第三新東京市ぱられるふぃーばー
その参
嫌悪感が先立つ毒蛙そのものの異様なぬめりを帯びた使徒の全容が現れる。リフトの固定が外され、ミサトさんの声が頭の中で響く。
前はこんな事はなかったな。と、僕は少し驚いた。ほんの些細な事だが、モニターを通して聞こえる音声が、自分の頭の中に直接響くように感じるのが新鮮だった。
仮面の様な使徒の顔らしき物を僕は、睨み付ける。
人間のフォルムを戯画化したような、ばかばかしさが嫌悪に彩られる。
僕は、その人型の物体に向けてゆっくりと一歩を踏み出した。
それだけで、発令所が沸き上がる。
「初号機前方に巨大な異相空間が形成されました!」
「ATフィールド・・・使えるの!」
足を引きずるような不安定な姿勢から、仮面のような頭部を向け、無造作に近寄り始めた。
右手が肩の部分に伸び、プログレッシブナイフを装備。踵を浮かせ、身構える。
「初号機、プログレッシブナイフ装備!」
ゆっくりとナイフを腰だめに構えると、使徒の動きを伺う。
第三使徒サキエル。
「フィールド中和されます!」
「シンジ君!避けて!」
声に気を取られる。動作が鈍ったその瞬間、使徒は無造作は腕を伸ばし光線を発する。
腰を屈めて身をよじり避ける。
槍状の光線が頬を焦がす。
集中出来ない。
そう考えただけで頭の中でさざめいていた声が掻き消えた。僕とエヴァの感覚の区別がわからなくなる。
「ク!」
距離を取ったらダメだ。僕は、慄然としてレバーを握り締める。いきなり腕が不自然に曲がり、頭を捕らえられた!ぐんと、その緑色の腕が膨らむ。吊り上げられる!
ヤバイ!
咄嗟に左手で腕を掴み、外そうと試みる。万力みたいな力強さがあった。虫みたいな目をするその仮面が僕の瞳の中に映り込む。
ガシーーーン!
突如、掴まれた頭頂から激痛が襲いかかる。奥歯を噛み締める。振子のように体が揺れる。間断なく誰かのうめき声が頭の中で響いていた。
腕を伸ばし張り出した型の辺りを掴み引き寄せる。ナイフを突き付ける。
ATフィールドだったのか、わずかな抵抗があったがあっさりとナイフは光球に届き激しい火花を飛び散らせる。しかし、僅かにリーチが及ばない。がっしりと掴み込んだ使徒の攻撃には及ばない。何度と無く、ナイフを突き立てる。光球のツルリとした表面とは裏腹に弾力が衝撃を吸収してしまう。
ガシーン、ガシーン、ガシーン。
頭蓋骨を削り取られるやり方でのたうち回る程の痛みを受ける僕に比べ、使徒は全くダメージを受けているのか痛覚があるかも伺い知れない。焦燥と激痛に体が泡立つ。
ガシーン、ガシーン・・・。
数号の打ち合いが続いた。焼ききれそうな神経を奮い立たせる。恐ろしく鈍いこの巨体にも痛覚が存在したのか、腰がひけ、襲いかかっていた頭部を貫かんばかりの衝撃が途切れる。力尽きたように手が離れる。
「くらえ!」
再び誰かの声は速い呼吸にかき消される上擦った声で言っていた。
肩を押さえつけていた腕を頭部をつかんでいた使徒の腕に掛ける。
なんの感慨も無く、僕はそれをねじ切った。
グオオオオオオオオ!!!
雄叫びを上げるサキエル。
ねじ切った腕を投げ棄てナイフを腰溜めに構えると体ごと光球にぶつける!その瞬間ATフィールド特有のバチッという衝撃が入るがすぐさまパンと割れ、ナイフがめり込む!
インダクションレバーを握る手が硬直する。
ゾクッと背筋に悪寒の波が広がる。仮面が光る。ビームだ!瞬間的にレバーを引く。だめだ!被害が大きくなる!
咄嗟にATフィールドで衝撃波ごと押さえ込む。これがいけなかった。確かに被害は殆ど街へは漏れなかった。が、初号機は、僕はそうではない。
内側にまたATフィールドを作る。押さえきれない!
