平成20年11月24日
天保5年2月9日(1834年3月18日)〜明治7年(1874年)4月13日
佐賀県佐賀市・神野公園でお会いしました。
藩校弘道館で学び、次いで枝吉経種(神陽)に師事。
義祭同盟に加わり攘夷運動に携わり、のちに開国論に転じ藩吏となる。
文久2年(1862年)脱藩して姉小路公知きんさとを通じ皇権回復の密奏を図って失敗し、国許で永蟄居ちっきょとなる。
明治維新後徴士となり江戸遷都を提唱。
佐賀藩の権大参事、文部大輔などを経て、明治4年(1871年)左院副議長となる。
翌年4月、司法卿となり、司法制度の整備、民法仮法則の制定作業などを主宰したが、官吏不正の摘発に関して長州閥としばしば対立した。
明治6年(1873年)4月、参議となるが、明治6年の政変で下野。
明治7年(1874年)1月、民撰議院設立建白書に名を連ねる。
同年2月、「佐賀の乱」で首領に擁され、敗れて刑死。
江藤新平像 (佐賀県佐賀市・神野公園) (平成20年11月24日) |
江藤新平卿について
江藤新平卿は、天保5年(1834年)2月9日佐賀郡八戸村(佐賀市鍋島町八戸)で佐賀藩士の家に生まれた。
幼少から勉学に励み、藩校弘道館に学んだほか、枝吉神陽、石井松堂などにも師事したが、早くから尊王派同志の義祭同盟にも参加した。
維新の風雲が急を告げるや文久2年(1862年)脱藩して京都に上り、勤王派の公卿や薩摩、長州などの志士とも交わって大いに画策するところがあったが、佐賀へ連れ戻されて脱藩の罪に問われ、辛うじて死は免れたものの終身閉居を命じられた。
慶応3年(1867年)徳川幕府が大政奉還した後、罪を許され郡目付として京都へ上る。
翌年朝廷の徴士となり、征討大総督府の軍監として江戸開城に立ち会う。
また彰義隊討伐と江戸遷都を建議、その後、江戸の民政安定などに尽くした。
明治2年(1869年)佐賀藩の参政に任命されて藩政改革に取り組んだ。
同年秋、新政府の要請により再び東京へ上り、中弁に任命されて廃藩置県案、賞典制度案、国政改革案、陸海軍備方策などを作成し献策した。
明治4年文部大輔、左院副議長、同5年司法卿、同6年参議と要職を歴任し、文教制度の確立、諸法規の制定などに尽くした。
明治6年10月征韓の議が否決となったため、西郷隆盛らと共に参議を辞任し下野。
同年1月佐賀に帰って征韓党の党主に推された。
同年2月岩村高俊権令が熊本鎮台兵を率いて佐賀に入城したため、島義勇の憂国党と共にこれを攻めた。
いわゆる佐賀の役ぼっ発。
最後はこの戦いに敗れ、同年4月13日佐賀城内で処刑された。
時に満40歳。
大正元年(1912年)罪名消滅。
大正5年正四位を復位追贈された。
その最後は悲痛を極めたが、江藤卿が初代司法卿として近代的法制と諸官制の創建、司法権の独立、汚職の摘発、人権の擁護などに身をもって当たった不滅の功績は永く歴史に残るであろう。
昭和51年4月14日
江藤新平卿記念碑建設委員会
(碑文より)
神野公園 (佐賀県佐賀市神園4−1−3) (平成20年11月24日) |
神野公園
旧藩主鍋島閑叟公の別荘で弘化3年(1846年)造成、一般に「神野のお茶屋」と呼ばれていたが、大正12年に公園として、市民に開放され佐賀市が管理することになりました。
公園には、多布施川の清流を引いて池を造り小山を築いて四季の植物を配した日本庭園と、睡蓮池や展望台を備えた洋式庭園があり、小動物舎、遊園地なども設置されています。
又桜の名所として、市民に親しまれています。
(案内板より)
弘道館記念碑 (佐賀県佐賀市・徴古館の脇) (平成20年11月24日) |
藩校 弘道館
佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、後に水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(後の寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、清里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。
