友歩会名古屋編Part1・下見&例会レポート 
   H24.12.22(土)下見&H25.2.2(土)例会
天気:下見:雨のち晴れ(9名)歩数:27,604歩 例会:小雨後晴れ(39名)の歩数:30,672歩 

コース:名鉄本線堀田駅(惣作公園9:00)9:15発→田光八幡社→大喜寺→津賀田神社→山崎川→大曲輪貝塚→
    あゆちの水→西八幡社→コミュニティ道路(天白川から山崎川への放水路の跡地)藤原師長謫居跡→為麿塚→
    惣作公園→堀田駅 コースマップ・pdf)参照


用語解説:

田光八幡社大喜寺津賀田神社山崎川大曲輪貝塚あゆちの水西八幡社藤原師長謫居跡為麿塚惣作公園
友歩会(HP)下内田貝塚瑞穂古墳群(2号墳)中根銅鐸発見地藤原師長公謫居跡亀井水
コースマップ・pdf・参照)明治24年現況図年魚市潟WEB尾張名所図会(萩の名所)井戸田村山車の由来
友歩会・全員集合① 瑞穂運動場にて全員集合(写真は片岡さん) 片岡さんのホームページ



名鉄堀田駅001

惣作公園(受付)左は瑞穂生涯学習センター064

秋月院の門006

田光八幡社008

田光八幡社nap2008

大喜寺・地蔵堂nap2016

ムクノキとエノキの和合の木(八幡社内)t012

田光八幡社内の楠・樹齢千余年t015

弘法7本楠(田光八幡社内)017

大喜寺018 コースマップ・pdf

田光八幡社・樹齢1200年以上の楠nap2016

大喜寺・石仏地蔵(解説は下記参照)020

津賀田神社(解説は下記参照)022

津賀田神社・本殿nap2020

津賀田神社へt024

あゆちの水の碑t040

津賀田神社・本殿025

天聖寺026

山崎川(奥は瑞穂運動場)029

瑞穂公園案内図(中央は山崎川)033

山崎川034

瑞穂競技場前で小休憩035

大曲輪貝塚036

あゆちの水(伝承地)038

あゆちの水の標識タイルnap2027

東児童公園042(昼食は当日雨天模様の為瑞穂野球場に変更)

西八幡社nap2028

西八幡社045

藤原師長謫居跡052

亀井水054

歯痛地蔵尊t056 右下

058龍泉寺(下記説明参照)

行基の開山とも伝えられ、曹洞宗、熱田円通寺の末寺。
本尊薬師如来は聖徳太子作と伝えられる。

源頼朝の誕生地であるという説があり、表門脇の亀井水は、
頼朝が産湯の水に使ったといわれている。

また境内には昭和58年まで残っていた大黒塚の塚上にあっ
た大黒石(原始五輪塔という説もある。)という古石が保存
されている。

コースマップ・pdf)参照

龍泉寺t057

剣塚t059
(武士の塚)

龍泉寺本堂nap2034

長岡為麿nap2038

t060
コースマップ・pdf

為麿塚t062
都市景観保存樹(楠)nap2w012  topへ
友歩会・全員集合(2013.2.1瑞穂運動場)nap2w026 topへ
井戸田村山車の由来nap2w037 topへ

惣作公園(愛知県名古屋市瑞穂区惣作町2−25) topへ
街区公園、0.36ha、1983年開園
3年間に及ぶ下水工事か完了(2010年春)。下水処理容量を向上させる工事も終わり。
局所的な大雨などの災害に対応できる。設備は地下なので、地上の公園は以前より綺麗に整備された。

