<第1便> 1日目〜9日目

9月19日2000年 快晴 (火)<船上、神戸→上海>「台風14号」

 30分後、閑散としていた待合室が急に騒がしくなった。ざわめきの元は中国人だ。白い壁は、薄茶色の服を着た彼らの姿にさえぎられ、見えなくなった。彼らの馬鹿でかい声に日本語はあえなく降参だ。中国人達に遠慮はない。遠慮は日本人の美徳か。6年前、博多からプサンまでの船の中、韓国人たちも大声を出していた。

 出航1時間前が告げられた。中国人が我先に並びだした。押し合い、圧し合いが始まる。彼らは大声の上に、気が短く、粗野だ。その上、図々しい。日本人はただただ見ている。

 中国○○会社の船は週に一便、大阪と神戸から交互に出ている。エコノミー価格で片道二万円、往復で三万円だ。

 

 プンと鼻をつく腐った油の匂い。潮の香りに灰色のヘドロが混ざっている。船が後ろに滑り出し、神戸港を後にした。2000年9月19日、昼12時12分。

 白い雲がぽかぽかと浮いている。おおい、雲よ、どこへいく、と言ったのは誰だったか。太陽が私を容赦無く照りつける。アツイ。そろそろ秋の気配がしそうなものなのに、今日は違う。真夏に戻った太陽がジリジリと空の真中でがんばっている。

「いよいよね」

「いよいよだ」

神戸の街、ビルが遠のいていく。

 

 風が出てきた。瀬戸内海に出たようだ。港を囲っている左防波堤の先にある赤、右にある白の小さな灯台を通過した。前方に黒い貨物船が何隻も停泊している。遣隋使、遣唐使もここから出たのか、それとも九州か。広い中国に行く。

 天安門事件が起こった年、私はアメリカにいた。アメリカでの天安門事件への抗議を目の当たりに見た。中国はやばい。言論統制、自由剥奪、鄧小平、これがその時に思ったことだ。少なくとも10年は行けなくなった、と思った。

 

 9月11日、小田原から午後6時18分発、名古屋行き新幹線に飛び乗った。時計を見ると、6時46分だった。すでに遅れが出ていた。中国行きの船は、明日912日の昼、12時に大坂港から出る。少々の遅れは大丈夫だ。

 妻の啓子の実家が大阪にある。そこに1泊して船に乗るつもりでいた。だが、すでに終電には間に合いそうもなかった。タクシーだな、いったいいくらかかるのだろう、とぼんやり考えていた。

 熱海を過ぎ、三島までは調子良く進んだ。だが、そこでしばらく止まった。30分ほどして動き出したが、新富士で再びストップしてしまった。台風14号の影響で名古屋・安城間に大雨が降っており、運転を見合わせているという。新幹線は玉突き状態で各駅でストップしているそうだ。

 私たちの乗っているこだま号はプラットホームに面して止まっている。その右横の追い越し車線には新大阪行きの、のぞみ号もぴったりと寄り添うようにして止まって同じ運命だ。

 白い車内灯に照らし出された光の中に、行く当てもなく動く人々の姿が見える。彼らはプラットホームに降り立つことができない苛立ちを見せている。檻の中をうろうろといったり来たりする熊状態だ。

 夜10時30分、突然、のぞみから人が出、私たちの乗っているこだま号に続々と乗り込んできた。のぞみとこだまとの間に簡易ブリッジが架けられたのだ。互いのドアの位置が寸分の狂いなく止まっているからこそできる芸当だ。日本の技術のすごさと同時に、怖さを感じた。

 「ちょっと、買い物をしてきてください」と車掌が客に声をかけている。それがブリッジをかけた理由のようだ。JRからは、何の食料も出ない。握り飯の一つぐらい出してもおかしくは無いだろう。そう思ったのは私だけだろうか。

 平和な日本。みんな、のぞみの車内に荷物を置いて出てきている。

 

結局、私たちは次の日の朝まで新幹線の中に居つづけ、9月12日の船には間に合わなかった。神戸港を後にしたのは、一週間後の9月19日だった。この夜、新幹線で一夜を過ごしたものは5万人と聞く。

 

 夕方、四国、足摺岬を通過。空が赤っかだ。そして、静かだ。江戸時代、富嶽三十六景、赤富士。葛飾北斎は絵を描き、旅ばかりしていた。歩きだ。松尾芭蕉も奥の細道の旅をしている。現代の旅は飛行機だ。日本からアメリカ行きの客船が無くなって○○年が経つ。横浜からシベリア鉄道に乗るためのナホトカ行きの船もすでに無くなった。すべての旅に時間が無くなった。船は旅の主流から押しやられ、時代遅れとされた。経済的にも成り立たない。だが、待てよ。その通りか? 

 船は遅い。だが、遅いが故に、ゆっくり染まりゆく夕焼けを見ることができた。舳先が波を切りさき、めくりあげる音や鈍く低い、ドッドッドというエンジン音も聞こえる。船を追いかけ、追い越すイルカも見ることが出来る。空に浮かぶ白い雲、青い空。闇がゆっくりと迫ってくる。心の中に涙を流せる時間と空間が船にはある。

 ピンポ、パパーン。パーン。突然、スピーカーから鉄琴を叩くような音が鳴り響いた。ショコシャカシュカとせわしく話す中国語がまず聞こえる。次に、女の人の声でおっとりとした日本語が続いた。

「只今から…、730分まで…、夕食の用意が、出来ています…」

 ご飯も大切だが、シャワーの湯がぬるいぞ。サボるな中国人。

 

 中国の若者は、夜11時を過ぎてもロビーで大声を出し続けている。うるさい、うるさい、うるさーい。うるさい。ぶちぎれそうだ。私のキャビンの5人は静かなものだ。10時にはベッドに入っている。8人用キャビンを使っているのは、私も入れて6人だ。ベッド二つが余る。私の荷物置き場にした。

 窓は…・・?

 

 そっと甲板に出てみた。船が闇の中に突進している。闇の彼方から海の皮をめくるあげる音が聞こえてくる。めくりあがった皮の裏は船が発っす光が反射し、白く鈍く光っている。他には何も聞こえない、

 青く暗い静寂に包まれた天空では、星がかすかに点滅し、かろうじて呼吸をしているかのようだ。深い闇の中に私はいる。空と海に挟まれた闇はたった一隻の船によって切り裂かれ、戻ることのない過去とこれから始まろうとする未来との狭間の中で揺れている。

 

 九州は、過ぎただろうか。真っ暗で何も見えない。

 

 

2日目 920日 2000年 (水)晴 <船上、神戸→上海>「天気晴朗の上、波静か」

 

 朝は無事にやってきた。波も中国人達も静かだ。昨晩暴れすぎたのだろう。

 食堂に向かう。食堂は七時半から九時(?)の間しか朝はオープンいない。朝食は、○○円もしているというのに漬物とおかゆだけしか出ない。大いなるがっかりだ。そうだ、日本から海苔を持ってきている。明日は、それを持ってこよう。

 3Fの甲板に出てみる。デッキにイスがあった。暑い。甲板の日陰を探し、甲板に横たわると意識がなくなった。睡眠不足だ。なぜだろう?

 

 10時、九州の佐多岬を通過している。船が進む位置が小刻みに日本から中国までの地図の上に、船の模型が現在位置を教えている。

 1週間前、ここは地獄の一丁目と化し、船は、波に、風に、そして雨にもてあそばれ、上へ下への大騒ぎになっていたはずだ。それでも船は中国に進んでいった。

 今は、天気晴朗にて、且つ波低し。平和だ。

 

 昼ご飯の時に、同室のHiroshi & Kimi親子と改めて話をする。昨晩は挨拶だけでみんな寝てしまった。

 ひろしは西洋人の顔立ちを持ったハーフだ。日本語と英語を話す。Kimiも日本語と英語を話す。だが、顔立ちは日本人そのもので、でこぼこが少ない。その反面、言葉は人一倍でこぼことしゃしゃり出て話しかけてくる。ヒロシが親孝行として中国への旅を彼の母親であるキミにプレゼントしたという。父親はアメリカ人だそうだ。

 同じキャビンにはマリオ&パトリシアというコロンビア人のカップルもいる。神戸港で日本人の若者達に見送られていた二人だ。

 

 私と妻の啓子は1999年9月からアメリカのフィラデルフィアにあるペンシルベニア大学の大学院にアーティストレジデンスとして1年間在籍した。

 作品制作と大学院生にスライドレクチャーをした。また、アメリカで制作した作品を大学のギャラリーで発表もしてきた。ただ、二人とも英語で苦労した。大学附属の英語学校に二ヶ月、毎日朝の8時から10時まで、二時間通ったが、上達しなかった。それでも、大学院生たちの若いアメリカ人の友人はできた。

 大学での講義は、こちらが希望するれば受けることが出来る。啓子と私は9月からの前期に彫刻の理論の授業を取った。それがわからない。教授の言っていること、生徒と教授、生徒と生徒のディスカッション。耳に入ってこないし、話そうとしても単語が出てこない。かろうじて発しても発音の悪さで通じない。そこで活躍したのが、大学院生の友人たちだ。

 授業が終わって彼らに授業の内容を聞く。彼らも英語だ。だが、そこは友人、何回も繰り返して聞いた。そこで初めて理解する。宿題はいっぱい出る。それが終わらない。何しろ問題を理解するだけで夜中になってしまう。答えを出そうとすれば毎日徹夜だ。それで授業では教授の目を見ないようにした。日本の学生の心境、そのままだ。まったくなさけない。

 啓子は彫刻家だ。私は平面をやっている。彼女は文部省からの派遣で、生活費として1ヶ月30万円が支給される。奨学金だ。嬉しい金だった。なにしろ私は無給だ。二人でそれを使った。私に引け目が無いと言ったら嘘になる。だが、啓子をうらやましく思っても私にはどうしようもなかった。奨学金をもらう能力も時間も無い。せいぜい自分の金で行くしかなかった。