「うああああああああああああああああ!!!」
さながらATフィールドの繭と化したその上部に穴を開け衝撃波を逃す。成功した。
仮面は僕を無機質に見つめる。なんの感情も無い驚異だった。ぞわりと全身が鳥肌だつ気色の悪い感覚が走りぬける。
幸いにして、各部に異常は出なかった。無理矢理二重に展開したATフィールドが功を奏したように思えた。しかし、ナイフが柄の部分を遺して消失していた。
尻餅をついたままで、再び仮面が光るのが見える。
「ATフィールド全開!」
全力で前方に上部に傾斜をする壁をイメージする。
その目で見える程強力なATフィールドは、上部へ衝撃波を跳ね飛ばす。
距離500。視界が広がる感覚に、使徒の光球に集中する。
見える。見える。見える。
ビルとビルのまんなかに呆然と立ちすくむような、サキエル。僕は雄叫びを上げる。パン!と周囲の空気が破裂したように爆音を上げる。その衝撃波まとい踏み込む。ナイフを跳ね上げる!
「使徒、沈黙しました」
声が朦朧とした頭の中で響く。僕の眼が使徒を確認する。光球の表面に刃の無いプログナイフの柄が突きたっていた。
「シンジ君!シンジ君!シンジ君!」
僕は、気を失った。
古い、写真のように色あせた風景の中に僕は居た。
かれた桜並木の(桜の花が咲いていないのに、僕の意識野の中では明らかにその道を取り囲む木々は桜だと認識している)真ん中にぽつんとたたずむ。
妙に白っぽくみえる真昼のアスファルトの中に、影を落とし、ひとり立ちすくんでいた。
何だろ。この光景。
懐かしい。懐かしさが胸を満たす。ともすればその夏の終わりの大気を吸い込むだけで僕はその大切な思い出を取り戻せそうな気がする。絶対にどこかでみた事がある筈であり。決して忘れてはならないもので、大切な、宝石箱にしまい込んでおきたくなる取って置きの情景・・・。ああ、ああ!もどかしさに叫びたくなる!
いったいここはどこなんだ!ドウシテボクハココニイタコトヲシッテイルンダ!
誰か!誰か!
この場所が何を示しているか僕に教えてくれ!
焼け付くような焦燥が行き場を失い体の中で炎を上げる。
「ぱぱ!」
僕は目を見開き、彼女の登場を待ち構えた。
喪服みたいな黒のミニドレスに身を包んだ小さい女の子が僕の目の前でクルクルとまわる。
「ぱぱ!!」
肩まで伸びた髪が艶々と輝き風に揺れる。優しげな可愛い目を細めて小首を傾げ僕を見つめる。僕に駆け寄る。
全ては連続した写真みたいにヒトコマのレベルで僕の脳裏に刻み込まれていた。
ミ ユ キ
「 ぱ ぱ !」
「ハッ!」
眠りから覚めた直後の視点が像を結ぶ。天井だった。それは、僕の生きて来た中でもっとも刷り込まれた見慣れない天井だった。
その天井に向けて手を、何かをつかもうとするかのように伸ばしていた。
夢だったんだ・・・。手が力無くベッドにバウンドした。
汗をかいていた。悪夢の方は、現実だったからだ。とにかく、シャワーでも早く浴びたかった。
ミユキの夢だった・・・。あれは、あの子はミユキだ。僕は、見た事も無い、夢の中の少女の事を確信していた。不思議だった。
ミユキなんだ。僕は、いったいどうしてしまったんだろうか?身も世も無い激しい激情で体がちぎれそうだった。
・・・どこかでラジオ体操が流れていた。
気だるさで力が入らない。手を二三度握り締めて見る。
きっと、リツコさんならどうにか出来るんじゃないか?
