったん軍の兵士、さらにはロシア軍捕虜も加わった合唱(合唱は省略する場合もある)による情熱的に踊られる舞曲が、この「だったん人の踊り」なのです。
東さんと同じ函館東高校の出身者の井内正樹さんの趣味でコジツケると、パラパラ・・・司馬遼太郎『韃靼<(だったん)>疾風録』(中公文庫)という歴史小説もあります。
江戸時代、越前の人が松前(北海道の函館)に向かう途中、難船して韃靼(女真)の地に漂着し、清朝に手厚く保護されたことがあり、その時の見聞を著したのが「韃靼物語」または、「異国物語」とも「韃靼漂流記」とも言うそうです。それをモチーフに波乱万丈の物語を書いたのが司馬遼太郎です。
函館とからむトコロも、東画伯との歴史の共犯(?)を感じますが、江戸時代は私たちが思っている以上に国際的な時代であったのですねぇ。

■と、ゆーコトで、東画伯のスルドイ疑問は、関係大有り!とゆー答えです。

差出人 : "TAHARA Hiroaki" <[email protected]>

宛先 : "Kubo Motohiro" <[email protected]>
件名 : Re: 「韃靼(だったん)そば」について
日付 : Mon, 21 Apr 2003 09:26:08 +0900
久保さん、こんにちは。

 遅レスですみません。

●「韃靼(だったん)そば」とタルバガン日程

等々力:
面白そうな催しですね。ダッタン蕎麦知ってますよ。ロシアで
も蕎麦食べるんですよ。僕はカーシャ(スープ状のおかゆさん
)は食べたことがあります。10年ほど前ブリアート共和国のト
ゥンカ盆地で一面の白い花盛りを見たときは信州を思い出しま
した。それから気になって蕎麦食はいったいどこにあるんだろ
うと、いくつか論文も読みました。品種の系統はずいぶん進ん
でいるようですが、今のところ蕎麦の起源はパキスタンとかチ
ベットとか決着ついて無いみたいですね。日本の蕎麦がシベリ
アの蕎麦に近いというのも何かで読んだんですが、ありそうな
ことです。
もっと知ってる人にも話を聞きたいです。

とりあえず、僕は11月は3日、16日以外は今のところ仕事が入
ってません。

嵯峨:
モンゴルだと、小麦粉で作る麺(みんな「うどん」と
言ってましたが)は食べたことありますが、
どうなんでしょう?

日程的には週末をご希望なのでしょうか?
今のところ、11月15日16日の土日は
タルバガンで名古屋へ行ってる予定です。
下旬だと、どうかな〜。今のところ、ネルグイさんの
来日予定が11月の後半か12月の後半と見込んで
スケジュールを故意に空けている状況です。
7月くらいまでにははっきりすると思うんですけど・・・。

> いくらぐらいの経費がかかりますか?

 公称20万というところです。
 柔軟に応じます。
 どうぞよろしくお願いいたします。


 滝川でのこの催しはご存知ですか?
 http://www.kaminoge-design.tamabi.ac.jp/idap/

 ではまた!


有限会社 ブックスボックス ----- http://www.booxbox.com/
取締役 田原 洋朗 TAHARA Hiroaki ----- [email protected]
■   062-0901 札幌市豊平区豊平1-12-1-12
■   インタークロス・クリエイティブ・センター 214号室
■   HP : 090-3393-5497 FAX : 011-382-4091

booxbox inc. ----- http://www.booxbox.com/
■ 谷本光 [Thanks to Music!!] (音楽CD BWM-B201)
■ 長根 あき [Mon-o-lah] (音楽CD BWM-B101)
■ 新田 昌弘 [SHAMISEN KID] (音楽CD BWM-B001)
■ タルバガン [TAIGAM] (音楽CD BWM-A901)

[2312] (2003/04/21 10:44:09) 田原ひろあき@ブックスボックス
ダッタン人の踊りって、どんな?@マルチレス系
●ボラクさん
>http://www.kissui.co.jp/
 札幌でやってるんですね。
 このサイトを見る限りは、ダッタンソバって強力。

●meyさん
 どうもです。
>全国ネットではTBSのスパスパ何とかで見ましたよ。
 「スパスパ人間学」という番組のようですね。

 カゲロウさん、どうでした?

