平成21年11月9日

林子平 はやし・しへい

元文3年6月21日(1738年8月6日)〜寛政5年6月21日(1793年7月28日)

宮城県仙台市・匂当台公園でお会いしました。


父は幕臣だったが牢人となり、兄の仙台藩への出仕を機に仙台に移った。
江戸や長崎に遊学し、工藤平助や大槻玄沢げんたくらと交わり海外事情を学んだ。
藩当局に藩政改革に関する上書を三度提出。
天明5年(1785年)『三国通覧図説』、翌年『海国兵談』を著し、日本周辺の状況と海防への世論の喚起をはかった。
しかし、これらの書物は人心を惑わし政治を私議したとして、寛政4年(1792年)仙台蟄居を命じられ、板木・製本とも没収。
翌年、不遇のうちに病没した。
高山彦九郎蒲生君平とともに「寛政の三奇人」の一人。


林子平像



林子平像
(宮城県仙台市・匂当台公園)





(平成21年11月9日)

碑文

林子平(はやし・しへい)
江戸時代中期の経世学者、兵学者
元文3年(1738年)6月21日江戸に生まれる
兄が仙台藩に仕えたので、20歳の時一家は仙台に移り住んだ
経済や国防の問題に深い関心を抱き、領内はもちろん、江戸、長崎、さらに蝦夷地(北海道)までも遍歴、学問を重ねた
特に長崎で西洋の事情と知識を吸収、その中でヨーロッパ列強の侵略やロシアの南下政策を知って、四面海に囲まれた日本を守るにはどうすればよいかを追求した
天明6年(1786年)出版した「三国通覧図説」では、朝鮮、琉球、蝦夷および小笠原諸島の地図と地理、民俗を記載し、海外に関する知識の普及に努めた
ついで翌天明7年から有名な「海国兵談」を著し、海国たる日本の全国的な沿岸防備の必要性を強調した
「海国兵談」の出版は資金難に苦しみながら寛政3年ようやく全部出版されたが、同年幕府は無断で国防を論じた罪で板木を没収、蟄居を命じた
落胆した子平は「親もなし妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし」と詠じて六無斉と号し、寛政5年(1793年)6月21日仙台で死去した
56歳
河北新報創刊80周年を記念してこの像を建立する

昭和52年6月21日
寄贈者 河北新報社 社長 一力一夫
制作者 東京芸術大学名誉教授 菊池一雄


林子平レリーフ

林子平レリーフ

(宮城県仙台市・仙台市博物館)

1968年小笠原群島日本返還にちなみ
ライオンズ東北大会・全国大会
仙台開催記念
1970年4月 仙台ライオンズクラブ


(平成21年11月9日)

レリーフ レリーフ

碑文

林子平、名を友直、六無斉と号し仙台の川内に住み寛政の三奇人のひとりで憂国の先覚者であり早くから海防のことを力説した。
全国を行脚して、実際に見聞を広め、「海国兵談」や「三国通覧図説」を著し、外国の事情と日本の国防の必要を説いているが、特に三国通覧図説は1785年子平が48才の時の著述で、その中には小笠原群島の発見の史実が記されている。
即ち、小笠原群島は1593年既に小笠原貞頼が発見して日本領土として標示を立て小笠原島と称したことを明記している。
この三国通覧図説はその後1832年ドイツ人クラプロートによってパリーで佛訳三国通覧図説として翻訳刊行された。
この本が唯一の資料となって、英国、露国、米国を始め、世界各国から小笠原群島は日本領土として確認されたのである。
小笠原群島は昭和43年(1968年)第二次世界大戦後23年ぶりでアメリカから日本に返還されたことを考えると、林子平の偉大な功績が偲ばれる。
林子平は世界の情勢に暗い当時の幕府から世を惑わすものとして版木を没収、禁固され、国を憂いながら56歳で没した。
その籠居中の詠草に「親もなし妻なし子なしはん木なしかねもなければ死にたくもなし」がある。
墓は仙台市子平町竜雲院内にあり、そばに林子平の考案した「日時計」がある。

仙台市博物館



仙台市博物館
(宮城県仙台市青葉区川内26)





(平成21年11月9日)

【三国通覧図説】

天明5年(1785)に、仙台の人、林子平(1738〜93)は『三国通覧図説』を著わして、朝鮮・琉球・蝦夷の三隣国について記すとともに、付録として無人島(小笠原諸島)について述べた。
その目的は日本の国の海防ということであって、あくる年の天明6年に刊行された『海国兵談』と同じ視野を持っている。
林は、長崎に旅してオランダ通詞とも親しく、ここで伊豆の代官、伊奈一行の小笠原渡航に際して船長を務めた島谷市左衛門の家の記録を見て、これに基づいて小笠原諸島への定期航路をつくり、移民をすすめ、産業をおこして「巨万ノ利」を得る計画を説いている。(大熊良一「小笠原諸島と林子平の『三国通覧図説』」『政策月報207号、1970年発行)

林子平の二著は、老中・松平定信の禁止するところとなり、絶版を命じられたが、評判は高く、復刻版によってかなりの人々の手に渡ったようである。

(参考:鶴見俊輔 著 『評伝 高野長英』 藤原書店 2007年初版第1刷発行)

(平成29年2月4日追記)


【林子平の『海国兵談』】

洋学者との交流や長崎への遊学によって海外情勢に詳しくなった林子平は、オランダの商館長から帝政ロシアの南下政策の話を聞いて、日本が植民地化の危機にあることを察知し、海防の重要性を説き、近代的海軍の創設と沿岸砲台の建造を強く進言する『海国兵談』を著した。

「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀オランダまで境なしの水路なり。然るを是に備へずして長崎にのみ備るは何ぞや」
「日本の惣そう海岸に備る事は先まずこの港口みなとぐちを以て始とすべし。これ海国武備の中のまた肝要なる所なり」

と、全国的な沿岸防備の必要性を説き、近代的な常設海軍の兵器や戦術から国家経済まで論じている。
しかし時代は江戸中期、鎖国が国是である。
幕府を批判する内容でもあったため、出版してくれる版元がない。
そのため子平は自ら版木を作って自費出版した。
足掛け5年をかけて全16巻が刊行されたのは寛政3年(1791年)、幕府に対する政治批判を禁止する政策がとられていた「寛政の改革」のさなかであった。
徳川幕府は、『海国兵談』をいたずらに世間を惑わせるものとして絶版を命じ、版木を没収、子平は蟄居ちっきょ処分にされてしまう。
その2年後に数えの56歳で失意のうちに死去。
しかし、隠し持っていた自写による副本が残り、密かに筆写されて後世に伝わることとなった。

(参考:佐々淳行 著 『救国の八策』 2012年 第1刷 幻冬舎)

(平成27年12月13日・追記)




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