安政2年4月20日(1855年6月4日)〜昭和7年(1932年)5月15日
岡山県岡山市吉備津・吉備津神社の駐車場でお会いしました。
号は木堂ぼくどう。
備中国生まれ。慶応大学中退。
新聞記者から官僚となったが明治14年の政変で下野。
第1回総選挙で当選。
以後、立憲改進党・進歩党・憲政本党で活躍。
明治43年(1910年)立憲国民党を結成し、第1次護憲運動では尾崎行雄と並び「憲政の神様」と称され、第2次護憲運動でも革新倶楽部を率いて活躍。
大正14年(1925年)同倶楽部を立憲政友会と合同させて政界を一時引退。
昭和4年(1929年)政友会第6代総裁になり、昭和6年(1931年)末には内閣を組織して金輸出再禁止を実施、満洲事変の処理をはかったが、翌年の5・15事件で殺害された。
辛亥しんがい革命を支援したアジア主義者でもあった。
『犬養毅』像 かなり高い位置に銅像があるので撮影には苦労します。 午後に訪れると逆光気味になるのでうまく撮れません。 朝早い時間に訪れると良いかも知れませんね。 (平成16年10月2日) |
犬養木堂いぬかいぼくどう先生 銅像の説明
犬養毅つよし(木堂と号す)は安政2年(1855)に備中国賀陽かよう郡庭瀬にわせ村(現在、岡山市川入に犬養源左衛門の二子として生る。
明治8年(21才)上京し慶應義塾に学ぶ。
明治10年(23才)西南戦争起るや従軍記者となったが、その後、文筆と雄弁をもって政治運動に入り、明治23年(36才)衆議院議員となる。
明治31年(44才)文部大臣に任ぜらる。
その後、立憲国民党、革新倶楽部等を組織し、「憲政の神」と称せらる。
大正13年(70才)逓信大臣、昭和4年(75才)政友会総裁となり昭和6年総理大臣となる。
しかるに、翌昭和7年(1932)いわゆる5・15事件勃発し過激派のために官邸にて暗殺さる。
享年78才、正二位・旭日桐花大綬章を追贈せらる。
毅の生家(此処より南方へ約3キロに現存)は代々庭瀬藩の大庄屋、その遠祖犬養健命いぬかいたけるのみことは大吉備津彦命の随神なり。
よって氏神吉備津神社のため尽瘁じんすいするところ多し。
毅の没するや郷党の人々その高風を慕い、昭和9年この地に銅像を建つ。
作者は朝倉文夫、雄姿堂々として天下を睥睨へいげいするの概がいあり。
(説明板より)
本殿(国宝)と拝殿(国宝) 応永32年(1425年)の再建 神社建築では日本屈指の巨大なもので、特異な形式から『吉備津造り』といわれています。 |
木堂生家
昭和52年4月 岡山県史跡に指定
昭和53年1月 国重要文化財に指定(主屋・土蔵)
犬養家じは、代々この地方の大庄屋や郡奉行を務める旧家であった。
この犬養木堂生家は、昭和51年に犬養家から岡山県に寄贈され、(株)大本組の創業70周年記念事業として無償施工により解体修理されたものである。
その結果、柱や梁の跡形をもとに、正徳年間(1711年〜1716年)に大庄屋を務めた4代目源左衛門の代に建て替えられた当時の姿に復元されている。
修復前は、19世紀のはじめごろに家相図(国指定重要文化財)に見られるように改造されるなど、かなり変更が加えられていた。
(記念館のリーフレットより)
裏庭と井戸 |
奥座敷 |
生家内部 (平成16年10月2日) |
犬養木堂記念館 (岡山市川入102−1) 開館時間:9時〜17時 閉館日:毎週火曜日(祝日は除く) 祝日の翌日(土・日は除く) 年末年始(12月28日〜1月4日) 入館料:無料 交通:山陽本線庭瀬駅下車・タクシー5分、徒歩25分 |
木堂記念館
この記念館は、平成5年10月に開館したもので、平和を愛し、平和に殉じた岡山県の生んだ大政治家・犬養木堂翁の足跡をしのぶ遺品、遺墨、写真、手紙を展示している。
展示資料は、木堂翁の子女多田信子氏、孫の犬養道子氏、犬養康彦氏から寄贈、寄託を受けたもの、木堂翁の顕彰に力を尽くされた秋田市の故鷲尾よし子氏をはじめ木堂ゆかりの方々から寄贈されたものである。
(記念館のリーフレットより)
記念館の中庭 記念館は生家から小川を隔てた隣に建っています。 展示品の中で感動したのは、犬養毅の肉声。 教え諭すような語り方。 人柄を感じました。 (平成16年10月2日) |
安政2年(1855) | 0歳 | 4月20日備中国庭瀬村字川入に出生 幼名仙次郎。名は当毅(後に自ら毅と改める) |
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万延元年(1860) | 5歳 | 父から四書五経の素読を受ける | |
