Classic−Music
Mischa Maisky ミッシャ・マイスキー 1948年1月10日、ラトヴィア(旧ソビエト連邦)生まれ。 チェロ奏者 |
無器っちょな俺は まるでリュリ つんぼの俺は まるでベートーベン 真似乞食の俺は まるでセバスチャン・バッハ 強欲な俺は まるでアルビノーニ でもね 君にゃ音楽は無理だね |
地方行政が運営するホール★『朝日町サンライズホール』 2001,4,12 ★〜一番、「祈り」に近い音がする楽器。〜 (「朝日町サンライズホール」掲示板への書き込み) 投稿者:久保AB−ST元宏 投稿日:2001年4月12日 14時40分 ◆私のつたないホームページの「日記」コーナーでも触れましたが、 ミーシャ・マイスキーが朝日町サンライズ・ホールに公演に来ます。 ・2001年 5月22日(火)ミーシャ・マイスキー IN 朝日サンライズホール ・2001年 5月25日(金)ギドン・クレーメル IN 札幌 ↑北海道のクラッシック・フアンにはたまらない1週間です。 なぜ、彼らが、同時期に北海道に来るのか? 東京で、アルゲリッチとの共演か、レコーディングがあるのでしょうか? また、クレーメルのライブにマイスキーが飛び入りするという楽しい想像もできます。 ◆それにしても、恐るべし、朝日サンライズホール! たった人口2千人の町で、 超大物の北海道公演を独り占めするなんて! ◆その謎の推理ですが、 先日、私が入手した中古CD『サン=サーンス/動物の謝肉祭』にヒントがありました。 ・・・これはあくまでも推理ですが、 そのCDはクレーメル、アルゲリッチ、マイスキーによる1981〜1987年の録音なのです。 ご存知のように、この3人はクレーメルが主宰するロッケンハウスの室内音楽祭の常連です。 で、その常連の一人として、このCDにコントラバスのゲオルク・ヘルトナーゲルが参加しています。 わたしは、ヘルトナーゲルのCDは、 『シューベルト/イタリア弦楽四重奏団「死と乙女」、ボザール・トリオ「ます」』をもっています。 彼は「ます」にゲストで参加していて、印象的な良い演奏をしています。 そして、別のアルバン・ベルク四重奏団とのCDでも、同じ曲でゲスト参加しているそうです。 !実はアルバン・ベルクは、2年ほど前に朝日町サンライズホールに、 これまた北海道単独公演に来ています。 もしかしたら、ヘルトナーゲルを媒介に、サンライズホールの評判を、 マイスキーが聞いていたとしたら・・・。まぁ、想像ですが。 マイスキー本人でなくても、エージェント間では情報のやり取りはしているでしょうね。 ★ブリテン『戦争レクイエム』! 1996年に、私はパリのバスチーユ・オペラ座で、ブリテン『ビリー・バッド』を見ました。 前衛的でありながら、機能的(?)にして美しい船の舞台美術。 ラストに天井高く、首吊りをする衝撃的な演出。 なんだか、エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』を思い出しもしましたが、 バスチーユらしい今日的で新鮮なオペラでした。 ただし、あそこはトイレが汚い。デザインが優先して、はずす小水が多い。
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クラッシック楽器★『チェロ』 2001,4,13 投稿者:久保AB−ST元宏 ★ふきのとうの「祈り」の音。★ Yeah!田原@BooxBoxさんと、2001年5月22日に朝日町でマイスキー、となりそうです。 で、先の田原さんのカキコで紹介されていた久米さんのHPで、 ミーシャ・マイスキーをめぐるチェロの話題が繰り広げられていたので、 私の意見を、久米さんにE−mailで送りました。 が、今、届いていないとの管理メールが来ていた! 田原さん、久米さんのメール・アドレス、教えて下さい。 さて、その内容は例によって、超・長文なので、 一部を下記に、抜粋します。 ↓ <堕胎児としてのチェロ> ロストロ・ポーヴィチ、カザルス、マイスキーと、ヨー・ヨー・マとの比較の件。 私は鈴木秀美は聞いたことがありませんが、 前者3人と比較してヨー・ヨー・マが「軽い」印象を持たれるのはサダメでしょう。 だって、3人の人生がヘビーすぎますもの。 しかし、アジア系のコスモポリタンとして、ヨー・ヨー・マもヘビーなサダメがあるハズです。 彼が90年代にピアソラを演奏しても、 どーもコマーシャリズムと結び付けられるのは、彼が悪いのではなく、 彼固有のスター性がなせるワザと判断すべきでしょう。 ですから、私は、ヨー・ヨー・マは、 この際、ライ・クーダーと共演すべきだと思います。時代はそこまで来ています。 チェロを「人間の声の音域に一番近い楽器」という意見がありますが、 低音の私としては嬉しいのですが(笑)、 チェロを選んだ上記4人たちが、皆、「国」「国境」「民族」に翻弄されている偶然に興味があります。 むしろ、私は「人間の声の中で、一番、”祈り”の声に近い音」と表現したいのです。 マイスキーは、 1948年に、ロシアでユダヤとして生まれ、 1966年に、18歳で、同じ境遇のロストロ・ポーヴィッチに認められ、 1972年に、イスラエルに移住。 私は1990年にパレスチナ旅行を経験していますが、 あの地を選ぶ誇りと、緊張感は、ユダヤ人ならではの「民族性」でしょう。 と、同時に私はマイスキーの生年1948年に注目したいのです。 この年は、私の記憶が正しければ(笑)、 ねずみ年で、日本では、全共闘世代のピークの学年です。 確かに、マイスキーの風貌はクラッシック音楽家というよりは、 ロック・ミュージシャンか、ビート詩人のようです。 1966〜1972年は、世界中でスチューデント・パワーが盛り上がった時期です。 当時のロシアでのマイスキーの生活や、政治へのかかわり、 影響を受けた芸術、イスラエルへの移住の理由などに、 私は大きな興味を持ちます。 どこかで、そのインタビューなどの資料があれば、紹介していただきたいし、 今回の来日の機会に、是非、取材してほしい点です。 先日、プラハの春の『ヘイ・ジュード』についてNHKで放送していましたが、 同じ青春をマイスキーは天才少年として過ごしたのですし。 |