マイノリティ

自分と同じ人間はこの地球上で一人といない。この自明の事実を「自明のもの」としていくには、実に大きな困難がともなう。21世紀を目前にひかえ、20世紀の、いやこれまでの人類の歴史を振り返ってみると、多数派が少数派を抑圧することで歴史が進展してきたといっても過言ではないだろう。ナチスのユダヤ人虐殺しかり、女性や黒人に対する政治的排除しかりである。このように、自分と異なるもの(さらにそれが自己にとって潜在的・顕在的脅威になるときはなおさらであるが)に対する権力者の抑圧はさまざまな形で繰りかえされ、少数派はそれに対して自己に特有な「差異」を廃棄し多数派に同化するか、「差異」を保持したまま抑圧されつづけるかのいずれかであった。今世紀になって行われた女性解放運動や公民権運動はそのような抑圧的多数派に対する、マイノリティーからの異議申し立てであり、それはいくらかの改善効果をもたらした。

もちろん、たとえばその人が一定のルールを守らなかったことが理由で(例えば罪を犯したものを拘留するなど)その様な境遇にあわなければならないのであったら、それは暴力の「不当な」行使とはいえないかもしれない。しかしその「ルールを設定すること」自体が暴力性をはらむものであることは頭に入れておくべきであり、ルールが正義にかなうものでなければならないのは至極当然のことである。また、そのときにその正義とは何かを考えていくのが政治学上の大きな課題になるであろう。なぜならば、「ルールを設定する」ということは、普通に考えれば、マジョリティーの意見をそこに色濃く反映してしまうことになり、結果としてそのルールに表れる「正義観」も彼らに都合のよいものになる可能性が高いからである。さらに、ルールを設定することはすなわち、そこからもれたものを個別の事情に合わせて柔軟に扱うのではなく、画一的に排除するということにもつながる。なぜならばすべての人間がそのルールを守ることが義務付けられており、それに従わない者はそのルールが適用される範囲内に存在することを許されないからである。以上の様に考えると、ルール設定には単純に見ても二重の暴力が働いていることになる。しかしこのように考えたからといって何もルール設定を否定するわけではない。ここで重視すべきことはあくまでもルールを設定する上でわれわれが考えなければならないアポリア——二重の暴力性——に他ならない。

政治とは一つの意思決定を下すときに行われる手続きであり、さらに今日の民主主義は不特定多数の人間(主権者)が集まり意思決定を行うプロセスであるといえる。そのように考えると「政治」を「暴力の発現しうる場」ととらえることは的外れなことではないと私は考える。なぜならそこには多数の人間が存在し、それらの人々が権力を発動し、それによって多くの人間が何らかの影響を受けるからである。それだけの大きなものを動かすことこそが政治なのであり、それには非常に大きな暴力を伴う危険があり、これは否めない事実である。むしろ、その暴力の発現の可能性を多少なりとも減らしていくことこそがわれわれの課題であり、政治学を志す者に課せられた使命であると私は考える。たとえば、多数決の制度は民主主義国家において、意見調整の効率をあげるための必然性から政治的決定の場にしばしば登場してくるが、ここには数の暴力が潜んでいるともいえる。「政治」というものの性格を考慮すれば、これは致し方のないことかもしれない。しかし最終的には多数決を採用することが理にかなっていることだとしても、そこに至るまでの道筋でいかに暴力的側面を排除し手続き上の正義を追求するか、またそうして決定されたものがどのような位置付けをされるものなのか(絶対的なものかもしくはより相対的なものなのか)等を考えることが重要なのであり、差異の政治を考えるときもこの点が非常に重要になってくるのである。

 

【総括】

 これまで私は、差異を持つ人間がその差異を「政治」という「多数者の対話による意思決定の場」にいかに反映させるべきかを、内部に複合性や多様性をもつ個人像とともに考察してきた。いかにして対話におのおのの差異を反映させるかというルール設定は今だ試行錯誤の状況にあるといえるが、そこで重要なのはそれぞれの人間が自己にとって価値あることを遂行しようとする限りにおいて「善い」人間であるという、人間に対する暖かいまなざしであり、また対話を行う上での支配的立場の価値の押し付けを排除する「正義」への志向であろう。そのような正義に照らしてなされた討論が、結局、ある特定の立場の人間に有利な結論を導くということも十分に考えられ、そこにはまたあらたな中立性の要求が必要になってくるかもしれない。しかしこの論文を通して考えたかったのは、話し合いの土俵にのぼる以前の諸問題、すなわち一部の人間がもつある価値のみが話し合う内容に反映されうるという価値の非中立性を、どのように是正するかという問題だったのである。

 

今後今よりもさらに多くの価値の対立がみられるであろう。それぞれがおのれの善しとする価値を遂行しようとする以上、他者のそれと抵触する可能性は大いに考えられる。そのような人間が集まって生活していく上で我々にはどんな選択肢が考えられるであろうか。相手の価値を排除し一方的な価値の押し付けを行うか、あるいは価値をできる限り捨象し一つの問題解決に向けて双方で歩み寄りを行うか、それとも価値の相違を前提とした上で住み分けを行い互いに没交渉になるか…。

考えられる選択肢は無数に存在する。しかし過去に人類の犯した過ちを再び繰り返さないためには、多様な価値のなかから双方にとってよりよい方法で共存の道が開かれるべきであり、そのためにも問題に関与する人間同士の価値対立の解消に向けた建設的な態度が必要であることは言うまでもない。価値の異なる人間を「自己とは相容れない性質をもつ確固とした一義的存在」とみなすのではなく、「複合的な内面の価値形態を持つ複雑な存在」とみなすような人間像こそが、対立する価値が共存していくための鍵となるといえる。なぜならば人間に対する流動的な見方は、自己に対する固執を退け、ひいては自己価値の相対化につながるからである。このように、自己の価値を他者のために捨てるのではなく相対化させ常に吟味しつづけることこそ、人間が生きる上でのより崇高な営みだといえる。