滋賀県彦根市尾末町1−59(彦根城前)
平成18年4月10日
滋賀縣護國神社由緒沿革
当神社は明治9年招魂社として創始せられ戊辰東征の役戦死者青木貞兵衛頼実之命以下26柱を鎮祭し爾来西南の役日清日露の戦ひを始め■次の戦役事変殊には大東亜戦争に斃れたる本県出身の英霊を鎮祭す
昭和14年4月内務大臣の指定に依り滋賀県護國神社と改称し次いで昭和23年時勢の推移に伴ひ沙々那美神社と改称せられしも昭和28年再び滋賀県護國神社の社名に復し現在に至る
(説明板より)
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父の像 (滋賀県遺族会青壮年部) (平成18年4月10日) |
平和を願う
戦争で幾百万という兵士が死んだ
兵士には父や母があり妻や子がいた
その子供達は父のいない家庭に育ち
父がほしいと何度か思って大人になった
そして自分達で父の像をつくった
異国で散った兵士も遺された家族も
願いは一つ平和であった
父の像に捧ぐ 詞 我孫子元治
おとうさん
あなたに抱かれたことのない子が
あなたの遺骨を抱いたとき
おとうさん
あなたの無言の帰還を迎えて
あなたのきびしい声を聞いた
おとうさん
あなたの遺志を継いだ子が
あなたの霊に改めて誓う
おとうさん
あなたの抱き続けた平和への祈りを
あなたの子として祈り続ける
滋賀県遺族会青壮年部
(副碑より)
夫婦梅 (平成18年4月10日) |
夫婦梅
この梅の木は彦根市と親善都市としての友好を誓ひあった水戸市民有志2組の結婚された人が其結婚記念として寄贈されたもので夫婦梅と名付け其馥郁たる香を永く社頭に漂はせる事でしょう。
昭和45年12月
(説明板より)
平和の礎 シベリア強制抑留者慰霊 滋賀県知事 國松善次 謹書 (平成18年4月10日) |
碑文
悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和20年8月15日を以って、終結した。
然るに旧ソ連は、協定を守る事なる60余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し、長期に及ぶ過酷な重労働を強制した。
飢えと寒さと生地獄の中、祖国日本への帰還の願い空しく、本県出身者4百余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。
誠に痛恨の極みである。
辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員、遺族等の賛助を得て、ここにこの碑を建立する。
平成12年11月吉日
滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会
(副碑より)
第20号掃海艇慰霊碑
滋賀県近衛歩兵第1連隊会・奉納灯籠
石部隊独立歩兵第11大隊・北支沖縄戦歿勇士慰霊碑
拓魂碑
満洲開拓青年義勇隊北島中隊・拓友碑