さて、「性」についての語りがいっこめだったので、次は、まあ、これが私の本命なんですけどー……の、「差別」について。
これに関しては語っても語っても語り尽くせないし、それ以前に私の中でまとまってないというのがすごく問題だと思う。……が、なら書くな! というには、いいたいことが山のようにあり、それが毎日増えていくから考えがまとまらないというのが現状で……
だから、今回は、「『差別』その一」。として、書こうと思います。





さて、何かを考えるためには、まずその「なにか」を定義しよう、というのが私の基本姿勢です。……が、「差別」に関しては、「差別ってこれ!」ということがなかなかできない。「性」のように言葉を並べていくと、
人種差別。部落差別。男女差別。思想差別。肉体的差別。優劣。拒否。批判。否定。……と、いう感じで、連想ゲームみたいな、まとまりのない語群になっちゃうんですよね。これも問題。
一応私の中では、「ひとを、不当な言葉や態度で傷つけること」……というのが一番簡潔で表現しやすいかなぁ……この「不当」って言葉に何の意味があるんだ? と聞かれるとつまっちゃうんですけど。だって「不当」なんて、ひとりひとり考えが違って当たり前な言葉だし、こう書くのって、私の「不当」が世界の「不当」であるかのような思い上がった言葉に聞こえるんじゃないかという気もするんですけど……
————そーだな……んじゃ、開き直って言っちゃいましょう。
「私にとって不当であると思われる言葉や態度でひとを傷つけるかもしれないもの」。これが、私にとって、私がしている差別、です。これ書いた段階で。
これを書き終わる段階で変わっている可能性大(笑)。





差別、って、「意識」「自覚」にすごく影響されるものだと思うんです。
たとえば私は、(例に出すことさえも差別かもしれないし、また、差別かもしれない、とかくことも差別だと言われるかもしれないけれども)障害者のひとを見かければ、「あ」と思います。席を譲らなきゃ、とか、手を貸さなくても大丈夫かな、とか、「あ」に続いて、思います。
そしてほぼ同時に、これって差別? って悩んじゃうんですよね。
私は、そのひとを傷つけたいとは思っていない。偽善っぽいなぁ、と、すごく悩む思考ですけど、でも私は、そのときは「助けになるかな?」って気持ちで動いてます。……7割、8割。————残りの部分に自己満足やよく見られたいという気持ちや優越感がないとは言いません。それは否定できませんけど、でも、まあ、その気持ちの方が大きいってことはないです。……ない、と、思いたいです。
って、そうじゃなくて……
傷つけよう、と思って動くわけじゃない。もしも私が席を譲ったほうがいいなら、と思っている。そのひとは、脚が疲れたら、私よりもきっともっと大変だろう。私は多少疲れても全然平気なんだから。立った方がいいに決まってるじゃない。……じゃあ立とう。
———と、ここまで考えて、
その途中に何度も何度も、「これは差別じゃない」「差別じゃないと思いたい」「どうかこのひとが差別と思いませんように」って言い聞かせないと、私の中で、「それって差別じゃない?」という思考が消えません。
私がしていることは、私の目の前に立ったそのひとを「障害者」として見て、「障害者なら立っているのは大変だろう」と評価して、「私は立っていても平気だから」と自分と比較していることだから。
私はそのひとの気持ちを聞いたわけでもないし、譲ってほしいと言われたわけでもないから。





「差別」って、私の研究のテーマです。大学の。
その研究の中で見つけた、あ、そうか、って一番思えた「差別」の定義は、
「そのひとを、そのひと本人でなく、そのひとが属しているカテゴリーで判断すること」……だったかな? 今とっさに出典が出てこないんで確実じゃないですけど。
そう考えた場合、私の行動って差別だな、と、思うんですよ。
「区別」じゃないの? とかいわれますけど、「区別」と「差別」の問題も、そりゃもう重要で、重要すぎてうっかり考えをしゃべれない……くらいのことなんですけど、
そこまで考えてたら動けないでしょ? とかも言われるんですけど、……まあだから、日頃はある程度割り切って行動してますけどね。偽善者と呼ばれようが差別してると糾弾されようが、それに関しては、はい、そうですか。でも私はこうしたかったんです、と言い張るつもりでやってますけど……
だって「偽善者」「差別」って言葉は、周囲からの評価ですからね。言ってしまえば。私の行動を見て、私の気持ちを聞いた人間が、「それは偽善・差別」と言うんだったら、そりゃそのひとにとってはそうなんだろうな、と思いますよ。……おまけに私にとってもそうなんだから、否定のしようがない。ああ、やっぱりそうですか? じゃあ、あなたにはしません、というくらいしかできないかなぁ。




————って、脱線してきた。




「差別」ってなに? て、いっつも考えてます。
いまだに明確な答えには出会っていません。
心理学的には「偏見」とか「ステレオタイプ」とかで分析されていると聞いたことあります。まだ自分では勉強中なので書けませんけど。




