愛媛県西予市宇和町卯之町3丁目110番地
平成19年11月7日
開明学校
創立/明治5年(1872)申義堂の校舎で開校
建築/明治15年(1882)
建物/木造瓦葺2階建
延床面積/338.8㎡
重要文化財指定/平成9年(1997)5月
南に向いた二階建てのこの小学校校舎は、当時の町民が費用のほとんどを負担して建てられました。
厚い白大壁をくり抜いたようにアーチ型の窓が並び、四ヶ所の両開きのドアにさえ、惜しみなく多くのガラスが使われています。
当時は、ドイツ製のガラスが入れられ、左右不相称な位置に唐破風の玄関があります。
その屋根には鬼瓦でなく、「開」の字を刻んだ瓦が葺かれ、町民の教育に向ける意気込みを感じます。
内部には、4本の丸い通し柱が突き抜け、そこで6教室に仕切られていましたが、2階の3教室は、仕切りの板戸をはずし、講堂としても使われていました。
フランス風のモダンな校舎として、見学者が絶えなかったというこの校舎は、文明開化の到来として、注目を集めました。
地方にありながら、見聞して理解し得た範囲の洋風要素を取り入れた擬洋風の開明学校は、明治の簡素な学校建築を知るうえに、貴重な遺構として、平成9年に国の重要文化財に指定されました。
明治 5年(1872年) | 開明学校(申義堂を校舎として利用) |
明治20年(1887年) | 卯之町尋常小学校(開明学校 校舎) |
明治23年(1890年) | 宇和町尋常小学校(開明学校 校舎) |
明治26年(1893年) | 宇和町尋常高等小学校(開明学校 校舎) |
昭和16年(1941年) | 宇和町国民学校(大正初期と昭和初期建築の校舎) |
昭和22年(1947年) | 宇和町立宇和町小学校(大正初期と昭和初期建築の校舎) |
明治16年(1883年) | 小学校の本館教室として1月より使用を開始する。 |
大正 6年(1917年) | 教員住宅となる。 |
大正11年(1922年) | 小学校別館教室となる。 |
大正14年(1925年) | 小学校(尋2年3学級と4年1学級)が使用する。 |
昭和 4年(1929年) | 小学校(高等科女子と補習学校)が使用する。 |
昭和 9年(1934年) | 小学校校舎としては使われなくなる。 |
昭和14年(1939年) | 宇和町青年学校として使われる。 |
昭和25年(1950年) | 宇和町立図書館として使われる。 |
昭和26年(1951年) | 宇和町公民館並びに町立図書館として使われる。 |
昭和35年(1960年) | 宇和中学校特別教棟(技術家庭科、美術教室)となる。 |
昭和38年(1963年) | 中学校が新築されたため使われなくなくなる。 |
昭和43年(1968年) | ボーイ・ガールスカウトの家となる。 |
昭和48年(1973年) | 教育資料館として修復される。(昭和51年より一般公開) |
昭和51年(1976年) | 歴史民俗資料館が新築される。 (※大正時代に取り壊した第2校舎の模擬建築) |
(参考:『宇和文化の里』より)
開明学校 (平成19年11月7日) |
掛図 高価な教科書に代わる教材として活躍した、明治初期の掛図の収蔵数は、全国一です。 (平成19年11月7日) |
児童心得(自:明治28年度 至:明治30年度)
第1條
生徒タルモノハ校則ハ勿論教師ノ訓誨ヲ守リ品行ヲ正フシ学業ヲ勉ノ以テ生徒タル本分ヲ盡スベシ
第2條
生徒ハ言語温和ニ挙動活発ナルベシ
第3條
生徒ハ各親切ニ交リ決シテ幼者ヲ凌グベカラズ
第4條
生徒ハ授業時十分前ニ登校スベシ
第5條
生徒ノ衣服ハ質素ヲ旨トシ簡筒袖ヲ定則トス
第6條
生徒ハ不敬ノ状ヲ以テ登校スベカラズ
第7條
生徒ハ授業ニ必要ナル器具ヲ携帯シテ登校ス可シ決シテ無用ノ玩具ヲ携フベカラズ
第8條
携帯品ハ登校ノ際ハ所定ノ場所ヘ排置ス可シ
第9條
■板ノ報ズル時ハ直ニ所定ノ場所ヘ排列スベシ
第10條
行進中又ハ教室ニ在リテハ静粛ヲ旨トス可シ
第11條
生徒各自ノ机内ハ整頓ス可シ
第12條
許可ナクシテ猥ニ教室ニ入ルベカラズ
第13條
許可ナクシテ物品ノ交換貸借スルヲ得ズ
第14條
校物ヲ破損シ又落書スベカラズ
第15條
危険ノ遊戯ヲナスベカラズ
第16條
学校往復ノ途中ハ各自相提携ス可シ遊戯ニ耽リ又ハ喧噪ナルベカラズ
第17條
生徒ハ許可ナクシテ退校後猶学校ニ止リ又休業日ニ登校ス可カラズ
附罰則
第1條
生徒ニシテ校則ニ悖戻シ又ハ教師ノ訓誨ヲ守ラザル時ハ其ノ罪ノ軽重ニヨリ相當ノ罰ニ処ス
第2條
処罰ノ法ハ左ノ各項ニ依ル
1.訓誨
2.留置
3.停業
4.謹慎
5.登校禁止
児童心得(自:大正11年度 至:大正12年度)
一、早ク起キ早ク寝ヨ
一、行儀ヲヨクセヨ
一、ヨク学ビヨク遊ベ
一、悪イ遊ビヲスルナ
一、体ヲ大切ニセヨ
一、自分ノ事ハ自分デセヨ
校訓(明治33年度)
一、忠義ノ道ヲ重ンズベシ
一、孝順ノ行ヲ厚クスベシ
