●松本光子さん(85才)
 〜広島原爆体験者〜

1、はじめに
 私が被爆した時、 6歳・4歳・2歳の子供がいました。
夫は44年11月に結核で病死していました。
1941年4月に大阪から広島に転勤して、 44年に死亡
していました。 それですから4年と4ケ月広島におりま
した。
 ですから広島のことは余り知らないのですが、 55年
後の今でも、 その時のことははっきりと記憶していま
す。他の被爆者も皆同じだと言っております。
 私は、 それこそビデオのように同じことをお話してい
ますが、 私のような者の体験は面映ゆいのです。         【写真・右側が松本光子さん】
 意図していますのは、 私がこの目で見た光景・しっかりと残っているこの光景をお話したいのです。
 8月 22 日に大阪に帰るとき、 駅から振り返って最後に見ると、 「ふくや」 というホテルが残骸として
残り、あとはもう一面の焼け野原でした。 駅舎も何もすべてがなにもない。 あちこちで身内を焼く煙が
上がっていました。
 そういう広島を後にしたのが8月22日のことです。
 今年もまた7000人の一人として広島に行ってきました。 たとえ爆心地に立っても、 私の広島は、 私
の体の中に残っている広島だと思って、 それをを大事に語っていきたいと思っています。

 2、あの日の広島

 当時の広島は、 7月が終わり、 8月の初めまで毎日のように飛行機が来て、 そのたびに防空壕に
入っていましたが、 いつも警戒警報で終わっていました。それまで一度も空襲を受けなかったのです。
 B29が来て飛行機雲をまっすぐに引いて、 いつもぐるぐると回って帰っていったのです。
 その日も警戒警報が鳴り、 空襲警報にはなりませんでした。 それで私は新聞を読んでいました。
 突然B29の高い音がして、 これはおかしいと、 庭へ出て子供を縁側の柱のところに置いて、 庭の松
を通してB29を見あげました。 トタンにピカッと空全体が光って見えて、 その後真っ暗になりました。 ど
の位かして、 気がついたとき、 松の木の太い幹を抱くようにして倒れていました。 後ろを見ると、 2階
建てだった家がペシャンコになっていました。
 長男は私の後ろにいたので、 飛ばされてはいましたが、しかし怪我もなく、 助かりました。 2歳の娘
は家の下敷きになっていましたが、 助け出すことが出来ました。
 この末の女の子は小さいので太い柱と、 落ちてきた梁の間の小さな空間で奇跡的に助かったので
す。
 後で見たら、 頭が大分うっ血していましたから、 もう少しのところで助かったわけです。 その時、 広
島へ出張で来ていて、 まるで原爆に会うために広島に来たような人が、 家へ挨拶に来て、 庭で体を
拭いていました。
 その人がすぐに来てくれたことと、 又、 隣の人が壊れた塀を乗り越えて来てくれたので、 2歳の子を
助けることができたわけです。
 4歳の次男は、 夫の図面を書く机の下で遊んでいたのですが、 突然真っ暗になったので、明るいと
ころへ、 明るい方へと出て来たのだということでした。
 明るいところへ、 明るい方へと出て来たのだということでした。
 娘を助けだしてホッとした時、 その次男が、 倒れた家の屋根の上から、 ドロ人形のようになって出て
来たのです。
 当時の家は壁が土壁でしたから、 家が壊れると、 それがドロとなっていっぱいになるのです。
 子供3人が、 やけどもせず、 2・4・6歳の子供の手を握って、 もう何もいらないと思って、逃げ出しま
した。
