差別についてのレポートは今回で三度目になる。去年の二回のレポートでは、差別の中でも同性愛差別に焦点をあてたが、今回は、同じく差別をテーマとするものの、視点を変えて、差別の背景……成立過程、構造、差別を作り出す心理などについて論じてみたい。






まず最初に、差別とは何か、ということを考えたい。池田清彦と柴谷篤弘は、互いへの書簡に次のように書いている。まず池田から「差別には二種類あります。第一は物理的な差別を含む政治制度としての差別。第二は差別表現を含む心的構造としての差別。……」(1992:14)と、差別が定義される。彼は自分が問題にしているのは政治制度としての差別の問題であり、心的構造の問題はあまり重要視していない、とした。それに対し柴谷は「『制度上の差別』は実質的に『心理的な差別』の存在を包含せざるをえないのではないか、と思います。……個人や集団を、その性別、出自、民族、身体的な特徴、性的な好みや表現、生得的な要因など、自分ではどうにもならない事柄をもとにして、個人的に、あるいは集団的に、心理的な評価の基準にすることが、差別でしょう」(1992:54-57)と応じている。
この書簡にしたがい、このレポートでは差別を「政治的差別」と「心理的差別」の二つに分類したい。「政治的差別」は、選挙権や税金など制度に現れる差別とし、「心理的差別」は、あるカテゴリーに属する人間を、個人の性質によってではなく、そのカテゴリーによって評価することであるとする。





世の中にはどのような差別があるのだろうか。思いつくだけでも、人種差別、性差別、職業差別、また、日本で差別問題を扱う際には避けて通れない部落差別などがある。それぞれの差別の理由としてあげられるものは、上述した柴谷の書簡にあるように、性別・出自・民族・身体的な特徴・性的な好みや表現・生得的な要因などさまざまである。これらの例について一つ一つ論じていては埒があかないので今回はこれに触れない。それよりも、このような「差別」の、なにが問題とされ、なにがいけない、とされるのか考えたい。
私の考えは以下のようなものである。まず人権という考えから。本来、すべての人間は平等であり、差別されるべきではない。どのような差違があっても、それは個人の特徴であり、差別する理由とはならない。これは憲法で規定されるまでもなく、すべての人間に保障されるべき権利であり、政治的・心理的の両方において言えることであると思う。





次に、差別に関わるいくつかの問題点について考えてみたい。これらの問題は、どうして差別はなくならないのか。ということを考える上でポイントとなるように思う。日本では、差別はいけない、という考えを、教育の中に取り入れている。しかし、それでも差別はなくなっているようにはみえない。それはなぜだろうか?
差別問題を難しくしている原因の一つに、差別と区別の違いがどこにあるか、という問題があると思われる。田中克彦はこのように述べている。「『区別』と区別される『差別』の本質は、ある個人、またはその個人の属する集団、階層、職種などに属する人間が、そこに属しているからという理由で蔑視され、排除され、不当な扱いを受けていると感じ、自らを恥じることにある」(1992:147)。しかしこの考え方では、「差別」と「区別」は受け手の感じかたによるものとなり、その境界が明確でないということには変わりない。おそらくは、境界線を引くことは不可能なのであろう。たとえ制度としてある一定のラインまでを「差別」としても、その感じ方は人によってさまざまだし、「これも差別だ」「いやそうではない」という論議が細々と起こるであろう事が予測されるからである。
差別は生得的なものか否か、という問題もある。これについてはさまざまな論議があるようだが、私個人の考えとしては、以前から主張していることだが、基本的に人間は、自分以外のものに対して本能的な恐怖感があるのではないかと思う。それが、社会的適応力を身につけることによって緩和され、他人との関係を営めるようになっていくのではないだろうか。その適応力を身につけるのは、社会での生活からである。その社会が差別を容認していれば、社会で育った人間が差別をするようになってしまっても仕方がないかもしれない。しかし、逆に、社会が差別を許さない傾向にあれば、たとえ差別が生得的なものであっても抑制することができるのではないかと思う。
今の社会は、たしかに、以前に比べれば「差別はいけない」と言われる機会が多くなったように見える。しかし、それは本当にそうなのだろうか。「差別」への批判としてよくマスコミなどに取り上げられるのは「差別語」の問題であるが、しかし、私はその報道を見るたびに、これは本当に差別を批判していることになるのだろうかという気持ちになるのである。表面的なものを取り上げ、攻撃しているだけではないか? 「差別語」を批判することが、差別をなくすことにつながっているかどうか疑問である。私には、「差別語」を使って記述するで差別を批判するという方法もあると思えるし、「差別語」の禁止によって表現の自由が制限されていることも大きな問題であるように思われるのである。
特に「差別語」を糾弾することが多いのは、日本では「部落差別」に関わる人々である。日本において「差別」というと、部落差別から切り離して考えることは難しいようだ。しかし、いざ部落について研究しようとすると、公正な視点を持った資料がどれなのか判断することが非常に困難である。部落について研究する学者の中には、「御用学者」と呼ばれるような学者が存在し、逆に、自分が高みにいるかのように語る学者も存在する。それぞれ違う視点から提出された資料は、公正さに欠けているように思われる。「差別語」を糾弾する際も、立場の違いによってまるで逆の意見が述べられてしまう。
しかし、考えてみれば、これは差別の問題すべてに共通する困難さといえる。そもそも、差別について論じる際、差別者の立場からも被差別者の立場からも独立した第三者の視点を持つことは可能であろうか。公正になろうとしても、われわれは、無意識的な差別から逃れきることはできないのではないだろうか。おそらくは、差別について考えようとする私にも、自分が差別されない側であるという無意識の驕りが存在している。もしくは、自分が差別される側であるという引け目のようなものを感じている。差別について考える際、どのような視点に基づけばいいか、もっと注意して考えなければならない気がする。




