月に紅茶の葉を混ぜて
 
 
きつねつきひめ
 
 

 
 
遠野、とはよくいったもので
 
 
向日葵畑がえんえんと続く人里離れたその先に、「診療所」はあった。
「遠野診療所」という看板かけて。おせじにも病院などという代物ではなく。
所長の名前が遠野志貴、彼が一人で患者をみており、女の助手が一人いるとかいないとか。
 
 
まるで手塚治虫のブラックジャックやドクターコトー診療所にでも影響されたような有様であるが、こちらはどちらかというと前者よりで、そんな得体の知れぬ医者にかかるよりは救急車を呼んだ方がずっと安心だし自分らで車を飛ばした方がまし、ということで地域住民とのつき合いはあまりない・・・・はずだったのだが、ここら一帯を仕切っている首長が遠野先生にはなにかと便宜をはかるように、仲良くはせんでいいが極端に排除したり毛嫌いしたり石を投げたり村八分にせぬように、適当な距離と適当な温度でもってぬるまゆく接して、決して怒らせたりせぬようにすべし、との厳命がきたので顔役たちもたまーに顔を出して死んだりしてないか白骨化してないか様子を見に行くことにした。よく分からないが首長は”遠野先生”に大層な恩義を感じており、かといってその割には地域に詳しく紹介したりせんあたり、いかにも秘密の匂いがするのだが、近頃流行の殺人宗教や外国組織に都を追われたヤのつく自営業がやってくるよりはましであるのでその風変わりな部外者を受け容れた。おそらく、腕はいいのだろう。顔に傷はついていないが。一般の医者には治せない難病に弱り困りはてた患者は地の果てからだって救いを求めてくるものだ。なんかそういう医者が出るドラマを加山雄三や本木雅弘がやっていたし。そう山の中だからって無理解不理解ということはないんだんべ、というわけで。
 
 
てきとーに放っておいた。もちろんみそ汁は冷め、盆踊りにも呼ばない、回覧板も回さな
いようなつきあいではあるが。
 
だが、人がそこに住んでいる、と知れているのにいつまでもそんな透明なんかにできはしない。遠野先生も手伝いの女性もてきとーに、里人を恐れるふうもなく、現れては買い物していくわけである。よく考えてみれば当然である。彼らは山の中、極秘裏に農作物育成にきたわけではないのだ。そしてたまには魚も食べたければ肉も食べたかろうし、その他生活必需品も買い込めば、ゲームソフトだって買ってみたりするだろう。顔も見れば話もする、となれば、情だってわいてくる。首長のいうことは端から破綻していたのだ。
 
 
これで遠野先生が食い逃げかつあげ強盗婦女暴行幼女追跡拉致監禁は当たり前、というひどい男だったらかなわんが、これがまあ、「いいひと」。若いわりには金離れがいいねえ、ダンナ、なんてことはないが、歳の割には落ち着きがあり、礼儀正しく、ごくまっとう。
あんな離れたところにいないでこっちおいでよ、といいたくなるような人物だった。
 
 
手伝いの女性もまた遠野先生とどういう関係なのか、若い男と若い女で人里離れたところで二人住み込み、というのだから想像には難くないのだが、面と聞かれようと遠回りに尋ねられようとのらりくらりとかわしまくるのが玉に瑕、てなものでこれといって難がない。よそ者に対する評価としては計算したようにちょうどよいラインを保持している。
ただ、名前がなんというか分からない。いつも聞こうとするのだが、その話と宝石のような目の色に気をとられているうちに聞かぬまま相手が帰ってしまい、いつも、ああしまった、と思うのだ。
 
 
そんな遠野診療所に、いかにも稼ぎがなさそうかつ、ひまそう、ということで同情したのかそれとも老人ホームと勘違いしたのか、少々惚けのはいった年寄りを昼間、預けることにした度胸があるというか勇気があるというかずいぶんチャレンジフルな里人がいた。
 
