<概観>

前回のレポートでは差別全体を論じようとして、その範囲のあまりの大きさに挫折したため、今回はふたたび同性愛にテーマを絞って、その差別の歴史、背景、現状などを考えてみたい。繰り返しとなる部分もあるかもしれないが、前回のレポート、また、それ以前のレポートで論じた内容をまとめる形になればと思う。


1. 同性愛差別の歴史


同性愛ははるか昔から社会に存在したが、そのころは差別の対象ではなかった。それではなぜ、同性愛は「悪」という差別を受けるようになったのか。そのはじまりは、婚姻外の性行動を禁じる道徳によるものであったと推測される。この道徳はキリスト教によって受け継がれ、強化されていった。その道徳の拡大が、やがて差別の原因となり、キリスト教による弾圧は、同性愛に対する差別に拍車をかけていったと考えられる。ジャック・ソレ(1976=1985)によれば、同性愛は13世紀以降キリスト教の異端に名を連ね、魔女裁判などで断罪され、宗教的な悪として裁かれていたようである。また、フーコーは世間が男色家に対して訴訟や有罪判決などを行うようになったのは17世紀と書いている。つまりこの頃には、同性愛が社会的に罪悪とみなされていたことになる。
日本においては同性愛の差別の開始はもっと遅く、明治時代にはまだ男子学生の間などで同性愛行為が堂々と行われていた。「男色」という言葉が「変態性欲」という意味を持ちはじめたのは大正時代からであり(古田1993)、これは外国から文化が流入した結果、日本人の性に対する認識が変わったのだ、といえる。
これは男性同性愛者=ゲイに対する差別のはじまりの形である。これに対し、女性同性愛者=レスビアンに対する差別は、ゲイに対する差別とかなり違いがある。女性と男性の、社会における立場の違いが、差別の背景に大きな影響を与えているのである。
レスビアンが差別を受け始めた頃の社会は、男性優位の社会であった。女性は「性の搾取」を受け、男性よりも弱い立場にあった。また、「性的純潔」を求められてもいた。レスビアンは、立場の弱い女性の中でももっとも弱い立場にあるマイノリティとして差別を受けていたのである。



2.同性愛差別の背景



同性愛が差別される理由の最たるものは、それが「異常」というカテゴリーに分類されるものであるということであろう。同性愛に対する差別が始まったとされる17世紀は、ヨーロッパで市民革命が起こるなど、近代社会が形成されつつあった時期である。このころの社会では「市民的行動規範を攻撃する者、あるいは確定された男女の活動の境界を踏み外したものはみな、異常者———つまり同族ではないよそ者———と見なされ、社会を脅かすものと判断され」(Mosse 1985=1996 :37)、攻撃を受けていた。そして「同性愛者は両性の撹乱のみならず、情熱の微妙な均衡状態を損なう性欲過剰の象徴と考えられた」(同上)ため、その攻撃を受ける対象となったのである。また、この「性欲過剰」という見方は、禁欲を重んじるキリスト教によって激しく攻撃を受ける理由ともなった。


3.現状


現在、同性愛がどんなかたちで差別されているかについては、「ゲイ・スタディーズ」などに見ることができる。就職・生活など、同性愛者が差別を受ける場面は多々ある。いわゆる「ホモフォビア=同性愛嫌悪」は、アメリカなどでは、ゲイバーへの襲撃などという激しい攻撃となって現れている。こういった出来事は、日本においてはあまり表沙汰にはならないが、「『わが国の場合、ヨーロッパ・アメリカのような厳しい推論の伝統を持たないだけに、逆に激しく反論することもできなくて、かえって始末が悪い』」「『日本における表立ったホモフォビアの不在は必ずしもホモフォビアそのものの不在を意味しない』(高橋睦郎)」(Keith 1997:111)といわれるように、ホモフォビアが行動を起こさないからといって、日本は同性愛差別をしていない、というわけではないのである。むしろ日本は、同性愛嫌悪を隠蔽し、隠蔽することで同性愛者に対する差別をおこなっていると言われる。(Keith同上:112)
もちろん、こうした差別に対して同性愛者たちは抵抗を続けているわけだが、同性愛者同士でも、思想の違いなどの問題が起こっている。なかでも同性愛志向が「生得」か「選択」かという問題は、古くから議論を引き起こしてきた。この意識の違いから、同性愛者の解放運動は、「ゲイ革命」と呼ばれる運動と、「レスビアン・フェミニスト」と自称する人々の運動の二つに分かれた。どちらも、差別に対して抵抗することに変わりはなかったが、「ゲイ革命」は生得論者のゲイ男性およびレスビアンの女性が起こしたもので、「同性愛者は同性愛者であることを選択したわけではなく、そのように生まれついたか、あるいはそのようになってしまったのだから、彼らにたいする差別は不当なものである」と主張した。もう一つの運動の中心の「レスビアン・フェミニスト」である女性は男性から離れた運動を展開した。彼女らは自分たちが同性愛者という一少数派のそのまた一部であるという一般的な観念をはっきりと拒絶し、「生得論者」の存在も認めながら、自分たちはレスビアンを選択した「実存主義的レスビアン」であると主張した。さらには同性愛は病であり更正させるべきだ」としていた世間を攻撃し、「同性愛者に対する社会の迫害や偏見こそ咎められるべきだ」とする。「病んでいるのはレスビアンではなく社会なのだ。『同性愛』ではなく、『同性愛嫌悪』を癒さねばならないのだ」(Faderman 1991=1996:258)と訴えた。


