茨城県水戸市 桜山
茨城県護國神社入口 (平成16年1月12日) |
護国神社の由来
当護国神社は我が国の永遠の平和と隆昌とを願いつつ、日本民族を守るため尊い生命を国のために捧げられた人々の御霊をお慰めしようとする、全県民の深い敬愛と尊崇の念が結集して昭和16年11月水戸桜山の現在地に創建されました。
御祭神には幕末から明治維新以来日清・日露の戦役、大東亜戦争に至る事変戦役等において、国事にたおれ護国の礎となられた茨城県出身の6万3千400余柱の戦没者の英霊をお祀り申し上げております。
御祭神のなかには戦場において戦死せられた軍人・軍属ばかりでなく、従軍看護婦等の女性も含まれております。
こんいちの我が国の安泰と繁栄が、これら御祭神となられた方々の献身奉公によってもたらされたことに思いをいたし、深くその御神徳を崇め末永くこのお社を護持していただきたいと念願するものであります。
(説明板より)
茨城県護國神社本殿 (平成16年1月12日) |
歩兵第2連隊慰霊碑(ペリリュー島戦没者慰霊碑)
歩兵第213連隊慰霊碑
独立混成歩兵第1連隊第2大隊慰霊碑
工兵第22連隊慰霊碑
征清記念碑
この碑は明治30年4月即ち日清戦争(明治27年1894年 明治28年1895年)の直後(1897年)に水戸常磐地内鎮靈社の傍に茨城県人で日清戦役に従軍した将士が国のために壮烈に戦い戦死し又は病に斃れた数百柱を合祀した際、その名誉を後の世の人々に伝えようと県を挙げて慰霊祭を執り行ない県で建てられたものであります。
碑文の概要は過去に神功皇后の三韓征伐、豊臣秀吉の朝鮮征伐とあったが、今度の日清戦争はその比ではない大戦果であった。
戦が大きかっただけに、我が軍の損害も多く茨城県だけでも戦死、戦病死者が数百人以上ある。
誰が国家のため惜しまないものがあろうか。
茨城県人は古来から義勇心が強かったが今度の戦役でも勇名を挙げた。
後世の人もこの話を聞いて奮起することであろう。
(説明板より)
碑文(説明板より)
征清記念碑(せいしんきねんひ)
陸軍大将大勲位功二級彰仁親王あきひとしんのう篆額てんがく
我が神州、建國以来、外征の史に見あらわるる者、蓋けだし十有餘次じゅうゆうよじなり。
遠くは、神后三韓じんこうさんかんを征し、近くは豊太閤ほうたいこう朝鮮を伐うつ。
其の功烈こうれつ最もっとも古今に卓絶たくぜつす。
而しこうして輓近ばんきん、皇師こうし討清の役、實じつに二役にえき以来の大事たるなり。
已すでに甲こう数十萬を起して、兵を千里の外に用ひ、陸は堅城けんじょうを抜き、海は大艦を奪ふ。
而して訊馘じんかく以て京観けいかんを築くべきなり。
斥地せきち以て版圖はんとを廣ひろぐるに足るなり。
其の、皇威こういを震耀しんようし、國光こくこうを宣揚せんようするは想ひ如何いかんと為すや。
其の功こう夐はるかに豊太閤に軼まさりて、其の烈實れつじつに、神后じんごうより光ひかり有り。
亦また古今の大捷たいしょうと謂いふべきなり。
惟おもふに其の役えき大なる故ゆえに、我が喪うしなふ所の兵士の數かず、蓋けだし亦また少すきなしと為さず。
今や、茨城一縣を以て之を算かぞふるに、其の戰ひて敵弾に斃れ虜鋒りょほうに殞いのちおとし、及び盡瘁じんすいして病没せる者、數百人を下らず。
是れ盡ことごとく桓桓かんかんの将士しょうしに非ずんば、則すなわち赳赳きゅうきゅうの武夫ぶふなり。
誰か國家の為に惜しまざらんや。
水戸の常磐ときわの地には、素もとより鎮靈の社やしろ有りて、其の嘗かつて命を國事に致せる者を祀る。
今茲ことし志士相あい謀はかり、縣内の士にして討清の役に死せる者を合祀し、以て大いに弔祭ちょうさいを修しゅうし、而して又特に一大碑を社の側かたわらに建て、以て其の忠烈を表彰し、其の靈をして憑よる所有り、而しこうして其の名をして傳つたはる所ところ有らしめんと欲し、余に其の文ぶんを撰えらばんことを請ふ。