しかし、僕は知っていた。全てが終わり、始まる前の父さんの事を。
ミユキの居る、世界へ戻らなくちゃいけない。
独力で出来なくとも、やり遂げなくてはならない、何者にもかえがたい想いだった。
派手なノックで、まどろみの中に落ち込んでいたらしい僕を覚醒させた。体を起こして目を擦り、返事をする。
「はい」
と、その時にはドアは既に開いていた。
「シンジ君、入っていいかしら?」
ミサトさんだった。
「入ってから言わないで下さい」
溜め息を付く。ミサトさんは、こういう人だった・・・と思い起こすと苦笑していたようだった。
「なに年寄りみたいに笑ってるの。で?気分はどう?」
「あんまり」
「あんまり・・・何よ?」
「だから、あんまり、ですよ」
ミサトさんは、加持さんと結婚して松代へ移った。僕はその時、完全に愛想をつかされていた。何しろ、僕には自分を見失っていた一年間があったから。それは辛い思い出として、僕の中に居座っていた。ミサトさんが苦しんで居た事も知っている。それでも何故か、僕が彼女を苦しめた事よりも、捨てられたという理不尽な思いに捕われているのだ。
僕は嘆息する。窓の外はぼんやりとした光の漏れいるジオフロントなのだろう。
「・・・先の戦闘の被害は有りましたか?良く、憶えてないんです。倒した事はおぼえているんですが」
「そう・・・被害は殆ど無かったわよ。安心して、死傷者もゼロ。貴方が気にする事はないのよ」
「あの、少なくとも戦略自衛隊の人はそうではないと思うんですけど。だって、僕が来た時戦闘機が撃墜されてたじゃないですか」
「・・・彼らは、そういう仕事をしているんだもの。自らの命と引換に、市民を守る為の戦いを、ね」
「わかってます。使徒を倒さなくちゃ行けない事は」
「でも、出来ればそういうの。僕は、あんまり好きじゃない。したくなかったんですよ。そういうのって、僕には向いて無かったから」
「シンジ君・・・」
「民間人の被害は・・・?」
「軽傷者が10数名・・・というところよ。あなたのお影でネ」
「良かった・・・」
窓の外に向けていた視線を戻し、ミサトさんの視線を受け止める。
「僕の事、知りたいですか?」
探るような目つきに僕は気付いていた。
「何の事?」
「いいですよ。でも、こんな耳の在るような所ではお話出来ないですね」
「・・・わかってるわよ。冷静なんだ。ホント、可愛くないわねぇ」
「親が親ですからね。母さんは優しくて綺麗な人だったけど、あの父さんが総ての現況ですから。特に、母さんを失ってからの父さんは」
「父親が苦手なのね」
「苦手、だったんです。でも・・・」
手を見つめる。この手はかつて血に塗れていた。罪に塗れた手だった。そして、この手はミユキの小さい手を掴み、その頭を撫で、抱き上げる為の手に変わった。ミユキが生まれる事が出来たその世界を掴み取る事が出来た手だった。
不意に視界が歪んだ。
「あれ・・・・?」
頬を濡らして、滴り落ちていた。
「あれ?変だな。何でだろ?おかしいな、こんな事」
「おかしいですよね、ミサトさん。僕、泣いちゃってますよ」
「シンジ君・・・」
「壊れたのかな。おかしいな」
頭を抱かれた。僕は、それだけで何となく安心した。安心すると、もっと涙が流れて来た。・・・僕は泣いているのではない。少なくとも僕はそう思えた。
ただ、涙だけが、湧き出ていた。
「ミユキの夢を見たんです」
「あなたの妹さんだっていう?」
「憶えてたんですね、車での事。ミサトさんビールなんか飲ませるから。僕、お酒弱かったんですね」
「当たり前よ、あなたはまだ中学生だもの。・・・悪かったわよ、でもあれしかなかったんだもんしょうがないでしょう?」
「ぷっははは。やっぱりミサトさんだ」
「なによー。で?その妹さんて言うのは?」
「ええ、話すと長くなりますが、時間いいんですか?」
ふと、ミサトさんは視線を逸らして、言い難そうに口を開いた。
「あ、そうそう。・・・言い難いんだけどね。あなたは、正式にパイロットとして登録されたわ。総務部で居住区の通達があるの」
「早く行かないと、不味いでしょうか?」
ミサトさんは腕時計を見て相好を崩す。
「あら、結構話し込んじゃった。時間も時間だし・・・でも、体は、ホントに大丈夫?顔色は良いようだけど。もし、なんだったらもう一日くらい様子見てもいいのよ」
「疲れてるだけですよ。心配ご無用です、ミサトさん」