「差別」の理由については、ちょっとはまとまってるかな。
こう思ってます。人間ってこうじゃない? ってとこから考え出してるから、長くてうざったいかもしれないけど……




人は、とか、私たちは、と書くことは、そうじゃない人に対して申し訳ないので、ここからは個人的な語りの形をとらせていただきます。
同感していただいても、否定して頂いてもけっこう。単なる私の考えです。
違う考えの方はぜひメールをお寄せください。
で、書き終わってみて、なんか読んだ人が気分悪くなりそうな文章だなーと思ったので、ここでいったん文章切りまして、終わりのご挨拶させて頂きます。
「差別」について、私、自分の考え以外をあまり知りません。
もしもなにか、こーかな? とか、思っていること、考えていること、話してもいーよ、と思ってくださったら、ぜひ、聞かせてくださいませ(^^)。


長い文章におつきあいいただきましてありがとうございました。……が、
この先も、私の語りは増える予定です(笑)。わは。






私は、自分の存在に対していつも不安を抱いている。
そして、この不安を消すために自分の存在を確認する行為を続けている。
その確認のために、確かな「存在」であるかどうか、他者と比べて自分が優れているか、劣っているか、絶対的評価で自分がどのように評価されるか、自分が必要とされているかいないか、など、さまざまな手がかりを求めている。
鏡や名前などは「存在」を確認するための手がかりとなる。
他者との比較で自分の位置・存在を確認している。
誰かにほめられる言葉は安定へと結びつく。
自分に対する評価で自己を確認する。
必要とされていることで社会的な、対人的な存在の確証を得ることができる。
他者との関係や自分の作り出したものは、自分が確かに存在しているという証拠になる。



自分が所属するカテゴリーを欲しがっている。
そのカテゴリーがよい評価を受けることを願っている。
それはそこに所属する自分の評価へとつながることもあるから。
つながる、と考えていることが多いから。



自分のカテゴリーの評価を上げるために他のカテゴリーを利用する。
相対的に自分のカテゴリーを高めるために他を低くする。
自分を肯定することによって他を否定する。
他を否定することによって自分を肯定する。
対立するふたつのカテゴリーのどちらかを選び取る。多数である方を。正しいと思われているものを。
そうして自分を安全圏に置く。否定されない側にする。
自分の存在を疑わない。自分の価値に疑問を持たない。
存在を不安に思わないために。






(これ以降は、どうして私が差別を研究したいと思ったか、です。
はっきり言って、かなり、私の中でも、やーな面なんですがぁ……
ま、私、こーゆーこと口に出して言っちゃう人間なんで、
こいつ、ばか? とか、思いつつ、けなしつつ、読んでやってください)



私が自分の行動を差別差別というのは、行動一つ一つを評価するより先に、自分の根底に強い差別意識が根づいているのを知っているから。消そうとしても消えないし、もしかしたら、もしくは、おそらくは、それでいいと諦めてしまっている部分もあるだろう、変化しない部分として、強く、他者を差別している部分があるから。
打ち消そうとしても消えない、差別的な意識、思考、行動にはならなかった想像の記憶。
全ての行動が差別であるように思えてくる。根底にあるならそこから生まれるものは差別ではないだろうかと不安に思う。差別であるはずだと思えてくる。
自分の行動が許せない。自分の存在が許せない。差別を許さないなら自分の存在は許されないはずだと思う。心の中まで差別に染まりきった自分を、どうして許せるはずがあるだろうかと思う。
差別を否定することは自分を否定すること。
自分の存在を確かめることは差別をすること。



差別を否定しながら、自分を認めるために、
私はまず、自分の中の差別を自覚し、それを定義しなければならなかった。
どこまでが差別で、どこからが差別でないのか。
どこまでが自然で、どこからが恣意的なのか。
どこを変えることができるのか。
どの差別を消せるのか。



自分を偽れないものかと試したりもした。
自分はやさしい人間なんだと言い聞かせて、私の行動は差別に対して批判的だと認めて、評価して、差別に対して批判的に活動していると思い上がって、……いることに、気づいた。
自分の中の差別は消えていないのに、それを差別ではないということで、自分を正当化するためのレトリックを作り出しているだけだということに気づいた。
そんなふうに逃げ出そうとした自分にひどい嫌悪感を感じた。そして、そんなふうな逃げは二度と許すまいと思った。
自分が自分である限り、自分の罪に責任を持とうと思った。
自分の中の差別を認識して、それと向き合おうと思った。





差別というのは私にとってこういう問題。
社会についての批判の前に、自分の差別を批判しなければならなかった。
とても個人的な問題。
けれど個人的な問題って、社会的な意見につながるもの、とも思う。
つなげたいと思ったんだしね。
つなげていくつもりです。
うん。


1998/10/15





戻る。