余嘗て國乗こくじょうを讀よみ、夙つとに關東かんとうの古俗こぞく、特に義勇を以て著あらわるるを欽ぶ。
嚮に清に事有るに及び、東兵とうへい果たして克よく恥を重んじ、死を輕かろんじ、實に古いにしえの勇名に負そむかざるを聞く。
乃すなわち彼かの戰勝功取こうしゅに於て蓋し最も與あずかって力ちから有るを知る。
其の勲功は寧いずくんぞ没すべけんや。
善きかな此の舉きょたるや。
余適たまたま任に在り、毎つねに管民軍士かんみんぐんしを歸葬きそうし、郡市ぐんしを舉げて、輙すなわち哀いたみを致すを観る。
而して今又いままた修祭しゅうさいを為し碑を建つ。
嗚呼闔縣こうけん協力此かくの如し。
其れ至れるなり。
亦能よく國家の兵士を待つの恩意を體たいすると謂ひつべし。
之を太閤征韓の役の、陣没する者算ふる無く、其の屍しかばねを原野に委ねて俺ず、其の魂は彷徨ほうこうして之れが憑る所無く、哀れむべきを視みるに、豈あに其れ日を同じくして談ずべけんや。
是れ固もとより昭代しょうだいの至徳に由よるなりと雖いえども、抑そもそも亦東人あづまびとの義を好むの致す所を見んのみ。
夫それ此の勇也ゆうや、義也ぎや、今併せて以て之を表す。
庶幾くは、後人をして風を聞きて、激励奮起する所有らんことを。
是に於てか書す。
明治30年4月
茨城県知事正五位勲五等江木千之撰
茨城県書記官従五位勲五等渡邊秀書
(社)日本郷友連盟茨城県支部建之
(訓読 水戸史学会 但野正弘記)
丁丑殉節碑
この碑は明治10年(1877年)西南の役に従軍し、凱旋した者が常磐邨(村)鎮霊社に死者の魂を弔慰するため建てたものである。
碑文は碑陰の上段に刻まれてあり中段、下段には従軍して凱旋し、この碑の建立者と思われる62名の氏名が刻まれてあります。
碑文は次のとおりであります。
明治10年春の西南の乱に私達に勅命により従軍した。
始めに賊を熊本県下に撃った。
9月24日に至り鹿児島県城山で勝利を得たが戦いは数十回に及び戦死者も多かった。
私達は幸い凱旋することができた。
直ちに常磐邨(村)の鎮霊社に碑を建て、県令人見君に題字を願い死者の魂を弔い慰めるものである。
(注)この戦役において397名が戦没している。
(説明板より)
北征記功碑
この碑は明治39年(1906年)2月即ち日露戦争(明治37年1904年 明治38年1905年)の直後、茨城県内の戦死、戦傷病者千数百名の慰霊祭を行ない碑を建て戦況を叙しその功績を永久に伝えようとして県で建てたものであります。
碑文の概要は弘安の役(1274年)では、元軍を一挙に全滅した。
日露戦争では海陸大小数百の戦いに勝ち世界を震撼させた。
これは上に神のように賢い天皇陛下がおわしまし 下には賛襄の良民がおり 将士の忠勇義烈の心がすぐれていたからである。
元寇は10万以下の兵力であったがロシヤ軍は100万以上で戦も大きく偉大な功績も挙げ弘安の役の比ではなかった。
茨城県の従軍軍人は数万人海に陸に勇戦奮闘し茨城男子の面目をあげ皇国軍人の精華を発揮したが戦死、戦病死者千数百人その死にかたは違うが忠義の鬼である。
この碑を読む人は必ず感奮して我が国の権威と力を大いにあげるだろう。
(説明板より)
碑文(説明板より)
北征記功碑(ほくせいきこうひ)
陸軍中将大勲位功四級載仁ことひと親王篆額てんがく
我が邦ほうの威武、四表しひょうにけん耀ようたるや尚ひさし。
弘安の役、元寇を一舉に殲つくす者は、上かみに軫憂祈神しんゆうきしんの 亀山上皇有り、下しもに勇断斬使ざんしの北條時宗有るを以てなり。
三十七八年の役、俄軍がぐんを百戰に剿しょうする者は、上に叡聖神武えいせいじんむの 英主えいしゅ有り、下に輔弼贊襄ほひつさんじょうの良臣りょうしん有るを以てなり。