 私は神奈川県の高校で美術教師をしている。今回、2年間の学術休職を取った。学術休職と言うと聞こえは良いが、無給だ。だが、仕事を離れて自分がしたいことをすることができるというのは、気持ちの良いことだった。

 学術休職で、外国の大学等の研究機関に所属すれば、病気で無くとも休職できるという制度が神奈川県に出来たのは2年前(?)だった。アメリカの大学に行く準備期間に5ヶ月、実際に大学に行ったのは1年間、そして7ヶ月が残った。その残りの期間を利用して、マルコ・ポーロの「東方見聞録」ではないが、世界一周をし、見聞を広めようと思った。

 私はこれまでに南北アメリカ、アジア、中央アジア、北アフリカ、ヨーロッパ等、50数カ国を旅してきた。各地を旅した場所が点として私の中に存在している。松本清張の「点と線」ではないが、今までの点としての個々の旅を、世界一周という線でつないでみたいと思っている。期間は来年、2001年の3月までだ。4月から仕事が待っている。

 

 夕方、シドニーオリンピックのサッカー、日本とブラジル戦がテレビで始まった。オリンピックだ。日本人も中国人も観戦している。うるさい中国人はやはりうるさかった。元気だ。私は冷ややかに見る。8時。突然プツンと放送が切れた。日本がブラジルに10で負けている。BS放送の電波の届く範囲を超えてしまったのだろう。船は確実に、西へ、そして中国に向かっている。

 

 食堂で9時過ぎ、2時間ほど部屋の6人でウイスキーを飲む。コロンビア人の二人は、「コロンビアは危険だ、移動は、バスでなく飛行機を使うべきだ」という。レジスタンスが横行しているとのこと。この旅の1年少し前、私は南米の北に位置するコロンビアから南のチリまでを、バスで旅してきたばかりだった。何も無かったというのはハッピーだったのかそれともコロンビアの政情が安定していたのか。いずれにしろ、私にはそれほど危険とは感じられなかった。というのも、同じバスには現地の人も気楽に大勢乗っていたからだ。

 女従業員が、近づいてきた。私はてっきり、ここは食堂だから酒を飲むな、と言いに来たと思った。ところが、彼女の口から出たのは、「水餃子はいかがですか」だった。

 中国人は、働かない、と聞く。だがここのクルーに限っていえば、良く働く。それが彼らの利益に跳ね返るということを良く理解しているようだ。

 

 今日は何も無い平和な日だった。

 

 

39212000  

 目をあけると、船は川の中を進んでいた。茶色の川だ。右に左にコンビナートが見える。

 北京時間で、朝の71  そうか、儲かったのか。801  

 朝食の用意が出来たという放送が、北京時間の7時半にある。「長江」という川から小さな川(それでも幅100メートルは裕にある)に入ってきた、とHIROSHI  朝食は、おかゆ、食パン、ゆで卵、きゅうり22  人々の家は、紙と木で出来た日本の住居と大きく違い、ヨーロッパのように、四角くがっしりとした造りだ。その横にコンピナートの鉄の塊が見える。

 左岸に高層ビルも見える。さしずめ、上海のエンパイヤ-  タンタンタンという音を響かせて、川下に我先にと急ぐタグボートが何隻も見える。波頭が白くめくれあがっている。上海は活気のある街だ、と思い込むのは早合点か。とにかく、上海は動いている。

 ビルの形もいろいろだ。未来都市の丸いキューブがあったかと思えば、鋭く削られた鉛筆の先の尖った部分を上下に二つくっつけて垂直に立てたようなビルも見える。また、なだらかな曲線を描いて横に長い、波のウェーブを模したような屋根も見える。ここには、四角、三角、丸、曲線とありとあらゆる形のビルが統一の無い統一を見せて、黄浦江流域の両側に林立している。

 自然は円と直方体と三角で現される、と言ったのは近代絵画の父、セザンヌか。すると、上海も自然の真っ最中だ。だが、上海の自然はちと痛そうだ。そして冷たそうだ。これからの、未来の自然の模型が上海にある。

 

 先ほどから船は動かない。デッキの反対、右側に移動してみる。すでに船は港に着き、ロープで波止場に固定されていた。 

 コンクリート剥き出しの殺風景な波止場だ。人影がない。寒い風景。味のない風景。それは、私の中国に対する固定概念か。その波止場を一般道路と隔離する壁も灰色のコンクリートだ。華やかなビルは無い。

 乗降用の階段が下り出した。だが、途中で止まった。一人の作業員がそのロープで吊り下げられただけの宙ぶらりんの階段の上を歩き出した。右に左に揺れる。だが、お構いなしに作業は続けられる。

 男は階段の数カ所に設けられた穴に鉄の丸い棒を差していく。終わるとその鉄の棒にロープを渡しだした。手すりができた。次に、その手すりの両側にビニール製の緑のテントをつけ始めた。だが、なかなか完成しない。どうやら新米のようだ。別の男がやってきてやり直し出した。

 波止場では制服姿の男が二人やってきて我々の船を見上げていた。ポリスかイミグレーションの役人か。明るい緑の上着と帽子、濃い緑のズボンをはいている。一人は自転車に乗ったままだ。旧ソ連のようなかたぐるしい表情は見られず、にこやかに二人で話しながら階段がおろされるのを待っている。

 

 10時、気温33℃。ムアーとした暑さだ。中国のビザスタンプが押されてパスポートが戻ってきた。ビザ代としての1万円は少し高いが、船の中で出来る手軽さを考えると安いものだ。パキスタンのビザを日本で申請したら5日かかった。(ちなみに値段は?)イランのピザは2週間かかると言う。イランビザを日本で取るのは諦めた。この船で中国のビザを取る場合は3日間かかる。と言っても、実際にかかる時間は乗ったときの10分間の申請だけで、後は下船まで待てば良い。実質10分で終わる手軽さはありがたい。

 

 Entry frontier Inspection  

 上海二回目のHIROSHI  300元は中庭に面した部屋だ。だが、中庭には証券会社の建物がある。すっぽり中庭が蓋される形で屋根が中庭を占領している。上から見ると、その屋根しか見えない。363元の部屋からは、建物の間からとは言え、港に通じる川が見える。113.24,790  部屋の広さは、測ってみると、4.7メートル×5.3メートル。天井高は3.4メートル。日本で言えば、約15畳の広さだ。そこに、セミダブルのベッドが二つあり、テレビとタンスもついていた。この外に2.5畳のエントランスに、約3畳のバスルームが付いている。総床面積は20.5畳になる。広い。

「どうする?広いけど高いよ」

「オーケーィ。広いのオーケーィ。高いのオーケーィ」

啓子は、タンスをあけてみたり、窓から外を覗き込んだりしている。

「一晩だけ泊まるか」

「オーケーィ」

「それとも二晩?」

「オーケーィ、オーケーィ」

るんるん気分になって、なんでも「オーケーィ」だ。

「わかった、わかった。とにかく一泊だけな」

「オーケーィ」

 室内のドア、内側に張ってある見取り図を見ると、この4321213631  

 外に出る。1時を回っていた。ホテルから  

 なぜだかは言葉が通じないのでわからない。諦めて広い通りに戻った。すると通りを挟んだ西側に、回転寿司の看板が見えた。近づいてみると元禄回転寿司と書いてある。日本の回転寿司はアメリカだけでなく、中国、上海まで進出していた。

 食べ方、お茶の入れ方、皿の枚数を数えて勘定をするシステムは日本と一緒だ。帰りには、小さな封筒まで渡された。外に出て中を見ると、中国の5銭硬貨が入っていた。さしずめ日本で言えば、5円だ。またご縁があったら来てください。の意味だろう。これも日本的と言えば、日本的だ。

 寿司自体はさほどおいしいものではなかった。米は硬いし、ネタは干からびかけている。それでも、テッカにサーモン、イカにマグロなどをつまんだ。卵は最低の味だった。卵以外のメリケン粉のようなものが大量に入って水増しされていた。味が無視されている。

 

 中国まで来て回転寿司か。だが、1時を回って2時近くになり、1  

 すし屋を出て南京路に向かう。そこは上海で一番、中国で1番の繁華街と聞く。

噂どおり、南京路は通り一杯人だらけだった。通りに面した店からは明かりが漏れ、通りを照らす。街灯にショーウィンドゥ、そしてカラフルな服装の人々。どうしてここが東京ではないのだ。とりあえず前に歩き出そう。方向は西となる。交差点付近で「わぁわぁ」という女の声が聞こえる。なんだ?立ち止まって振り返ると、やはり女だ。一人で誰に話し掛けるでなく大声を出している。狂っているのか。だが、おまわりさんがやってくると自分からいなくなった。

 黄色地に赤で書かれたM  中国のマグドナルドは「麦当労」と書かれている。字が中国的ということは味も中国的か。いやそんなことは?わからん。ところで、日本のハンバーガーは日本人好みの味にしてあるかもしれない。と思いつつもニューヨークで食べた味を必死に思い出そうとした。だが、トンと出てこない。結局、マグドナルドの味は没個性的、世界人類みな兄弟的折衷味、究極的ノーベル賞的味に仕上がっているという結論で「麦当労」には入らなかった。回転寿司にマグドナルドでは何のための世界旅行か、という疑問も起きかねない。

 上海には東京の銀座並に店と人、そして商品があふれかえっている。旧ソ連は悲惨だった。デパートの棚にはデザインが無視された同じ品物が散発的に置かれ、棚板が見えていた。経済が成り立たなくなってソ連は分解。旧国鉄のように15の国に分かれたが、健全に経営されている国はいくつあるだろうか?

