私は、人間とは常に存在の不確かさにおびえている生き物であると考えます。自分ははたして何者なのか。本当にここに存在しているのか、いないのか。他者と同じであるのか、それとも違うのか。他者より優れているのか、劣っているのか。人は、さまざまな、答えのでない問い掛けを、無意識に、あるいは意識的に、自分に向けて繰り返している、と、考えています。それゆえに人間は、自己を守るためにありとあらゆる手段を用いることを厭わず、逆に、自己を脅かすものに対しては激しい恐怖を感じるのでしょう。
そもそも「差別」は、そうした本能的な恐怖から発したものではないでしょうか。自分と違う存在に脅え、それを「異常」「悪」などと定義し、自分の正しさを主張する根拠とする。差別の対象・行為などはさまざまであっても、根底に流れているのは同じであると思うのです。
差別は許されないものである、というのが、私がもっとも主張したいことです。人間の本能だから仕方がない、ということはなく、たとえ自分の身を守るためであっても、いわれのない差別で他者を傷つけるのは許されないことであると考えます。
人種・民族差別、性差別など、研究の対象とすべきテーマはいくらでもありますが、今回私が「同性愛」というテーマを選んだのは、「生まれながらの差異」ではなく、「個人」を差別しているということを問題視したかったからです。
もちろん、「生まれながらの差異」に対する差別……人種、性などの差別も、許されるものではありません。しかし、「個人」に対する差別は、「異端」を悪として定義している、という点で、先々に非常に大きな問題を引き起こすのではないかと考えられます。恋愛、宗教、思想など、自由であるはずの個人の選択が、「異端=悪」という図式のもとに自由を失っていくのは、許されないことであると思うのです。
同性を愛する、というのは、個人の性癖であり、何ら差別を受けるいわれのないものであると考えます。なぜそれなのに同性愛が差別を受け、「悪」と考えられているのか、社会からどのような差別を受けているのか、私たちはその差別に対してどんな風に対処していくべきか、考えてみたいと思います。