「無理はだめよ、シンジ君。・・・こんな事を言うのはホントはヤなんだけどね、貴方に倒れられると私達が困るのよ?」
「・・・わかってます」
僕は、ミサトさんから視線を逸らしていた。運命・・・『逃げちゃダメよ、シンジ君』・・・僕はかつて、そうしてしか生きる事を許されなかったから。今は、自分の意思を選ぶつもりだった。例えば、今僕がいる間だけでも。僕が、碇シンジがいる以上は。
「行きます。あ、着替えしないと」
「貴方のバッグ、ベッドの下に置いてあるから。服もね。貴方、学生服しか持って来なかったの?」
「えー、中開けて見たんですか?プライバシーの侵害です」
「そ、そんな事してないわよ。ただ、貴方が持って来たのがバックひとつだけだったなーって・・・。住居の方に送ってるの?」
「いいえ、僕はコレだけですよ。あるって言ったら・・・そうですね。チェロくらいかな。こっちの方に持って来るように頼んだ筈です」
「へぇ。チェロねぇ、意外」
「何ですか。僕がチェロを引いちゃだめなんですか?」
「え?あ、ちょっとー、怒っちゃった?」
「・・・怒ったりしませんよ。確かに意外に見えるかも知れない。僕だって、惰性で続けていたようなもんだったし」
「そお?でも・・・実は結構、うまかったりして」
「才能なんて無いですよ。でも、引いてると落ち着くんです。こう、低い音色の中に、自分も、まわりも、全て溶けてしまうような・・・そんな感じがして。だから、今では結構好きかも知れないです」
「ふーん。じゃ、私に今度聞かせてくれる?私、クラシックとか結構好きなのよ。こう見えても」
「・・・演歌しか知らないと思ってました」
「なに言ってんの。演歌は日本の心でしょ。演歌を笑う物は演歌になくって言うじゃないの?え?知らない?変ね・・・ま、いいわ!外で待ってるから早く着替えてね!それとも手伝って欲しい?」
「え・・・・?」
ミサトさんを追い出してさっさと着替える事にした。手伝ってもらう・・・という事に少しだけ心が動いたが、ヒカリに知れたら恐い。あれで機嫌を取るのに意外と時間が掛かるのだ。そうしてみると、確かにヒカリはあのアスカの親友だ。
ヒカリ、僕が居なくなっちゃって、泣いてないかな。気が強いくせに、泣き虫だから、心配だ。
持って来た荷物はベッドの下に入っていた。着ていた学生服はクリーニングされ、ビニールに包まれたままバッグの上に置かれていた。
ミサトさんが気を利かせて持って来させてたんだと言う。
何だか、本当にこのころの僕は、と思ってしまう。今更ながらに。
荷物を見ても、ほんの僅かな身の回りの物しか持って来ていない。服何て、学生服くらいしか無い。こっち、第三新東京市に来てから買おうと思い、殆ど、向こうで処分して来た事を思い出す。少なくとも、戻る気は無かったんだった。
見送りも無かったし、別れをいう友達も居ない日常。
少なくとも、ここは僕を望む人が居る場所だった。
例えば、父さん・・・。
あのサードインパクトの後、結婚し子供が生まれた頃の父さんを思い出した。初めて僕は、僕の小さい頃のあの捨てられたと思い込んだ頃の話を聞いた。
強い酒を飲みながら、父さんは胸の内を僕にさらけ出した。父さんは自分を弱い人間だとよく言う。人を恐れて、拒絶される事を恐れると。でも、僕は父さんは強いとその時に思った。少なくとも、実の息子に自分の弱さを見せられるくらいには強い人だと。父さんのようになりたいとは思わなかったけれど、少なくとも父さんの事がわかった事は確かだった。
加持さんは人を完全に解る事はできないと僕に教えた。そして、解りあおうと努力する事ができるとも。
その努力ができないほどの不器用さは、僕に遺伝されているわけで。
父さんの姿は、僕の中のわだかまりを吹き飛ばす程の強さを持っていたと言うわけだった。だから、今では殆ど苦手と言う物は無い。
『シンジ今まですまなかった。俺は、母さんを殺したのかとお前に聞かれた時、もはや耐える事は出来なかった。・・・例え、俺の周りにいる全ての人間に嫌われようとも問題はなかった。しかし、お前に嫌われる事だけは、耐える事は出来なかった・・・。俺は弱い人間だ。ユイのいない世界では生きて行く事ができないほど・・・。だから、お前にこれ以上嫌われる事が無いように、お前を傷つける事がないように、俺とはできの違う、兄貴にお前を頼んだのだ。許してくれ、シンジ』
