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便所の過去
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麻薬

ベトナムでは、麻薬禍が問題になっています。もちろん私は買った事ありませんが、インターネット上でファングラオのどこどこで売っているというような情報も飛び交っています。数年前、ホテルの部屋で一人の日本人と思われる男性がクスリの打ち過ぎで死亡しました。「日本人と思われる」と言うのは、彼の所持品からの推測で、パスポートがなかったそうです。クスリを買うために売ってしまったのでしょう。日本のパスポートは高値取引の対象です。皆さん注意してください。

最近、麻薬の注意を呼び掛けるポスターが町などで貼られています。こんなに種類があるのかと感心するほど詳しい写真が写っています。

私も以前クスリの打ち過ぎで死亡した人の死体を見た事があります。最初は道路で寝ている貧民かと誰もが思ったのですが、死亡してるとなり近所が騒ぎになりました。クスリの打ち過ぎです。

ベトナムの雰囲気がちょっと暗い通りを歩くと注射器が道に落ちてるのを見掛けると思います。多分覚醒剤ではないかと思うのですが。

エイズ感染の約7割が注射器の回し打ちが原因との事、それを知ってか以前注射器を持った追い剥ぎが出没しました。

元々ベトナムにには、タバコ、アヘンの伝統はありません。タバコは米国大陸から100年程で世界に広まったものであり、アヘンはフランスが持ち込んだものです。元々フランスはイギリスのアヘン戦争の応援のために東南アジアに軍艦を曳航したに過ぎませんでした。戦争後再会されたアヘン貿易でイギリス、フランス、米国は巨万の富を築きます。この時、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(真珠湾攻撃時のアメリカの大統領)の母方のデラノ家はこれで財を築いた家です。

フランスはベトナムでアヘンを販売し村ごとに消費量のノルマもあったそうですから、国策で中毒者を作っていたようなものです。フランス国内では20世紀に入る以前に国内で犯罪として禁止していたにも関わらず、その後もベトナムでは公然と販売していました。

その後化学の発達でより精製度が高いものが誕生します。ヘロインが代表でしょうか。日本では戦時中にはヒロポンが兵士の披露回復剤として使用されるようになりましたこれが覚醒剤です。

日本は戦中からですが、ベトナムはそれ以前に百年近い歴史があります。旅行者の方は安易に手を出さないようにしてください。
(2002.2.17)

 ベトナム旅行十ヶ条

社会人になると無い物、それは長期休暇。現在は育児休暇とかが建前上はあるそうですが、マスコミでしかそれを取っている人を見た事がありません。

戦前見たいに一家族兄弟六人とか、十五人とか産んでもその休暇は適用されるのでしょうか?二人までは認めるとか会社の定款に書いてあるのでしょうか?知っている人がいたら教えてください。

もうそろそろ大学生は休みに入る事と思います。私は文系でしたので理系に比べれば10分の1の勉強量も無く、しかも時代はバブル経済時代先輩の就職活動は極めて安楽な時代だったので、ボランティア行ったりして遊び呆けておりました。

未だにベトナムは雑誌で紹介されてるらしいですね。一種のブームでしょう。他の東南アジアと比べて、各段に何かあるという気はしないのですが。雑貨だってベトナムデザインではなくベトナムにいる少数民族のデザインが基ですから。
豆知識として、フランスがベトナムを植民地にしていた時代、フランスで世界に多大な影響を与えたデザイナーが誕生しました、それまでのコルセット、S字体型のデザインを無視して現在までその影響を与えたファッションデザイナー「シャネル」です。