(説明板より)
弘道館跡 (佐賀県佐賀市松原2−5−22・徴古館) (平成20年11月24日) |
義祭同盟之碑 (佐賀県佐賀市・楠神社) (平成20年11月24日) |
明治維新佐賀勤王家会合の先駆をなした義祭同盟は、佐賀藩の学者枝吉神陽に薫陶を受けた志士等が嘉永3年(1850)本庄村梅林庵に祀る楠公父子尊像の御前において祭典を執行した。
これが佐賀勤王論の始まりである。
佐賀藩の重役執政安房あわは義祭同盟を支持、安政5年には八幡宮境内に楠社を創建し自ら盟主となって5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。
この同盟に参加したのは副島種臣・江藤新平・大隈重信等実に多くの志士たちであった。
この同盟は明治13年まで毎年5月25日に厳粛な義祭を行い、祭典終了後は無礼講として一切格式を問わず談論風発、悲憤慷慨して縦横の論議を闘わし最も意義ある会合となした。
これが維新鴻業の原動力となり後年この中より明治政府における大政治家をはじめ数多くの優れた人材を輩出し佐賀藩の面目を躍如として天下に知らしめた。
ここに同盟結成百五十周年を記念し当時の志士たちの計り知れない労苦を偲び、遺された偉大な功績を稱えてこの顕彰碑を建立するものである。
平成12年5月吉日
長沼冨士男謹識
宮司謹書
(碑文より)
楠神社 (佐賀県佐賀市白山1−3−2・竜造寺八幡宮の脇) (平成20年11月24日) |
本邦創祀正一位 楠くすのき神社由緒沿革
楠神社は安政3年(1856年)佐賀藩の執政鍋島安房が造営した。
楠公なんこう父子櫻井の驛訣別の像が祀ってある。
この木像は寛文2年(1662年)佐賀藩士、深江平兵衛入道信渓、大木英鐵等が京都の仏師法橋宗而に製作を依頼して同3年佐賀郡大和町永明寺に小堂を建てて祀った。
それから180年後佐賀藩校、弘道館教■枝吉神陽等が古文書によって楠公父子像を発見、嘉永3年義祭同盟を組織し信渓の裔深江俊助種禄を盟主として高伝寺の末寺梅林庵において盛大なる祭典を行った。
これが義祭同盟の起りであり、佐賀勤王論の始まりである。
開明的な10代藩主直正(閑叟公)は義祭同盟を支持、執政安房は自ら盟主となり、安政5年5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。
同盟に参加したのは江藤新平(のち司法卿)大木喬任(のち文部卿)副島種臣(外務卿)島義勇(秋田県令)ら郷土が生んだ明治維新の元勲として國事に盡瘁した佐賀藩の功臣は悉く此の義祭同盟に参加した。
大隈重信(総理大臣)17才、久米邦武(東大名誉教授)16才はこの時最年少者として初めて参加、この境内で日本一君論いっくんろんを論じ合った。
大隈は「この同盟の中から後年政界に立って頭角を現わした人も多い、予がこれに加盟したのは、世に出て志を立てるきっかけになったと言ってもよい」と回顧している。
こうして楠公父子の神霊に育くまれて明治維新の志士たちが生まれた。
この楠公父子の像が佐賀に始めて祀られたのは、かの有名な水戸光圀が建てた湊川建碑「嗚呼忠臣楠子之墓」(神戸市湊川神社境内)に先立つこと29年実に我が國初の楠公を祀った神社である。
非理法権天ひりほうけんてん
楠正成がその旗に印せし文字
非は理に勝つこと能あたわず、理は法に勝つこと能わず、法は権に勝つこと能わず、権は天に勝つこと能わず、天は宏大にして私無しと云う語にもとずく
(説明板より)
「佐賀の七賢人」の碑 (佐賀県佐賀市・佐嘉神社) (平成20年11月24日) |
佐賀の七賢人
鍋島直正公(1814〜1871)
肥前佐賀第10代藩主。
文化11年江戸藩邸に生まれ、幼名貞丸、のち斉正、直正という。
号は閑叟。
天保元年家督相続。