今の社会は、昔に比べればその度合いは少ないかもしれないが、差別に対してまだまだ無関心であるように思う。私の感覚的な意見であるが、多くの人々は、自分が差別をしているということに対して無自覚であるか、「してもいいじゃないか」という考えを持っているのではないだろうか。この社会の中で、私たちはどのような態度を取ればいいのか。
差別とは、理解できない他者に対する攻撃であると私は考えている。それが集団のものとなり、権力の裏付けを得た時、差別は大きな力となって被差別者に襲いかかる、というイメージがある。しかし他者とはそもそも理解できないものではないだろうか? と、すれば、「他者を理解する」という視点から差別問題を考えるのではなく、いっそ、「理解できない他者」という視点から、社会を、自分の行動を、考えてみてはどうだろうか。
非常に小さな単位の差別として、学校内での「いじめ」があると思う。「いじめ」は、私の経験から考えると、集団内での異端に対する差別・攻撃である。報道で取り上げられるような「他人への思いやり」も、たしかに大切かもしれない。しかし私には、それよりも、「自分と違うものに対する許容」という考えが、必要なのではないかという気がする。あるカテゴリーに基づいた集団があれば、それから外れる人間は当然存在する。学校は、それに対して、「みんなと同じでなければいけない」というような考えで教育することがある。それが差別を生み出す温床になっているように、私には思われる。ますはそこから、「自分と違うもの」「集団に属さないもの」を、受け入れられるかどうかという問題から、差別の問題についてを考えてみてはどうだろうか。




今回は、自分の今までの考えをまとめながら書いているうちに、レポート全体が一人よがりなものになってしまった気がする。次の機会には、また、卒論では、もっと実状に即した研究を進めたいと思う。
とりあえず、私としては、差別の問題はまだまだ表面的・全体的なことにとらわれすぎて、個人的な差別に対しては関心が薄いように思われる。しかし、一人一人の中の差別がなくならないうちは、社会的(もしくは制度的)な差別をなくした、といっても所詮上っ面のものに過ぎないと思うのである。この考え方が正しいかどうかはわからないが、これからも差別について、もっと研究を進めていきたい。

(40字×100行)






参考文献
柴谷篤弘・池田清彦 編 1992『差別ということば』明石書店
山下恒男1984『差別の心的世界』現代書館
井上俊 ほか編1995『岩波講座 現代社会学3 他者・関係・コミュニケーション』
1996『岩波講座 現代社会学15 差別と共生の社会学』岩波書店
村田恭雄1988世界差別問題叢書9日本の差別世界の差別−差別の比較社会論−』明石書店



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