父さんはあのでかい体を折り曲げて、僕に頭を下げた。僕にそれだけを言う為の決心を付けるのに、父さんでも一年掛かった。
それから、父さんは今まで僕や綾波を使い、何をしようとしていたのかを話してくれた。リツコさんとの事も、僕に話してくれた。
僕は、その時初めて本当に父さんの息子になった。グラスの中の強い酒を酌み交わして。
・・・考えて見れば、その時も僕にはアルコールが絡んでいたのだった。
例え一年とはいえ、僕の保護者がミサトさんだった事が関係しているのは、明らかだった。その頃には、相当僕もいける口になっていたのだから。
「シンジ君!まだー?」
いけない。ミサトさんを待たせていたんだった。
僕は、急いでクリーニングの袋を破くと、制服に体を通した。
部屋を出ると、僕は、その事をミサトさんに聞いた。
「あ、服の事?それは、ね。まー、貴方用のプラグスーツ・・・ま、戦闘服ね。まだ出来てないのよ。それに、あの時は着替える時間も何も無かったんだし。それくらいはさせてもらわないとね」
「そうですか。じゃあ、ありがたく好意として受けとらせていただきますよ」
「好意?何、小難しい言い方知ってるわね」
器用に片方の眉毛だけあげて、怪訝そうにミサトさんは言った。
「ははは、僕の大切な友達の言った事なんですよ。じゃ、早く行きましょう。時間も時間ですし、待たせちゃ悪いですよ」
「わかったわ。・・・シンジ君って、ホント意外と冷静なのね」
「え?そうですか?」
「そうよ。言っちゃ悪いけど、貴方いきなり呼ばれていきなり戦えと言われて・・・普通ならそんなに平然とはしていられないわよ。諦めているとも見えないし」
「たしかにそうですね・・・あの時は取り乱したから」
「ええ?」
「何でもありません。・・・それに、僕しかできない事だから。僕のできる事をやるだけです。拒否しても、逃げられない状況ってあるでしょ?そんなもんですよ」
「・・・強いのね。まだ、中学生なのに、しっかりしてるし。何だか、私、自信無くしちゃうわ」
「柄にも無い事言わないで下さい。皆、必死なんでしょ?当然ですよ、それが。足元の見えない中を歩かなくちゃならないんだから」
「ちょ!柄にも無い事ってなに!」
ミサトさんは腕を組んでムッと僕を睨み付けた。
「え、えーと。口がすべっ・・・!!何でもないです!何でも!」
「もう、可愛くないわね!・・・ま、いいわ。ソレはそれとして、置いといて」
「え・・・置いとくって後で持って来たりしませんよね」
「このおーーー」
こめかみに手をあて、オーバーゼスチュアで処置無しをあらわす。
「それで、何がですか?」
「ほら、さっきの話よ。足元の見えない中って。ホントね、少なくとも先の見えている事なんて何一つないわ」
探るような眼だった。
「・・・見えていてもどうしようもないという事だけが解るだけかもしれませんよ」
「どういう事?」
「さあ・・・ただ、僕にも解らない事だらけで、父さんやリツコさんに何とかして貰わないと困ると言う事だけです」
ミサトさんは難しい顔をして考え込んだ。そして、そう?とだけ返すと、暫くうつむいて居た。
そうしていると、突如パンと手を叩く。
「・・・あそうだ!お腹、空いてない?」
「え?・・・そうですね。昨日の夜から食べてないですし」
「後で、外でなにか奢っちゃう!一緒に食べましょう?」
「あ、はい。・・・でも、ミサトさんの仕事は良いんですか?」
「私もお昼食べて無いんですもの。仕事ももう終わりよん。色々私も聞きたいし、ね?いいでしょ?」
ミサトさんは、両手を合わせて首を傾げる。本当に子供っぽい仕草の似合う人だ。
そう考えると、吹き出しそうになった。こういう人何だよね。
「あら?」
ミサトさんがふっと顔を緩める。
「シンちゃんってそんなふうに笑うんだ」
「え?僕、笑った事ありませんでした?」
「少なくとも、私は見たの初めて。シンジ君の笑顔って素敵よ。笑ってる方が良いわ」
「・・・そういうふうに言われたの、二回目です」
「え?じゃあ、初めては?」
「僕の・・・彼女に」
「へー。意外と進んでるじゃない。見直しちゃったわ。なに?どんな娘?どこまで進んでるの?ねぇ、教えなさいよ」
「えーと、そうですね。僕にはもったいないくらいいい娘ですよ。欲目じゃ無しに可愛いと思いますし、家事もできるし、しっかりしてるし」