 
診療所、といいつつ、怪我したって病気したって診てもらうことはたぶんないのだから。
 
 
困ったな、といいつつ、遠野先生は引き受けてくれた。こういうことも大事ですよ、とお手伝いの女性が後押ししたらしいが。
 
 
その年寄りに手を焼いていたことも事実だが。これで遠野先生がひどい奴であったら、姥捨て山、の異名を免れなかったところであるが、どこぞの屋敷で働いていたというお手伝いの女性がずいぶん年寄りの扱いがうまかったらしく、たいそう喜ばれた。どこぞの屋敷で働いていた、という名も知れぬ謎の手伝い女性の経歴を聞いてきたのがその年寄りであるとおり、惚けもおさまっていたというのだからさらに不思議。
 
 
その噂がバーッと広まり・・・・・ということには、ならなかった。途中で、首長のストップがかかったのだ。あまり遠野先生にご迷惑をかけてはいかん!というわけだ。
よっぽど困った時にだけ、遠野先生に診ていただいてもやもうえない、などという。
なんだそりゃ、である。せっかくおらがとこの名医だと他の町でいばろうと思っていた矢先、困惑するほかない。
 
その結果、でっちあげられたのが、「遠野先生はムチャクチャ凄腕のお医者なのだが、あまりに凄すぎて政治家やそっちの組織などに誘拐されたり命を狙われることもあり、ああやって若いみそらで隠遁生活を送っているのだ」 という噂。これがまことしやかに流されたあたり、ここの里人は全員、マンガが好きなのかも知れない。
 
 
それを考えると、首長も本人か家族か、どえらい病気にかかって、大学病院の医者などに見離されて意気消沈していたところを、遠野先生に助けてもらったのだろう・・・。
そうなると、人生一寸先は闇であり、自分や家族がどえらい病気にかかってしまわない保証はどこにもない。「遠野診療所という・・・のは、どこにあるのですか・・・・」せっぱ詰まったような様子の全身包帯の人物などがタクシーなどでやって来たり、「この子を、この子をどうか・・・・遠野先生はどちらに・・・!」と嵐の夜だというのにグルグル包んだ子供を抱いた母親が必死に酒屋の玄関を叩いたりする日々がちらほらあると、診療所への見方が違ってくる。遠いところからわざわざやってくるほど・・・・そうしなければならないほどの痛み、苦しみ、それを取り除くことができる人・・・・眼鏡の、蒼いコートを着たあの若者が、そうだというのなら。てきとーな距離をおきつつ、つき合うこともやぶさかではない。
 
地図には載せていないが、その場所は里の誰もが知っている。向日葵の咲き、
 
 
夏には向日葵が、秋にもなぜか向日葵が、冬にもなんだって向日葵が、春にも生き延びて向日葵が、えんえんと続くその先に、弟切草に囲まれて、遠野診療所はある。
 
 
 
そして、今年何人目かの事情をよく知らぬらしい一見の患者がやってきた。
ぐったりとした子供の手を引いた母親らしき若い女。
 
 
 
「もうすぐ・・・・・もうすぐだから・・・・・」
 
 
炎暑である。日中の、向日葵たちも陽炎で揺れてダンスを踊るほどの暑い夏である。
その中を汗が流れ続ける必死の表情で歩を進める。化粧が崩れたそれは般若をおもわす。
 
 
「もうすぐ・・・・治してもらえるから・・・・だから、歩きなさ・・・・」
 
 
吸血鬼でもとろけてしまいそうな暑い夏である。人間も出歩く昼間ではない。
しかも子供連れで。しかも、何を考えているのか子供には分厚いジャンパーを着せて。
帽子こそかぶらせているが、そんなもん逆に暑いだけだ。女の方はへそなど出して涼しげなファッション雑誌みたいな綺麗な格好だが。
 