●健さん
 情報どうもです。

 散歩にいい季節になりましたね。
 今度、野幌森林公園まで「出張」してみてください。
 いいですよ。

●だんじおさん
>「…ダッタン人の矢の如く…」と関係あるんですか?
 まさしくそのダッタンですね。

 久保さんのメールから引用。
「だったん【韃靼】
モンゴル系の一部族タタール(塔塔児)の称。のちモンゴル民族全体の呼
称。明代には北方に逃れた元朝の遺裔に対する明人の呼び名。また、南
ロシア一帯に居住したトルコ人も、もとモンゴルの治下にあった関係か
ら、その中に含めることもある。「だったん海峡」(間宮海峡の旧称)・
・・『広辞苑』より」

 こちらが参考になるかも:
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/miyamoto/tatar.htm
言葉としては、タタール=ダッタン=タルタル、みたいです。

 嵯峨治彦さんは、ボロディン作曲の「ダッタン人の踊り」が好きです。

http://www.booxbox.com/

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[2311] (2003/04/21 09:26:08) だんじお
だったんそばの「だったん」って…
「真夏の夜の夢」のパックのせりふの
「…ダッタン人の矢の如く…」と関係あるんですか?
私は今まで見たことも聞いたこともない食物なんです。


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[2310] (2003/04/21 06:09:18) 健
シャムトラ5の宣伝です。
いつもお世話になってます!
毎年恒例の、アイリッシュ音楽のコンサートがあります。
皆さん、ぜひ来て下さい。(詳しくはURLを)

【Shamrock Triangle Vol.5】
4/26 (土)18:30開場 19:00開演
【所】ジッピーホール(北16東1)
【出】HARD TO FIND、ラブラブバンド、チョノールセッション
【金】1,500円
【問】011-741-3741(Jack In The Box)

http://www.sh.rim.or.jp/~dulciman/Shamtra5/ShamrockTRIANGLEvol.5.html
http://www.sh.rim.or.jp/~dulciman

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[2309] (2003/04/20 00:08:22) mey
お久しぶりです
↓の書き込み興味深いですねぇ〜
私が知っているダッタンソバは
健康にイイ!
高血圧とか糖尿病にいい。
ミネラル・ポリフェノールも多いし
美白効果のあるシスウンベル酸が多い(たしかこんな名前)
地味に夕方の情報番組とかで何気に紹介されてましたし
全国ネットではTBSのスパスパ何とかで見ましたよ。
年配の方は結構知ってましたよ。(TVの効果みたいですが)
私は和風サラダにして野菜と一緒に食べましたよ。
食べにくくはなかったですねぇ。

「モンゴル紀行」何故か家の本棚にありました。
誰も読んでないのにあるなんて不思議(苦笑)

明日はカゲロウさんのインストライブ行ってきます!
楽しみ♪北海道でまたライブやって欲しい!





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[2308] (2003/04/19 04:36:25) ボラク
ダッタンソバ
まず、ソバの品種ですが、いくつかあるんですが、実はあまり品種改良に力を入れておらず
在来のものを固定させているような状態です。ダッタンソバといっても、遺伝的にはばらつきが
あると思われます。
道内では、森町、幌加内町などで少量作付けしています。どこの産地もどうやって種を手に入れ
たかわかりませんが、種ちょうだいといっても、絶対くれません。(特産品にしたいんですね)
そんなわけで、商品化しているメーカーはないですが、下記のURLのそば屋さんでは通販して
います。
そば好きの間では、ダッタンソバはかなり認知されていると思いますよ。
僕は食べたことないけど、ビタミンなど多い代わりにそれなりの味(いいか悪いかはわかりませ
ん)があり、普通のそばとは違うようです。
北海道立遺伝資源センター(滝川市)というところがあります。
ここでは、いろんな作物の種を保存しています。ここに聞けば、なにかわかるかも。
モンゴルに関してはわかんねー。