 中国は市場経済を鄧小平が導入し、国の方針として資本主義競争原理を取り入れ、少なくとも上海にあるこの南京路は繁栄している。ソ連はある日突然共産主義を捨てて資本主義に移行した。だが、今までの、政府から命令されて動く体制になりきっていた人々が、そう簡単に、頭、身体、そして気持ちを切り替えるはずが無く、ちょうど、老人が頑固なように、ソ連国民も柔軟さに欠けたままどうして良いか分からずまま今に至っている。老人の頭を切り替えるには相当の時間と相当の努力、そして相当の犠牲が必要なように、彼らが資本主義、自由主義の精神を身体の中に染み込ませるにはまだまだ時間がかかるだろう。雪解けは、他の国からの影響を受けやすい国境近くの人々から始まるはずだ。

 中国は、社会主義だと言いながら、国の命令、指導として市場経済、つまり資本主義的競争原理を導入した。中国の社会主義は資本主義に移行してしまい、社会主義として残るものは、只一つ、共産党一党独裁の政治形態だけか。

 民主化を要求した10年前の「天安門事件」は時期尚早だったのか。多くの犠牲者が出た。  マグドナルドもIBM  急激に変化したソ連、緩やかに移行しようとしている中国、どちらが正解だったかは今後の歴史を待たなければならない。ところで、日本は大丈夫か。バブルが崩壊して十年、一向に景気が良くならない。資本主義の結末は、そして、社会主義の結末は?難しい。

 

 18時、再び上海駅に向かう。外人専用の切符売り場を捜したが分からず、一般の人達に並んで切符を買った。実は、中国の列車の切符はもっと面倒くさく、なお、人が押し合い圧し合いで買い辛いと思っていた。だが、並んでいる人も5,6人しかいなく、横入りしてくる人もいない。中国は紳士の国だった。

 24日25日、上海駅、上海西駅ともに北京往きの硬臥(2等寝台席)切符は一枚も無いと言う。コンピュータ処理になっているので情報は確かだろう。23日に硬臥席が一つだけだがあると言う。硬座だったらいつでもOK 「どうする?」

「どうするって、その一つは私のでしょ」

「俺は?」

「あんたは男でしょ」

「男は関係ないだろう」

「大丈夫よ、インドでも寝台を一つ取って乗ってしまえば他のも取れたでしょ。何とかなるわよ」

啓子とは、インドに3回、インドネシア、セントラルアメリカ他、いろいろと回っている。

 迷った結果、23日夜、23時33分、上海西駅発北京行きの切符を買った。  

 当日券売り場と8日前からの前売り券売り場の2箇所が、同じ建物の中にあったことは、地理に疎い外国人には便利だった。また、当日券や寝台車の席有り無し情報が電光掲示板に表示されていたので分かり易く、便利だった。上海発の列車の時刻表も1元、約13.2円で売られていた。列車を選ぶ時、また切符を買う時にも役に立った。また、なんと言っても一般切符売り場の駅員がでコンピュータを操りながら英語で応対してくれたことには非常に感心した。

 

 21時少し前、LOVEINN  ラブイン、名前からして怪しいホテルかと思った。そう思うのは、ラブホテル文化を有する日本人だけの反応か。ベッドもダブルでなく、シングルが二つ行儀良く並んでいた。普通のビジネスホテルだった。

 タクシーの運転手が別のタクシーの運転手に路上、襲い掛かっている。

「ちょっと、ビデオを撮るのはやめたほうが…」

「何言っている。千載一遇のチャンスを逃してなるものか」

シャツがつかまれ、引き裂かれ、それでも停まっている二台のタクシーの周りを逃げ惑う男。そして、それを追い回す男。一体何があったのか、私はビデオを取り出す。

 喧嘩をしている当事者よりも周りの野次馬に注意した。中国の恥を日本で見せるのかと殴られはしまいかと注意しながらビデオを撮った。

 トランクから何かを一人が持ち出した。鉄の棒であった。それで殴ろうというのか。ポリスが間に合った。日常的な景色なのか、ポリスは決して慌てない。ゆっくりとした足取りで近づいていった。

 喧嘩っ早い国民性。

 

 

第4日 9222000  

 朝、6時30分。すでに明るい。港はもやに包まれている。中国と言えば、自転車と思っていたが、ここ上海に限って言えば、自転車の大部隊は無く、ちらほら走っている程度だ。

 車は右側通行。小さなオートバイにタクシーが活躍している。ピーピーパーパーと言う車の喧騒に混じって船の汽笛が低く鋭く、腹の下に響いてくる。これが夜だったらさぞかし物悲しい響きとなって伝わってくるだろう

 昼少し前、タクシーに乗って浦江飯店から合家歓(LOVEINN  車はパンクしているのではないかと思えるほど、がたがたと進んだ。着いたとき車輪を見たがパンクしていない。車の車軸がゆがんでいるか、道路が悪いかだ。

 ラブインにチェックイン。190元。300元最初に出すように言われた。どうして? 110元はデポジット(保証金)だと言う。190元は日本円にして、約2,500円だ。まあ、これなら許せる範囲の値段だ。われわれはこれから世界一周をしなければならない。軍資金は貯金からだ。お金は節約するしか乏しいわれわれの貯金を守る方法はみつからない。

 10階、1003の部屋からは上海駅を俯瞰する景色が広がっている。だが、目の前に立ちはだかる崩れかけの高層ビル(19階建て)のおかげで、右半分の視界がさえぎられている。残念。銀色のポットからお湯を出してゆっくりとお茶を飲む。さて、どこに行くか。

 地鉄(地下鉄)に乗って人民広場に向かう。席が飛び飛びに空いている。一人ぐらい横にずれて私達二人が一緒に座ることに協力してくれても良さそうなものをと見回しても誰も動かない。その上、列車がプラットホームに着くと我先に電車に乗ろうとする人々の数。出る人が先だろう。インドか、ここは。この状態は10年前の大坂だと啓子は言う。中国でオリンピックを開こうとしている。大丈夫だろうか。

 午後3時30分、銀色の球が二つ空中に浮かんでいるような形をしたテレビ塔に上ってみようということになった。だが、トップの球まで一人100元(約1320円)で、下にある30メートルの高さの球展望席でも30元もする(約450円)という。高い値段に恐れをなしてあがるのを諦めた。

 川沿いにある公園で、30分間、石のベンチに寝転んで昼寝を楽しんだ。タグボートに竜の首を持つ船、筏状にいくつもの船をつなげた集団といろいろな船が目の前を行き来する。その遠くには浦江飯店のある方向の対岸に、白く大きな客船が停泊している。ひょっとしてわれわれを日本から運んできた船かもしれない。ご苦労さん。水はお世辞にもきれいとは言えない。どす黒い茶色に覆われた水が船が作り出す波となって岸辺のコンクリートを打つ。中国かぁ。そして、上海。汚い川に現代高層ビルの林。歴史がねじれてしまった町、上海。

 道路の脇に公衆トイレの表示が見えた。行こう。地下道を下っていく。男が二人入り口付近にいる。地下生活者たちのおっちゃん達か。中国にもホームレスがいた。いや、地下2階でトイレの使用料をとっている人達だった。使用料は、五角、1元の半分、約6.6円だ。中国と言えばトイレ。トイレと言えば汚い。これが定説だ。覚悟して入る。アンモニアの匂いが強烈に鼻を突く。目に染みる。だが、トイレは意外ときれいだった。良く掃除されている。このおっちゃん達によるものなのか。ただ、アンモニアの強烈な匂いは彼らの力を持ってしてもどうしようもないようだった。

 地鉄の最低料金は二元と思っていたが、2駅までは1元と判明。二元を出して買ったチケットだが、切符売り場で替えてもらおう。果たしてどうか。問題無く、新しいチケットと1元が戻ってきた。なかなかやるな中国。

 人がいっぱい乗り降りしている。上海に住んでいる限りは別に外国にあこがれずに済みそうだ。ところで、マオタイというビルの展望台には50元でいける、と駅の中にある広告に書いてあった。テレビ塔の100元よりも写真を見た限りでは高いところまで行けそうだ。これだな、明日は。

 服装もカラフルだ。誰も人民服を着ていない。残念なのはチャイナドレスも着ていない。これは、日本に来た外国人が、着物を着て生活していない日本人にがっかりする気持ちと一緒か?

 夜7時少し前、タクシーで上海雑技団へと向かう。平仮名とカタカナは日本の大発明だ。中国語は大変だ。いっそのこと外人の名前は英語を取り入れたほうがわかりやすいのではないだろうか。聞くところによると、中国政府のどこかの機関で、初めての外国語、あるいは名前に漢字を当て、無理やり発音に似せて読ませているそうな。無理がある。  本日の雑技団は売り切れだった。残念。さて、どうしよう。切符売り場を背にきょろきょろしていると男が一人近づいてきた。

「今夜のチケット、一人10元でどうだ」

ダフ屋か。19時20分。正式値段は、60元、45元、30元という3種類の席がある。黙っていると、

「80元」

と値段を下げてきた。さらに

「70元」

と言って来る。どうする? 買うか、やめるか、気持ちがぐらついた。19時27分だ。

「正式だと高くても60元じゃないか。ところで、もう、今夜のチケットを買う人間は居ないぞ。どうだ、二人で60元と言うのは?」

「ちょっと待て、ボスに相談する」

待てというが、もう始まっているではないか。待てない。

 最初の導入が、授業でも大切だ。導入次第でその時間の授業の方向が決まる。上海雑技団の顔、導入の部分を見逃す手は無い。時間が無いと言うのなら仕方ないが、我々には明日も時間が有る。正式ルートで明日の分を買おう。奴らは損をすればいい。第一ダフ屋から高くても買おうとする輩がいるからダフ屋が横行するのだ。

 南京路には歩行者天国がある。車が入ってこない空間は気持ちもリラックスする。石造りのベンチに座る。土曜日の夜、わんさかわんさかやってくる人々を眺め続ける。右から左から途切れるときが無い。さすが13億の人口だけのことはある。