藩財政の改革、長崎警備に力をつくし、科学をとりいれ、鋳砲建艦に努力して海軍の基礎をつくった。
公武合体派であったが、幕末の政局では自重し、明治政府内では軍防事務局次官・北海道開拓使長官をつとめた。
明治4年没。
年58。
正二位をおくられ、のち従一位となる。
大隈重信(1838〜1922)
天保9年、佐賀藩士、大隈信保(鉄砲組頭)の子として生まれ、弘道館に学び義祭同盟に参加した。
長崎で英語を学び、明治政府の徴士となって外交・財政に活躍。
のち改進党を組織し、藩閥政府と抗争した。
また早稲田大学の前身、東京専門学校を創立。
のち、外務大臣、農商務大臣、総理大臣などを歴任、政治・文化に功績があった。
大正11年没。
年85。
従一位をおくられた。
江藤新平(1834〜1874)
天保5年生まれ。
名は胤雄、号は南白。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
維新時、大木とともに東京遷都を建白。
また明治政府内で、立法・制度において偉大な功績があり、とくに司法卿として司法制度の基礎を作った。
明治6年参議となる。
征韓論争で破れ、佐賀県士族におされて憂国党と組み佐賀の役で戦ったが敗北、逃れて四国で捕われ明治7年非道にも処刑された。
年41。
大木喬任(1832〜1899)
天保3年佐賀藩士大木知喬の長子として生まれ、通称幡六、のち民平と改めた。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
明治新政府以後、東京府知事・民部卿・文部卿・司法卿を歴任。
3回にわたる文部大臣として学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力した。
元老院・枢密院両議長を歴任し、明治国家の確立に努力した。
常に開明的な立場から圧迫をうけながらも終始儒教主義をおしとおした。
明治32年没。
年68。
佐野常民(1822〜1902)
文政5年佐賀藩士下村充武贇の五男に生まれ、11歳で藩医佐野常徴の養子となる。
弘道館で学び、医学を緒方洪庵のもとで研修、のち藩士に物理・化学を教えた。
幕末国産最初の蒸気機関車模型製作や佐賀藩初のアームストロング砲の試作に尽力した。
慶応3年パリ大博覧会に藩命をうけて渡仏、帰国後、海軍創設につくし、大蔵卿・元老院議長・農商務大臣などを歴任した。
明治10年西南戦争のとき博愛社(日本赤十字社)を創設して社長となる。
明治35年没。
年81。
島 義勇(1822〜1874)
文政5年生まれ。
通称団右衛門、字は国華、楽斎と号した。
枝吉神陽に学び、藤田東湖と交友があった。
安政年間から蝦夷・樺太を巡見、明治2年開拓使主席判官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。
のち侍従・秋田県令などをつとめ、征韓論分裂のころ、旧藩の憂国党に推されて領袖となり、征韓党とともに佐賀の役で戦った。
明治7年非道にも処刑された。
年53。
副島種臣(1828〜1905)
文政11年、佐賀藩士枝吉忠左衛門(南濠)の二男として生まれ、副島家の養子となる。
幼名龍種、号は蒼海または一々学人。
父および兄、枝吉神陽の感化をうけ尊攘論に傾く。
弘道館の国学教授をつとめ長崎で英学を学び、開国論に転じた。
参議・外務卿として対支那外交の第一人者。
マリアルーズ号事件を解決、征韓論争で下野し、清国に■■、のち侍講宮中顧問官・内務大臣などを歴任した。
明治38年没。
年78。
(碑文より)
(石碑の写真より)
佐嘉神社 (佐賀県佐賀市松原2−10) (平成20年11月24日) |
贈正四位江藤新平君遭難遺址碑
明治二年十二月二十日中辧従五位江藤君新平訪阪部長照於赤坂葵街佐賀藩邸會西岡逾明荒木博■在座歓■至夜半君先去竹輿出邸僅數歩暴客卒猝撃君躍身避溝中三人間急提■走出護君入邸醫療創先是君為藩権大参事■革藩制編入下士於卒伍下士深■之所以及此也藩知事鍋島侯命吏追捕刑之 勅使慰問賜金若干君歴任顕要功績不尠聲望倍■及征韓論起不能全終惜哉四人者皆余■交也■博臣子三雄來曰先考徳江藤氏推■任司直累進二等官正四位遺族頼其餘恵先考嘗有建碑於遭難地之志不■而卒■欲■遺志■紀之■嘉其擧畧叙若此