「ふーーーん。で、何て名前なの?」
「・・・ヒカリ」
「へー可愛い名前ね!ね、じゃあさ。どこまで進んだのよ。最近の子ってススんでるっていうじゃないの?何々?最後まで?え?」
ニヤニヤと口元を綻ばせたミサトさんに僕は口篭る。考えて見れば、こうあからさまに聞かれたのははじめてかもしれない。
「え・・・まあ、そう・・・普通の恋人として当たり前の・・・」
「カーーーー!やっぱりわっかいと違うわね!シンちゃんってもうおっとな何だ!キャーやらしー!」
「ちょちょっと!ミサトさん!廊下でするような話じゃないです!」
「なーに恥ずかしがってんのよ!結構あっさり喋ってたクセに。じゃ、さ。今からは、遠距離恋愛になるのね!」
「そうなるんでしょうか」
ズキンと胸が痛んだ。拳大の鉄球を埋め込まれたかのように、狂おしい何かがそこにあった。
「なーに落ち込んでるのよ。リニアですぐじゃないの。いざとなれば、会いに行くなり、来てもらうなり簡単でしょ。元気だしなさい」
「・・・そうかもしれません」
僕は、ポツリと呟いた。
今になって思う。ヒカリとの事も、全てが終わってから、すったもんだの末、結ばれたのであって・・・。
突然、つい先程、ヒカリに知れたら、何て思っていた自分が馬鹿げて見えた。ヒカリは、まだ僕の事を知ってさえ居ないのに。
ヒカリには好きな人が居るんだ。この世界では。
大切な、僕の恋人のヒカリは、ここには居ない。ミユキも居ない。強烈な落下の感覚に見舞われた。深い、底の見えないような暗い穴の中に落ちて行くような。
「・・・あの、シンジ君。ゴメンね。もしかして、別れて来たとか。そゆこと、無いわよね。ちょっと、はしゃぎ過ぎちゃったかなーって。ゴメン」
僕も、つい僕の知っているミサトさんと思い、口を滑らせてしまったのかもしれない。
何でもありません、と口の中で言って、僕は総務部へと足を急がせた。ミサトさんも気にしたのか、それからは着くまで話し掛けては来なかった。
途中、エレベーターのドアが開くと父さんが独り乗っていた。この頃は、茶色い眼鏡を掛けていた事を思い出す。かつての父さんのイメージそのものだと言える眼鏡の奥に、強い瞳が僕を射貫く。
「父さん」
「どうした」
言葉少なく父さんは言う。
僕は、何の脈絡もなく父さんが綾波の見舞いをして居た事を思い出す。
「あ、綾波の、病室教えてくれないかな」
僕は突拍子も無い事をつい口にしていた。久しぶりの威圧的な父さんの姿に、気圧されていたのかもしれなかった。
「どうしてそんなことを聞く?」
「お見舞いくらいいったっていいだろ。それと、話があるんだ、大切な事。僕は今、とんでもない事に巻き込まれていて。父さんの力が必要なんだ。リツコさんと、父さんの力が」
「そうか。明日、時間は葛城三佐、君に知らせる。シンジをつれて来たまえ」
「何だよ父さん。恐い顔して」
気圧された事が恥ずかしくなり僕は呟いていた。
「えー!?独りでですか!?」
ミサトさんは、憤慨していた。こういう所で、僕は強烈な既視感を憶える。
<第三新東京市地下F区 第6番24号 碇シンジ 0001-137−XXX>
住民登録票は、ジオフロント内のネルフ本部の宿舎の個室になっていた事を思い出す。
「そうだ。彼の個室はこの先の第六ブロックになる」
「ええ、良いんですよ。今はまだ。父さんも僕と顔をあわせるのは辛いでしょうし」
「でも、父親なのよ。いくら何でも一人で住ませるなんて、そんな事・・・」
「ミサトさん、あの父さんと二人で暮らす事を考えて見て下さい」
「え?・・・そ、それはちょっち嫌だとは思っちゃうかなー・・・。でも、家でまでいつも、いかつい顔してるわけないでしょ?」
「うーん、僕も、そのへんはちょっと解らないんです。何しろ、ここ三年間顔をあわせる事も殆ど無かったんですから。電話すらないし、声を聞いたのだって、昨日のあれが久々だったくらいですよ。確か」
「でもね。子供はやっぱり親と暮らすべきなんじゃないかしら?それに、あの司令だってホントに、家では普通のオヤジじゃないの?パンツいっちょで団扇で煽ぎながら、枝豆なんかでビール飲んだり」
「それじゃミサトさんじゃないですか」
通達をした職員が低い笑い声を立てる。
「な、な、あなたねー、私が心配して上げてるのに!」