 インターネットを探したが、見つからなかった。その代わりと言ってはなんだが、上海市旅館と言うものを南京路を北に数メートル入ったところにみつけた。1泊二人で120元、約1500〜1600円ほどだ。部屋を見たが、汚くないし、虫も居そうも無い。どうする?ただバス付でなく、1階と言うことで見晴らしも悪かった。日本の商人宿のようなものだろう。結局、190元のラブインに軍配を上げて引っ越すことは考えなかった。上海に来て気持ちが贅沢になっている。

 上海駅の周りでは、夜の10時30分だというのに、まだ宿の客引きが数人いた。接客証と書かれた10センチ×15センチほどの大きさの白いカードを持って近づいてくる。多分政府公認の客引きと言うことだろう。ホテルの外部、そして内部の写真も見せてくれる。一応、安心できる人々なのだろう。だが、実体はわからん。

「今夜の宿あるか」

そんなことを言っているのだろう。何人かは片言の英語を話した。外人相手の商売をしているということだ。

 中国のホテルや列車などは予約をしていないと、飛込みでは取れないと日本にいる時に勝手に思っていた。だが、実体は、列車の切符も買えたし、ホテルも取れた。何年か前、東京で遅くなった時があった。新宿の京王プラザホテルに啓子と泊まろうとフロントにいったことがある。

「ご予約は?」

「していない」

「それでは宿泊できません」

「部屋は空いているのか?」

「そう言う問題ではなく、ご予約してあるかどうかです」

何万円も出して泊まろうと決心して行っただけに唖然となった。

 日本の一流と言われているホテルは、とにかく電話だけでも予約と言う形をとらなければならないようだ。不便この上ない。いやもしかしたら、服装で判断されたのかもしれない。だが、もっとラフな服で欧米やインド、タイでも飛び込みでホテルは取れた。国際感覚の欠如している日本というしかない。もっとも、外国旅行で京王プラザ並みの高いホテルに泊まったのは、1泊4万五千円の香港のリージェントホテルしか思い当たらない。だが、そこでも飛び込みでOK  焼きギョーザとビールを1本買う。コンビニで水も買った。これで夜が寂しくない。中国でギョーザと言ったらスープ餃子が主流だ。ラブインホテルの1ブロックほど離れた小さな蕎麦屋で焼き餃子が有るのを観察しておいた。少し脂っこいがなかなか焼き餃子だった。

 11時、ホテルに戻る。朝の11時から入ったフロントの女の子は、まだフロントで働いていた。少なくとも12時間働いている。社会主義の国では労働時間は保証されていると思っていた。だが、実際は無視、あるいは働けば働くほど賃金に跳ね返る仕組みになっていて、本人が望めば死ぬまで働くことができるのかもしれない。8時間労働、週何時間労働と言っているのは欧米だけの現象か。中国にはそれは当てはまらないようだ。

 

 

59232000  

 朝七時半、外が白い。霧ではない。なんだ? 大気が汚染されている。太陽が照っているが、白いガスに遮断され、その恩恵はここまでやってこない。ぼんやりとした丸く、黄色いものが空に浮かんでいるだけだ。スモッグか。10階から見る上海駅、その周辺もかすんでいる。

 テレビの中では、五人の女がタイツ姿で踊っている。エアロビクスか。黒いタイツに紫のタイツ。人民服はどうした? 贅沢をしないための服は廃れてしまったのか。社会主義はどこへ行った? どこへ行く? 部屋のクーラーが効き過ぎだ。腹が冷えてきた。

 朝食。フロントで引換券をもらって食事を受ける。お粥と漬物。卵焼きに小包子2つと小さなケーキ1つ。1階のフロントの見えるコーナーにテーブルが数個置かれている。贅沢は禁物だ。朝食が食べられるだけで大贅沢だ。

 昼、手打ち蕎麦屋に入る。客が注文してから麺を打っている。これはうまい。狭く汚い店だが、人でいっぱいだ。まな板の上で丸められていたそば粉が両手でわしづかみされ、引き伸ばされて行く。そして時々「バンッ!」という音がする。引き伸ばされたそば粉がまな板に叩きつけられた時の音だ。また折られ、引き伸ばされ、という工程が何度となく繰り返され、徐々に細い麺へと変化していく。まさに神業だ。そこに長年の職人技術が生き、伝統の味、伝統のそばの固さが守られていく。

 昼過ぎ、64番のバスに乗って運転手が来るのを待っている。バスは停まっているが、運転手が居ない。乗客は乗り込んでただ待っている。すぐそばに見える上海駅は上へ下へのてんやわんやの工事の真っ最中だ。開けゆく上海というところか。「上海駅」という大きな看板が正面に掲げられている。他は工事中の幕で覆われて見えない。1、2年後、ここはすごくきれいに生まれ変わっているだろう。 

 3分後、運転手が乗り込んできた。続いて車掌も乗り込んでくる。子どもの頃、日本のバスにも車掌がいた。日本も中国も、車掌は女だった。魯迅公園に向かってバスが動き出した。

 魯迅公園に入る。公園の中ではマージャンを楽しむ人々が一角に固まって五脚も6脚もテーブルを囲んでいた。大きな木の陰では、モデルの少女を描く豆画家達がいる。モデルも画家も小学生ぐらいだ。魯迅の墓はその奥にあった。墓の前で、公園の敷石に字を書く老人がいる。使っているのは水だ。それを黙って眺め続ける白いワンピーススカートの少女。幼稚園ぐらいの大きさだ。やがて、老人は水筆を少女に渡した。

 記念館は何かのイベントのため本日は閉館で中に入れなかった。残念。

「魯迅とは…………・」

  YUYANYUYAN  YUYAN 「私だってもっと大きいと思ってたわよ」

「時間の無駄だ。行こう」

「あんただって間違うときは有るでしょ」

 

「あるよ、それは。そん時はすぐ反省するのが俺の良いところだ」

「なによ、そんなことないでしょ。いつだって自分だけ良い子になって。とにかく見るだけは見なくては始まらないわ」

YUYAN  夕方、MAOTOWER  夕日が落ち、青白いガスの中から街灯の明かりが、ぽつりぽつりと浮かび上がってくる。浦江河に沿って光も右から左へと大きく蛇行する。だが、それも暗いガスの中に吸収され長くは続かず、その先は見えない。宇宙で出会ったブラックホールのように闇の世界にガスは総てを吸収する。

 タクシーに乗って雑技団に向かう。19時15分、入場開始。60元(792  夜の7時半、雑技団は時間どおりに始まり、予定通り9時に終わった。身体の線がくっきりと浮き上がるきらきらした服を着た女が現れる。美人だ。身体をくねくねさせながら、直径50センチほどの筒の上に置いた板の上にバランスをとりながら乗った。その板の上にコップを立て、その上に板を置く。そしてまた乗る。こうして、次々とコップを重ねては上へ上へとあがっていった。

 てこの原理を利用した板の真中には鉄の円柱が置かれ、板の端に男が一人立っている。もう片方の端は空に向かってあがっている。そこに二人の男が「えいやっ」という掛け声とともに飛び上がって乗った。端にいた男がその勢いで「バンッ」と宙に浮く。くるっと回った先には別の男が両手を広げて待っていた。ジャンプした男は男の肩にポンッと軽く足から乗った。「おー」である。それを繰り返し2段目ができ、3段目もできた。そして四段目がクライマックスだ。女性が挑戦する。そして見事成功。四重の人間塔が出来上がった。「おー!」

 間接を外して筒の中に入ったり出たりする男。やどがりのように尻に筒をつけて箱の上を両足で歩く。手は両の足を支えている。肩の幅が広いだろう、というジェスチャーもしたたかだ。そうしておいて間接を外し筒の中に吸い込まれ、もう一方の端からにゅき、にょき、と出てくる。

 道化の男二人のナイフ投げが始まった。客を舞台に上げ、衝立のような板にロープで縛り固定する。一歩二歩と道化が縛られた客から大またで離れていく。距離を決めているようだ。距離が決まり、道化が振り向く。長い距離にたじろぐ演技。投げる道化が目隠しを始めた。客は不安な色を顔に浮かべる。距離はおよそ五メートル。果たして大丈夫なのか。道化は投げる振りをする。客はおびえて。大丈夫か。道化が客に近づいて客にも目隠しをした。観客には、客がおびえているので目隠しをしたとジェスチャーを振りまく。さて、また大またで五メートルほど離れる。

「ワン、ツー、スリー」

大きな掛け声とともにナイフが投げられた。

「バン!」

会場全体に鈍い音が響き渡った。背中を支えている後ろの板からだ。だが、ナイフは宙を飛んでいなかった。道化が目隠しされたいけにえに向かって走り、板にナイフを手で力強く刺したのだった。(笑い)

 帽子の手品が始まった。帽子のつばを額に立ててバランスを取っていく。落ちない。滑らない。大した物だ。道化はこんなこともできるのか、と思ったとき、彼が客に向かってお辞儀した。それでも帽子は落ちない。ム…・? ナンの事は無い、帽子は後ろから紐でくっついていた。

 彼らは皿回しもやった。また何か仕掛けがあるだろう。テーブルの上に並べられた皿を棒1  その後、身体くにゃらくにゃらの女も出てきた。後ろに反り返って、両足の間から自分の顔を出す。軟体動物だ。京都、藤森神社の「親の因果が子に報い…・」の口上を思い出した。小屋の中に入ってみたわけではないが、小屋の外にかけられている絵にろくろっ首の女が描かれていた。なぜかそれが連想された。

 

 22時45分、タクシーで上海西駅に着いた。食料品、水、コーラ類が外の売店で売られている。大きなバッグだけだが、駅構内に入るのには空港にあるようなX線検査をされた。身体検査はない。また、小さな荷物しか持っていないものはフリーパスだ。何を調べているのか。大きな荷物の中に入っているもの。密輸品、武器、それとも、なんだろう。

 中に入ると、北京行きの広い待合室には木のイスが縦長に2列ずつ向かい合わせにずらーと並んでいた。その列の入り口には、行き先と出発の便、そして出発時間が書いてある。とにかく、その列に入って座っていれば、連絡があるだろう。