今後、学生さんの旅行客が増えるでしょうから、現地にいる人間として参考までに。
1) 見知らぬ外国人に「ハロー」なんて話掛けてくる奴にまともな奴はいません。貴方も六本木のアマンドの前で見知らぬ外人に「ハロー」なんて言いますか?
2) トランプ賭博には気をつけましょう。これは東南アジア一帯で行なわれている一般的な詐欺で、私は危うくマレーシアで引っかかるとこでした。マカオでもない限り現地で正月以外に賭博やるような人間はまともな人間じゃありません。
3) シクロ、抱きホンダには極力乗らない様にしましょう。市内はシクロで乗り入れ出来ないトコが殆どです。ホーチミンは一方通行が多いので地図持ってても自分の思った通り走れません。この二つはとても初心者が乗りこなせるものではないので、なるべく避けましょう。
4) タクシーは、VINA、CHOLONタクシーをお薦めします。車内に携帯忘れてもこの二つの会社は戻ってきました。タクシーメーターは、全てドン表示ですドル表示の車はありません。こいつヤバイなと思ったら、タクシーの会社名、車番(090とか)控えて後で本社に連絡しましょう。運転手クビになります。
5) タクシーに轢かれてもタクシー会社本社は保証してくれません。全て運転手の責任になります。私は以前DAVIDTAXI080号車に歩行中はねられましたが、会社は責任を取ろうとしませんでした。バイクに乗ってる人間に至っては、ひき逃げします。LE LOIの病院には毎日引き逃げされた外国人がいます。自分の身は自分で守りましょう。
6) ベトナムの水は硬水です。お腹が弱い人は水代わりにビールを飲む事をお薦めします。もしタイ、シンガポール経由でしたら薬局で「Lomotiu」(多分)という下痢止めのクスリを購入してみてください。ベトナム戦争時米兵が携帯していた下痢止めで30分で下痢が止まります。副作用も凄く、次の日頭がガンガンする薬です。
7) 辞書、会話の手引きは現地で数百円で売っています。ホテルに入ったら書店に行って地図、辞書を購入すれば良いかと思います。
8) ホーチミン以外に陸路で移動する時は、シンカフェ、キムカフェのツアーバスを使ったほうが確実です。ローカルバスはよく故障するし泥棒が多いので注意してください。汽車は時間が掛かる割には、そんな安くないので、あんまり薦めないな。
9) 喧嘩は止めましょう。ベトナム人と喧嘩したら、飛び入り参加が増えてフクロにされます。私も以前引ったくりに合いそうになったトナム女性を助けようとして犯人殴ったら、六人ぐらいに襲われました。他の五人は全然関係無い人です。事が済んで襲われた彼女を探すと、すでに逃げて居ませんでした。世の中そんなもんです。
10) 路上で女の人に誘われて、ホイホイ女の人に付いて行くのは危険です。私はすってんてんになった事があります。泥酔時でしたが。

気を付けてよい旅行を。
(2002.2.20) 髪を染める

一昔前は不良のシンボルであった、脱色や髪を染めることが今では、市民権を得て普通のファッションとなってしまいました。学生の頃はビールを頭にかけてドライヤーをかけて脱色とか今考えるとかなり不思議な事をやっていましたが、現在はベトナムのスーパーでも髪染めセットが7万ドン程で購入出来ます。

自己主張だった脱色が七三と同じ扱いになったのも、時代の流れでしょうか。このまま進むと、2輪の三段シートが出前カブと同じになり、四輪のタケヤリマフラー、土禁がおやじカローラと同じになってしまうのではないでしょうか?

ベトナムでも髪を染める事は流行しており、4〜5年前までは皆七三だったのがトッポイ(死語)頭になっています。欧米人の美的感覚から見るとかなり不思議に見えるらしく、元々の発祥は校内暴力時代の不良だと言う説明が英語が難しくて出来ませんでした。

脱色の変遷を見れば分かりますね。暴走族の元祖は新宿当りで現在の60代ぐらいの人たちが始めた走り屋「カミナリ族」です。その当時バイク自体が女性の羨望の的だったらしく学校の不良が参加し始めてから、族の髪に色が入り出しました。

次にサーファーになり、バンドになります。ラウドネス辺りのメタルバンドの髪は長髪ですがノーマルです。44マグナムは金髪でしたが、あの当時もカッコイイとは思えなかった。芸能の世界に金髪を広めそれが一般人にも広まるターニングポイントになったのはX Japanの存在でしょう。

メイクにも変化が現われ、男が中性的に綺麗に見えるメイクが現在は主流となりました。ベトナム人は否定するかも知れませんが、元の始まりは日本の不良です。

ベトナムの誰に聞いてもアメリカだと言うでしょうね。

ベトナムでは安い美容院に行けば10万ドンで金髪にしてくれます。ウチのガキも2歳の時にカミさんの趣味で頭が金髪でした。
(2002.2.21)      私見ベトナムの歴史23

大理国から来た使者は、チャン朝に対してモンゴル軍が南宋を攻めるにあたり、軍の通過を要請するものでした。

大国のこのような要請は、得てして戦わずにその国に対して影響力を行使しようという場合が殆どです。これは現在にも当てはまります。湾岸戦争後米国はサウジアラビアに軍を恒常的に軍を駐留させる権利を得、石油利権に対してかなりの影響力を持つ事になり、今回のアフガニスタンにしてもロシア、中国の中央アジアでの影響力を弱めさせたのは確か。

このためウサマビンラディンはCIAなんじゃないかといわれている。日本でも面白い話を読みました。ゴー宣の小林よしのり氏が台湾の李前総統との会談の席で、小林氏曰くチベットにおける中国の民族浄化について書いた所、それに対する抗議は左翼団体ではなく街宣車に乗った右翼団体が来たそうです。実はその右翼団体と目されている中には、中国から厚い接待を受けている集団もあるそうで、「天皇陛下万歳」とマイクで叫んでいるのは実は共産主義者だったという笑うに笑えない話があります。朝日新聞の拡張員にヤクザまがいの人間が多いのはこのためで、それで日本全国に部数が伸びたという説もあります。