通信販売情報→http://www.kissui.co.jp/
★ダッタン蕎麦茶★
商品コード ST-02
-不老長寿!ダッタン蕎麦茶-
中国雲南省・四川省・チベット・モンゴル・ネパールの高度2000メートル以上の山岳地帯で多く栽培されているダッタンソバ。
(国内では極少量しか栽培されていません。)ダッタンソバを常食しているダッタン民族の人たちは、昔から病気が非常に少なく不老長寿だそうです。
ダッタン蕎麦茶は普通の蕎麦茶に比べ、ルチンが80倍ほど豊富に含まれている栄養価の高い健康食品です。
まさに薬膳茶!毛細血管の強化、脳卒中・高血圧・高脂血症・糖尿病・肝臓の予防効果にも優れております。ストレス・成人病の予防にもお勧めの飲み物です。
刺激性成分のカフェインをほとんど含みません。
是非1日1杯の健康を貴方と貴方の家族にどうぞ!
※飲み終えたあと出来たら捨てずに白米と一緒に炊いて、だったん飯として召し上がりますと健康にも良いですし、ごみが出ず、エコロジークッキングになります。
お茶漬けのトッピングとしても我が家では人気高いです。
内容量200グラム 価格¥1800


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[2307] (2003/04/18 16:23:17) 田原ひろあき@ブックスボックス
フクジュソウ・ザゼンソウ・エゾエンゴサク@マルチレス系
●ボラクさん
 どうもです。

 久保さんからの田原に対する質問は:
①「韃靼(だったん)そば」を商品化しているメーカー。
②「韃靼(だったん)そば」の認知度。
③「韃靼(だったん)そば」の料理方法。
④モンゴルにおける「韃靼(だったん)そば」料理のレシピ。
⑤過去、および現在のモンゴルにおける「韃靼(だったん)そば」の認知度。
⑥貴殿の「韃靼(だったん)そば」に対するご意見、イメージなど。
⑦その他、「韃靼(だったん)そば」をめぐる、あれこれ。
というものでした。

 等々力政彦さんから来たメールには:
「ダッタン蕎麦知ってますよ。ロシアで
も蕎麦食べるんですよ。僕はカーシャ(スープ状のおかゆさん)
は食べたことがあります。10年ほど前ブリアート共和国のト
ゥンカ盆地で一面の白い花盛りを見たときは信州を思い出しま
した。それから気になって蕎麦食はいったいどこにあるんだろ
うと、いくつか論文も読みました。品種の系統はずいぶん進ん
でいるようですが、今のところ蕎麦の起源はパキスタンとかチ
ベットとか決着ついて無いみたいですね。日本の蕎麦がシベリ
アの蕎麦に近いというのも何かで読んだんですが、ありそうなことです。
もっと知ってる人にも話を聞きたいです。」
とありました。

●だんじおさん
 オヒサ!

>朝8時と夕方NHK総合でやっている
>「にほんごであそぼう」という番組はご存知か?

 知ってます! NHK教育ですね。
 うちの子らも、おっちゃんといっしょに<じゅげむ>言ってます。

 野村萬斎、かっこいいですね。

 四月からのNHK教育・新番組、結構楽しみに見ています。

http://www.booxbox.com/

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[2306] (2003/04/18 10:00:30) だんじお
すっかりごぶさたしております
全く我が子になったお馬さんをなかせられない
だんじお@広島でござります…
自宅にこもっているうちに見つけた
変な情報を ひとつ☆
朝8時と夕方NHK総合でやっている
「にほんごであそぼう」という番組はご存知か?
これが、秀逸!!!
町のお店やさんの店先でおっちゃんが
<じゅげむ>を言ってみるのが笑える!
野村萬斎が万作の会のひとたちとやる
<狂言仕立て>もGOOD!!
神田山陽さんが、昔話を題材に一席ぶつし。
しかも「いいことば」というテーマ
ものを例える言葉を言うのだが、
女声のかけ声がいいんだなあ〜
あんな風に「よっ!」って言ってみたい。
あっという間に終わるけどね!
にほんご、すげえおもろいゼ!って感じる。
まだ見た事なかったら、
時間さいても録画してもむだ足は踏まないよ〜!
konihikiと子どもたちもいいんだ〜
わずか10分間だけど
毎日朝夕たのしめます