 北京往きは23:33発だ。ここは始発ではないのだろうか。満席なはずなのに待っている人は少なく、60人〜70人ぐらいしかいない。それとも来るのが早すぎたか。寝台席は一席しか持っていない。早くくれば何とかなる可能性も有ろうかと思っている。

 

 列車が出発五分前に入ってきた。そして、初めて改札が始まる。寝台車に向かう。列車の入り口で制服を着た女が立って客のチケットをチェックしている。まずい。

「とにかく行きましょう」

女は強い、いや、図々しい。

「この切符ではここから入れません」

「連れ合いが寝台席の切符を持っている。一緒に居ることはできないか」

「駄目です」

ケンモホロロだ。あんまりではないの、お姉さん。

 文句を言わずに私は普通車の方に歩き出した。なぜ、寝台席は私に回らず、啓子に行くのだろう?図々しい、という言葉が頭の中に発生した。

 硬座の意味は硬いのではなく、2等車という意味だった。青いレザーの椅子、片側に3席、もう片側には2席が何列も並んでいる。椅子はリクライニングにはならない。固定式だ。10分後、こんなに夜中なのに、カートを押してビールを売りに来る。早速飛びつく。だが、私一人が注文した。周りは誰も買っていない。気まずい。だが飲む。飲む。1本、4.5元、約60円だ。ぐいと飲んだ中国製ビールがうまい、いや少し生ぬるかった。のどを通る。うん、天国。周りは見えない。

 

 

69242000  

 あたりがボワーンと明るくなってきた。列車は単調な響きを繰り返している。もやっている。視界は遠くまで届かない。薄明の微光の中に…、開高健ならそう表現するだろう。しかし、確かに薄明だが、微光が無い。木々に家々、鉄橋、川、山々。それらが白いもやの中で浮かび上がっては去っていく。

 上の部分が白地に紺色の図柄があるチャイナドレスで、下は濃紺のスカートという制服を着た女が二人、朝食の  掃除婦もやってきた。彼女は駅員のように白いカッターシャツに濃紺のスラックスをパシッと決めた制服を着ている。髪はショートカットだ。最初に黒のビニール袋を持ち、各座席からごみを集めた。次に箒で丁寧に床を掃き出した。中国の列車では掃除人がしっかりいる。その昔、インドで掃除しに来たのは物乞いだった。破れて汚れたぼろ服から出た垢で真っ黒に汚れた手に持った手作りの箒で簡単に掃除を済ますと、手をにゅーと出してきた。幾ばくかの小銭を、その真っ黒に汚れた男の掌に落とすと、男は小銭をぎゅっと握り締めてから次の客に向かった。

 窓の外を見ると朝もやの中、広大な畑の中でぽつんと一人働く人の姿が見えた。鍬を持ち、土を耕している。男だろうか、女だろうか。遠目には分からない。まだ、○○時だ。列車は順調なスピードで農民の姿を後ろに追いやった。ガタ、ガタ、ガタ、ガタタン、ガタ。リズミカルな音が響きわたっている。

 カートに積んで白いお粥も売りに来た。失敗した。お粥にしておけば良かった。五元。約70  もやの中から、丸く小さな太陽が顔を覗き出した。外気温20℃、列車速度107公里、多分、時速107kmと言うことなのだろう。新幹線の車内表示と同じ列車間の通路の上に横長の電光掲示板に文字が右から左に流れていく。120公里と出たときもある。カップヌードルも  太陽が赤から黄色に変わりつつある。中国人はインド人とは違って、私の事を珍しがって寄っこない。ビデオを撮っていても、ノートにいろいろとメモしていても寄ってこない。覗くのは恥ずかしいと思っているのだろうか、それとも無関心か。これはありがたい。反面、寂しくもある。

 インドはすごかった。ビデオなど出そうものなら、それが私の手に戻るまで30分はかかる。ノートを取り出そうものなら、自分の名前を書き込んだり、おまえの書いたところを読んでみろ、とか、それは忙しいことになる。私の時間は無くなるが、周りのインド人とすぐ親しくなる。 

 中国では、結局、北京に着くまで周りは元より隣の中国人とも言葉を交わさなかった。互いに照れている。アジア人。日本人と中国人。顔も似ているが、気持ちも似ている。

 

 満席の三人座席で直角に寝て、目を開けてから2つ目の駅が過ぎた。そこで結構人が降りて席に空間が出来た。11時まで三人席を独り占めして横になって寝ることが出来た。

 硬座(ハードシート)はそれほどハードでなく、とにかくシートは木製ではなかった。青いシートカバーに白いカバーがついている。イメージはちょっとした日本のグリーン車だ。これで座席がリクライニングならしめたものだが、向かい合わせの席の故にそうは問屋がおろさない。もっともこれは、上海からの安い列車が取れなくて一番早く、北京まで二つしか止まらないという超特急列車の切符を購入したからだったのかもしれない。普通は、硬座といえば、木のシートなのかも知れないが、それはまだ経験していない。

 硬臥はケーコが取った。

「私が寝台車でしょ」

あ、そう。という感じできまった。実は、寝台車に2人でもぐりこもう、インドなら一つの寝台に何人も寝ている。そんな感覚で入れると思っていたが、列車の入り口チェックで女性服務員によってはねられた。

「硬座の切符ではこの車両には乗れません。あちらです」

あ、そう。

 農村地帯あり、工場地帯あり、時折、町らしきものも見える。それを全てふっ飛ばして中国の特急列車は突っ走る。日本で言えば、新幹線の「のぞみ」に乗っているようなものだ。

 通路を挟んで座っている老夫婦も、かつらをかぶったおばあさんも、カップヌードルを手に持ち、おいしそうに最後の汁をすすっている。あちらでもこちらでもカップヌードルの湯気が上がっている。カップヌードルは中国人のために作られたのだろう。その第一次段階の人体実験は日本で行われた。安全、安い、手軽だ、という三拍子そろって、中国に導入された。また、そのためか、列車には自由に汲めるお湯施設が各車両に1個所ずつ用意されている。いつでも熱いお湯が出る。これはありがたい。

 パサパサのご飯に漬物いためと卵焼き、これはじゃりじゃり音を立て口の中に刺さってくる。殻が付いたままだ。そのまま飲み込む。真っ黒に近い色になるまで煮込まれた手羽先。色も味も不味かった。

 この弁当が15元する。約200円だ。中国の物価は、日本に比べて、5分の1〜10分の1ではなかろうか。5分の1だとしても、15元のものは、日本円で約1,000円の価値になる。駅で買う1,000円の弁当は、日本でもこれほど不味くはないぞ。

 

 砂漠のあるところ、or    秦の始皇帝(前246年即位)は、韓の水工、鄭国(ていこく)によって、秦に大規模な用水路を造った。鄭国渠(ていこくきょ)  

 13時43分、列車は静かに北京駅に着いた。  

「どこにあるんだ?」

「すぐ近くよ」

多分そう言っているのだろう。彼女は値段の書いてあるところと地図を指差す。二人で1泊172元と書いてある。約2000円だ。ほかはもう少し高い値段がボードに書いてある。彼女のホテルが一番安い。

 決めた。いつもいつも高いホテルに泊まるわけにはいかない。あれは上海だけの特別な日々だったのだ。

「本当にこの値段か?」

「そうそう」

にこにこと愛想が良い。

「テンアンモン広場の近くだと言うが、どこだ?テンアンモンは?」

「うーんと、近く、ね」

にこにこして地図を指す。そこには、「天安門」という文字が見える。その近くだと言っているのだろう。

「わかった、行く」

 こっちだと手招きされて、駅からしばらく右の方に歩きだす。なんだ、歩いていける距離か。それなら大した事はない。リュックを担ぎなおしてついていった。

「大丈夫?」

不安になっている啓子も私の後についてきた。

「なるようになるさ、それに今は昼間だ。大丈夫だ。とんでもないところに連れて行かれそうだったら逃げれば良い」

「そんなこと言ったって、中国は初めてでしょ」

「そう、はじめて。彼女、嘘ついているそうに見える?」

「………」

「な、見えないだろ。なら、乗ってみよう」

「だって、ホテルとか旅館とかじゃなく、なんとか招待所と書いてあったじゃないの」

「いいの、いいの、中国の安宿は招待所と言うんだ。知らんの?」

「…………・・」

 ボンゴタイプの車に乗れと指示された。大丈夫か。まあ、いいか。啓子には「大丈夫だ」と言ってしまった。車はしばらく北京市内を走った。だが、どこを走っているのかさっぱりわからなかった。

 彼女が地図に指し示した宿のある場所は北京駅からそれほど遠くない。天安門広場からまっすぐ南に伸びている大通りの近くにあるはずだ。だが、なかなか着かない。中国はでかいということか。

 細い道に入ってきた。泥道か。いや、舗装が壊れている。がたがたと車は右に左に大きく揺れながら、ゆっくり進む。茶色のレンガ模様の四階建ての建物の前で停まった。

「ここ?」

啓子が車から右に見える建物を覗き見る。どうやらそうらしい。

 ガラス戸の入り口を開ける。奥少し左側にカウンターが見える。その中に女の人が二人立っているのが見えた。リュックと手荷物を自分で持って入っていった。ホテルのボーイはこないし、声もかからなかった。チップをあげる気づかないことは利点だ。「○○招待所」それが、この宿の名前らしい。

「もっと安い部屋はある?」

「あるが…・・」

「見せてくれないか」

英語が通じる。なかなか立派ではないか。それだけで国際的だと思ってしまう。

 部屋は四階の一番奥だから自分で行け、といわれた。階段を上がっていく。各階の階段の前には、女の人が机を前にして座っている。その階の鍵やお茶とかの世話を焼いているようだ。

 1階のカウンターでは部屋の代わりに、「房号403」、「床号1」という判子が押されている、ボール紙で作ってあるカードを渡された。銀行のキャッシュカードより一回り大きいものだ。