 名古屋市:ふるさと歴史のみち(瑞穂区)参照

秋月院:曹洞宗。本山は永平寺。慶長3年(1598)熱田の地に創建され、昭和13年現在の地に移転した。 本尊は愛敬薬師瑠璃光如来で弘法大師の作と伝えられている。 境内には秋月院殿花顔桂秀大姉の「へそのを」をまつったとされる碑がある。
田光八幡社 topへ
田光神社(たこうじんじゃ)
所在地:愛知県名古屋市瑞穂区大喜新町3
主祭神:仁徳天皇
田光神社は、名古屋市瑞穂区大喜新町にある神社。「田光八幡社」とも称する。
由緒:創建は不明。熱田神宮の真東の鎌倉街道沿いにあり、熱田神宮の遙拝所であったと伝えられる。
     かつては神宮寺、高座宮とともに熱田神宮関連の神事が行われていた。
延久年間(1069年-1074年)、守部第十九代彦正が八幡社を勧請した。守部氏(大喜氏)は
大碓命の子孫で、朱鳥元年に初代守部宿彌孫谷が社職となり、代々正六位大内人として熱田神宮に社職
として、明治4年まで奉仕した。
祭神: 仁徳天皇、応神天皇
●境内には枝に体を寄せお願いすると痛いところが癒えるという欅の木と「夫婦和合の木」という椋
 と榎の木がある。(ムクノキとエノキの和合の木)
●尾張名所図会の記載によると高さ約40mの大きな楠は、弘法大師お手植えの七本クスノキの一本
 とされ、木の根元には白龍が住んでいると伝わる。
コースマップ・pdf)   topへ
大喜寺  topへ
本尊の大日如来は、昔弘法大師が勧請した五仏の一体で、古来熱田神宮の本地仏といわれた秘仏です。
また境内にある地蔵堂には鎌倉時代に作られたといわれる、鎌倉街道沿いにあった地蔵菩薩像が安置
されています。900年を越える年月によってかなり風化していますが、今でも原形はとどめていて界隈
を見つめています。(この石仏は自然石での坐像で鎌倉時代の作と伝えられ、市の重要文化財に指定
されている。)又、瑞穂小学校が天聖寺に移る前、しばらくここを学校として使用していたそうです。
津賀田神社 topへ
社名:津賀田神社(つかたじんじゃ)
 住所:愛知県名古屋市瑞穂区津賀田町3-4
 祭神:仁徳天皇、配祀:天照大神
 創建:不詳
 例大祭:10月第2日曜
 若宮八幡宮、津賀田天神とも。創建は11世紀前後?
 神社は大きな前方後円墳の古墳の上に建てられている。このあたりは尾張王権の本拠地であり、すぐそばを
鎌倉街道が通る古代からの要所なので、古墳も尾張氏かその関係者だろう。境内の一部が児童公園になっている。

 古木がうっそうと繁り荘厳な雰囲気のこの社は、仁徳天皇を祭神に天照大神を配祀する。 若宮八幡あるいは井戸田八幡とも称され、神社は古墳の上に建てたと伝えられる。 この辺りは松原が長く続き長森とも呼ばれ「本国神名帳」には従三位津賀田天神と呼称されたとある。 龍泉寺から発見された社宝の古写大般若経六百巻は、戦災で十巻余を残し焼失した。 奥書によれば500から800年昔のものである。境内には浜神明社のものと対をなす斗帳寄進碑がある。 ふるさと歴史のみち(瑞穂区)参照topへ
天聖寺:ふるさと歴史のみち(瑞穂区)参照 曹洞宗、熱田円通寺末。円通寺十四世活水昇竜禅師の開山。門前には付近の路傍にあった石仏が寺預 かりになって並べられている。これらは明治末年よりの宅地化とともに、だんだんと集められたもの が多い。
山崎川 topへ
愛知県名古屋市千種区の平和公園内にある猫ヶ洞池などに源を発し、南西方向の昭和区、瑞穂区、南区
へと流れ、港区で名古屋港へ注ぐ。
名古屋市瑞穂公園のある中流域までの川沿いには広範囲に渉って桜の木が植えられており、「山崎川
四季の道」として日本さくら名所100選にも選ばれている、市内屈指の桜の名所である。1987年
(昭和62年)に旧・建設省(現・国土交通省)から「ふるさとの川モデル河川」に選ばれている。
コースマップ・pdf

