天文の不思議・なぜ

 

天文学のはなし
1. 暦はどのようにして作られたか
 
     1年、12ケ月、365日。 1月30日、大の月と小の月。1日24時間。一週間7日など、暦は周期的に巡ってきますが、この暦はどのようにして作られた のでしょうか。  
  古代エジプト人はナイル川のほとりで農耕を営んでいましたが、このナイル川が毎年決まった時期に氾濫をおこし、たいへん困っておりました。季節のないこの熱帯地方で何とか、氾濫の起きる前に収穫ができるように、種まきの時期を決めな
ければなりません。そこで彼らは、この氾濫の時期が、丁度夏至の頃におこり、全
天で最も明るく輝いているシリウスが、丁度、太陽が昇る直前に東の空に上がって
くる頃と一致していると言うことを発見しました。かれらはこの時期が360日の周期で起こることから、一年を360日としました。これが太陽暦のはじまりです。
やがて、正確には、一年、すなわち、地球の公転周期が365.24日であることがわかってきたのですが、この頃の必要とする暦の精度からすればこれで十分でし
た。
  一方、月は満ち欠けを繰り返しながら、夜空で輝いています。これは、約30日の周期を持っていることは、すぐに理解できます。正確には29.5日ですので、一月を30日と29日の月にわけますと、12ケ月でだいたい一年になります。ところが、季節の周期、例えば、夏至の日の周期と比べると月の数が足りなくなるために、閏月というのを設けて調整してきました。
  ちなみに月のはじめを1日というのは、朔日(ついたち)のことで、月が太陽と地球の間に入り、衝立(ついたて)の役割をしているところからつけられた名前です。

  1日の長さが24時間であるのは、これは地球の自転にもとづくものです。この自転周期の長さは、夏も冬も変わりませんので、これを表示するのに、1日を24分割して時間表示をしています。24という数は、12の倍数ですが、この12は古代バビロニア人が好んで使用した60進法から来ていると言われています。60を5で割った数が12です。12は2,3,4,6の倍数であり、ものを分割するときに非常に公平に分配できる数字です。ですから、12の倍数にしておけば、いろいろなケースで分配が可能ということになり、争いがないと言うわけです。12進法は、古代人の生活の知恵から生まれたものと言えます。

 

2. 方角はどのようにして発見されたか
     地球の自転軸を基準にして、北極、南極の方向をきめています。地球の内部には、地場が存在し、磁力線が南極から出て、北極に入っていることはご存じの通りです。地球全体が一つの磁石になっています。どの天体もこのような磁気をもっていますが、では、その地磁気はどうして起きているのでしょうか。これは、地球の
内部の溶融鉄か磁気を帯びており、これが、地球のなかで流動しているからと言われています。
 なお、北磁極は北カナダにあり、地理学上の北極から緯度で11.5度ずれていること、また、磁極は長い地球の歴史のなかで反転することも確認されています。
3. ストーン・ヘンジとは何か
  イギリス・イングランドの南部、ロンドンの南西部にひろがるソールズベリー平原の
なかにある環状列石の遺跡。
 全体は直径が115㍍の円形からなり、注意の囲む土手の中央に、サーセン石と
いわれる長方形の石が円形に30ケほど立ち並んでいます。サーセンの高さは5.5㍍、重さは25㌧もある巨大なもの。4500年前に建てられたと言われています。
あの有名なホーキンスがコンピューターを駆使して、当時の夏至、冬至、春、夏のそれぞれの時期の太陽と月の位置関係をシュミレーションし、その石の配列が、天体観測に使われたものであろうと示唆しました。
 こうしたことが出来るのが古天文学の醍醐味です。
4. 星座はどのようにして作られたか
    バビロニア南部に栄えたカルデア人は、星を占うために明るく目立つ星々を繋
いで、羊やうし、さそりなど身の回りの動物の姿を星空に描き、遊牧生活を営んできました。また、古代ギリシア人はギリシャ神話の世界を夜空に写し、壮大な物語をつくってきました。
 いま、全天には88の星座がありますが、それらの中心となっているのは、北半球のものです。ほとんど文明に出くわすことのなかった南半球の星空も、16世紀の大航海時代に盛んにヨーロッパ人が大西洋やインド洋、さらには太平洋に進出してきますと、船の航路を知るのに、星空の観測が必要となり、南半球の星空にも、いろいろな星座が誕生しました。六分儀とか、帆とか言った、航海に関係のある星座が南半球に見られるのはこのためです。
5. 古代人の見た日食とは
   天に輝く太陽が突然姿を隠し、一瞬のうちに闇夜に包まれてしまう日食は古代人にとってまさに天変地異の兆候として極めて恐ろしい事件であったものと思われます。こうしたことが、数多くの古文書に記録が残されています。