一、教師長者ヲ尊敬スベシ
一、兄弟朋友ニハ親切ナルベシ
一、心ハ誠実ナルベシ
一、身體ハ強状ニスベシ
一、耐忍勉励シテ事ヲナスベシ
一、倹約ヲ旨トシ人ヲ慈ミ世ノ用ヲナスベシ
校訓(自:明治45年度 至:大正2年度)
一、課業ヲ守レ
二、規律ヲ守レ
三、敏捷活発ナレ
四、公徳ヲ守レ
五、自分ノコトハ自分デセヨ
(展示パネルより)
明治・大正時代の教室(復元) |
平成19年11月7日
申義堂しんぎどう
宇和教学の元となった申義堂は、明治2年(1869)に向学心に燃える左氏珠山の弟子や、町民たちによって自発的に建てられ、私塾、郷校として、使われていました。
その後明治5年(1872)の学制発布と同時に開明学校が開校され、申義堂は、その校舎として10年間使われました。
左氏珠山さししゅざん (1829〜1896) |
安政5年(1858)から11年間卯之町で私塾を開き、漢籍等、高度な学問を授けました。 宇和に近代教育の下地を築いた珠山は、のちに小説「坊ちゃん」に漢文の先生のモデルとして登場します。 珠山直筆の板額「申義堂記」には、申義堂建築のいきさつが漢文で書き残されています。 |
申義堂 解釈文 (「珠山先生頌徳誌」抄) |
私は宇和郷の卯之町に10年ばかり仮住まいをしていた。 その間、子どもらが時々来て勉強していた。 去年(明治2年)正月に知事の命令で藩校の教師になり、もう卯之町を去ろうとするとき、子どもらが来て「先生が宇和島に行かれたら、私たちは誰の所へ行って、わからぬ所を問うたらいいのでしょうか。」と泣いて言った。 私は「心配するな、私の先生である振洋先生が八幡浜にいらっしゃるから、お前たちに教えてもらうよう頼んであげよう」と言ったら、子どもたちは、拝むようにして大変よろこんで「それはまことに幸せです。しかし、どうしてもそうしてくださいとまでは望みません。」と言った。 (※珠山先生の立場を心配し、ひかえめに言ったと考えられる。) ここで、清水篤候、土居通鋭、清水武蕃、清水武功、山本柔克、その他十余人の同志の者が相談して学校を建てることにした。 村人がこれを聞いて争うようにやって来て仕事を手伝い、1ヶ月余りで完成した。 そこで孟子の言葉から取って、その校舎に「申義堂」と名をつけた。 私が仲介して大参事上甲芳園君にたのんで、その字を大きく書いてもらい、長押にかかげて、今か今かと振洋先生を待った。 ところが振洋先生も特使が来て、藩校の校長先生になられた。 皆の者は、どうすればよいかわからなくなった。 そこでわたしは、役所へ先生をよこしてもらうように頼んだ。 役所では、その心がけに感心して、申義堂を郷校だということにして、町田為忠を先生としてよこしてくれた。 先生が来られると、子どもたちは喜んで、申義堂へ入学する者が一日一日とふえていった。 私は前から「立派な人のすることを人々が習うのは、音の伝わるよりも速い」と思っているが、今、知事さんは、謹んで天皇のありがたい詔(ミコトノリ)(五箇条ノ御誓文)を受けて、大いに学問を奨め、人の才能を育て、時々は目立たないように暮らしている才徳のすぐれた人を取り立てて、立派な役職につかせたりして人々を元気づけられた。 そのためか、卯之町のような片田舎にさえ、やるぞという気風がむらむらとおこって、郷校を建てるに至った。 教化ということは大変な力をもつものではないか。 これから後、村々が卯之町のやったことを手本にしてやるなら、村や町の人々が皆礼儀を重んじ、思いやりの心の大切さを知って、思い荷物を背負って難儀をしている老人を道で見かけることもなく、家には親兄弟によく尽す子どもたちが育って、知事さんが天皇の御心に添おうとする真心にお応えすることになる。 立派なことではないか。 だが、詩経の中に、「初めは誰でもやるが、終りまでやり通すことはめったにない」ということがある。 だいたい、急に進む者は急に退きやすい。 申義堂のことも、初めに涙を流してよろこんだ者が、終始変わりなく、郷校が最初に示した注意事項にそむかなければ、申義堂が有終の美をおさめるかどうかは、後から続く諸君らが、よく勉めるか勉めないかによって決まるだけだ。 そして、私にもその責任がないとは言えない。 近ごろ、校長先生が申義堂の記を書くように私に命ぜられたが、これは、申義堂を建てるようになったもとは、私が前にすすめたことによるからであろうと思う。 明治3年9月7日 藩学教授 左氏珠山が作り述べた。 |
(参考:『宇和文化の里』)
見学の案内
開館時間:午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は火曜日)・年末年始
入館料:大人 200円
※ 文化の里の有料館4館がセットになった共通券 大人 400円
(先哲記念館、米博物館、開明学校、民具館)
交通機関:【JR】松山〜卯之町間 1時間 【徒歩】JR卯之町駅より約10分
(関連商品のご紹介)