将士しょうしの忠勇義烈に至りては、則すなわち古今豈あに逕庭けいてい有らんや。
但し其の兵械へいかいの精、戰畧せんりゃくの妙は、則ち日を同じくして語るべからざる者有り。
且かつ元寇は十萬を出ず、俄軍は則ち百萬を過すぐ。
故に戰いくさ大にして功も亦また偉いなること、決して弘安の比に非あらざるなり。
彼は宇内うだいの強大國を以て一母五乳いちぼごにゅうの異圖いとを懐いだき、満韓まんかんを侵蝕し、以て東洋の平和を擾みださんと欲す。
我われ安いずくんぞ其の亡状ぼうじょうを責めざるを得ん。
是ここに於て 王師おうし海を絶わたり以て掃蕩そうとうを期す。
海軍は則ち敵艦を旅順港外に撃破し死士ししをして船を沈め港口こうこうを壅ようせしむ。
又浦塩ウラジオ艦隊を蔚山うるさんの洋うみに摧殘さいざんし、終ついに波羅斯バルチック艦隊を日本海に邀撃ようげきし、之これを殄滅てんめつす。
海上権は全く我に歸きす。
陸軍は則ち先まず鴨緑江おうりょっこうの險けんを奪ひ、普蘭店ふらんてん、王家屯おうかとんの要ようを扼おさへ、鳳凰ほうおう、摩天嶺まてんれい、南山なんざん、得利寺とくりじ、岫しゅうがん、柝木たくぼく、遼陽りょうよう、旅順の諸城砦じょうさいを抜き、遂に奉天を破り、以て敵を北満洲に駆逐する有り。
海陸大小數百戰、竒勛きくん偉績は天地を震撼し、鹵獲ろかく俘虜ふりょの夥おびただしきこと勝あげて紀しるすべからず。
我が縣の従軍する者、将士合はせて數萬人、うみに陸に勇戰奮闘し、以て常総じょうそう男子の面目めんもくを顯揚けんようし、皇國軍人の精華を發揮す。
而して戰死病歿する者千九百餘人、其の死は殊ことにすと雖いえども忠義の鬼きたるは、則ち一なり。
今や和わ成り、事こと平たいらかなり。
余よ郷紳きょうしんと胥あひ謀り、大いに弔祭ちょうさいを脩しゅうし、且つ碑を建て戰況を略叙りゃくじょし、以て之を不朽に傅つたへん。
顧かえりみて邦人の談だん元寇の事に及べば、草野安達等くさのあだちらの虜艦りょかんを斫つの壮烈を稱しょうせざるは無く、以て武夫もののふの亀鑑と為す。
後の今を視ること猶今の昔を視るがごとく、則ち斯の碑を讀む者、必ず應に感奮する所有り、以て倍ますます我が邦ほうの威武を宣揚すべきなり。
明治39年2月
茨城縣知事正四位勲三等寺原長輝撰并書
(社)日本郷友連盟茨城県支部 建之
(訓読 水戸史学会 但野正弘記)
満洲事変(昭和6年9月12日)以降大東亜戦争本県人戦没者
軍人・軍属 | |
満洲事変 | 319 |
支那事変 | 4,023 |
大東亜戦争 | 49,200 |
計 | 53,542 |
一般県民 | |
満蒙等外地死没者 | 3,122 |
内地戦災死没者 | 1,757 |
計 | 4,879 |
軍人・軍属地域別戦没者数 | |
ニューギニヤ | 8,639 |
フィリピン | 8,434 |
中部太平洋 | 6,966 |
中国 | 6,360 |
ビルマ(含インド) | 5,813 |
本土(含周辺) | 4,319 |
海上 | 3,550 |
満洲 | 2,122 |
小スンダ、セレベス | 1,931 |
ビスマルク、ソロモン | 1,655 |
シベリヤ | 1,235 |
沖縄 | 610 |
朝鮮 | 339 |
ボルネオ | 307 |
台湾 | 227 |
小笠原諸島 | 226 |
スマトラ、ジャバ | 183 |
タイ | 175 |
マライ、シンガポール | 175 |
千島樺太(含アリューシャン) | 142 |
仏領印度支那 | 134 |
計 | 53,542 |
(碑文より)
茨城県護国神社・奉納絵馬 (東京都・靖国神社) (平成19年1月11日) |
全国神社奉納絵馬展 (東京都・靖国神社) (平成19年1月11日) |