 カードを見せると、木製の机の引出しから鍵の束を取り出して席を立った。鍵を渡してくれると言うわけではない。彼女は私達を先導して前を歩いて行く。一番奥の左の部屋のドアの鍵穴に一つの鍵を差した。ここでも荷物を持って歩くのは客の役だ。

 右にバスルームがある。奥にベッドが二つ並び、反対側にテレビも見えた。スイッチをひねってみる。甲高い中国語が聞こえてきた。奥の壁一杯には窓ガラスがはめられている。くたびれたカーテンを開け、鉄製で錆びた部分も見える窓枠をこじ開けて外を覗いてみる。真下に土ぼこりで黄色くなった道が見えた。目を上げると、家並みが奥へ奥へと続いている。

 バスルームのお湯のノブも回してみた。反応は鈍いが、やがてお湯がちょろちょろと出てきた。トイレの水も流れる。床に敷かれているタイルはくたびれて、白い内壁も黄ばんではいるが、我慢の範囲内だ。

「どう、気が収まった?」

そんな言い方はないだろう。啓子は突っ立って私のやることをただただ眺めている。

 夕方、  200元のホテルにしたって7,8階は有り、一応、エレベーターが動いている。そして、部屋もこざっぱりときれいに整えられ、明るい。気に入ったが、200元のホテルは明日もいっぱいだという。450元の部屋は空いているが、私達には高嶺の花だ。5000円近くもするからだ。結局、三つとも諦めた。

 外に向けて串焼きを売っているこぎれいな赤い装飾が施されている食べ物やさんに入った。生ビールを飲んでいる客がいる。これはいい、正解だ。だが、串焼きで一杯と思って思わず入ってみたが、店の中では串焼きを出さない言われ、がっかりだ。

 店の女の子は、メニューを持ってきて高いものばかりを勧める。高いものを注文する積もりは無い。お金は前払いシステムになっている。ファーストフードのチャイニーズと言う感じだ。

 12個入った小包子(パオズ)がやってきた。入れ物は大きい。9元、約120円ではこんなところかと味に妥協する。マーボドーフは8元で、ビールは1杯4元、55円で飲める。ビールの大きさは、日本の大ジョッキよりも少し小ぶりの大きさだ。少しさっぱりしすぎた味だ。もう少しこってり感のあるビールと取っ組み合いたい。

 

 北京駅は○○風で堂々とした建物  北京駅から見える位置に「国営旅館」と大きな看板を出しているホテルを見つけた。値段を聞きに行く。けんもほろろに首を横に振られた。外人は泊めない中国人専用の宿のようだ。

 今泊まっている宿の近くに「飯店」と名前が出ている二階建てのホテルを見つけた。レセプションで陣取っていたおばさんに声をかけてみた。彼女は右手を左右にしきりに振る。ここも我々を泊めることは不可能なようなようだ。いったいどのホテルだったら泊まることができる?

 中国はわからない。

 

 

79252000  

 ドアの鍵が突然ガチャガチャと音を立てた。なんだ、どうした、ベッドから跳ね起き、ドアにすっ飛んで行った。だが、数秒遅く、ドアは手前にすーと開きだした。誰が入ってくる。身構える。

 空いたドアの四角い空間に目が釘付けになった。若い女の子が突っ立っている。二人だ。一人は掃除機を持ち、一人はカートに積んだお茶セットの横に立っている。

「掃除か、掃除だったら、1時間後。OK?」

そう言ったが、突っ立ったままだ。紙にも書いて見せた。それでもわからないようで、突っ立っている。目覚し時計を持ってきて1時間後の所を指差すと、うんうんとやっと頷いた。10時半だった。

 中国のホテルでは、ノックなしにいきなり鍵を開け、掃除をするようだ。礼儀と言うものをわきまえていない。いや、中国の礼儀作法では許されることかもしれない。だが、国政的には通じないだろう。とにかく、うだうだとしていては駄目だ。動き出そう。

 

 タクシーを拾ってOK  建物の中に入ることは出来たが、12時から1時間、大使館員はお昼休みになると言う。公務員か。私も公務員だ。だが、教員の場合、昼休みはあって無きが如しだ。生徒は待ってくれない。それを1時間後にやって来い、なんぞと言おうものなら、学校はパニックだ。処理できない案件が増え、先生を待つ生徒は五時間目の授業に遅れる。だが、公務員は昼休みを取る権利がある。

 受付で応対してくれた男の人は片言の日本語を話した。

「イラン大使館の場所を教えてほしいのだが」

「ここだ。ここ」

そう言うと地図をさっと取り出した。

「どうも。ところでこの近くで食事できるところを知らないか」

「ここを出て右に歩いていくとレストランが見えてくる」

昼休み、日本人は休んでいるが、雇われ中国人はまめに働いている。

 大使館を出て食事に行くことにした。教えられた方角に歩いて行く。だが、行けども行けども壁ばかりが続くだけで、それらしきものは見えてこない。その上、ワンブロックが長くうんざりする。果たして方角はあっているのだろうか。不安になってくる。

 やっと右側にレストランが見えてきた。だが、どう見ても安いようには見えない。私達はレストランでなく食堂に行きたかった。一杯  鉢植えの緑が通路に並べられている。奥にはピアノでもあるのか。いや、ピアノは無く、自分で食べ物をチョイスするカフェテリアであった。中国なのに、なぜ、アメリカ形式のカフェテリアがある?首を傾げても答えはやって来ない。

 カレーライス、ジャガイモサラダ、コーヒーをチョイスした。キャッシャーにトレイを運ぶ。

「え、そんなにするの?」

思わず日本語が出てしまった。26元、約350円もすると言うからだ。この○○地域は各国の大使館が群がっている。だから、食事も大使館価格になっているのだろう。啓子は、サンドウィッチと紅茶を選んで澄ましている。

 昼が終わり、日本大使館に戻ると大使館員と連絡がついていた。

「イランのビザ関係のことはわからない。領事館に内線してみてください。そこの電話を使って良いですから」

教えられた内線番号に電話をかけてみる。

 太い男の声が受話器の向こうから響いてくる。

「イランの状況を知りたいのですが……・」

「パキスタンは、注意喚起が出ているし」

そんなことわかっている。そんなことを言っていたら、どこへも行けなくなる。大使館員としては、「危ないぞ」と言った事実をとりあえず残しておきたいのだろう。だが、私が欲しいのは確実な情報だ。もし、危ないとしたら、具体的にどこがどういうふうに危ないかだ。しかし、大使館員にそのことを要求するのは無理難題だということは今までの旅でわかっている。それなのに、大使館にきた。もしかしたら、100万分の1の確率にしろ、私の知りたい情報があるかもしれないと思ったからだ。

 23歳〜29歳までの3人の男の写真が受付の壁に張ってあった。いずれもラサからネパールに入ろうとして二年前の1998年に行方不明になった日本人だ。

「危なそうだな」

「ここに行くの?」

「いや、違うルートを考えている」

 再び、大使館員に質問した。

「ラサへの許可証はどこで取れるのですか」

「成都だ。旅行会社で頼んでとる」

「成都からはラサに入るのは?」

「飛行機だ」

「バスは?」

「バスは無い」

私は出きるだけ陸路で行こうとしていた。だから、聞くべき情報はこれ以上無い、と判断した。

「はい、わかりました」

「お名前はなんですか」

「けんもつかつよし」

 

 今までお世話になったと思えるのは、シリアにある日本大使館だ。ヨルダンのビザを取得するのに、日本大使館の推薦状が必要だったからだ。面接をされながら、いろいろとシリアについての情報も聞くことが出来た。しかし、ここの大使館員も、シリア国内を見て回ってはいないと答えた。どの大使館員も任地の情報を自分の目で確かめていなく、本当のところはわかっていなかった。

 私自身の目で確かめる、つまり行ってみるのが一番の方法のようだ。今回もそうだ。自分で行ってみるしかない。そもそも日本大使館から情報を得ようとしたことが間違いだったのだ。

 

 再びタクシーを捕まえてイラン大使館に向かった。黒い塀の向こうには何がある?シンと静まり返った大使館街の中でも、イラン大使館はとりわけ静まり返っていた。風に吹かれ、舞い落ちた枯れ葉が舗道を転がる。

 正面玄関と思えた大きな門は閉鎖され、裏に回って初めて中に入ることが出来た。

「ここでイランのビザを、中国人以外の人が取るのは難しい」

受付にいた無愛想に見えた中国人のおっちゃんは、わかりやすい英語で親切に答えてくれた。

「どうして日本で取ってこなかった?」

「時間がかかるからだ」

「ここでもそうだ。2週間は待たなくてはならない。そして、中国人でさえ取れるかどうかもわからない。2週間たっても返事が無いときがある。ノットシュアーだ」

そう言うと、おっちゃんは他の客の相手を始めた。

 確実に取れるならば、2週間待っても構わない。だが、ノットシュア−だ。中国で取るのは諦めて、隣国のパキスタンで取ることにした。パキスタンのビザは日本でとってきてある。そこまでは問題が無い。問題はイランだ。

「大丈夫なの?」

「なにが?」

「ビザ」

なるようになるだろう。

 

 大使館街をぶらぶらと歩いてみた。遠くまで見通せる広い道路、その上に青い空が広がっている。その中にくっきりと切り取られた白い雲が浮かびゆっくりと散歩している。車はゆっくりと走り、人影もまばらだ。そよ風が吹き、全てが気持ちの良い空間の中にあった。

 Bank of China 「まだだ。まだそこに居ろよ」

啓子を盾に隠れた積もりで取り出す。交換したのは300ドル分だ。  夕方、タクシーで北京西駅に向かう。宿からは30分ほどかかった。最近出来たのか、コンクリートの壁が初々しく見える。近代的ビルディングの屋根にお寺の瓦状のものがのっている。だが、タクシー降り場は設計ミスだ。格好良く狭く造りすぎて、タクシーが渋滞している。後から後から来るタクシーをさばききれないでいる。

