差別についてその2。です。 「いわれのない差別」って聞くとね、「んじゃ、いわれのある差別って何よ?」って聞き返したくなります。 「差別」についての本読んでると、出会う可能性の高い言葉なんですけれども。 あとは、「不当な差別」とかね。 私にしてみれば、これって変な表現。 というか、私の言語感覚では、「差別」ってのは「不当なもの」であり、「いわれのないもの」ですからね、もともと。「いわれのない差別」だと、言葉が重なっちゃう。「胃痛が痛い」みたいなもんで。(って、茶化してるつもりはないんですよ) で、この「言われのある差別ってなによ?」から始まる文章を、このまえ講義中にラクガキしてましたので、そのまま打ち直してみることにします。 文章が前後するのはいつものことですが、もしもいつもより読みにくいぞ、と思っても、まあ、臨場感というやつだと思って見逃していただきたいと……(笑)←逃げ。 「差別」という「行為」が人間の本能的な行動、自分を守るためや内集団(注1)を守るための攻撃、的な行動であったとしても、その「差別」の対象を決めるのは「人間」であり「社会」である。また「差別」を自覚したとき、ひとはそれを「本能」から切り離して制御することができる。 はずだ。と、思う。 (注1:「内集団」←→「外集団」。心理学・社会心理学の理論で、人は自分の属すると考えている集団(=内集団)をより優位に考え、その集団に属するものを好意的に見る傾向がある。という。とすれば、まあ、対立する「外集団」に属するものへの態度は非好意的になる。これが差別を生んでるというのもあると私は思う。) 「いわれがある」か「いわれがない」かを判断するのは、人間であり、社会である。すなわち、「ある」「なし」はその人間の考え、その社会の常識などによって決定されることであり、すべての社会に共通、すべての人間にとって正しい、当然な、共通な「いわれ」などは存在しない。 「差別」という言葉が示すものは「一般的」に「いわれのない」ものであり、社会的制裁などは「差別」という言葉で示されるべきものではないのでは? たとえば犯罪を犯した人々に与えられる社会的な、福祉の限界、市民権の制限などは、「社会からの制裁」であり、これは理論的なものであって、「社会的差別」という言葉によって私が示そうとしているものとはまた別のものである。(注2) (注2:用語としての「社会的差別」は、私が考えているのとは違うのかもしれないので勉強中なのです。そのうちこの注に書いとくつもりですが、興味のある方は調べてみてもいいかもしれません。) 私が「社会的差別」という言葉で示し、問題にしたいのは、「社会」そのもの、そのシステム、理論的なシステムによる「差別」、すなわち人を不当に傷つける(制裁って不当じゃないということもあるが……でもその結果が「正当」な「制裁」の域から外れることはありうるなー……)言葉、行動、評価、態度、のことではなく、 「社会」に属する「人々」によって行われる評価。その結集した形としての「社会的差別」であり、それは、まあ、結果としては似てるかも知れないけれども、 「 人間 → 社会 → 差別 」か、「 社会 → 人間 → 差別 」かという違いがあるのよね。 実際には、「人間→社会→差別→人間→差別」とゆー複合的なカタチになってるとは思うけど。 つまり、人々が差別を行なうことによって社会的に認められた差別を受け入れた人々が差別をする、ということ……かな、と。 「社会」は、たしかに、内集団と外集団、とか、「社会」を守るために他を攻撃する、とか、「同一性」の保持のための理念、規則の厳守とか、いろいろあるだろーとは思うのよ。差別の理由がね。 でも、実際に「差別」をはじめるのは、「社会」そのものじゃない。「差別」を形にし、行動しているのも「社会」そのものではないし、「集団」そのものが「差別」しているわけでもない。(打ち込みの際の書き足し……「集団」によるシステム化された差別もあると思うけどな。) あくまで「差別」という行動をしているのは、その行動者は「集団」「社会」の構成員である「人間」である。 たしかに教育とか常識とかメディアの影響とか、「社会」が「人間」に与え、それによって差別の芽を育てているものはあると思うの、よ。 でも「差別」の理由、責任をそこにすべて帰属させるのは、それは責任逃れというものでしょう? で、もって、「差別」を決定するのはあくまで「人間」という立場に立ちますと、 「差別」の「いわれ」は「人間」が決定するものであり、ここが決めているもの、なのよね? で、個人から個人への攻撃、って、これはもう、自己防衛とかの理由もあるかも知れないけど、たいてーの場合、単なる「攻撃」で、自分に直接の関わりのない「個人」に対する攻撃って、これはもー、単なる八つ当たりっつーか、とにかく不当っつーか、 ————なんか論点が回って来てるので、いいわけがましいのはやめて、考え直してみる。 