4.これから


富岡は、「レスビアンの歴史」のあとがきで「自己定義の繰り返しの裏には、レスビアンたちが、自分たちの存在理由を正当化しなければならない、そしてそれを武器にして闘わなければならないような傲慢な異性愛社会が存在する、という背景がある」と書いている。これはレスビアンのみの問題ではなく、同性愛者すべての問題である。
こうしたレスビアンたち、ゲイ男性たち(もちろんゲイ男性たちの間でも、自己定義は繰り返されている)の思想は、世間にも波紋を投げかけた。そして、「この世の中において何が『正常で、自然で、常識に適うもの』なのか、という既成の価値観の問い直しが、異性愛にまで及んできたのである」(Faderman同上:7)。
富岡は、フェミニズムを研究するうちにレスビアンに接し「……自分がいかに今まで無自覚なヘテロ性(それ以外の存在に対する想像力の欠如)の上にのっかって生きてきたかに気づいて愕然とした」(富岡 1996)と記している。たしかに、異性愛者はなぜ自分が異性を好きなのかという自己定義をすることはないであろう。また、わざわざ自分と違う存在であり、しかも少数派である同性愛者を理解しようとはしない。


これは差別の問題すべてに言えることであるが、差別する側と差別される側は、ひとつの問題のなかでは、立場がはっきりと分かれてしまう。同性愛者でありながら同性愛者でない、ということはありえない。(両性愛者はまた別のものである)。また、中立もありえない。結果、意見を述べる際にも、まったく中立な意見というものは存在しない。これが差別問題を難しくしている一つの原因であろう。極論を言えば、差別される側の意見は単なる反抗と受け取られて終わる可能性があるし、差別する側の意見も、ただの同情となる危険性を含んでいるのだ。
この問題を乗り越えることは非常に難しいことであろう。しかし、不可能なことではない、と、私は考える。
そのためには、自分の意見を主張するのみでなく、相手の立場を、意見を、理解することが必要である。自分と違うから理解できない、と考えるのではなく、違うからこそ理解しよう、と、考えれていけば、差別を軽減していくことができるのではなかろうか。


5. 最後に


このレポートを書く間もずっと頭を離れなかった疑問がある。それは、同性愛は「生得」か「選択」か、という問題である。「3.現状」の項でも述べたが、この問題は同性愛者達の間でも議論を引き起こしている。参考文献で言うと、「ゲイ・スタディーズ」は「ゲイ革命」側に、「レスビアンの歴史」は「レスビアン・フェミニスト」側に立っている。
おそらくもっとも有名であろうゲイの団体「動くゲイとレズビアンの会」(「アカー」)は、「ゲイ革命」側にたつ団体である。ゆえに、差別撤廃を主張する同性愛者の多くは、自分は「生得的同性愛者」であると認識していると思われる。


私がそもそも同性愛差別をレポートのテーマにしたのは、これが「個人の性癖」「選択」を差別の対象としていると感じたからであった。この最初のイメージを考えると、「同性愛は生得的で逃れられないものであるから差別されるべきではない」という主張には、いささか違和感を感じてしまう。むしろ、「選択」して同性愛者になったとする「レスビアン・フェミニスト」の考えの方が、私には近いように思われるのである。
この考え方のどちらが正しいのか。そもそも、正しい、正しくないと判断することができるのか。私にはそれはわからない。その疑問を抱えたままレポートを書いてしまったので、分裂した感じになってしまったかもしれない。
卒論を書く際には、この両方の考えにたいしてもっと理解を深め、偏りのない論を展開していけたら、と考えている。


(40字×122行)




参考文献
Faderman,Lillian. 1991 ODD GIRLS AND TWILIGHT LOVERS ,New York :
Columbia University Press = 1996富岡明美『レスビアンの歴史』筑摩書房
George L.Mosse 1985 Nationalism and Sexuality: Respectability and Abnormal Sexuality in Modern Europe,New York =1996 佐藤卓己 佐藤 八寿子
『ナショナリズムとセクシュアリティ 市民道徳とナチズム』柏書房 パルマケイア叢書 7
キース・ヴィンセント+風間孝+河口和也 1997 『ゲイ・スタディーズ』青土社
古川 誠1993 「同性愛者の社会史」『別冊宝島176 社会学・入門』宝島社
White,Edmund. 1980 States Of Desire = 1996 柿沼瑛子
『アメリカのゲイ社会を行く』 草書房
Foucault,Michel 1982 “Entretien avec Michel Foucault”,in Masques = 1987
増田一夫 『同性愛と生存の美学』 哲学書房
Sole,Jacques 1976 L*amour en Occident a l*Epoque moderne = 1985西川 長夫 ほか
『性愛の社会史———近代西欧における愛ー——』 人文書院




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