平成17年6月18日
1846年12月19日〜1884年7月20日
山形県山形市・山形市立病院済生館の中庭でお会いしました。
山形に近代医学の礎を築いた医師・教師 |
ウィーンに生まれ、ウィーン大学で医学を学んだローレツは、研究旅行中に日本を訪れ、そのまま公使館付医官として留まり、愛知、金沢を経て1880年(明治13)山形の済生館に赴任します。
彼の功績の優れた点は、医師としての治療活動に加えて、医学寮教頭として、当時最高水準のドイツ医学を教育したことにあります。
更に、初代県令、三島通庸みちつねの協力によって、公衆衛生など医療行政にも業績を残しています。
ローレツは帰国して間もない1884年(明治17年)に37才で亡くなり、本国ではその業績はあまり知られていないようですが、ローレツの精神は、山形の地に今も生きづいています。
(山形市郷土館=旧済生館本館の展示パネル説明文より)
山形市立病院済生館 (平成17年6月18日) |
アルブレヒト・フォン・ローレツ先生像 (山形市立病院済生館中庭) 1995年 西村忠 作 創立30周年記念 寄贈 七日町商店街振興組合 (平成17年6月18日) |
アルブレヒト・フォン・ローレツ先生
1846年〜1884年
先生は オーストリア生まれ ウィーン大学医学部に学び駐日公使館付の医官として来日 愛知県公立病院愛知県公立医学校 石川県金沢医学校に赴任 医学教育に尽力されました
1880年(明治13年)9月 医学教育の充実強化に全力を傾注した山形県令三島通庸の強い招きにより 県済生館医学寮教頭 館指導医として来任 新進気鋭の西洋人の医師として 診療水準の向上と医師及び産婆養成等 本県の医療に新風を起こし 多大の貢献をされたのでありました
明治15年8月任を終えて帰国 ウィーン郊外ヒンメルサナトリウムの病院長となり 同地に永眠されました
ここに広く慕われた先生の面影を万感をこめて掲げ高風をたたえるものです
結城幸三 書
(碑文より)
旧済生館本館(山形市郷土館) (山形市霞城町1−1) (平成17年6月18日) |
レリーフ
ローレツのレリーフ (旧済生館本館前庭) (平成17年6月18日) |
ローレツ先生
1846年—1884年
先生はオーストリーの人
医術をウィーン大学に学び駐日公使館附医官として来日
招かれて名古屋及び金沢に赴いて医学教育に盡力
明治13年7月本県の招請により濟生館医学寮教頭として来任
数十名の医師を育成
本県の医療に新風を起こし濟生救民の父と仰がれた
明治15年8月任を終えて帰国
ウィーン郊外アムヒンメル病院長となり同地に歿した
こゝに先生の面影を掲げ萬里同仁の高風をたゝえる
(碑文より)
略年譜
和暦 | 西暦 | 主なことがら |
弘化 3年 | 1846年 | オーストリア国ウィーンに生まれる |
慶応 2年 | 1866年 | ウイーン大学医学部入学 |
明治 5年 | 1872年 | 医学博士となる |
明治 8年 | 1875年 | 日本に来て、オーストリア・ハンガリー公使館付医官(医師)となる |
明治 9年 | 1876年 | 3月〜6月にかけ、西日本を旅行。 その時の見聞録をウィーンにある社会地理学会へ「南日本の各県を通っての報告」 と題して3回にわたり原稿を出す 9月から名古屋大学医学部の前の学校である愛知県公立医学校教師として勤める (教え子の中に後藤新平がいる) |
明治13年 | 1880年 | 5月〜8月まで金沢大学医学部の前の学校である石川県立金沢医学校教師として 勤める 9月、山形県済生館医学寮(医学校)教頭として、そのころ世界で一番進んでいた ドイツ医学を医学生に教えるとともに、患者を診察し、東北で最初に手術をする。 また、治療器や医学書、化学機械などを買い、医学寮を立派にする。 |
明治14年 | 1881年 | 済生館を良くするため、「済生館改新法建議」を三島通庸に出す |
明治15年 | 1882年 | 5月、山形を去り8月11日横浜港よりオーストリアへ帰る オーストリアへ帰る前に、ドイツ医学を日本の各地に広めたことにより「勲五等双光 旭日章」という勲章をもらう |
明治17年 | 1884年 | ウィーンの町外れにあるアムヒンメルサナトリウムの病院長になる 7月20日、37才で死亡 |
(山形市郷土館のパンフレットより)