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[2305] (2003/04/16 20:10:03) ボラク
ダッタンソバ
のどのような情報でしょう?
道内でも何カ所か作ってますよね。
[2303] (2003/04/15 10:10:13) 田原ひろあき@ブックスボックス
「モンゴル紀行」再読@オヂサンの雑感系
 昨日、司馬遼太郎さんの『街道をゆく 5 モンゴル紀行』を再読しま
した。前回の読書は1996年。一番最初に読んだ「街道をゆく」だったのか。
 そのときの感想文:
 http://www.booxbox.com/porque/review/t961031.htm

 当時はもちろん、嵯峨治彦さんに会ったこともないし、馬頭琴を入れた
音楽どころか、音楽CDを作ることになるなんて考えてもいませんでした。
不思議なものです。

 1996年当時もモンゴルに行きたくなったに違いないのですが、2003年
またその思いを強くした田原でした。

 も一つ。

 北海道・沼田町のエピキュリアン・久保さんから、「韃靼(だったん)そば」に関するメールが届きました。
 恥ずかしながら、そのソバの存在をしらなかったのですが・・・。
 久保さんが「韃靼(だったん)そば」の情報を求めてらっしゃいますので、
どうか、みなさんなにかご存知なら書き込み・ご連絡ください。

 ということで、久保さんのメールでも紹介されたいた、司馬遼太郎さんの『韃靼疾風録』も読まねば、と思った田原でした。

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[2302] (2003/04/11 11:38:18) 田原ひろあき@ブックスボックス
民主主義の基盤@モノレス系
●鳥海さん
 勇崎哲史スライドショー&トーク『TIME OF LIGHT』、書き込みありが
とうございます。

>勇崎さんと田原さんとが出会ってほしいなぁ、などと思っています。

 27日、行ってみたいです。でも、谷本くん・城さんライブ当日だな
あ・・・。仕込みの時間帯次第かも。

>投票という行為が民主主義の基盤であり、
>それをまっとうできていないことこそが日本の民主主義の脆弱さだと思います。

 同感です。

 アフガン空爆のとき、アメリカの議会で、それに関する決議でただ一人
だけ反対の票を投じた議員がいて話題になりました。そのことに関して、
当時は、アメリカ国内で当然賛否両論あったわけですが、その議員さん、
こないだの選挙で再選されました。これこそ、国民の審判ですよね。

 たとえば、それがフセイン時代のイラクであれば、そういう議員が議会
に存在することも許されなかったろうし、そういう意思表示をすることも
再立候補することも、再選されることもなかったでしょう。

 ブッシュの考えに異議を唱えたことを「偉い」、と考える人がいてもい
いけど、ぼくはそのこと自体より、議員と選挙民の意思がきちんと表明で
きる民主主義体制を持ちえていることが「偉い」と思います。

 そして、その議員さんの「空爆反対」の意思が、政治家として適切なも
のであったかどうかわからない、というのが、政治の難しさなのかなあ、
と感じたりもするのでした。
http://www.booxbox.com/

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[2301] (2003/04/10 04:27:13) 鳥海
勇崎哲史スライドショー&トーク『TIME OF LIGHT』
田原さん、お久しぶりです。
敬愛する写真家・勇崎哲史さんのスライドショーのご案内です。
田原さんもご覧になられて札幌大学での「岡本太郎の沖縄」写真展なども
手がけられ、また、東川町で写真によるまちづくりを実践していらして、
吹田にも招いて講演をお願いしたこともあります。
勇崎さんと田原さんとが出会ってほしいなぁ、などと思っています。

