(グアム島)
(又木山・アサンビーチ・アガットビーチ)
平成21年(2009年)3月19日 |
続いてこの慰霊塔の裏にある「叉木山戦闘司令部壕跡」を見学するという。
“ジョン上級曹長殿”が案内してくれたのが、かなり急な斜面を下りたところにある洞窟。
日本軍の洞窟なのだそうだが・・・・
どうも第31軍司令官の小畑英良中将が自決したのは、現在観光地の一つとなっている「又木山戦闘司令部壕跡」という説明板のある場所ではなく、こっちの壕だという話しらしい。
が・・・拙者には真偽のほどはわからない。
続いて「又木山戦闘司令部壕」に向かう。
コンクリートの建造物は日本軍飲料水槽 |
又木山戦闘司令部壕跡周辺 |
戦闘司令部壕といわれている壕(説明板の左奥) | |
周辺の、その他の壕 |
グアム島最後の激戦地 叉木山戦闘司令部壕跡 |
第31軍司令官として、隷下の部隊を統率した小畑英良中将は、熾烈な米海軍の艦砲射撃の中玉砕を覚悟した最後の総攻撃を下命するにあたり、天皇陛下並びに大本営に対し「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」との決別の辞を打電し、この壕内にて60余名の将兵とともに自決した。 時は、1944年8月11日未明であった。 ここに記念碑を建立し安らかに永眠されんことを祈る。 (現地説明板) |
中部太平洋方面軍司令官 陸軍中将 小畑英良 (南太平洋戦没者慰霊公苑・平和寺内展示写真) |
ここを見学後、バスに乗って次に向かったのは「サンタ・アグエダ砦」・・・・・「アプガン砦」ともいう。
1800年にスペイン総督が築いた砦である。
サンタ・アグエダ砦 |
サンタ・アグエダ砦(アプガン砦) |
1800年、スペイン提督マニュエル・ムロは自ら築いた「サンタ・アグエダ砦」に、妻ドナ・アグエダ・デル・カミーノの名をつけました。 この砦はアガニアの裏手の丘から敵が攻め入るのを防ぐために建設されました。 シレリアという石を切り出して要塞を作り、大砲を備えつける砲台はカスカホーと呼ばれる小石とティエラ・グレドーサという砂を使っています。 1871年(※英文の方では1817年となっている=HP管理者)にはロシアの探検家コツブエが、そして1819年にはフランスの探検家フレーシネーが、それぞれに「サンタ・アグエダ砦」のことを記した手記を残しています。 19世紀後半にはすでに無用の長物となってしまったこの砦をスペイン人は軍用倉庫として使用していたようです。 19世紀終わりに米国領となってからは、海軍はこの砦を通信拠点として活用し、1933年に海軍の公園に整備されました。 のちに第二次世界大戦が勃発、日本軍によって砲床に変換され、今も階段式のコンクリートには日本語の文字が残っています。 戦後「サンタ・アグエダ砦」は平和な公園として再生され、アスファルトに打ち直され、手すりが付けられ、コンクリートの階段が設けられました。 「サンタ・アグエダ砦」からの眺めを現在のものと、1804年スペイン人によって描かれたものと比べてみて下さい。 (現地説明板) |
サンタ・アグエダ砦から見たアガニア湾
アガニアの発展 |
グアムの首都、アガニアは何世紀にもわたる侵略・破壊の歴史を乗り越えて発展してきました。 アガニアの古名は「ハカトナ」。 1600年代のスペイン入植以前から活気に満ちたチャモロの村でした。 「ハガトナ」の名前は、チャモロ語の“血”を意味する「ハガ」から由来したと言われています。 現在までアガニアは常にグアムの首都として繁栄してきました。 世界の出来事や生活スタイルの移り変わりを、アガニアの町は敏感に感じとり、街並みに写しだし続けています。 昔のアガニアの絵や写真と今日の姿を比較してみて下さい。 (現地説明板) |
ここで「トイレ休憩」・・・・・
う〜ん・・・危ないよなぁ〜(笑)
最後にトイレに誰か残っていないか確認してバスに駆け戻る。
常に人数確認しないツアーですから・・・・・
参加者が置き去りになる可能性が高いもんね!(笑)
こういう確認は最年少の私が買って出なくては・・・
どこの戦友会の旅行でも、いつもやっていることなので苦ではない。(笑)
しかし、リーダーには「余計なことをして・・・」と言わんばかりの目で睨まれた。
みんなを確認して最後にバスに乗るから「いつも遅い」と思っていたのかもしれないが・・・・
「ご苦労様」と言葉をかけられるのではなく、睨まれたのには驚いた。
さて・・・この次はどこへ行くのか・・・・
行程表というものはないので、わからない。
どこかの道の脇に・・・・あれ?
日本陸軍の九五式軽戦車が!!
バスから降りて見学となる。
ここは・・・どこ?