 2階にある乗降場所は降車だけにし、乗車は1階にでも持っていけば少しはスムーズになるだろう。同じスペースに乗車と降車、そして簡単な駐車場まで設けている。これでは渋滞にならないほうがおかしい。

 高い天井、広い空間。エレベーターが動き、未来中国の玄関口としても恥ずかしくない造りだ。四角い空間の左の端に外人専用ブースのチケット売り場への表示があった。

「四日後のチケットは明日以降だ」

「え、上海では……」

「ここは、上海ではない」

上海は8日前から列車の予約チケットを売っていた。そのつもりで北京西駅にきた。だが、ここは3日前からの発売だと言う。場所によって対応がまちまちだ。なるほど、中国は広い。新しくなった西駅。ここにもX線チェックがあった。

 

 夜9時30分、北京西駅のすぐ前に止まっていたタクシーを捕まえた。

「メーターで行くか、それとも言い値でいくか」

不思議なことを言う男だ。

「メーターだ」

「メーターだったら、そこまで70元するぞ、そこを50元で行こう」

こんにゃろう、ホテルからは21元、正確に言えば、18元で来たというのに、それを三倍も四倍も吹っかけてくるとはひでえヤローだ。

「メーターだ」

「わかった。メーターだな」

そう言って出発したはずなのに、「45元にする」、「いや、35元でどうだ」と走りながらも値段を下げてきた。

 タクシーはすでに暗い北京市内の高速道路の上をかなり走っていた。

「みろ、もう12元だ」

運転手は赤色で表示されているメーターを指差す。私達の宿までは高速道路に乗って12元も行くはずが無い。

「降ろせ。止めろ」

「ここは止められない」

「出口だ。出口の表示で高速道路を降りろ」

運転手はただへらへら笑っている。こうなったら、運転手の首をしめるしかないか。だが、彼を保護している透明アクリル板が邪魔だ。ハンドルを回すか。しかし、それでもアクリル板が邪魔だ。「出口」の表示が現れる。

「出口だ」

へらへら。タクシーはまっすぐ進もうとする。「出口」と紙に大きく書いて運転手の目の前に突き出した。

「出口だ、出口。あそこだ、ほれ、そこで右に曲がれ」

怒鳴り出してからは日本語だ。中国語は元より知らない。英語は頭でしゃべる。感情でしゃべられるのは母国語の日本語しかない。

 タクシーはスピードを落とし、しぶしぶ出口に向かった。出口を出ると、すぐタクシーにストップを命じた。その瞬間、メーターが13から14に切り替わった。

「おまえの名は、そうか、これか」

助手席にカードが置いてある。タクシーの許可番号だろう、運転席前につる下がっている写真入証明書の名前も控えた。男は相変わらずへらへら笑っている。14元を助手席のシートに投げつけた。へらへらの顔を乗せたまま、タクシーはさっと出発した。走り去るタクシーのナンバープレートも控えることも忘れなかった。

 

 

89262000  

 朝、起きると同時に、テレビのスウィッチをひねった。シドニーオリンピックを放送している。放送では、中国選手の活躍したシーンしか映していない。

「日本のテレビだったら、ほかの国、特に金メダルを取った国の選手も映しているのに、中国はずいぶん勝手ね」

「うーん、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。日本と違って中国は金メダルをいっぱい取る。だから、ほかの国の選手を放送している時間がないのかもしれない」

「うまいこと言うわね。でも、映してないわよ」

中国人はオリンピックでいくつの金メダルを取れば満足なのだろう。金メダルのラッシュにつぐラッシュだ。

 9時半、20番のバスに乗って北京駅に向かった。胴体には黄色と緑の色が塗られ、屋根は赤色に塗られているというカラフル三色咲き乱れにぎわいバスだ。バスには車掌がいて小銭と交換に小さな半券を渡してくる。車掌は大抵、女の人だ。北京駅までは  中国に来れば、洪水のように群れをなして疾走する自転車の群れを見るものだと思っていた。だが、今の北京にその言葉は当てはまらない。バスの窓から見る道路には自転車よりもむしろ自動車の数が勝っている。それでも、バスの前、横、後と常に何台かの自転車がちょろちょろとまとわりついて走っている。かつての自転車全盛時代を彷彿させる。

 この時期、寝台車はいっぱいだという。なぜ?   28にち、それとも29、30日、といろいろ迷った。北京をくまなく見てみたい。だが、それでは、世界一周の日数が無くなってしまう。どうする? 結局、

 地図の上ではそんなに大した距離には見えなかったが、とんでもない。2キロ以上はあったものと思われる。

 門にはいる。門の中央の壁に「中華人民共和国国条院一九六一年三月公布。北京市文物事 管理局一九八一年七月立」と書いてあった。

 天安門をくぐってゆっくり五分ほど正面、奥へ歩いたところが故宮門だ。門をくぐって最初に目に飛びこんできたのは、正面にある赤い大きな建物、そして周りを取り囲む回廊とそれらに取り囲まれた四角い空間、沖縄、那覇にある首里城にそっくりだ。中国の故宮が先か、沖縄が先か。

 台湾の故宮に中身を持っていかれたと聞くが、その通り、ここには何もなかった。陶磁器を初め、その他の文物を見ることが出来なかった。見せるものが無いから見ることが出来ないのだろう。やはり、台湾に中身は持っていかれたのだろう。国民党の  

 

 阪神淡路大震災の時、ボランティアで救援活動の一環として、5日ほど現地に手伝いに行ったことがある。私は神戸の高校に避難している人々のお世話をする係りに配属された。そのとき、いろいろな国から救援物資が届いていて、中国からの物資も届いていた。中国という貧乏な国からもらっていいのかと、その時は思っていたが、中国は金持ちだった。

 

 

 天安門の中庭では軍隊が行進の訓練をしていた。警備の軍隊か。隊列を組み、駆け足で広場の中を周りながら掛け声をあげる。

「わっ、わっ、わっわっ」

左回りにザックザックと軍靴が規則だ正しいリズムを刻んで音をあげる。

 

   

 天安門の上に人が上がっている。誰でも上ることが出来るようだ。私達も上ろうと入り口に向かった。だが、時間が過ぎていた。諦めて門をくぐり外に出てみると、天安門前に大勢の人が集まっている。夕方6時5分前、何があるのか、人々が集まっている。一体何が? 私達も平らな石畳の天安門前広場に尻をおろして待ってみることにした。

   

 全身緑の制服を着た公安(警官)は、直立不動で止まっている。ただ、目だけは動いてあたりに眼を光らせている。両手をぴたりと足につけ、  突然、甲高い  午後6時6分、国旗が無事下まで降ろされた。そして、彼らは直立に旗をたたみ、直立に歩き出す。我々庶民の体たらくなな動きとは違い、きびきびとした、いや、ぎこちなさが漂ったロボット的動きの面白さを見に人々は集まっていたのだ。

 

 暗くなってきた。それと同時に、「インターネット」という文字が、天安門広場の向かい側のビルの壁に、赤いネオンで浮かび上がっているのが見えた。早速向かってみる。そのビルの一階ではおしゃれなみやげ物や紅茶やらスカーフやらが売られていた。どうやらショッピングセンターのようだ。エスカレータで三階まで上ってみた。

 インターネットという文字が右の壁に見えた。だが、ガラスの入り口から店の中を覗いてみると薄暗い。緑にピンクの蛍光灯もついている。ひょっとしたら、「インターネット」というナイトクラブか。だが、ナイトクラブにしては、コンピュータの機械が並び、客がその前に陣取って何やら格闘している姿が見える。恐る恐る入ってみる。

 チャイナドレスを着た30代と思えるきれいな女の人が近づいてきた。

「飲み物は何にしますか」

流暢な英語だ。

「ちょっと、やっぱりクラブよ、出ようよ。暴力バーだったら、旅、続けられなくなるよ。タイで暴力バーにあった学校の先生の話、聞いてるでしょ」

啓子は落ち着かない。

「ここは、ナイトクラブ?それとも」

女の人は怪訝そうな顔をする。

「なに?ナイトクラブ?」

「それとも、インターネットカフェ?」

「そう、インターネット。一時間、20元ね。飲み物はいかが?」

「飲みものはいくら?」

「……………………・・」

「高く取られるのよ、出ようよ」

相変わらず啓子は逃げようとしている。

「サービスよ」

「え、サービス。只? じゃ、インターネットの20元だけでいいの?」

「そう、それだけね」

私は、コーヒーを頼んだ。

 1時間20元、約270円で日本語もOKだという。早速、日本とアメリカにいる友人、そして今回の上海行きの船の中で会った「ヒロシ」にメールを送った。啓子も、他だと聞いてから、俄然、怯まなくなり、でんと腰を下ろしてウィンドウズと格闘を始めた。結局、ナイトクラブでも暴力バーでもなく、安心してネットを使用できた。だが、なぜ、薄暗いのか。その辺は不可解のまま疑問だけが残った。 

 北京は計画都市の中で、トイレとベンチを作るのを忘れた。石畳の天安門広場にはベンチらしきものは見当たらず、疲れた人々はそここに勝手に石畳の上に座り込んでいる。また、地下通路の中には日本の工事現場で使っているような簡易移動トイレがあった。付近では工事はまったくされていない。天安門の横には立派なトイレがある。だが、数が足りず、急遽設置したトイレなのだろうか。そのトイレはドアが開く度にあたり一面に匂いを散乱していた。どうしてこうなる?トイレに対する感覚がずれているとしか言いようが無い。

 それに引き換え、北京駅構内待合室ののトイレは良く掃除が行き届き、天安門横のトイレは異常なほどにきれいで、男性小用の囲いまであった。小用一つ一つの囲いの高さは裕に2メートルはある。日本では、横の人を覗こうと思えば覗けるが、ここのはそうそう易々と覗けはしない。