大曲輪貝塚  topへ 大曲輪(おおぐるわ)貝塚は山崎川の左岸堤防沿いの陸上競技場側にあり、昭和14年総合運動場設置工事 に伴い発見され、数回の発掘調査に加え、最近では昭和55年競技場スタンド建替えに先立って発掘調査 が行なわれた。 本貝塚遺跡の範囲は東西約30m・南北約130mの平坦な畑地で、標高約7mの弥富丘陵西側末端に辺り、縄文 前期の本貝塚のほか、周辺には縄文晩期から古墳時代にわたる数多くの遺物が検出されている。 本貝塚は名古屋市内では最大級の貝塚として昭和16年に国の史跡として指定・保存されている。 貝塚自体は東西約20m・南北約18mの広がりを持ち、厚さ30cmほどの貝層からはカキ・ハマグリ・ハイガイ・ アサリを中心とした貝類やイノシシ・シカなどの動物遺骸・魚骨などが出土した。 土偶片は縄文前期・晩期のモノが6体見つかっている。叉甕棺墓群・竪穴住居跡などの遺構も発見された。
あゆちの水 又、下記解説参照 topへ 万葉集に詠まれた尾張の名水「小治田の年魚道の水」伝承地。径1m、深さ3mほどの井戸で、日照りの時 も枯れたことがないと言われている。 当時の名古屋港沿岸は年魚潟(あゆちがた)と呼ばれ、後の県名(あいち)の語源にも成っている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 「あゆちの水」は、万葉集の巻13-3260  作者不詳の歌にうたわれている。  小治田の年魚道の水をひまなくぞ 人は汲むとふ時じくぞ   人は飲むとふ汲む人の ひまなきがごと飲む人の   時じきがごと吾妹子に わが恋ふらくはやむ時もなし。   尾張名水の一つ「小治田の年魚道水」(おはりだのあゆちのみず)の推定場所である。「あゆち水」 歌碑の下段に万葉歌が原文のまま刻まれている。碑は、昭和11年(1936)4月 「横江信行建立」と 銘が彫られている。、 この歌の地名について、契沖の「万葉代匠記」では、「小治田」を「尾張田」、「年魚道」を「愛智」 と見る尾張説をとなえている。これに対し、沢潟久孝、土屋文明らは、大和説を唱えている。 松田好夫は「万葉集における東海地方」や「小治田の年魚道の水」の著書では尾張説の主張している。 topへ 参照あいちの地名解釈 年魚市潟(あゆちがた) 『尾張名所図会』の年魚市潟  愛知郡の海辺(現在の名古屋市熱田区から南区)のことを年魚市潟と呼んでいるが、古歌には知多の 浦や氷上(現在の緑区大高町)あたりも含まれている。したがって、年魚市潟は熱田から知多のあたり までを含むことになる。年魚市潟が紀伊国の名所とあったりもするが、『日本書紀』をみると年魚市は ここの地名であることは確かである。 年魚市潟は熱田区から緑区の範囲に広がっていた遠浅の海岸線のことを指していたと思われる。 しかし、現在、年魚市潟と呼ばれていた範囲は新田開発などによって陸地となっている。この年魚市潟 は『万葉集』に「年魚市潟 潮干(しほひ)にけらし 知多の浦に 朝こぐ舟も沖に寄る見ゆ」とあり、 その歴史は古い。この「年魚市(あゆち)」は「愛知(あいち)」の語源になったと言われている。 また、熱田(あつた)の語源も年魚市潟(あゆちがた)が由来であるとする説もある。 「万葉集に歌われた年魚市潟を訪ねて」youtyube topへ
西八幡社(愛知県名古屋市瑞穂区軍水町3-1) ★topへ 総本社:宇佐八幡宮(大分県宇佐市) ご祭神:品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)※[別名]応神天皇(おうじんてんのう) ご祭神について:品陀和氣命:第15代天皇、皇祖神や武神(弓矢神) ※[八幡神]農耕神、海の神 ご利益:出世開運、武運長久 他 参拝形式:二拝二拍一拝
藤原師長謫居跡 topへ 平成6,2,11名古屋市瑞穂区役所発行、瑞穂区誌によると、井戸田に配流された藤原師長 は、冶承3年(1179)、出家して理覚と称した。 彼42歳のときである。翌4年赦され京に帰るとき、横江某の女、槐女は土器の里 (現西枇杷島町)まで見送り、師長も形見として守本尊薬師如来となじみの白菊の琵琶 を槐女に手渡して別れを惜しんだ。槐女は悲嘆の末、「四つの緒の調もたえて三瀬川沈 み果てぬと君に伝へよ」の一首を琵琶の甲に書きつけ、そばの池に身を投じた。 村人はこの池を琵琶池と称したと伝える。 師長は槐女の菩提のため一宇を営んだのが、清音寺(現西区東枇杷島町)の起源という。 なお、井戸田の北北東の地で16歳のとき剃髪(ていはつ)し流泉尼と称し、長江山願王寺 という寺を建立。90歳まで長寿を得たともいう(山田寂雀「瑞穂区の歴史」) 建久3年(1192)7月19日、師長は55年の生涯を閉じた。 法名を「妙音院」と称した。 経学、弦律の才を備え、琵琶の譜「三五要録」、琴の譜「仁智要録」がある。 師長にちなんだ町名として、瑞穂区内に師長町、妙音通がある。
為麿塚 ★topへ 長岡為麿は、元禄時代に熱田神宮の祀官として熱田神宮復興に力を尽くした。退官後、 当地で神道の普及に努め、大衆の信仰心を高めた。書道の神様としても知られている。       【井戸田学区連絡協議会】 <長岡為麿閑居の地> 「瑞穂の史跡(名古屋ライオンズクラブ)」による。  為麿は元禄期(1688〜)の熱田詞官であり復興の功労者でもあった。彼が老後職を 辞して閑居したのがこの地で、付近には墳墓と呼ばれる為麿塚とか祠(ほこら)とかが 残されていた。ここで唱え出したのが彼一流の神道で、俗衆の信仰を得て大いに流行し たということだ。しかし天野信景などの識者からは委託批難されて「附会妖異のことを 以って愚俗を欺く」などといわれている。悪くいえば山師的の性があったのかもしれない。
   topへ    (コースマップ・pdf
★瑞穂運動場にて全員集合(写真は片岡さん)    ★topへ