おっと話がずれた。

モンゴル軍の通過を求める要請に対し、チャン朝初代チャン・タイ・トン(陳太宗)はこれを拒否、1257年暮れモンゴルはウーリャンハタイを将とし、現在のラオカイ省の国境から紅河沿いに南進、一気に首都タンロン(現在のハノイ)を攻め落とします。ベトナムにしてみれば経験した中でこれほどの早さで侵攻した軍は過去に無かったでしょう。武器も違えば戦い方も違う相手に対して伝令より早くモンゴル軍が侵攻して来たことは用意に想像できます。この当時の戦争画を見ると主将は象に乗ってる絵が多いですね。象対馬ではスピードが違うでしょう。

チャン・タイ・トンは辛くもタンロンから逃げるのびることが出来ましたが、首都は蹂躙され民家は焼かれ廃墟同然になりました。

勝ったはずのモンゴル軍ですが、タンロンの住民が避難時に米などの食糧を隠してしまったために、補給に苦しめられます。この点を見ても、西域を攻めたモンゴル軍と違うことが分かります。以前のモンゴル軍でしたら、数は少なくとも集団騎馬戦術で、次々と侵攻し補給も天幕、放牧用の山羊を引き連れたのもで補給に途切れがなく攻撃の終末点がないという始末に悪いものでした。この頃になると領土が広大になり、モンゴル主力部隊が世界に分散されてしまい、征服地から徴収した兵が主力になっていた事が分かります。

あと一つベトナムに利したものがあります。それは奥深いジャングルでした。騎馬戦は平野部では威力を発揮しますが、森林地帯、ジャングルなどでは思うような活動が出来ない点がありました。西域から取り入れた投石器、天震弾の効果が余り無いのです。東南アジア、日本で騎兵とうい兵種がその後も発達しなかったのはそこに理由があるのでしょう。

補給に苦慮したウーリャンハタイは雲南への撤退を決意、この時にこの撤退軍に対して追撃戦を行なったのが、チャン朝の武将チャン・フン・ダオ(陳国峻 Tran Hung Dao)です。彼はモンゴルの3回の侵攻に対して全てを戦い抜きベトナム救国の英雄となります。

大軍と言うのは進撃する時には強いのですが、撤退時を背後から攻撃されるとその混乱は手がつけられないもので、大軍ほどその混乱は制御が利かなくなります。地上戦が主だった近代戦においてもその例は無数にあり、この当時の戦争捕虜をかき集めての軍においては、甚だしかった事でしょう。

モンゴル軍は雲南に撤退後、チャン朝は南宋に向けて攻守同盟を結ぶべく使者を送るのですが、代わりにモンゴルの使節が来て朝貢、税金を増やす事を要求してきました。モンゴルの侵攻で国土は荒廃し、国力が尽き掛けていたチャン朝としては、その要求を拒んでもう一戦という訳にはいかず、要求を受け入れざる得ませんでした。このことが中国史では安南を平定したと記述されています。

1260年、フビライがモンゴル汗の地位に付き、1271年フビライは国号を元とします。これによって南宋攻略が本格化、1274年、モンゴル軍の戦禍から逃れるために大量の南宋の人々がベトナムに難民として亡命して来ます。

この年日本は文永11年(1274年)10月3日元の艦隊が朝鮮半島の合浦から出航します。後に文永の役といわれた最初の蒙古来襲です。
(2002.2.13)

              私見ベトナムの歴史24

1276年中国南部江南を制圧するとモンゴルは、ベトナムに新たな要求を押し付けます。①国王自ら来朝すること②王の子弟を人質に出す事③戸籍簿を提出すること④軍役を出すこと⑤租税を納めること⑥元の地方官を置くこと。

大国は小国に対していつも傲慢なもので、以上の要求は「王の地位は残してやるから、元の統治下になれ」と言っているようなもので、チャン・タイ・トンにしてみれば憤慨ものだったでしょう。事実彼はこの要求の翌年に憤死します。

2回目の侵攻はこの元の要求から7年も経っている事から見てもベトナムの外交努力は評価すべきでしょう。元軍は1277年バーモ(上ビルマ)を占拠、1278年南宋が滅亡。1281年2度目の日本侵攻(弘安の役)、1282年クメール帝国に侵攻、1283年チャンパとペグー王国(下ビルマ)へ侵攻します。