文久元年(1861) | 6歳 | 庭瀬藩医森田月瀬に漢学を学ぶ | |
慶応元年(1865) | 10歳 | 犬養松窓の三餘塾に入り経学を修める | |
明治元年(1868) | 13歳 | 8月父病死(享年49歳) | |
明治2年(1869) | 14歳 | 自宅の門側に塾を開く 倉敷の明倫館に学ぶ |
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明治5年(1872) | 17歳 | 小田県庁に勤務(明治7年に辞す) | |
明治8年(1875) | 20歳 | 8月上京、湯島の共慣義塾に入る 郵便報知新聞に寄稿 |
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明治9年(1876) | 21歳 | 慶應義塾に転学 | |
明治10年(1877) | 22歳 | 報知社から西南戦争の従軍記者として特派される 郵便報知新聞紙上の「戦地直報」は名声を博した |
西南戦争 |
明治12年(1879) | 24歳 | 有志と国会開設建白書を元老院に提出 | |
明治13年(1880) | 25歳 | 慶應義塾を卒業直前に退学 8月「東海経済新報」を創刊 |
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明治14年(1881) | 26歳 | 7月統計院権少書記官に任ぜられる 10月大隈重信の下野とともに退く |
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明治15年(1882) | 27歳 | 4月立憲改進党の結成に参画 5月東京府会議員補欠選挙に当選 11月「東海経済新報」廃刊 |
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明治16年(1883) | 28歳 | 4月「秋田日報」主筆として秋田に赴く 11月帰京して報知社に復す |
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明治17年(1884) | 29歳 | 12月郵便報知新聞特派員として朝鮮に赴く | |
明治19年(1886) | 31歳 | 1月帰京 3月報知社を辞し、朝野新聞社に入社 |
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明治22年(1889) | 34歳 | 尾崎行雄らと朝野新聞社の幹部となる | 大日本帝国憲法発布 |
明治23年(1890) | 35歳 | 2月東京府会議員退任 7月第1回衆議院議員総選挙に岡山県から立候補 して当選 11月朝野新聞社を退く |
帝国議会開設 |
明治24年(1891) | 36歳 | 1月日刊新聞「民報」を創刊 5月休(廃)刊 |
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明治27年(1894) | 39歳 | 5月中国進歩党を組織 | 日清戦争 |
明治29年(1896) | 41歳 | 3月進歩党を組織 | |
明治31年(1898) | 43歳 | 6月憲政党を組織 10月大隈内閣の文部大臣に就任 同月憲政党の分裂後、憲政本党に属した 11月依願免官 |
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明治34年(1901) | 46歳 | 7月嵯峨死去(享年77歳) | |
明治36年(1903) | 48歳 | 9月中国・朝鮮視察に赴き、11月帰京 | |
明治37年(1904) | 49歳 | 日露戦争 | |
明治40年(1907) | 52歳 | 11月中国漫遊の途に就き、翌年1月に帰京 | |
明治43年(1910) | 55歳 | 3月立憲国民党を創立 | |
明治44年(1911) | 56歳 | 12月孫文等の辛亥革命援助のため中国に渡る | 辛亥革命 |
明治45年(1912) | 57歳 | 2月帰国 | |
大正11年(1922) | 67歳 | 11月革新倶楽部を組織 | |
大正12年(1923) | 68歳 | 9月第2次山本内閣の逓信大臣(兼文部大臣)就任 12月内閣総辞職 |
関東大震災 |
大正13年(1924) | 69歳 | 6月加藤高明内閣の逓信大臣に就任 | |