 私の家のあったのは、 爆心地から1.7の距離の所でした。 爆心地から北東に少し寄った所、 白島九
軒町です。 太田川まで逃げました。
 逃げるとき、 道路へ出たところで山陽本線が見えるのですが、 そこに貨車が倒れていたのを見たと
思います。 後で見たら燃えて鉄骨だけになっていました。
 男か女か分かりませんが、 人が倒れているのが見えました。 つぶれた家の下から助けを呼ぶ人の
声が幾つも叫んでいました。
 また途中で、 いつもはオダヤカナ顔付きの人に会ったのですが、 その人は爆心地に向けて走ってい
ました。
 その顔はすごい形相で、 目の焦点は違う所を見続けていました。 後にも先にもああいう顔を見たこ
とはありません。
 また男の子が立っていました。何かぶら下げているようで、 通り過ぎる時に見たら腸がヒモのように
垂れていたのです。
 泣きもせず、 大きな目で私を見ましたが、 その目を忘れることができません。それから、 軒先にいる
オバアサンを見ましたが、 正気のない顔をしていました。
 また家人をつぶれた家から助け出そうとしている人も見ましたが、 すべてシーンとした音のない静か
なしずけさが忘れられません。
 まず松の木から身を起こしたとき、 そして家を振り返って見たとき、 その時に見た空の青さ、そのガ
ラーンとした青い空でした。
 逃げている時の私の顔も、 さっきの人のように怖い顔をしていたと思います。 ですから、 助けてとい
う声を聞いても、 子供のことしか頭にはありませんでした。
 太田川から川上に向けて走っていたとき、 工兵隊の兵士が一人倒れていました。 驚いたことに、 軍
帽をかぶっていたところは髪の毛がオワンのように丸く残っているのに、 首から下は真っ赤な血の固
まりでした。 ジロジロ見ることはとてもできませんでした。
 ずっと後になって考えると、 3000度もの光が肉も真皮も焼き、 そこへ音速を超える熱風が服も肌も
剥ぎとっていったのだと思います。
 ダラダラと太田川へ降り、 大勢の人に合流しました。 その内に黒い雨が降ってきました。 重油を含
んだ雨だから、アメリカ軍が後で火を付けるので、 固まってはいけないと言われて、 バラバラになりま
した。
 その内全市が火の海になりました。 私が逃げるとき、 火は隣まで来ていました。
 二人の女の子を連れた人は、 ご主人がたまたま出勤前だったのですが、 原爆で家が倒れ、 足か腕
かが挟まれて動けず、 火が迫って来た。 ご主人が鬼のような顔をして、子供を連れて速く逃げろと言
われて逃げて来たという。 髪の毛も服も火でチリチリになっていました。
 牛田街道、 太田川の上流部にあるのですが、 その神田橋を渡って江田への街道を皆逃げていきま
した。 私は子供がいるので、 川原で野宿する覚悟を決めていました。
 その夜の体験と光景は本当に忘れられません。 対岸の光景に気付いたのは夕方遅くなってからで
した。 星がとてもまばたいていたこと。 私の後ろは火の海だったこと。そして私は対岸の牛田を見てい
ました。
 子供をおんぶし、 二人の子供をひざに置いていました。 川を隔てて対岸を、 たくさんの人たちが、 虫
のようなノロノロと、 しかしビッシリと行列して、 呻いてあえいで、 一人一人は手を前に出して歩いてい
くのです。 意味は全く分からないのに、 その喘ぎ呻きが地の底からの声のように聞こえました。
 歩き、 よろめき、 倒れて、 倒れてまた起きる人もいるし、 そのままの人もいました。
 それが夜明けまで続いていたのです。 倒れた人を何日かして見ました。