 旧約聖書「アモスの書」には、つぎのような記述があります。
 主なる神は言われる。その日には私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、… 
とあります。そして、これは「ゴサンの市のイシディ・サガレの時に、アッシリアのこの市で暴動が起きた。シバンの月に太陽が欠けた」とし、日食が暴動を引き起こし、世の中の乱れのもとになったとあります。これは、紀元前763年の出来事です。

 一方、ギリシアでは、詩人アルキロカスが、「オリンポスの父・ゼウスは真昼から夜を作り、輝く太陽の光を隠し、恐れのみが人々の上にきた」と記述しています。これは、紀元前648年の日食のことを表現しているものと思われています。このときの日食は中国では、「春秋」という記録書に記載されています。

  また、ギリシアのターレスという哲学者が日食を予言し、これにより長い間の戦争が和解したという話が、ヘロトドスの「歴史書」に見られます。
  「そのこにろ戦争がリデア人とメデア人との間に起こり、五年間続いたが決着がつかなかった。その間メデア人はリデイ人から多くの勝利を得、またリデア人もメデア人から多くの勝利を得た。しかし釣り合いがどちらかに傾くことはなかった。さて第六年目にまた合戦が激しく行われた時に、突然昼が変じて夜となった。これはミレトスのタレースが予言していたことであった。かれはそのことの起こる年を正しくイオニア人に告げて戒めていたのである。メデア人とリデア人とは、この天変により戦いをやめ、喜んで和議に入ることを承知した」とあり、日食が戦争の集結に一役かっためずらしい記録があります。
6. 地球が丸いことを誰が発見したのか
   古代エジプトのエラトステネスは、ナイルのシエネという街(今のアスワン)のある井戸では、夏至の太陽が井戸の底まで照らすことを知っていました。かれは、シエネの北にあるアレキサンドリアで、その夏至の日の正午に、太陽の影が、図の真上から7゜12分の傾きを持つことを測定しました。このことから彼は、シエネとアレキサンドリアとの距離が地球を球とした時には、その全周の50分の1になると考えました。この二つの都市の距離は、正確に測定されていましたので、その距離から地球の全周は約39,800キロという結果を得ました。現在の値は、極まわりで、39,900キロですから、いかに正しい値であったかが伺い知れます。
7. 古代人の宇宙
    「エジプト」 古代エジプト人は天の女神ヌートが大気の神シューにささえられこの世界が出ていると考えていました。天空は女神ヌートの身体で、月や星はその胸や腹からつり下げられており、その中を船に乗った太陽神ラーが、昼は天上を、夜は地下を繰り返し巡っていく世界を描いていました。

  「バビロニア」 紀元前30世紀チグリス、ユーフラテス両河川の河口地方に栄えたバビロニアはカルディア人たちの国家でした。かれらはもともと羊飼いで、羊の晩をしながら天を仰いで遊牧生活をしていました。このため天体の動きには非常に詳しい知識をもっていました。彼らは、日中の灼熱の猛暑をもたらす太陽神シャマシュよりも、太陽の神が去った後、心地よい涼しさを恵んでくれる月の神シンが昇った来るのを待ちわびていたと言われます。このため、月の満ち欠けや、その周期について非常に詳しい観測を行い、太陰暦を発明し、これを生活のリズムとしてきました。また、5惑星に月と太陽を加え、一週間を7日としたのも彼らと言われています。

  「インド」 世界は巨大な蛇と亀によって支えられ、亀の上には像が半球状の大地を支えていると考えていました。大地の中央には須弥山(しょみせん)という高い山がそびえていました。同じ様な考えが、中国にもあります。
8. 天変占星術とはどんなものか
   占星術は、「天体によって個人や国、民族の未来を予測する術」というます。天多いを取り扱うところから、天文学の生みの親だとか、天文学の不肖の子だと言われることがありますが、占星術は天文学という科学とはまったく異質の、未来の予測が出来るという信仰めいた考えにもとづいて、天体現象や天文学で明らかにされた法則を利用したものに過ぎません。

 惑星の動きを観測し、これらの星が星座のなかで占める位置や、日食や月食を予測し、これと国の未来とを結びつけ予言するのが天変占星術です。古代の王はこうした占星術の予言に従って、政を行っていたのです。占星術が国の運命を左右したのですから、占星術師たちは命がけで星の観測と予測をしていたのです。
9. 占星術は役にたったか
    天変占星術の重要な仕事は、まず天変を観察することでした。さらに昔起こった天変を調べることも必要なことでした。したがって、記録された天変の量は、驚くほど膨大な量になりました。

  西洋では、バビロンにおける天変の連続観測を最後として、まったく途絶えてし
まったのに対し、中国や朝鮮、日本ではかなりのちまで観測が続けれられたため、貴重な資料をのこすことになりました。この資料はその後の天文学研究に非常に役に立っています。例えば、ハリー彗星の運動を調べたり、流星雨の起こる周期を求めるために、これらの古い観測記録が使われました。

 

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