私がつっこみたいところは、 ひとは差別をしてしまうものなのか? ってとこ。 それを考えるには、まず、差別の構成要素を考えなきゃいけなくて(打ち込み中のツッコミ:考えなきゃいけないかどうかはともかく)、得られた要素、と、私が考えたことは、 とりあえず、 「正しくない(?)ステレオタイプによる過度のカテゴリー化」 「内集団びいきによる外集団への評価の低下」および「外集団への攻撃」 「権威づけによる、社会的な「差別」の正当化」(を受け入れる人間に問題があるとは思うが。) まー、自己防衛のために他人を傷つけるとゆーのは、内集団のハナシに含まれるんだろうか……? 私、前提として、「社会」は「差別」を生み出しちゃうもんだと考えてる。 だって「社会」とゆーのは、自己の存在を固め、同一性を保つために「異端」を排除する方向に動いてしまうものだと思ってるもん。んでもって「社会」はそれで保たれてもいいと思うのよ。非常に狭い見方をすればね。 ただし、その「社会」は、その排除した存在を自分の中に入れようとしてはだめだし、「排除」を否定してもだめだと思うのよ。 「社会」の構成員である人間は、「社会」を選べる。 自分が生まれる「社会」は選べないけど、所属する「社会」は選ぶことができる。 そもそも、「社会」に属する必要というのも、 ……まあ、生活を楽にするためとか、安定するためとかでは、必要あるかもだけど…… そんなに、ない、と思う。 自然と属しているけど。 でも、なんで「社会」ができたかといえば、それは、ほんと、ひとが、自分だけではできないことをするため、とか、より良い暮らしをするため、なわけで、 「個」が存在するために、ほんとに「社会」が必要かっつーと、そうでもないのでは? と思うのよ。 今となっては確かめることもできないけどね。 「社会」のなかに生まれた人が「社会」に所属しないで生きていくことはむずかしいと思うから。 で、「社会」は、「そこに生まれたから一生そこにいなくてはいけない」ものではない。 日本がいや、なら、日本を出て行ける。 新しい社会を作ることだってできる。 それはもちろん、その行動によっていろいろリスクを負うことになるとは思うけど。 でも、たとえば「コミュニティ」というのは、そうやってできてくるものでしょ。 気が合わない社会から出て来た人とか、自分を排除した社会から出て来た人が、自分に合った、自分のすごしやすい、自分たちの「コミュニティ」を作り出すわけで、その「社会」には、当然、違う人間が集まることによって、違う主張が混ざり合う。結果、衝突があるに決まってる。 そのコミュニティを保ちたければ、その衝突を緩和する必要があり、そのコミュニティに属し続けていただければ、自分の主張を曲げる必要もあるかもしれないわけ、で、 そしてコミュニティはコミュニティ内に裁判所的な決定機関を持ち、コミュニティにとって危険があると判断され、その人間の必要性などを鑑みた結果排除すべきであると評価を下されたものを排除する。 ————ことがあるし、 それは、コミュニティにとって、許されることであると思う。 ただしそれは、そのコミュニティが自分達の「排除」の事実、他者への「評価」の事実を認めたときに許されること、だ。 たとえば「会則」ってのは、それに違反した人間を排除するって項目をたいてい含んでいて、それに違反したら除かれるのは当たり前とみんな思って参加するわけよね。 ルールを破ったら、はじかれるのが当たり前。だけど、 そのルールに矛盾が生じることもある。そしてそれは正すべきこと。ルールが示されていないのに、ルールによって除かれるようなことがあってはいけないし、理由が示されない排除は不当。明言されるかどうかはまた別の問題としても。 そして、理由が示されずに排除が行なわれた場合は、理由を問うことが許されるべきであると思う。 何が言いたいかというと、 「平等」を主張している社会が「平等」でない態度をとっている、ということ、 社会に矛盾が含まれているということ。 それが問題だと言いたいの。 「平等」を主張する社会の中で「平等」でない態度をとっているとしたら、それは除かれるべき。ルールを破ってるんだから。もしくは正すべき。その態度をね。 そして、社会そのものが矛盾を含んでいるのならば、その矛盾は正すべき。 「平等」であれ、といいながら、「平等」でない社会なんて、明らかに矛盾じゃん? 理想を「平等」としてるくせに、それに反した状況を見逃してるなんて、怠慢じゃん?
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