難しいとこなんだけれどもね。
「社会」……と、いっても、国家としての「日本」みたいな、制度的なルールを、もたない「地域社会」とかでは、明文化されていない暗黙のルールとか、社会常識とかがあるわけで、たとえば「女はあるていどの年齢になったら家庭に入って子供を産む」というルールがあるところでそれに反する行動をとったら、まあ、地域社会からはじかれちゃうのは、ある程度、仕方がないことなのかもしれない。……ただしその場合、その社会は「日本」という国の理念から見てあんまり正しくないコミュニティだと判断されると思うけど。でも、まあ、「日本」はそれを許しちゃってるんだよなぁ……
ほんっと、難しい。



集団構成員の主張と、その思想の自由性。
それが一番大切だと、私なんかは思っちゃうけれども。
自由を許しすぎたらね、たしかに、社会は乱れると思う。壊れるかもしれない。こないだ言われちゃったけどね。「あなたの考えだと、社会がめちゃくちゃになっちゃうじゃん」って。
えー、そうですね。
全員の考えをひとつひとつ聞いてたらね、社会はぶっこわれます。成り立ちません。
でも私は、どーしても、「社会より人間が大事」ってとこからはじめちゃう人間だからね、人間が壊れるのと社会が壊れるのと、どっちか選べ、って言われたら、人間をとって社会をぶっ壊す。
それは譲れない。



社会、は、それが大きくなるにつれ、矛盾をはらんでいくものだと思う。
そしてその矛盾は、社会内部からの自己批判でしか是正されないものだと思う。
もしくは、自己批判によって是正されるべきだと思う。
他の社会からの批判は、まあ、大きな目で見れば、さらに大きな単位の社会の構成要素として考えうるから、その場合、どこからの批判でも自己批判になりうるとは思うんだけれども、



講義にでてきたなぁ。
社会が社会として成立するためには、自己を批判し、その社会について問い続けていくことが必要だとかなんとか。
だから、裁判所みたいに、人を、社会を、ルールを、その正当性を、評価する機関が要るんだよなぁ……




私たちは、「平等を主張する日本」のなかで生きてる。
日本は、「平等を主張する世界」のなかにある。
その主張は、憲法によって、世界人権宣言とかによって、示されている。
で、それと気が合わなければ、その集団から外れることは許されている。許される、べき。
ただし、その場合は、その集団に属することによって得られる利益を失うというおまけがついてくるわけだけれども。


すべての人間が同じ主張を持ってるなんて思ってない。
すべての社会が同じ理念で動くべきだなんて思ってない。
すべての社会がひとつになるべきだなんて思ってない。


その「すべての社会」は、一つ一つ、違う背景・歴史を持って、つくられてきたもので、その歴史は、正しいということもまちがっているということもない。
その歴史が間違っていて、だから今の思想が間違っていて、だから自分達の社会に属しようとしなくて、だからそれは正すべき。……なんて主張を、たまに聞くけど。
それは、驕りでしょ。
しかも、私にとっては、許し難い傲慢。




いつだって、社会で大切なのは「今」であり、「これから」であると思う。
とりかえしのつかない「過去」は、研究の対象となるし、社会そのものを構成してきた歴史を見直すことによって、その社会ならではの「これから」を見ることができるかもしれないし、それまでの自分の姿を見直して批判するということは、今の自己批判にもつながるかもしれないけど、
他の社会の過去と比較し、他がとにかくいい! ってのは、まあ、それはどーかな? って思う。日本と比べて欧米がいいかどうかって、そりゃ、価値基準によるだろーよ。ひとりひとり、いいかわるいか、自分で決めればいーんじゃないの? 先進国もなにもあるかい。
手段として、他の社会と比較する、とかはありだと思うけど。
でも、自分の社会がそうなるべきかどうかというのは、わかんない。
社会のあるべき姿なんて、ないと思う。
進んだ国とか遅れた国とかもね、ほんとはないと思うのよ。
民主主義と共産主義を比較してどっちがいいか、って聞かれたら、そりゃ、……んー……私的には民主主義の方がいいけど、でもそれは、すぐれてるかどうかというのはまた別の話でしょ。私は私の価値評価を下せるけど、他の人と同じとは限らない。全員が同じ価値評価で動いてると思うのは、正しいのかしら? まず、そこからギモン。



「今」、「社会」を構成している構成員であるところの「人間」が、
自分の頭で、力で、「社会」を見て、批判して、よりよい形を作ること。
その構成員の「声」が、聞かれること。構成員が主張を言うことが許されていること。できればすべての「声」が同じ力を持つこと。意見のぶつかり合いの結果として、「社会」の形や進む方向が決定され、「社会」の主張が決定されていくこと。



これは、私の「社会」に対する理想。
「理想の社会」ではなく。(そんなもの、私の考えにはない。今ある社会がどうなるかが問題。)
「社会」というシステムに求めること。
「平等」も「平和」も、「社会」がそれぞれ理念として決めたことで、私はたまたまその価値基準と同じことを考えてるけど、でもそれが「理想の社会」だとかは思ってないし、
私の「社会」というシステムへの希望はこれこれこーゆーこと、としか、私は言えない。





ラクガキは、こんなところ。
長いっすね(笑)。腱鞘炎になりそう。(って、笑えない(笑))



んで、これが差別とどう関わってくるかといえば、
「差別」というのは、「社会」の「声」に耳をふさいでしまう行為だと思う。
「社会」の構成員である「人間」に対して、「社会」の構成要素である「集団」に対して。
そこからの「批判」を、今の日本ってば、なかなか聞こうとしない。
「平等」を主張してるくせして、「平等」でない。
マイノリティに対して、「常識」から外れた「異常」は「社会」を乱すから、それは排除されていーんだ、的な扱いをしてる。態度をとってる。そーいう態度や、排除の傾向がある「常識」を容認してる。
ふざけんな、って、思うの。
マイノリティから日本に対しての差別を是正しろという動きは、それはね、正当です。あったりまえじゃん。日本は「平等」な国なんだから。
んでもって、日本に属するコミュニティはどこだって、「平等」を主張する日本のルールに従ってるわけでしょ? んじゃ、どこのコミュニティだって、日本に属するためには、差別をしたらいけないわけじゃん? 個人だってそうでしょ?
感情的になっちゃうけれども。
つい熱くなっちゃったけれども。



できれば、
すべての人の声に対して平等であってほしい。
すべての人の声が平等に聞かれる社会であってほしい。
声を出すことさえもできない状況に置かれているというのは、すごい差別を受けているということだと思うの。
とくに私みたいに、口から先に生まれて来たような人間にして見れば、自分の主張を口にできない、というのは、それだけで、すごく、つらいこと。もしかしたら何よりつらいこと。
でも、今の社会って、「批判」を、「声」を、それすらも、封じ込めてしまうようにできあがってる気がするんです。法律とかに問いただす以前に、「異端」って思われるのが怖い、って思わせているところから、すでにね、そーいう傾向がある気がする。
私には、つらいなぁ。それって。



「いわれのない」はどーいうこと? から始まるにしては、話があっちこっち飛んでますけど(笑)。今のところ、考えてることはこんな感じ。
どーしてもはっきりした結論に行き着きませんね。
卒論ではどーにかなるといいんだけど……(^^;;



1998/12/12



もどる