「・・・済みません。でも、今の所は一人暮らしでも構わないんです。父さんは父さんなりに考えて、僕を傷つけまいとしている事なんですから。一見、冷たく見えたとしても、父さんは好意の現し方が苦手なだけなんですよ。根っからの悪役と言うわけでもないんです。例えば今回にしろ、僕と父さんではまだ解りあえるには時期尚早と考えたに違いないんです。結局は、僕の事を考えて・・・」
「シンジ君」
「だから、今は、独りで良いのかもしれません」
ミサトさんは、僕の顔を見定めるかのようにじっと見つめる。そして、名案を思い付いたとばかりに言った。
「・・・そうだ!シンジ君ウチに来る?」
「え?」
「アタシのアパートは仕官用ですもの、一人二人住めるくらいのスペースはあるわ。アタシも一人じゃ寂しいって思ってたのよ。良かったら、ウチの来ない?」
「・・・良いんですか?」
ミサトさんは微笑んだ。僕の最初の家族だったんだ。思わず、目頭が熱くなる。
『さてー、今日からここはあなたの家なんだから、なーんにも遠慮なんていらないわよ』
ミサトさんは、僕を初めて受け入れてくれた。初めての人だったんだ。
「ミサトさん・・・」
「ばかね。泣かないの。おとこのこでしょ?」
「はい・・・ありがとう、ございます」
ジオフロントから直通で上るトンネルの中をアルピーヌ・ルノーの助手席に乗って通過した。なだらかな起伏のワインディングを吸い付くような走りで駆け抜ける。ミサトさんはあれからゴネる総務部をあっさりと説得して、僕を引き取る事を決定していた。保護者もミサトさんになる。これは、以前と変わらない。沈んだ気分で、流されるままに通ったこのトンネルを、僕はまた通っている。変わったと言えば、僕は変わったかもしれない。何よりも、少しだけ強くなれたような気がしたから。
「あーお腹空いちゃったー!今日は、少し豪勢に行きましょう?」
「はい。あ、でも。今日は掃除しないとだめなんじゃないかな。ミサトさんのアパートを掃除するだけでも日が暮れますよ。ビールやウイスキーの瓶やら散乱してるんでしょ?」
「あれ?まーだ言ってるの?そりゃー・・・アタシもまだこっちに来たばかりだから、部屋の中は散らかってるけど、そんなに気になるほどの物じゃないわよ!」
「アレを気にしなくていいならちょっとどんな生活なのか疑いますよ・・・。まあ、疑う必要もありませんけど」
「ひっどーい!シンちゃんったらアタシの事そんなふうに見てたんだ!」
「見ればわかります」
「なによー。馬鹿にしちゃってさー。私は、ね。結構、ちゃーんとしてるんだから」
「ちゃーんとビールとウイスキーで夢の島を作るんですよね」
「きっつー。どうしても私が生活無能者だって決め付けたいのね。あなたにわたしの作った特製のカレーを食べさせて上げたいわ。もう、悶絶ものの美味しさなんだから!」
「悶絶してどうするんですか・・・」
「う、うっさい!舌を巻くって事!・・・ホント、貴方って可愛い顔してキツイのね。お父さんにそっくりなんじゃないの?」
ぐっ、と僕はシュラッグした。
「ごめんなさい」
「そうそう、最初っからそう素直に謝ればいーのよ。あ、ちょっと寄り道して行くわね」
ルノーは、そう・・・あの位置で停止した。街を見渡せる高台で。
ミサトさんはふと真面目な表情を作った。ミサトさんの本来の姿は、いつものがさつな所ではない。この、作戦部長の顔こそがミサトさんなのだ。
黄昏の中の高台で、僕は都市を見下ろしていた。僕の守った街。そんな言葉が浮かんで来る。今は、少しだけそう思えた・・・。
ビルが、生えるように伸び上がって来る。先の戦闘時、地下に収納していた主要なビル群が本来の姿へと戻る。それは、何度見ても壮大な見物だった。
「これが対使徒迎撃都市第三新東京市よ。・・・貴方が守った街」
僕は、ミサトさんに寄り添い、手すりにもたれていつまでも眺めつづけた。
「ミサトさん。僕、会った時おかしく無かったですか」
「・・・え?あれは、当たり前よ。使徒をあれだけまじかで見たら誰だって錯乱するわよ。気にしないで」
「僕は、そういう事じゃ取り乱したりしませんよ・・・。何より、非常事態には、慣れているんです。そう・・・ここにいる誰よりも」
「え?」
「僕、本当は未来から来たんです」
「へ?」
「なんていうのか、三年前に来ちゃったんです。気が付いたら、公衆電話の前に居て、そして、あの使徒を見たんです」
「僕は、三年前。初号機パイロット。サードチルドレンでした」