「同性愛」をテーマにするにあたって最初に行きあたった壁は、「同性愛者」のデータがない、ということでした。世間では「日本人男性の7人に1人が同性愛者である」などという噂も聞きますが、どんな風に調査したのか、何で発表されたデータなのかなどが不明であるため、データとしては信用できません。
一般にアメリカで言われている「10人に1人はゲイ」という数字は、注キンゼイの報告によるものであると言われています。しかしこのデータは、「作為的に抽出された面接対象の白人男性のうち、16歳から55歳までの間に同性としかセックスをしなかった期間が3年以上あったもの」が10%であったということであり、あまり信頼性はないように思われます。
ロバート・T・マイケル他4人による「セックス・イン・アメリカ」には「ゲイ人口に関して、明確な答えを提示できるといいのだが、その答えは非常に捉えにくい。『ホモセクシュアル』をどう定義するかで、大きく変わってくるからである」と、書かれています。この本の中では、ある人物をゲイと判定するには三つの問題点があると述べられています。一つは人生の中での性行動の変化。二つ目はホモセクシュアルであると独自に判断できるか否か。三つめは、同性愛的な行動を数量化するのは容易ではない、ということ。故にこの本の中では、「欲求(同性に性的魅力を感じる)」「行動(同性とセックスをしたことがある)」「自己認識(自分をホモセクシュアル、またはバイセクシュアルであると考えている)」の三つの点から同性愛者のデータを導いています。この調査による数字では、三つの尺度のいずれかにあてはまり、ホモセクシュアルと判断された人々は男性で10.1%、女性で8.6%となります。これは決して小さい数字ではなく、社会にとって同性愛が単なる「異端」「異常」などという認識ですませられないものであることを示しています。
三つの尺度をもって一人の人間がホモセクシュアルであるかどうかを判断する、というこの方法はおそらく正しい方法であると思われます。日本でこのような調査が行われることは困難でしょうが、いずれ向き合わねばならない問題であると思います。
さて、この数字ははたして、最近になって人々の性行動が変わってきたということを示しているのでしょうか。そうではないと思います。同性愛ははるか昔から社会に存在していましたが、当初は差別の対象ではありませんでした。それは日本においても例外ではなく、平安時代の貴族たち、戦国武将など、同性愛の記録は枚挙にいとまがありません。
では何故同性愛は「悪」という差別を受けるようになったのでしょうか。私は同性愛に対する差別の開始の理由として、キリスト教による同性愛の禁止を考えていましたが、フーコー(1981=87)によれば、婚姻外にある一切の性行動を禁じるような道徳は、キリスト教のはるか以前に構築され、キリスト教はそれを受け継いだだけのようです。しかし、キリスト教による弾圧が、同性愛に対する差別に拍車をかけたことは確かであるように思われます。ジャック・ソレ(1976=1985)によれば、同性愛は13世紀以降キリスト教の異端に名を連ね、魔女裁判などで断罪され、宗教的な悪として裁かれていたようです。また、フーコーは世間が男色家に対して訴訟や有罪判決などを行うようになったのは17世紀と書いています。つまりこの頃には、同性愛が社会的に罪悪とみなされていたことになります。日本においては同性愛の差別の開始はもっと遅く、明治時代にはまだ男子学生の間などで同性愛行為が堂々と行われていたようです。「男色」という言葉が「変態性欲」という意味を持ちはじめたのは大正時代からであり(古田1993)、これは外国から文化が流入した結果、日本人の性に対する認識が変わったのだ、といえるのではないでしょうか。
宗教的理由、文化的理由で差別が生まれたのであれば、それは同性愛を恒久的に差別する理由にはならないと思われます。
同性愛が差別される理由の一つに、同性愛は生殖行為を伴わない、ということがあるのでしょう。女同士であれ、男同士であれ、その行為によって子孫が生まれることはありません。たしかに、すべての人間が同性愛者であれば、人類は滅びるでしょう。けれど、だからといってすべての人間が異性を愛さなければならない、ということになるのでしょうか。人間の生きる目的を生殖とし、それを本能として考えるのであれば、同性愛は道を外れた行為かもしれません。しかし、すべての人間にとって、共通の本能が本当にありうるのか。私は疑問を感じます。はたして、人間は本当に、生殖のためにのみ生きているのでしょうか。
私はそうではないと思います。生殖行動よりもむしろ、人間の人生そのもの、恋愛や思想、自由などが、人間にとっては重要なものであると思うのです。ゆえに、「生殖に関わらないから」という理由で同性愛が差別されていることも、見直していかねばならない点であると考えます。




同性愛はテレビや雑誌などで取り上げられ、その存在が表面化してきました。しかしアメリカで政治的な差別が行われたり、エイズ流行の際に激しい非難を受けたりと、その差別は根強いものであるようです。
実際、テレビなどで取り上げても、人々はそれを他人事として見て、自分の身近なこととは感じていないのではないでしょうか。
同性愛が何故差別されるのか。その差別をどうやって無くしていけばいいか。
この問題は、もっと社会的に、たとえば学校の性教育や公式な研究としてとりあげられるべきなのではないかと思います。
ひいてはそれが、この社会に存在する「異端=悪」という図式を見直す糸口になるのではないでしょうか。

(40字×94行)





注:キンゼイ……インディアナ大学出身の進化生物学者アルフレッド・キンゼイ。アメリカの性行動の調査を行った。その報告は調査対象の抽出方法などに問題があったが、アメリカに大きな反響を呼んだ。





参考文献
White,Edmund. 1980 States Of Desire = 1996 柿沼瑛子 『アメリカのゲイ社会を行く』 草書房
Robert T.Michael. et al 1994 Sex in America = 1996近藤隆文『セックス・イン・アメリカ』 NHK出版 197−217
Foucault,Michel 1982 “Entretien avec Michel Foucault”,in Masques = 1987増田一夫 『同性愛と生存の美学』 哲学書房 30−33
Sole,Jacques 1976 L*amour en Occident a l*Epoque moderne = 1985西川 長夫 ほか『性愛の社会史———近代西欧における愛ー——』 人文書院
古川 誠 1993 「同性愛者の社会史」『別冊宝島176 社会学・入門』 宝島社



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