周辺諸国が全て元軍手に落ちベトナムは非常事態となりました。1283年10月3代目チャン・ニャン・トン(陳仁宗 Tran Nhan Ton)は、武将チャン・フン・ダオ(陳国峻 Tran Hung Dao)を国公として全軍の総指揮官に任命します。この間の苦悩戦慄はいかほどだったでしょうか。チャン・ニャン・トンは2回元軍と戦をするのですが、民衆のを思いやる人徳の人で戦いの途中何度も戦禍を終止させるために側近に降伏を相談したり、部下に対して民衆をいたわりなさいと諭したというような逸話が残っています。彼の葬儀の時は、悲しむ民衆が集まり葬列が動けなかったと記録されています。

チャン・ニャン・トンは外交に絶望した事でしょう。モンゴルの統治方法では、最初に侵略された順に一等、二等と民族を区別する政策を実行しており、このままではベトナム人が最下層民にならざる得ません。

1285年1月元軍はウマル(鳥馬児)を総大将として本格的な侵攻を開始します。
(2002.2.13)

私見ベトナムの歴史25

1285年1月元軍のウマル(鳥馬児)侵攻はベトナムを主眼に置いたものでした。前回の侵攻時は雲南からLaoCaiに入り紅河沿いに南下するものでしたが、今回は陸海の四方から侵攻を開始しました。

最初に火蓋を切ったのは、LaoCaiから紅河沿いに南下するルート、そしてLanSonからChiLanhに向けての中国国境沿いから始まりました。元の目的はベトナム占領であり、集団戦法の本領を発揮して猛撃を加えます。

ベトナム防御軍は次々に陥落、投降するものが続出します。この不利な戦線においてベトナムの歴史に名を残した武将にチャン・ビン・チョン(陳平仲 Tran Binh Trong)がいます。ホーチミン市ではビンタン(BinhThanh)区にある道に彼の名前が残っています。彼の勇気ある戦いを評価した元の将軍は、彼を捕らえた後も降伏を勧め、馳走でもってもてなします。暗に元に加わりベトナム地方を治めてはどうかとほのめかすのですが、「北方の王たらんより、南方の悪鬼たらんことを欲す。」と答え最後まで降伏せず斬首されます。

相次ぐ敗戦に心を痛めたチャン・ニャン・トンはチャン・フン・ダオに民衆をこの戦禍から救うには、降伏して戦を終わらせたほうが良いのではないか?と提案します。チャン・フン・ダオ曰く「陛下の仰せはもとより人道の合するところであります。ただ、降伏するのであれば、降伏に先立って私の首をはねていただきたい。私がいるかぎりわが国は決して滅びることはありません」ベトナム民族の独立の気概を表したとして有名な言葉です。

北方戦線は2ヶ月持ち堪えましたが、結局は首都タンロンを放棄しチャン・ニャン・トン、チャン・フン・ダオは南方のタインホア(清化)へ避難せざる得ませんでした。

元は降伏したチャン・イック・タックを安南王に封じてベトナム人の懐柔に入ります。この形勢が圧倒的に不利な状況に追い討ちをかけるように、元軍別働部隊がラオ、チャンパを経由して南方から攻め込みます。南北からの挟撃で窮地に落ちいたチャン・フン・ダオは部隊をジャングルに退避させざる得ませんでした。

この時にベトナムが行なった戦術がベトナム戦争で見せたゲリラ戦です。多分これが組織的にゲリラ戦を行なった最初ではないでしょうか。戦争といってもルールがあり、その土地の城塞を落とせば終わりというのが、終戦のパターンだったのですが元が戦った相手ベトナムはそのような考えを持っていませんでした。

チャン軍はジャングルに潜み任意の拠点を攻撃できますが、元軍は兵を分散せざる得ずチャン軍はその弱点を各個撃破でもって破っていきます。更に前回と同じく元軍は食糧補給の欠乏に陥ります。

相手の困難な状況を知った、チャン軍は首都タンロンの元軍を大勢力でもって奇襲します。不意を突かれた元軍はこれによって総崩れになり撤退を余儀なくされます。とどめに撤退路に待ち伏せしていたチャン軍五万の攻撃を受け、元軍はまるで袋叩きに合ったような状態でした。ウマルはこの時に何とか逃亡に成功します。

海路から来た援軍もなすすべもなく撃破され、チャン軍は首都タンロンを奪還しチャン・ニャン・トンは帰還を果たします。この時の捕虜が五万と言われ、戦いが終わった翌1286年将兵の処罰は徹底的でしたが、兵は罪に問わず元に送り返します。この捕虜を送り返した話はベトナムでは遠山の金さんみたいに「罪を憎んで人を憎まず」みたいな響きがあるそうです。
(2002.2.16)

サイゴンにベトナムの歴史に関する資料忘れてきてしまいました。元軍の3度目の侵攻については、来週書きます。先日書きましたSOGOの件ですが、「そうご電器」と「SOGOデパート」は違うそうです。私は一緒だと思っていました。
ここを持って訂正致します。二つとも潰れちゃっていますが。



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2002年02月23日 01時20分33秒


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