博物館のようには見えないんだけど・・・・
どうも個人の収集家の土地らしい。
戦車のほかに大砲や機関砲などが置いてある。
ついでに・・・恐竜の模型も・・・・
なんだかわからんが・・・・
とにかく、この九五式軽戦車は程度がいい。
いやぁ〜感激である!
次に向かったのは「アサン・ビーチ」
ここは米軍の上陸地点・・・・多くの米兵が日本軍の攻撃を受けて戦死した場所である。
廻りを見てみると、どう見ても上陸側に不利な地形である。
なんでこんな場所に上陸したんだろう?
そう思ってしまうような場所である。
アサン・ビーチ |
このところ立て続けに海外へ行っているのでグアムの戦史を勉強をする時間が全然取れなかった。
だから・・・・グアムの戦史についてはよくわからない。
今日のこの島内周遊に、髭を生やした一人のアメリカ人も同行してくれていた。
どういう方なのか、よくわからないのだが・・・
どうも歴史研究家かなにか・・・そういう方らしい。
彼がグアム島の戦史について英語で解説してくれるのを、“キングさん”が日本語に通訳してくれる。
しかし、あくまでも米軍側の話であって、日本軍の部隊の詳細はわからない。
失敗した・・・・勉強しておくべきだった。
戦史の説明を受ける |
その後、彼から個人的に話しかけられた。
いやはや・・・私は英語が苦手である。
「英語が下手だから・・・」と断ったら、「いや、発音は綺麗だし聞きやすい英語だから全然問題ない」と言われる。
しかし、そう褒められてもですねぇ〜
ボキャブラリーが乏しいんですけど・・・・(笑)
正直言って彼の英語は断片的にしか理解できないのである。
困ったのは・・・・この一言・・・・
「あなたは映画俳優のようだ」
たしかにそう言ったように聞こえたのだが・・・・
その前後の言葉が分からない。
私の外見が「映画俳優のよう」なわけがない。(笑)
私の喋り方が「映画俳優のようだ」というのもピンとこない話だ。
私の何が「映画俳優のよう」なのか・・・・????(笑)
もしかして、直訳すると「映画俳優」だが、他に何か別の意味がある言葉なのか?
わからない!参ったぁ〜
もう少し英語が出来たらなぁ〜
お互いに戦史についても語り合えるのになぁ〜
残念でならない。
さて、次に向かったのは、この海岸のすぐ近くにある「太平洋戦争国立歴史公園」
日本語ではこう言われているが、公園・・・って・・・・どこが公園?
よくわからない。
英語では、「ウォー・イン・ザ・パシフィック・ナショナル・ヒストリカル・パーク」
資料館らしき建物の脇になんと!日本海軍の特殊潜航艇が展示されていた!
「太平洋戦争国立歴史公園」のビジターセンター |
特殊潜航艇 これをバックに、みんなで記念写真を取ることにした。 |
日本軍の2人乗りの潜水艦 |
1944年8月半ば、沖合のアメリカ軍の施設を攻撃する目的で日本軍は2人乗りの潜水艦をタグチャ海岸付近で任務につけた。 しかし戦闘の結果1週間後に日本軍は敗退した。 日本軍は1934年から45年までの間約2,000隻の小型潜水艦を建造したが、すべて太平洋戦で沈没した。 これら潜水艦の戦果は、太平洋戦争を通じわずか1隻の敵艦を沈没させたに過ぎなかった。 1941年12月の真珠湾攻撃では5隻の日本軍の2人乗り潜水艦が沈没または行方不明となっている。 写真(右)の潜水艦はオアフ島東部で撮影された。 日本軍の潜水艦は全長80フィート。 乗組員2人が乗船するだけが精一杯で、乗り心地などは考慮されていない。 後に製造されたモデルは弾頭が搭載でき、敵艦への体当りの任務を負っていた。 (現地説明板) |
次が・・・「ガン岬」・・・
ここには日本軍のトーチカがある。
25ミリ対空機銃もあったそうだが、今は整備のためアメリカ本土に送られているとか・・・
ガン岬 (太平洋戦争国立歴史公園) |
ガン岬 |
米軍のアガット上陸海岸の目標の1つとされたガン岬は1944年7月までヤシの木で覆われていた。 しかし米軍は上陸後に木を伐採し宿舎を設置。 島東部にあった日本軍が設けた収容所にいた約6,000人のチャモロ人をこの宿舎に収容した。 今日ガン岬には戦死した戦闘員を記念し、グアム、アメリカ、そして日本の旗が掲揚されている。 ガン岬の史跡を訪れるには上陸地点の海岸まで短い湾曲状の道を行けばよい。 ここから日本軍の防御施設の銃眼や米軍が内陸部進攻の目標としたオロテ半島やアリファン山が展望できる。 (現地説明板) |
左から、日本・アメリカ・グアムの旗 (ガン岬=ガアン・ポイント) |
日本軍の高射砲 |