その27日は吹田で市長選挙があります。
市町村合併を唱えて開発を優先させてきた現市長と、
市町村合併に反対し、岡本太郎の哲学に入れ込んで、
文化によるまちづくりを推進することを唱える30代の現市議との一騎打ちです。
貴掲示板で指摘されていたように、
投票という行為が民主主義の基盤であり、
それをまっとうできていないことこそが日本の民主主義の脆弱さだと思います。

▼勇崎哲史スライドショー&トーク『TIME OF LIGHT』
日時:4月27日(日)14:00〜17:00
会場:屋台劇場まるバ会館 札幌市南区澄川4条7丁目5-25
   TEL&FAX:011-825-0190
入場料:大人:1800円,学生:1200円

カメラといる生活。映像のある人生。/支配人
東川町写真の町プラン、数々の写真展のキューレションなど、道内
でオリジナルな活動を続ける勇崎哲史さんは、写真家でもあり映像作
家でもあるのです。今回、その作家としての顔を、特に若い世代に知
ってもらおうと、作家の青春期から現在までを俯瞰する上映・展覧会
を企画しました。映写の間には、ご本人に北海道を拠点として歩んで
きた写真・映像人生も存分にモノ語ってもらいたいと考えています。
このマチで表現に関わり続けて生きる先輩から智恵と勇気を授かる貴
重な機会を得たのをきっかけに、新シリーズをスタートさせたいと思
います。<支配人>(サイトより転載)

「光の絵日記」/勇崎哲史
カメラをどこかに置いたまま、17年の空白をつくってしまった僕である。
写真への旅を再開することに決めた僕がはじめにしたかったことは、僕自身
の心の中に踏み留められたノスタルジアへの旅だった。1971-73年、痩せっ
ぽっちな青春は微睡みの南島。90年代、アジアの微笑みを彷徨う琉球。僕の
写真は主題をもたぬまま、目の前にあることをただ受け容れるだけの放浪の
徒然。白と黒の明暗をグレイトーンに溶かしながら、光が描いてくれた僕の
絵日記。(サイトより転載)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/maruba/

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[2300] (2003/04/10 00:19:09) 田原ひろあき@ブックスボックス
米軍、バグダッドを制圧・フセイン体制は崩壊@オヂサンの雑感系
 早めに終わってくれて、その点は良かった。

 これから、なんでしょうが。

 戦争そのものより、戦後処理のほうが難しいのは確か。

 よりリアルな「戦争」が始まるのかも。

 今から「反戦」の立場をとりたい。
http://www.booxbox.com/














『韃靼<(だったん)>疾風録』司馬遼太郎 著  中公文庫

 浅田次郎さんの『蒼穹<(そうきゅう)>の昴<(すばる)>』『珍妃<(ちんぴ)>の井戸』により中国・清朝に興味を覚えていたところに本書の「韃靼」という文字が目に入ったことでした。この2作は清朝末を描いたものですが、本書は明末〜清初を舞台としたものです。
 書題にある韃靼とは、あまり聞き慣れないことばです。広辞苑の引用をしましょう。

だったん【韃靼】
モンゴル系の一部族タタール(塔塔児)の称。のちモンゴル民族全体の呼称。明代には北方に逃れた元朝の遺裔に対する明人の呼び名。また、南ロシア一帯に居住したトルコ人も、もとモンゴルの治下にあった関係から、その中に含めることもある。「—海峡」(間宮海峡の旧称)

 だそうです。あまり一般的なことばではありませんが、題にこれを持ってきたのは、日本において江戸時代はこう呼んでいたからと作者があとがきに書かれていました。越前の人が松前(北海道)に向かう途中、難船して韃靼(女真)の地に漂着し、清朝に手厚く保護されたことがあり、その時の見聞を著したのが「韃靼物語」または、「異国物語」とも「韃靼漂流記」とも言うそうです。