 
「おーい、どうかしたかね」
 
 
遠野診療所へ続く長い向日葵の道の途中で、若い母親らしき女と男の子がへたばっていたところを近くの農家のおっさんが現れる。通りがかったふうをよそおってはいるが、実は遠野診療所への見張り役である。やけにピカピカな鍬と鎌とで武装している。そして・・・・・片腕。左が肩からなかった。
 
住んでいるのは実際、この近くであり、高校野球を見ながら冷やしたスイカを食べていたのだが、あまりにも場違いな親子連れにぴーん、と来て駆けてきたのである。まさに見張り役。診療所から給料もらって雇われているわけではなく、診療所には恩があり、好きでやっているのだ。オレの目の黒いうち、光るうちはヘンな奴は近寄らせねえ、というのが
口癖で、最近では「目玉おやじ」などと近所のガキんちょからは呼ばれている。
 
 
いくら夏休みとはいえ、この暑い中、観光などではありはしない。この時期ならば咲き狂う向日葵たちもめずらしくもなかろう。そして、一見して、異様。子供はすでに日射病一歩手前状態だというのに、二歩手前の母親には判断ができないのか、ひたすらに、ぶらんとして力のない子供の手を引き続けて前に進もうとする・・・おそらくはその先の診療所へ・・もしや、血の繋がらない赤の他人なのかもしれないが、このザマの子供を連れ回すのはあまりにひどいし、常識がなさすぎる。
つい声をあらげてそうになるがなんとか我慢する。目的は察している。・・・・それしかなかろう。子供の方はすでに意識がないぞこりゃあ。
 
「大丈夫かね、あんたたち。ずいぶん顔色が悪いが・・・どこにいきなさるね」
知れたことだが、あえて尋ねる。努めてやさしく。
母親らしき女の方も、人に声をかけられることで張りつめた糸が切れたらしい。
ぶっ倒れた。ものの見事に。助けてもらえることを確信しているかのように。
 
「・・・・・おいおい」こうなると、普通は診療所へかつぎ込むのだが、この親父は見張り役であるからそう、おいそれと真贋つきかねる相手を診療所へ運ぶことはできない。
 
 
いまところ”入院の患者”さんもいないが、遠野診療所はふつうの医院ではないのだから。
 
 
結局、自分の家へ運んだ。そちらの方がはるかに早いし、子供の様子も心配だった。
最終的にいえば、やっつけてしまったのは自分であるし、その責任もある。
 
 
命に別状はないからてきとーに看護して休ませて、親子が目覚めるのを待つ。
母親が目覚めたのは、夕方になってから。もともと体力が豊富でないのかそれだけ疲れ切っていたのか、「志貴先生、呼んだ方がいいんじゃない?」と見張りおかあさんが言うのと同時くらいに目が覚めた。
 
 
「この子の身体に触りましたか!?」
 
 
第一声がこれだ。遠野診療所にいくだけのことはある。それだけせっぱ詰まっているのだろう。見張り役を任ずるだけあって見張り親父はそれで気を悪くしたりはしない。
 
「・・・遠野先生のところへゆかれる患者さんの事情は、少し分かっている・・・・だが、帽子とジャンパーは脱がせてもらったよ。あれじゃあんまりだからな・・・・」
だが、その表情は苦い。ジャンパーの下にはまだご丁寧に固い素材のプロテクターまで装着されて腹部を覆っていた。異様ではあるが、それが患者の事情、炎天下、咲き狂いの向日葵の道をゆかねばならなかった理由。強く扇風機をあてて、額には氷嚢をあてがっているが顔はまだ赤い・・・・帽子を外せば髪は広がり、子供が女の子であることが分かった。
下がズボンで、上があれであったので遠目に男の子かと見えたのだが。
ここにくるまで転びでもしたのか、顔にはあちこち痣があった。
 