★瑞穂運動場にて全員集合(写真は寺沢さん、私は2段目右側です) 

下内田貝塚 topへ
瑞穂古墳群(2号墳) topへ
中根銅鐸発見地 topへ
藤原師長公謫居跡 topへ
コースマップ・pdf
亀井水
 
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明治24年現況図  topへ

右側の▲は(中根3城)上から中根北城・中根中城・中根南城。(各城の解説は右下の解説をご覧ください。)
グリーン(右側)は平針街道。左の縦は鎌倉街道。薄茶色は今回のウオーキングコースである。
左端に熱田神宮が見える。その左が堀川でありその右側は精進川(新堀川)。右下の川は天白川。
中央が山崎川。
熱田から東海道が東に延びて山崎川から南下して笠寺に至り、鳴海方面に通じている様子が分かる。
また、熱田から南方の低湿地地帯に多くの新田(図書新田、仁右衛門新田、熱田伝馬新田、長三郎新田、
戸部下新田、氷室新田、明治新田等)が開発されている事が分かる。
現在では殆どが住宅地などになっていて新田開発の面影はない。
また、愛知の地名は『地名用語辞典』によれば「年魚市」から来たとされている。
参照あいちの地名解釈)(万葉集年魚市潟

1 年魚市潟説・・・『尾張国?風土記』(本文にどこの風土記かの説明がない)の俗謡から来た
          年魚市潟とは鳴海浦から熱田台地南方の浅い海。尾張氏の勢力圏で熱田神宮に
                   深い関わりが。
          柳田國男は『万葉集』「年魚の風」から「あえ」=神からの幸。

2 あゆちの水説・・『万葉集』「あゆちの水」を湧水と解釈した『尾張誌』
                   (天保13年編纂の地誌)記事から。
          名古屋市南区にある笠寺台地から湧く水から。年魚道
上記用語解説参照
山崎川を望む段丘上に位置する下内田貝塚などからみてもこのあたりは遠浅の海辺であったことが分かる。
年魚市潟(あゆちがた)がこのあたりを指していることも解説された。
(2013.2.1友歩会・明治24年の現況図参照)
  (参考:名古屋を歩こう参照) 

万葉集:年魚市潟(あゆちがた)2首

桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る(作者: 高市黒人(たけちのくろひと)
(桜田(さくらだ)のほうへ鶴(たづ)が鳴き渡っていきます。年魚市潟(あゆちがた)は潮がひいた
  ようです)
(桜田は、いまの名古屋市南区元桜田町・桜本町・桜台町あたりの地を言います。)

年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ(作者: 不明)
(年魚市潟(あゆちがた)は潮がひいたようです。朝、知多の浦を漕いでいた舟も沖のほうに行って
  いるのが見えます。)
(「知多の浦」は、今の愛知県東海市・知多市あたりの海辺をいいます)
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中根中城の周りは堀がめぐらされている。また中根南城の周りの堀は、二重に堀で囲われている様子が分かる。(土地宝典昭和11年参照)
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尾張名所図会(nap2w023 萩の名所)  topへ


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