斬る[道具]
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虎徹について

新刀期、随一の名工であり、切れ味の格付けからも、最上大業物のトップに
ランクされている。
明暦から延宝にかけて活躍した、越前の人であり、刀工になる前は「甲冑師」
であったと伝えられている、昔読んだ話の中に虎徹が「甲冑師」から刀工に
転業した、理由がまことしあかに書かれていたのを、読んだ記憶があるが、

これも西洋の王様の寓話「どんなものでも突き刺す事が出来る、矛と、どんな
物でも突き刺すことの出来ない、盾と、勝負したらどうなるか?」
と同じような構成になっていた、即ち虎徹の作った「兜」を或る刀工が作った
刀で切りつけてみよと、言い出された殿様が在った、

其の時、虎徹は「自分の兜は、切り割られると思った」と言ったそうだ
その時から、受身の武具、よりも能動的な刀を作った方が良いとして
江戸に出てきて一流に成ったのだそうです、

では其の刀はどのような刀かと言うと、それは
刀剣用語で言うと、鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸(じにえ)が細やかに
つき、地景が混じって明るく冴えて、後期は互の目、数珠刃を焼き、沸匂い
が極めて深く、、、、と賞賛の字句が続くのである。

実物を見て見れば、一番良く判るのであるが、このような名刀はやたらに
転がっていいる物ではないし、此れがそうだよといって見せてもらっても
興味の無い人には、まさに「猫に小判」。

そこで一つ、こんな話がある
幕末の剣客の一人にかの有名な「近藤 勇」なる人物がいます
余りに有名ですので、知らない人は無いと思いますが

この方の差料が「長曽禰 虎徹」だったと言う話があります
腕も立ったが、刀も当代随一の物であったという事かも知れませんが
私は、このような高価な刀を一介の郷士である、彼が持てるわけが無いと
考えるのです、晩年は幕府の旗本に成ったと言うことですが、当時大名クラス
でさえもちえなっかた刀を、持てるわけが無いと思うのです、
当時から贋作が多く作られていましたから、もし持っていたとすれば
偽者だったのではなかったでしょうか?

三島 由紀夫が市ヶ谷の庁舎の上で自決したとき、彼の首を介錯した刀が
「関の孫六」だという話が流れたのでした、(この刀も室町末期の末古刀では
最上大業物にランクされている、名刀です)しかし後に此れを鑑定した結果
無銘の後代兼元だと言う鑑定結果が出たそうです。