大正14年(1925) | 70歳 | 5月逓信大臣及び衆議院議員を辞任 同月政友会長老に推される 7月補欠選挙の結果再選され、余儀なく受諾 |
衆議院議員 普通選挙法公布 |
昭和4年(1928) | 74歳 | 6月中国の孫文移霊式に参列 10月政友会総裁に就任 |
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昭和6年(1931) | 76歳 | 12月13日犬養内閣成立(外相兼任) | 満洲事変 |
昭和7年(1932) | 77歳 | 3月内相兼任 5月15日首相官邸で兇徒に襲われ、拳銃で撃たれる 同日夜半死去 |
上海事変 5・15事件 |
(岡山県郷土文化財団『犬養木堂年譜』より抜粋)
岡山県岡山市・岡山市立吉備公民館でお会いしました。
岡山市立吉備公民館 (岡山市庭瀬) 玄関脇に銅像が建っています。(上半身と下半身のバランスがちょっと悪いですが・・・) この銅像探しでは『犬養木堂記念館』の職員の皆様にお骨折りをいただきました。本当にありがとうございました。 が・・しかし、写真撮影に失敗!夕方で薄暗いのにストロボ使わなかったので手ブレを起してしまいました。う〜ん、残念。早く気付くべきだった・・・また来るようかぁ〜? |
木堂翁最後の言葉 話せばわかるの碑 (吉備公民館敷地内) 碑文 昭和35年5月15日建立 犬養木堂翁碑建設委員会 石工 当町大月正光 (平成16年10月2日) |
『憲政二柱の神』=犬養毅、尾崎行雄
(平成19年3月6日追記)
望まなかった首相の座 |
大正14年(1925年)、犬養毅は、自らが率いる革新倶楽部が選挙によって議席を減らしたため、同倶楽部の政綱を受け入れるとした立憲政友会と合同させるとともに、第一次加藤内閣の逓信大臣の職のみならず議員をも辞職して政界を引退した。
反藩閥を政治信念としてきた犬養は、政友会の党首が長州閥の田中義一であったことから、筋を通して引退したのである。
しかし、地元岡山で行われた補欠選挙では、支持者が勝手に犬養を候補者として再び当選させてしまった。
一方、政友会では、総裁の田中義一が急死したため、新総裁の座を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎とこなみたけじろうが激しく対立。
党は分裂の危機に陥る。
これに対して党内の融和派が犬養を担ぎ出し、嫌がる犬養を強引に説得。
昭和4年(1929年)10月、犬養は立憲政友会の総裁に祭り上げられたのである。
その頃、日本は世界恐慌の影響を受けて著しい不況の中、浜口雄幸首相が東京駅頭で射撃され重傷を負い退陣。
後継の第二次若槻礼次郎内閣は、勃発した満州事変の不拡大方針が閣内不統一となり総辞職。
犬養は在野の有力者・頭山満とうやまみつるらとともに、長年、孫文をはじめとする中国の革命家の日本亡命を助けるなど、中華革命を支援していたので、蒋介石をはじめとする中国国民党政府の有力者と親交があった。
満州事変を外交によって解決できる者は、中国国民政府から最も信頼を得ている犬養しかいない。
そこで、元老・西園寺公望は、昭和天皇に野党である政友会総裁の犬養を首相として推薦。
こうして組閣の大命が下り、昭和6年(1931年)12月13日、第30代犬養毅内閣が成立した。
その後、国民の支持を取り付けるべく、直ちに議会の解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。
(参考:『歴史群像 2008年6月号』)
(平成21年2月14日追記)
犬養内閣・満州国承認拒否 |
昭和6年12月13日、若槻内閣は内相が政友会との連立を主張して閣内が分裂、解散したため、政友会総裁・犬養毅が首相を拝命し組閣した。
満州の権益をめぐる日中間の衝突の結果、国内世論は硬化し、陸軍はこれに乗じて満州から中国勢力の排除を図った。
この結果が昭和6年9月18日に発生した満州事変である。
翌7年3月1日、日本陸軍の支援を受けた東北行政委員長・張景恵は、満州国の独立を宣言した。
犬養は、金輸出再禁止を決定するとともに、陸軍の抑制にかかった。
とくに満州国承認に反発し、「ワシントン条約に抵触する」として陸軍の要望に応じなかった。
昭和7年5月15日、海軍士官三上卓中尉(海兵54期)ら4名、陸軍士官学校本科生徒5名の計9名が首相官邸に乱入し、犬養首相を暗殺した。
しかし国民は、これを義挙と捉え、減刑嘆願書は150万通に達した。
(参考:惠 龍之介著『敵兵を救助せよ』 草思社 2006年 第1刷)
(平成22年1月17日・記)