 中国のトイレには小用でなくても囲いの壁が無いと聞かされてきた。ところが、今のところ、私が入っただけのトイレだけだが、すべて個室でドアがついていた。もっとも、ドアの鍵が壊れているところもあったが、それは例外中の例外だった。それなのに、地下道の工事現場簡易トイレの存在は解せない。天安門のトイレ使用料は、一人一回、0.  夜の10時、インターネットを終えた後、302118240  その後、近くの食堂に入った。まだ夕食を取っていなかったからだ。ガチャガチャと音を立てて皿を片付ける女従業員。丸いテーブルが10脚ほど有る町の食堂だ。決してレストランではない。コンクリートの地肌がむき出しになった床には水がこぼれていた。テーブルは三つ客で埋まっていた。一番奥のテーブルについた。

 テーブルに置かれているメニューを見た。だめだ。さっぱり分からん。中国語だけで英語が書いてないからだ。とりあえず読める漢字のもの、水餃子一皿に焼き蕎麦、そしてチャーハンとビールを注文した。

「足りるかなあ」

腹が減っていたので不安だった。

「足りなかったらまた頼めばいいでしょ」

そりゃそうだが、冷たい啓子の言葉に黙っていた。

 最初に14元、約185円で注文した水餃子が運ばれてきた。女従業員が両手で皿を持って恐る恐るやってきた。なるほど、皿の大きさは直径50センチほどもある。「ドン」と無愛想に置かれた皿の中をそのとき初めて覗いて驚いた。大皿には、餃子がグロテスクにいくつもいくつも積まれている。

「なんだ−この量は?」

それが私の第一声だった。

「なに、この量?これで一人前?」

啓子も続いた。

「うーん、そうなのかなあ。一つ、二つ…」

「ちょっと、なにしてんのよ」

箸でめくりながら数を数えていった。

 50個ぴったりあった。中国の一皿は餃子50個分だ。日本はせいぜい6個か7個ぐらいしか乗っていた。うーん、中国はでかい。この上に焼き蕎麦にチャーハンも頼んである。どうする?

 ビールと餃子がうまかったのは最初の10個あたりまでだった。そのときには、蕎麦とチャーハンもやってきていた。そしてそれぞれも大盛りのものだった。ビールに餃子、焼き蕎麦とチャーハンを交互に食べていったが、餃子を二人で22個まで食べたところでダウンした。もう食べられない。残った餃子を恨めしそうに見ながら店を出た。ギョーザを頼むときは、いくつ来るか確認しよう。

 

 

第9日 922000  

 万里長城に行こうと思った。朝早く、7時35分に宿を出発してみた。北京駅から万里の長城方面に列車が出ているはずだ。まずは北京駅だ。小雨が降っている。待つこと数分で、北京駅行きのバスがやってきた。しっかりとバス停に停まるところは見上げたものだ。

「あっぱれあっぱれ」

「おちょくっているとろくなことないから」

啓子に諭された。

 朝のこの時間は通勤時間帯でもあるのだろう。バスの中は立っている人で先が見えないほど混んでいた。五車線も六車線もある天安門広場前の広い舗装道路を自転車に乗った人が行く。誰もがカッパを着て自転車を一生懸命漕いでいく。赤、青、黄と、色とりどりのカッパがひらひらとバスを追い越し、追い越されて進んでいく。きれいだ。美しい。いろいろな色が自転車に乗ってすーと流れていく。それも途切れなく次から次へとだ。しばらく、バスの中から見とれてしまった。 

 雨はうっとうしい。しかし、雨はまた、こういうカラフルな光景を作り出す魔術師でもある。自転車を余り見かけなかったが、それは早起きをしていなかっただけのことだった。中国の自転車、健在なり。

 8時20分に北京駅にある外人専用切符売り場に着いた。9月29日発上海行き切符を持っている。だが、気が少し変わって、一日ずらして行こうかと考えた。だが、9月30日の西安行き切符は全て売りきれてしまったのでなし、と言われてしまった。スリーパーもハードシートも無いと言う。ホリデーだからといわれた。その上、切符をチェンジするには20パーセントの手数料がいるからやめておいた方がいいのではないかとサジェスチョンを受けた。

 後でわかったが、10月1日が中国の建国記念日だそうだ。その前後1週間ほどがゴールデンウイークの休みになるらしい。テレビを見ているとゴールデンウィークの文字とともに1〜7までの数字が並んでいた。多分、今年は、10月の1日から7日がホリデーになる、という意味なのだろう。その時の列車の座席は非常に取りにくいとの事だ。言っている意味はわかるが、それでは困る。

 ふと下を見ると、私のジーンズが切れているようだ。どうした?右手で触ってみる。やはり切れている。両手で開けてみると、縦に13センチほど切れた空間がぱっくり開いている。右側の前ポケットのすぐ内側が切られていた。

 頭を下げ中を覗いてみると、腹巻状になっている札入れまで達してぱっくりと口が開いている。どうした?金は大丈夫か?赤い長椅子がいくつも並んだ大きな待合室で慌ててジーンズのベルトを外した。誰が見ていても構わない。チャックも外し、開けてみる。トラベラーズチェックの束とパスポートの赤い色が見えた。良かった。あった。取り出してみる。ひいふうみい、全部残っていた。不幸中の幸いだ、全然気づかなかった。いったい何処で、いつ?誰が?。

 そういえば、ここに来るまでの満員バスの中、後ろに出来た少しばかりの空間に移動しようとしたとき、男が私の前に立ちはだかったのを思い出した。その男は、両手で左右の手すりを持って立っている。私が後ろに行こうとしても、男の手が邪魔して行くことが出来ないでいた。後ろに行きたいのだが、というジェスチャーをしても男は動じない。右手で後ろを大きく指差し、行きたいのだ、というジェスチャーをもう一度やってみる。すると男はなにかを喋った。だが、理解できない。男は次に降りるというような仕草をした。分かった、と私は待った。だが、男は次の停留所では降りなかった。

 私は再度、右手で後ろの席に回りたい、というジェスチャーを男に繰り返した。男は相変わらず両手で手すりを持ったままだ。  今思うと、もしかしたら、奴が通せん坊をして私の気をそがしている間に、仲間が私のジーンズを切っていたのかもしれない。右手で右前のポケットを押さえていた。そこには財布があったからだ。左手は手すりを持ち、からだを支えている。バッグは前に回してある。しかし、後ろに行きたいとジェスチャーしているときには、確かにジーンズから右手を離していた。

 駅の待合室で確かめてみると、トラベラーズチェック2冊、ドルの現金、パスポート、イエローカードとも全部無事だった。スリは、時間が足りなく、途中で諦めたか、それともあまりにもギュウギュウ詰めに入っていたものだから、かたくて抜くに抜けなかったのか。どちらにしても、物は無事だった。

 身体まで切られなかったことを良しとしよう。その代わり、ジーンズ、お金入れ腹巻が切られ、トラベラーズチェックのカバーの2冊目まで達する切れ目が入っていた。あと数ミリで私の腹は真っ赤になっているところだった。

 満員バスの中には刃物を持ったスリがいる。一昨日は雲助タクシーに会うし、最近ろくな事が無い。現金の被害が無かったのでポリスに行くのはやめた。最終的には金銭的被害が無く、警察に説明するのが面倒だったからだ。

 エジプトで金を盗まれたときは警察に行った。結局、証明書を書いてもらうのに三日かかった。証明書にはミミズののたくったようなアラビア文字が並んでいる。さっぱり読めない。果たして本物か。日本に帰ってから保健会社に提出するとお金が戻ってきた。本物だったようだ。

 万里の長城に行こうとして朝早く駅に向かったのだが、雨が降っている上に、スリに会い、ジーンズを繕わなければならなくなったことで気がそがれた。きょうは、あまり外出するなと言うことなのだろう。無理をせず、宿に戻ってきた。

 従業員に切れたジーンズを見せると、

「あ、そう」

黙って針と糸とを渡された。スリにあったということがわかっていないのではないかと、4  私は、「あら、それは大変だったわね、ね、それで、何処でやられたの? ケーサツには届けたの?」とか聞かれると思って答えまで用意していたというのに、拍子抜けもいいところだ。とにかく、お金とパスポート、そして私のチンチンが無事だったことに感謝しよう。

 昼、12時、テレビを見ながらジーンズの裁縫を始める。画面に「黄金周」という漢字が現れ、一二三四五六七、という漢数字も出ている。どうやらゴールデンウィークのようだ。道理で列車の席がとれない。きょう、ホリデーで、取れないと言われた理由はそういうことか。

 裁縫が終わると腹を立てた分、  さて、どうする。ひょいと梅原龍三郎を思い出した。空は真っ青、白い雲がうんねりと漂っている。その中で斜めに傾いた、緑と赤のどぎつい色をした天壇。龍三郎の描いた天壇は私にとっての天壇だった。中国、北京に私はいる。そうだ、天壇にいこう。地図によると天壇は宿から歩いて30分ほどの距離だ。

   天壇を囲む塀の屋根を越えて天壇の丸いとんがった屋根が見える。近づくにつれ、大扉の開いた縦に長い四角い空間に天壇の壁が見え、屋根も見え、徐々に大きくなってくる。四角の中には天壇と真っ白な空しか見えない。

 大扉をくぐる。天壇の全体が白い空の中に現れ、極彩色の色が目に飛び込んでくる。エメラルドグリーン、サップグリーン、ウルトラマリン、ベンガラの赤に金色の鳳凰や、龍までが天壇の壁に描かれている。長い時を経て色はあせ、荘厳さ、重厚さ、神々しさが加味され、天壇は背後に白い雲を従え、大空に立つ。

 天壇121231212144  インドのタージマハール、日本の富士山も背後に従えているのは天に通じる空だけだ。それらは普遍性、調和、重厚さ、そして時間を含有している。天壇祈年殿のバックにも空しか見えない。雲がなびくとともに天壇も動く。青い空のときは青い天壇。雪、雨、風の時はそれぞれの雄雄しい天壇が現れるだろう。

 

 

第2便につづく

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