僕は、ミサトさんの反応を待つ。僕だって、嘘みたいな馬鹿げた話だと思う。
でも、僕は帰らなくてはいけない。ヒカリと、ミユキの待つ世界へ。
僕は・・・僕の持つ、確信を信じてくれる人を今、欲していたのかもしれない。
ミサトさんを振り向くと、表情が凍っていた。目の前で手を二三回振ると、ピクリと動き突然、爆発的に笑いはじめた。
僕は、愕然とした。
「酷い!信じてくれないんですか!僕は大真面目なんですよ!もし、僕が帰りかたもわからなくて、せっかくできた僕の彼女とも、妹とも会えなくなって・・・」
笑い疲れてそれでも腹筋をぴくぴくとうごめかせエビ反りながら涙目でミサトさんは僕を見る。
「エヴァの事を知っていたのも。使徒を知っていたのも・・・あの父さんが話すと思いますか!?本当に、僕が未来から来たから知っている事で・・・。あんな度外れのシンクロ率を持つ事だって・・・」
しかし、ミサトさんは頑固に僕の言葉を否定しつづけた。
「アレは驚いたわー。リツコのびっくりした顔も見れたしね。でも、それだけで過去へ来た未来の使者だなんて言うに事欠いて。今日は4月一日じゃないのよ。それも寄りに寄ってサードインパクト?つい15年前にセカンドインパクトがおきたばかりじゃない。世界が滅亡しちゃってるわよそんなのおきたら」
「信じられないのも無理ありません。僕だってできれば信じたく無いんですから・・・。そうですね、じゃあ例えば、使徒がネルフ本部地下のターミナルドグマのアダムと接触する為に、第三新東京市を目指して来ている。何てこと、知ってますか?ミサトさん」
「え?」
「ネルフの地下には、使徒の抜け殻があるんですよ。でも、それはアダムじゃない。あの南極を吹き飛ばしたセカンドインパクトを引き起こした光の翼の主は、あの時卵にまで還元されたんです。それがセカンドインパクトの真実です」
途端にミサトさんは血相を変える。
「・・・シンジ君!その話は、どこで知ったの?司令に聞いたの!ね、答えて!」
胸倉を引き寄せられ、宙吊りにされる。
「今の父さんが話すと思いますか?今の父さんは・・・」
それは、あまりに悲しい話だった。ミサトさんに話していい事でも無い。そのシナリオは成就しなかったから。
「僕は・・・解りません。だから、リツコさんや、父さんに助けて欲しい。ミサトさんに助けて欲しいんです。またあの苦しい、使徒戦争の最中に放り込まれたのだから」
ズルリ。ミサトさんの手の力が抜ける。
「ごめんなさい」
うつむいた表情は解らなかった。ただ、僕はそんなミサトさんを抱きしめた。ごめんなさいと、ミサトさんはまた呟いた。
「話せば長くなるんですよ・・・。何より、考えて見れば確証が全くない突拍子もない話に思えます・・・でも事実なんです。僕が、過去を変えて良いのかも解らないし。未来が変わっちゃうと困ると思うんです」
「・・・そうね。シンジ君の言う事、まだ信じられないけど使徒もあっさりやっつけちゃったし、貴方が居てくれるとこっちとしてはやり易いわ」
「それこそ困ります!大体、既に、光球を除く第三使徒のサンプルがあるんですよ!本来だったら、僕の知らない間に初号機が勝手に動いて跡形もなく殲滅した筈なのに」
「それ、本当?シンジ君車乗って、こうしちゃいられないわ。今日は、さっさと家に帰って、教えてもらわないと」
「え?じゃ、外でのお食事っていうのは?」
「無しよ・・・私ねぇ、実は今月ピンチだったりして」
「はあー。いいですよ。じゃあ、途中でスーパー寄って行ってください。レトルトって言うのも味気ないですし、何か作りますから」
「え?シンジ君、料理できるの?」
「恥ずかしながら」
「なーにいってんの!凄いじゃない!・・・実は私はあんまり得意じゃなかったりして」
「だから、知ってますってば。まえも、一緒に暮らしていたんですよ。ミサトさんとね」
「え?」
「えーーーーー!!!嘘よ!いっくらあたしでも・・・ああ、でもでも、シンちゃんって結構可愛いし。ダメよ。そんな。あなたとは年だって離れて・・・」
「お掃除洗濯炊事、全部磨かれましたよホントに。皆何にもしないんだもの。生活当番だって、僕がジャンケン弱いのに、決めちゃうし・・・。あの!聞いてますか!ミサトさん!おーーーーーい!」
<続く>
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