 本書は海賊(倭寇)の親分のような九州・平戸の松浦家に仕える下級武士、桂庄助が主人公です。日本では豊臣家が滅び、徳川家がようやく天下太平を作り上げた頃です。この少し前には秀吉の命により「壬辰<(じんしん)>ノ倭乱(朝鮮侵略)」が行われましたが、空しく敗退しました。その後も倭寇が朝鮮や中国の沿岸を荒らしていましたが、実は、この頃には実際には日本人は倭寇10人のうち1人程度でした。そのほとんどが江南の中国人で、当時恐れられていた「倭寇」というブランドネームを利用していたのです。中国や朝鮮から見ると、女真族やモンゴル族は程度の低い夷狄<(いてき)>でした。日本人も同様で、夷狄以下と見られていたかもしれません。このような時代背景ですが、当時数百年続いていた明朝という漢族の王朝が末期症状を呈していたころです。
 英雄ヌルハチは明の政策で分裂していた女真族をまとめ、大汗となっていました。そしてかつての女真族の建てた金にならい、後金と号していたのです。そして、かつては自分たちの支配者であったモンゴル族も取り込み、大きな勢力になっていました。

 平戸島に一人の女性が流されてきました。彼女はアビアという韃靼の公主であることがわかり、松浦家では手厚く遇します。当時、女真族が勢力を強めており、松浦家では彼女を無事送り返すことで女真族とのコネを作ろうとしたのです。松浦家は交易による利を得ることに聡く、中国の情勢が自身に大きな影響を及ぼすことを知っていました。そして、彼女を無事送り返すと同時に中国(明)と女真族の行方を調べさせるべく、庄助を韃靼の地に向かわせます。
 しかし、幕府との関係でこのような使者を正式に送り出すことはできず、あくまでもこっそりと向かわせるしかありません。朝鮮の人々は朝鮮侵略により甚だしく日本人を憎んでおり、そこに上陸することはできなかったので、それを避けて行くしかありません。
 最近のことかと思っていたら、日本人はずいぶん昔から憎まれていたようです。でも、そのちょっと(?)前には元寇で日本がずいぶんひどい目にあわされたのですがね。

 庄助は無事アビアを女真の大汗、ヌルハチの元へ送り届けるのですが、アビアの両親初め一族は誅殺されていました。アビアも誅殺されるところでしたが、日本人庄助の妻ということで助かります。つまり、庄助が命を懸けて送り届けても、女真族にとっては何のありがたさもないのでした。結局アビアは庄助の妻となりました。
 ヌルハチが戦いで受けた傷がもとで没し、その子のホンタイジが大汗となりました。ホンタイジは当時中国でも恐れられていた「日本人」というブランドを利用するために、庄助を日本差官<(チャイコワン)>と呼び、厚遇しました。庄助はホンタイジの軍とともに戦場へ行きます。
 そうこうしているうちに、日本では家光の時代となります。そして鎖国令が発せられ、海外にいる日本人は帰国することができなくなってしまうのです。庄助に与えられた主命も自動的に消滅してしまうことになりました。
 ホンタイジは清帝国を建て、自らは皇帝を称します。長城の外にあり、明の本土までは攻められないものの、着々と土台を固めていきます。それに対して、明は末期症状を呈しており、各地に流賊が起って暴れはじめていたのです。
 ホンタイジが没したのち皇帝となったのは、幼いフーリンでした。しかし、その摂政となったのは若きドルゴン(睿親王)でした。彼は大いなる野望を持つ英雄でした。わずか5〜60万人しかいない女真族が数億人の漢人<(ニカン)>を支配するという一見奇蹟のようなことを考えていました。
 睿親王はホンタイジと違い、庄助を家来のように扱います。アビアを人質として、庄助に蘇州を調べに行くように命じます。庄助は蘇州に行き、カルチャーショックを受けます。貧しい世界しか知らない庄助はその豊かさに驚くのでした。