この25ミリ高射砲は高性能爆薬や徹甲弾薬を使用しており、毎分300発を発射できる。 米軍がグアムを奪還した当時、志摩は日本軍の高射砲と海岸砲で埋め尽くされていたという。 戦後米軍は「戦争の遺物」とスクラップとして処理したため、今日当時のままの状態で残っているものは少ない。 (現地説明板) |
日本軍陣地跡 「高木隊第二分隊13名」の文字が書かれていた。 |
ガン岬から見た景色 | 向こうに見えるのは「表半島」(オロテ半島) |
アガット上陸海岸 |
1944年7月21日、日本軍の機関銃や迫撃砲の攻撃、さらに白煙の間を抜けて数千人の米77歩兵師団主力の海兵隊員がアガット海岸に侵攻した。 リーフは浅かったので比較的米軍の攻撃は簡単だったが、一方、アガットの地形上、日本軍もここが米軍の上陸目標であることを容易に察知できた。 しかしガン岬からの日本軍の砲撃により米軍は長時間前進を妨げられた。 米軍の上陸拠点制覇は単にその後に続く3週間に亙る激戦の幕開けだった。 ここから米軍が目標としたオロテ半島とアリファン山が展望できる。 いずれも激戦の地となった。 (現地説明板) |
アガット海岸で撃墜された日本軍の戦闘機の傍らを通る米海兵隊員 |
【昭和地区(アガット地区)】
この地区を守備した日本軍は歩兵第38連隊(末長常太郎大佐)。
「昭和海岸(アガット)」正面に布陣していたのは第1大隊(大原大尉以下約1,000名)。
米軍の艦砲砲撃を直接蒙った海岸線を守備していたのは第2中隊と第3中隊で、艦砲砲撃により米軍上陸前に殆ど壊滅したという。
上陸した米軍は第1臨時海兵旅団の第4海兵連隊と第22海兵連隊。
第1中隊は後方の「有羽山(アリファン)」に第二線陣地を構築して布陣。
第1大隊長・大原大尉は第1中隊を指揮して海岸に逆襲をかけるが、この突撃で大隊長以下将兵の殆どが戦死。
生存者約30名が「有羽山」右翼の連隊本部に後退した。
(参考:佐藤和正著 『グアム島玉砕戦記』 光人社)
アガットの海岸:南を見る | アガットの海岸:北を見る |
日本軍のトーチカ |
オロテ岬の攻防 |
北西に伸びた海岸線はオロテ半島まで続き、ここは米軍の主要攻撃目標の一つでもあった。 オロテには大きな港湾があり、平坦な地形を利用して日本軍の滑走路がすでに建設されていた。 米海兵隊と歩兵師団はこの半島を獲得するのに丸4日間を要している。 この地点とオロテの飛行場の間のマングローブの繁茂した沼地から米軍は侵入し、万歳突撃を敢行したが、日本軍守備隊はトーチカや掩蔽壕から反撃を加えた。 |
米海兵隊員はオロテ半島のヤシ林から手榴弾を投げ日本軍の狙撃兵を狙った。 破壊されたオロテの日本軍第一飛行場の戦闘機 米設営部隊はオロテ占領と同時にわずか1日で日本軍の飛行場を整備し、さらに滑走路を延長した。 1944年8月7日には本格的に戦闘機が離着陸できるようになった。 アプラ港は近隣の島々を攻撃する主要供給港とされた。 (現地説明板) |
【表半島(オロテ)】
表半島(オロテ)の付け根に歩兵第38連隊第2大隊が布陣。
米軍は上陸時に歩38の第1大隊のみに攻撃を集中したため、米軍が上陸した時には第2大隊は無傷だったという。
上陸地点に布陣していた第1大隊の第2中隊・第3中隊の若干の生存者は、抵抗を続けながら逐次後退し、北方の第2大隊に合流した。
その後、オロテの第2大隊が南下し、「有羽山」から連隊長率いる第1大隊の残存兵力と本部要員、戦車第9連隊第1中隊の九五式軽戦車5両が、「アガット海岸」の南方「竹矢海岸」から第3大隊が北上して夜襲をかける予定だったが、第2大隊は連隊本部との連絡がとれず、攻撃命令が徹底しないまま、第6中隊のみが夜襲に参加した。
この命令不徹底もあり、戦車を含む連隊本部の突入は失敗し全滅した。
(参考:佐藤和正著 『グアム島玉砕戦記』 光人社)
ちょっとした公園になっているこの周囲を散策する。
参加者の中に青い顔して座り込んでいた方がいらした。
みんなの歩く速度について行けず息が切れてしまったという。
「私が一番後ろを歩きますから無理しないでマイペースで歩いて下さい」と声をかける。
我がグループはどんどん勝手に先に行くが・・・
参加者の中には杖をついて歩く人もいるし、この方のように無理すると呼吸困難になる方もいる。
そういう人には、ちょくちょく声をかけてあげないとね・・・・
リーダーは参加者のことは眼中にないらしいから・・・・
時刻はお昼を過ぎている。
バスに戻り、次の目的地(どこなのか知らないけど・・・)へ向かう。