大正五年六月
正二位勲一等伯爵土方久元篆額
正三位勲一等■野琢撰塀并書
(碑文より)
江藤新平君遭難遺址 (東京都千代田区霞ヶ関3−8) (平成20年6月14日) |
佐賀の役 殉国十三烈士の碑 (佐賀県佐賀市・佐賀県立博物館前) (平成20年11月24日) |
佐賀の役 殉国十三烈士の碑 (佐賀県佐賀市・佐賀県立博物館前) 処刑地跡 (平成20年11月24日) |
十三烈士
江藤新平 島義勇 重松基吉 中川義純 副島義高 福地常彰 山田平蔵 村山長栄 西義質 朝倉尚武 山中一郎 香月経五郎 中島鼎蔵
殉国十三烈士について
明治の新体制は、幾多の尊い血を流して出来上がった。
佐賀の役もその一つであった。
江藤新平、島義勇先生らは、藩閥独裁を排し民権政治を提唱した先達の士であったが、明治7年戦に敗れ、十三烈士がこの地で処刑された。
後年、明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年には江藤島両先生の生前の功績に対し、特別に贈位の恩命があった。
ここに我らの先人がみせた千載不滅の愛国心とその盛んな情熱を追慕してやまない。
記念碑の建設について
明治7年の「佐賀の役」後に、その首謀者と目されて佐賀城内の露と消えられた江藤新平、島義勇先生ら13人の殉国の烈士をしのぶことにより、ふるさと佐賀の見直しと青少年の健全育成に役立てようとの気運が高まり、昨年11月から募金を始めましたところ、県内外の幅広い同志から多額の浄財をいただきましたので、佐賀県政百年記念のときに当たり、この記念碑を建設することができました。
昭和58年10月吉日
佐賀の役殉国十三烈士の碑
建設委員会
(碑文より)
江藤新平の墓 (佐賀県佐賀市・本行寺) (平成20年11月24日) |
江藤新平の墓
江藤新平、1834(天保5年)〜1874(明治7年)は弘道館時代に枝吉神陽の影響を受けて尊皇論を唱え、1862(文久2年)には脱藩して倒幕運動に従ったが、捕えられ永久閉門となり、1867(慶応3年)まで蟄居ちっきょさせられ極貧の生活を送った。
明治維新後新政府に招かれ大木喬任たかとうとともに江戸遷都を建議し実現させた。
のち文部大輔として文部省官制を整備し、さらに左院副議長、司法卿、参議を歴任とくに司法卿として司法権の独立、民法編纂に大きな業績を残した。
また征韓論に敗れて下野し、島義勇よしたけらとともに佐賀の役を起こし志を遂げようとしたが成らず、刑死した。
のち罪名を除かれ1916(大正5年)従四位を追贈された。
昭和48年10月
資料提供 佐賀県教育委員会
佐賀北ロータリークラブ
(説明板より)
江藤新平の墓
(生没年:1834〜1874)
江藤新平は、江藤助右衛門の長男として佐賀城の西北八戸やえで生まれました。
藩校弘道館で苦学し学識を身につけました。
脱藩して上京するなど激動する幕末の政治情勢の中で広い視野を身につけました。
明治元年(1868)東征総督府監軍とうせいそうとくふかんぐん・江戸鎮台府ちんだいふ判事として手腕をふるい、江戸遷都せんとを唱えました。
明治新政府では文部大輔だいふ(次官)、左院副議長などを歴任し、明治5年(1872)には初代司法卿として、近代国家にふさわしい司法制度の整備に尽力しました。
翌6年4月、参議となり新政府の運営に参加しましたが、10月の政変で西郷隆盛らとともに参議を辞任し、明治7年2月、佐賀藩士族に擁立され征韓党主として佐賀の役で政府軍と戦って敗れました。
墓は当初、鍋島町蓮成寺れんじょうじにありましたが、後年この本行寺ほんぎょうじに改葬されました。
佐賀市
(説明板より)
本行寺 (佐賀県佐賀市西田代1−4−6) (平成20年11月24日) |