 しかし、奇蹟は起こりました。明の皇帝は闖賊<(ちんぞく)>(李自成の蔑称)に攻められ、自害してしまうのです。李自成は順王朝を建てるのですが、長城を越えてきた女真族の軍にあっさりと追い出されてしまいます。睿親王はついに、北京に念願の清王朝を建てるのです。

 女真族の建てた王朝といえば、宋を南に追いやった金がありますが、金は中国全土を支配したわけではなく、その時代も長くはありませんでした。ところが、清は中国全土どころかそれ以上の土地を支配したのです。その少ない人口から言えば、本当に奇跡的なことでした。
 庄助とアビアがその後どうなったかは、読んでのお楽しみにしておきましょう。

『日本の吹奏楽’77 Vol.2 中学編』
A.ボロディン(浜幸雄編):歌劇「イーゴリ公」よりダタン人の踊り(北海道・紋別中学)


ボロディン:歌劇「イーゴリー公」〜だったん人の踊り

A.P.Borodin:"PRINCE IGOR"〜Danse Polovtsienne 
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 本日の演奏会は「だったん人の踊り」で幕を開けましょう。アマチュアオーケストラの拙い演奏ですが、どうぞごゆっくり…ちなみに、このとびきり美しい旋律の作曲者ボロディンも、実は私達同様アマチュアなのです。
 アレキサンドル・ボロディン(1834〜1887)は、13歳でフルート協奏曲を作曲したり、家族や学校の友人等あちこちのアマチュア室内楽団でチェロを弾いたり、おまけにピアノの腕は玄人はだしだったり等、音楽の才能に秀でていた少年でした。しかし彼はあくまでも音楽は趣味と割り切り、大学では化学を修め、卒業後は陸軍病院の薬剤師などを経てペテルブルグにある大学病院に勤務し、また学者としても母校を始め医科大学の教授として教鞭もとっていました。そして、並行して同じくアマチュア作曲家(本業は陸軍将校)であるムソルグスキーなどと親交を深め、徐々に作曲家としても頭角を現していったのです。
 したがって、今日残っている彼の作品はすべて、そういった激務の合間を縫うようにして捻出した、限られた時間で作曲されたものなのです。でも作曲技術や作品の出来はプロ以上の水準で(同時代の「プロ作曲家」であったバラキレフより数段ポピュラーですよね)、残された作品群からはドイツ・ロマン派の流れを汲んだかっちりした構成にスラブ民族特有の熱さや旋律の美しさがブレンドされているボロディンの個性がはっきりと聴き取れます。
 当時のロシア国民楽派の作曲家は、音楽の題材としてロシアの歴史や人物を使うことが多かったようです(いわば「時代劇」)。ボロディンもその一人で、ロシア建国時代の英雄・イーゴリ公を題材にしたオペラに着想し、作曲を始めたのは1869年のことです。
時は12世紀、イーゴリ公はロシア南部に侵攻してきただったん人(=ポロヴェッツ人。東部モンゴルの遊牧民族)と闘って敗北し、だったん側の捕虜になってしまいます。だったん軍の将軍コンチャークは、捕らわれの身となってもなおプライドを失わないイーゴリ公に心を打たれ、捕虜転じて「客人」として宴の席を設け、手厚くもてなします。その時にだったん人の乙女による哀愁を帯びた踊り、だったん軍の兵士、さらにはロシア軍捕虜も加わった合唱(合唱は省略する場合もある)による情熱的に踊られる舞曲がこの「だったん人の踊り」なのです。
 この「イーゴリ公」はプロローグと4幕もののオペラで、時代劇と言いつつも、さしずめ大河ドラマに匹敵する?大作です。そして、ただでさえ「本業」で多忙を極めていたボロディンですから、いざ手掛けてはみたものの、完成するまでの道のりはとてつもなく遠かったようです。そういうわけでこのオペラは未完成のままボロディンは1887年にこの世を去ってしまい、リムスキー=コルサコフやグラズノフによる大掛かりな補筆の上オペラ「イーゴリ公」が初演されたのは、作曲者の死後3年経った1890年だったのです。