マッシモ二様、ありがとうございます。
ようやっと、私の頭の中がすっきりしたような感じです。
それゆえ、前回間違えたタイトルを修正しました。
なるほど、「学問」=「科学」
私の尊敬する先生が言っていたことを話半分に聞いていたのかもしれません。
哲(学)→...→そのまま哲(学)
哲(学)→分科→「科」の「学問」→「科学」(狭義の)「哲学科」を含む
で、私の言いたいのは、
人智と相互作用しない存在としての「哲(学)」
ならば
今度は、(私の定義では)「宗教」との違いはどうなってるんだろう?
という、疑問に置き換わってしまうわけです。
それはさておき、
哲(学)がそのようなものであったのなら、
「相互作用から創発されると言うのもおかしい存在である」と、そのように考えられる方々は思われるのだと思います。
すなわち、「人とは関係なく」最初に哲(学)ありき
以外の何ものでもなく、相互作用しているという勘違いからもたらされるものは、「哲(学)」を人の手垢でベタベタと汚しまくっている。という、感覚以外の何ものでもないのでしょう。
なるほど...
(おそらく)よく分かりました。
ジョーカー氏の考えていることが...
プラトンのイデア的な存在と考えればいいのかな?
>まあ、本人に聞くのが一番はやいと思いますが。
そのようにしたいと思います。
(やはり、出発点が異なっていた可能性が高い^^;)
とりあえず、私の頭の中での位置付けとしては、
「科学」:論理的、無矛盾な方法論に従い、
客観性に立脚し、
人智が対象物を理解しようとするときに定義される
「宗教」:考える人によって、神の存在の定義が異なる。
論理性、無矛盾性、客観性は不問
「哲(学)」:
最初からあり、人智への一方通行。
論理的、無矛盾
客観性と主観性を含む
「哲学」:
(人智が)相互作用することで、
生み出され、変化しうる。
論理的、無矛盾
客観性と主観性を含む
でもって、
私は、どのようなものであれ、人が「それ」と知るには、人の「思考」上にのぼらないと、捕らえることすら出来ないので、
思考の対象として「人が認識」したとたん、全てのものは、人智との相互作用の対象物に成り果ててしまい、人の思考は、それを超えることが決して出来ないのではないだろうか?
と、考えているわけです。
「私はそれを超えている」と言ったとたん、その人は、まさに「神がかり的」存在となり、他の人々の理解を超えるゆえ、もはや「理解・判断」の対象足りえず、まさに(私の定義する)「宗教」の領域に属してしまい、議論の対象足りえなくなるのだと考えています。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/
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