(別称:名護屋御旅館)
東松浦郡鎮西町大字名護屋
文禄・慶長の役、いわゆる豊臣秀吉の朝鮮侵攻の拠点であった。
築城工事には、寺沢広高・加藤清正をあてたが、両名とも治水・土木関係には造詣が深かったといわれる。
工事には、天正19年(1591年)に着工、翌文禄元年には完成をみた。
この間、わずかに8ヶ月の工期であった。
完工後、秀吉は早速入城し、早くも第一陣の侵攻軍を送り出したのである。
結局、秀吉の野望は失敗し、慶長2年(1597年)には死亡した。
その後に唐津城主となる寺沢広高の手によって、用材の多くは唐津城へと転じられたのである。
一時は、31万人にも達する賑わいをみせた秀吉の壮大な夢の跡も、今はただ、石塁を残すだけとなっている。
名護屋城の総面積は約17万㎡で、当時の大阪城に次ぐ大きなものでした。
城の周りには全国から集まった諸大名の陣屋も築かれており、総数120箇所に及びます。
これらの陣屋跡には国の特別史跡として指定・保存されているものも多いです。
本丸大手門は仙台青葉城主の伊達政宗が青葉城の大手門として移築したが、太平洋戦争時の空襲で焼失してしまいました。
大手口から番所・詰所があった東出丸を見る。 |
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天守台跡から見た景色。
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佐賀県立名護屋城博物館
名護屋城跡の遺跡を保存整備するとともに、日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を紹介し、友好の推進拠点となることを目的にした博物館です。
名護屋城跡のすぐそばにあります。