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メディアの宿命としての共犯
I went down to
the media crossroads,
fell down on devil's knees !
text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2008年11月9日 日曜日 3:42Am)
オバマ後、麻生最中(がくっ。)に。
2008年11月 7日、筑紫哲也の死を報道する『筑紫哲也NEWS23』

うぇ〜ん!もちろん、今も昔もミーハーな私が筑紫哲也を知ったのは、
1978年4月2日からテレビ朝日で放送開始された
報道番組『日 曜夕刊!こちらデスク』だった。

当時の私は高校2年生で、新聞会とゆーやつに入っていたので、
新聞記者がテレビのキャスターになるというクロスぶりに仰天した。
朝日新聞が筑紫の追悼評伝の冒頭から書いているように、
「この国で、メディア間の人材移動の壁は意外に厚い。」からだ。
しかも、新聞とテレビでは当時はまったく異質で交流すら無かった。

もっと驚いたのは、それが面白かったことだ。ニュースが面白いなんて、
なんだか「悪いこと」のような気がした時代だった。
その面白ぶりは、なんとこの後継番組が『タモリ倶楽部』だとゆーぐらい。
『日曜夕刊!こちらデスク』の放映期間中1981年10月〜1982年9月に
パロディとして、「夕 刊」とゆー漢字がカタカナの「タモリ」に似てる
ゆーぐらいのシャレで始まった(のだと、私は思ってる・笑。)のが、
タモリ司会による『夕 刊タモリ!こちらデス』だ。
いろいろあって(笑)、なんとパロディ番組のほうだけが残った(がくっ。)。
それが1982年10月から、『タモリ倶楽部』として深夜枠に移行し て、
現在も続いているのだ。
1980年。どこからでも、始めることができると思っていた。
1980年8月の私の写真アルバム。
8月27日の、筑紫哲也と立花隆との公開対談を聴きに私は行ってる。
テーマは、田中角栄をモチーフとした「権力は必ず腐敗する」情況を、
ジャーナリズムが報道する義務と手法について。

当時の私は、札幌で浪人生活をしていたのだが、
ごらんのように、遊んでばかりいたよーだ(がくっ。)。

ちなみに一緒に写っている共犯音楽祭★Music〜音という抽象芸術♪『第4回 ツー・アウト・フルベース・コンサート』とは、
札幌のアマチュア・バンドが集まって自主企画し、
東京から気に入ったプロをゲストに呼んで、
合同で行った3日間のライブ・イヴェントのこと。
■頭脳警察の1972年3月に発禁処分にあったファースト・アルバム『頭脳警察1』★いいわけなんて、いらねぇよ。PANTA & HALらが東京から来 た。

映画やっぱ、映画館で観たい♪『狂い咲きサンダーロード』は、
石井聰亙(1957年生まれ、当時23歳。)の日本大学芸術学部の卒業制作。

それらを観ながら、私は早く東京に行きたくて、うず&うずしていた(笑)。
そしてこの年の12月8日、ジョン・レノンニューヨークで射殺される。
私は新聞と音楽と映画の中から、音楽を(とりあえず)選ぶことになる。
o
うぇ〜ん!もともと知ってはいたことだけど、
死亡記事によって、あらためて筑紫の高齢ぶりに驚いた。
私の中では、なんとなく、「兄貴」的ポジションだったのだが、
1935年6月23日生まれというから、むしろ私の「親」の世代だった。

『朝日新聞』の死亡記事などは、
「数少なくなった戦争を知るジャーナリスト世代」と、
まるで戦中派のようなーじじい扱い(?)。
確かに、敗戦時の彼は10歳だし、
筑紫が1989年に朝日新聞を退社してから19年も経っているのだから、
現役の朝日新聞の記者で記者・筑紫を知らない世代も多いのだろう。

つまり、驚くべきは私自身の高齢ぶりにも、か。がくっ。

で、今さらながらに気がついたのは、
筑紫と小説家のパラパラ・・・柴田翔は同じ1935年生まれ、だとゆーこと。
ここ数日、柴田翔のことを考えていた私には、符合、だった。
『メディア —それは何だったのか』から、はみだしてゆくあの午前4時の3回で。

いつまでたっても読み始めの、『ゲーテは何だったのか』から、はみだしてゆくあの午前4時の3回で。
1995年4月5 日 『朝日新聞』
柴田翔の「ゲーテを追って迷い込んだ世界」と題したエッセイの一部。
柴田は同年3月に東大教授を退官し、4月から共立女子大教授になった。
柴田の長い東大生活の「総括」のような文章。
引用の最後に書かれている「さまざまな事件」とは、
同年1月17日の「阪神・淡路大震災」や、3月20日の「地下鉄サリン事件」など のこと。
うぇ〜ん!柴田は1月19日生まれなので
6月23日生まれの筑紫よりは1学年先輩だが、
東大在学中に工学部から
文転(=理系から文系に鞍替えすること。)して独文科を卒業し、
1960年、同大学院独文科修士課程修了、助手となる。

筑紫は1959年に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業して、
朝日新聞社の政治部に入社したのだから、やはり、
人生のスケジュールを前後させつつの同じ1935年生まれの人生だ。

この二人は敗戦後のインテリのパラレルな「生き方」の
モデルケースである、と私は思う。

柴田は、1961年に『親和力研究』でゲーテ賞を受賞、翌年ドイツ留学。
筑紫は政治部の後、返還前の琉球(沖縄)特派員、ワシントン特派員。
柴田のドイツと、筑紫のアメリカは、それぞれの思想形成に
それぞれの複雑な好悪の感情を含めて生きているのだと思う。