 3、わたしの戦争体験と失明

 私は、 1914年第一次世界大戦の年に生まれました。 女学校を出たのが満洲事変の年で1931年。
結婚した年 1937年は日中戦争の始まった年。 南京入城を祝って提灯行列をしていました。
 銀座に出たので二重橋に続く道を皆提灯行列をしてバンザイバンザイをしていました。私はちょうど通
りすがりだったのですが、はっきりと覚えています。
 でも今考えると、 その時南京大虐殺が行われていたのです。
 恥ずかしい限りです。 私の人生が、 大きく深く戦争に関わっていたというのに気付きもせずにいまし
たが、 この太田川の対岸の光景こそ戦争だとはっきり思ったのです。
 その後 1946 年 4 月 6 日、 不発弾でアッという間に失明し盲人となりました。 つらい時にはあの時
の光景を思い出すと、 私は力をいただきます。
 3人の子供を抱えて戦後をどう生きるかと行き詰まったとき、 あの失明の地獄から生きたことを、 あ
どけない寝顔で眠っていた3人の子供を思い起こしました。
 また腸を垂らしていた男の子のことを思い起こします。
 何日か後で、 仮の救護所へ行ったとき、 母親の胸のやけどが膿んで黄色くなっていました。 そのお
母さんの胸に4ケ月くらいの素裸の子が、 ハイズッてその胸にすがっている。 その母親は手も足も痙
攣していました。 アンペラを敷いただけの上に、 ただみんなが寝かされていました。顔に布が置かれ
ていれば死んだ人でした。 そのお母さんも恐らく死んだでしょう。
 大勢の人が担ぎ込まれ、 死んでどんどん積み上げられ、油をかけて焼かれ、 大きな穴に埋められて
いきました。 名前など確かめることさえなかったのです。
 長屋の人たちも13人が半焼けのまま葬られていました。 男何人女何人というだけの木の柱が立って
いました。 性別だけを書いて葬っていったのです。
 私の見たのはホンの一部。 名前も何も分からず死んでいきました。 今でも行方不明の人がいるので
す。 私が敗戦を知ったのは8月17日でした。 15日にはお米の配給がありました。 その時戦争が終わ
ったという話が、 何となくデマのように流れていました。 その頃は戒厳令で辻々に兵隊が立っていまし
たので、 聞きますと、 「ワシラ知らねえでガンス」 という答えが返ってきました。 兵隊と言っても、 小さく
て細くて、 私が若かったせいもあって、 オジイサンに見えました。 農家の人が、 普通なら兵士にはな
れないような人が軍服を着せられて立っていたのです。
 17日に町内会から皆集まるようにと言われて集まりました。 私の近所は皆さん土地を持っている人
たちが多かったの
で、 逃げずに残っていたのです。 20 人位がいて集まりました。 そこで敗戦を知らされました。
 その後大阪に引き上げるまでの2週間、 広島の光景の記憶が大分薄れてはいますが、 わたしにと
って子供のことだけが残っています。 やけども無いのに道路に子供が倒れていた、 そのことなどが思い出されます。 今55年たって、 親となり、 家庭を持った自分の子供を見るたびに、 本当に無残な姿
で死んでいった子供たちを思い起こします。 中学2年の子供が「海ゆかば」 を歌いながら死んでいっ
たということなどを聞くたびに本当に辛くなります。お腹一杯に食べたいのにガマンガマンで死んでい
った子供たち、 甘いものなど何一つ口にできなかった子供たちに対し大人は責任があると思います。

4、核廃絶への願い

 今 「核」 の問題が大きくなっています。 広島の核は赤ちゃんの核でした。 生まれたばかりの核でし
た。 1.7の範囲のことしか知らないけれど、今は何百倍もの大きな力を持っているということです。 アイ
ンシュタインが 「人類にとって、 核を見付けたのは最大の不幸だ」 と言ったそうです。
  アウシュビッツと広島が人類最高の悪だと言うことですが、 申し訳ないことに、 私と子供達は生き延
びたのです。
 原爆投下は国際法違反だということを、 日本は言えなかった。 その悔しさは大きいです。  
 サンフランシスコ条約のあと、 独立国となったのに日本は国際法違反だとは言わなかった。
 朝鮮戦争特需で潤っていたとき、 第5福竜丸が死の灰を浴びたとき、 私はうろたえました。 原水禁
の運動は 1954 年のビキニを機に起きたのですが、 ビキニ環礁での原爆実験を知ったとき私は逃げて
いたのです。
 私は子供のことがあったので、 逃げたのです。 被爆者であることをズーっと口に出来ずにいました。
1963 年、 私が癌になって、 信仰もいただいて、 被爆者手帳を手にしてから、 逃げるのをやめにした
のです。
 被爆者手帳は、 私達被爆者と市民の長い闘いの結果、 勝ち取ったものだったんです。
 お上からもらったものでは決してありません。 私がガンになったとき、 被爆者手帳をもらいました。
 その後は意識をしっかり持って、被爆者として、出来ることは何でもさせていただこうと思っています。
 私としてはそうなんですが、 体験した被爆者の中でもいろいろいます。 私の子供たちなど覚えていな
いといいます。 あの時、 3・6・12歳だったという人などが被爆を語っているのに巡り会いました。 松谷
さんなど、 3歳の時に被爆して頭を怪我して国を訴えています。 23年かかって今年、 その裁判は最高
裁で勝ったけれども、 8月になっても厚生省は何も言って来ないということです。 まだまだこれからで
すと言っておられました。
 私は親としては良い親ではないと思っています。 被爆者は私情を捨てる必要があると思っています。
問題は日本人だけの問題では無くなっているのです。 核の問題は世界の問題なのです。
 広島・長崎へ行くと20ケ国位からの被爆者に会います。 世界中に被爆者がいるのです。 生々しい
声を聞いていると、 核廃絶こそ必要という思いになります。核が平和のためにあるなどとは、 とんでも
ないことです。 人間が作ったものですから、 必ず廃絶することができるのだと思って、 これからも運動
を続けていきます。 年をとって肉体的に弱くなってはいますが、 できるだけの力をいただいて、 運動を
続けていきたいと思っています。  (終わり)