それは母国ニッポンとともに敗戦した世界の田舎としての、ドイツと、
母国に勝ち、政治のみならず文化のすみまで犯し続けているアメリカ。
どこまでもストイックに考え続ける冬の国としてのドイツと、
無邪気なまでにどこまでも開いてゆく夏の国アメリカ。

1935年世代の東大生には大江健三郎もいる。大江は大学在学中の
1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。
テレビ演出家で、のちに小説家としても大成する久世光彦も、
1935年生まれで東京大学文学部美学美術史学科卒。
柴田も1964年に『されど われらが日々—』で第51回芥川賞を受賞。
1935年生まれ東大出身者の文学偏差値の高さに、ただ驚いてしまう。

特に『されど われらが日々—』は、約10年間に渡る
ロングセラーとなり、この時期の若者に熱狂的に指示される。

しかし、柴田は1975年の小説『ノンちゃんの冒険』以後、
ほとんど小説を書かなくなる。
ゲーテを研究するドイツ文学者として東大の教授職に専念するのだ。

うぇ〜ん!柴田が「表現」から手を引いた直後の1978年、
筑紫は外報部次長時代にテレビ番組『こちらデスク』に登場してくる。
まるで、舞台から役者が変わったかのようだ。

それは、オウム真理教「事件」に対して、
上記に添付したエッセイのように
どこまでも自分の内面の抽象化で本質に迫ろうとする柴田と、
現場としてのジャーナリズムのスタンスを律し続けた
優れたパフォーマーとしての筑紫の、
それぞれの本能的対応の差に現れていると思う。

もちろん、そのどちらが正しいか?では、ない。
その両方を持てた我らの時代の幸福を記憶しておきたいのだ。
ああ、そうだ、『オウム —それは何だったのか』から、はみだしてゆくあの午前4時の3回で。
1996年3月26日 『北海道新聞 夕刊』
筑紫哲也が死んだ日、ジャーナリストの田原総一郎(74歳)は
朝日新聞の取材に対し、本件に対し、
「発言後も出演を続けるのはおかしいという批判もあったが、
出続けるのが彼のやり方だった。」と振り返り、
「頼りになる戦友を失った。」と語った。

うぇ〜ん!私が今夜、考えていることは、「ま るで、舞台から役者が変わったかのよう」に、
閉じた柴田と、開 いた筑紫が交差した1970年代中盤、という時代の思想的 位置付け、だ。
苺畑から、はみだしてゆくあの3回で。 柴田の若きブレイク作であり、代表作である小説『されど われらが日々 —』が売れまくった1964年から1974年の10年間とは
まさに、新左翼が公然と武装闘争を行うためにセクトが分裂しつつ生まれ、膨らみ、
その素性ゆえに内ゲバで消滅していった時代であった。

私は柴田の思 想的破産がこの時期にあったのではないかと想像している。
それを準備したのが、柴田の代表作である1950年代のインテリを描いた小説『さ れど われらが日々—』と、
1970年代初頭の過激派を描いた小説『われら戦友たち』との間の時代、つまり 1960年代だったと思う。

柴田が、まさに筑紫の前でその時代の総括をした瞬間が、下記に引用した対談だ。

パラパラ・・・『全共闘 —それは何だったのか』
(1984年12月15日、初版、現代の理論社)

『全共闘 —それは何だったのか』から、はみだしてゆくあの午前4時の3回で。読み始めの、『全共闘 —それは何だったのか』から、はみだしてゆくあの午前4時の3回で。
筑紫哲也がホストになり、作家 の柴田翔から話を聞きだしている。
ここで語られているのは、1960年代後半の日大闘争と東大闘争の違い。

2008年11月7日午後1時50分、東京・中央区の病院で肺がんのため亡くなった。73歳だった。 うぇ〜ん!研究室に閉じこもった柴田とのコントラストを強めるかのように、
筑紫は世界へと開いていった。

軽薄にも「越境」という言葉を使わせてもらえば、
筑紫はジャーナリズムからサブ・カルチャー側へと越境した。
同じことをしていたかのように見える『ニュース・ステーション』の
久米宏はサブ・カルチャーからジャーナリズム側へと越境していた。

それは、ジャーナリズムもサブ・カルチャーも多様化した1980年代を
迎えていたから、二人は時代に求められていたのだろう。

しかし、また問われるのは、ジャーナリズムとは何か?で、ある。
越境と、飲み込まれるは、まったく別のことだ。
筑紫哲也がぶれなかったのは、ジャーナリストだったからだ。

うぇ〜ん!ジャーナリズムとは、
常にリアルに世界に開いてゆく姿勢のことだと思う。
その時に求められる力は、「知識」、「研究」、「分析」、そして「表現」だ。
筑紫はそれらのバランスがとれていた。
そして彼は、テレビの前の我々には常に「表現」者として登場していた。
それが私が先ほど書いた「優れたパフォーマーとしての筑紫」、だ。

筑紫以前はニュース・キャスターが持論を語るのは禁じられていた。
同じ理由で、ニュースにBGMや過度な演出効果は避けられていた。
しかし、「伝えたいこと」があるならば、その努力は必然だ。

それが、それまでの「原稿読み」との決定的な差だ。
それまでのニュースは誰が原稿を読むかには匿名性が求められた。
新聞記事も無署名であることが、
あたかも記事の客観性を保証しているかのようだった。

しかし、客観的な報道など、幻想なのだ。

だから我々は、筑紫がニュースを伝える時間を待ったのだ。
それを「表現」と名づける時、
私は筑紫と同じ1935年生まれの表現者を想う。

今、私は柴田翔が研究室から出てきて、
ふたたび小説を書き出すのを待っている。
葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く。喪主は妻の房子(ふさこ)さん。