 
「そうですか・・・・あ、すみません・・・いきなり・・・私、倒れたのでしょうか・・・・どうも、すみません・・・・ご迷惑をおかけしました・・・」
こうやって、しおと謝るところなどを見ると、今さらながら、大した美人だと思う。炎天下で無理矢理子供の手を引き続ける光景などを初めにみてそれが第一印象ともなれば。
洋服も高そうであるし、香水もよくわからんが高級そうだ。自分の嫁が、なんかわからんメーカーわからんブランド、というのだから高級なのだろう。なんかテレビで見たような顔のような気もするが・・・・・。ほっそりとした白い指にはこれまた高そうな指輪。
けれど、両手の甲に包帯を巻いているあたり、一筋縄ではいかない状況にありそうだ。
 
 
「いやいや。困ったときはお互い様だよ。とはいえ、あんな暑い中、子供さん連れて歩くってのはあまり感心しないなあ。どこに行かれるのか知らないけども、この田舎でもタクシーくらいは走るよ」
とはいえ、遠くのタクシーは遠野診療所の場所どころか存在すら知らないし、近場の者はこーでぃねーたーが発行した「証明書」を持たない相手をそこまで乗せていかない。そういうルールだ。興味本位で訪れていい場所ではないのだ。
 
「タクシーには断られました・・・・・これを見せればいいって話だったのに・・・」
その予定はあったらしい。確かに、靴も高いヒールだし、日焼けして歩くナリではない。
 
 
そして、母親の出したのは一枚の「名刺」・・・・久我峰、とある。
 
 
「おやおや・・・・・これは違うよ。これじゃあここらのタクシーは断るよ」
 
 
「え・・・・・」母親は眉をひそめた。思ってもなかったことを聞かされた顔だ。
 
 
「あんた、乾さんの名刺、もってないの?珍しいね・・・・」
こーでぃねーたーの名前は乾だ。この人物を通して、遠野診療所は患者を受け容れる。
たまにそれを持っていない、話が通っていない患者がどういうルートを辿ったのか、やってくることがあるが、診療所はそれを受け容れない。話は必ず乾を通すことになる。
金銭をいくら積んでも無駄。これは遠野先生が乾を信頼しているからにほかならない。
 
 
「それじゃあ、遠野先生には診てもらえないんだ。そういうことになっている・・・・・農家の親父が何言ってんだと思うかもしれないがね、診療所とはなんせ一番うちが近所なんだ。多少の事情にも通じるようになるよ。あんた、悪いことは言わないから、乾さんにお話ししてからもう一度来た方がいいよ。・・・遠野先生に診てもらうってことは”命には別状はない”んだろうから・・・・」
ちら、と女の子の腹を見る。まだ目を覚まさない。が、プロテクターの下には・・・・
その肌には遠野先生にしか扱えない類の・・・・「病」が、居る、のだろう。病が、居る。
 
 
「あの・・・じゃあ、どうすれば・・・・・お金なら・・・」農家の親父の言葉に反抗するよりも、うちが一番近所、という言葉に反応したらしく、母親は従順に、どこか媚びるような笑顔を見せて見張り親父がそっくり予想したとおりのセリフをはく。けれど、それも子供のためなのだろう。痛々しいがどうしようもない。それに遠野先生は物欲がとぼしい質で、一千万円の当たりくじでも交番に届けるようなお人なのである。そもそもお金が好きならこんなとこで隠遁などしていないだろうに。
 
「・・・・・そういうお話も乾さんとした方がいいだろうね。」
うちは農家で見張り役で交渉役は手にあまる。親父は、早々にこの母娘を帰らせる方がよいと感じた。単なるカンだが。どうも厄介そうなケースだ。今の診療所には人の好い遠野先生しかいないから、なおさらだ。「タクシーを呼ぼうか。街に戻る分なら乗せてくれるだろう・・・・日が暮れないうちに娘さんもちゃんとお家で休ませてあげたほうがいい」
先手を打って送り出すことにする。久我峰の名刺などもってきたあたり、厄介ごとになるのは目にみえている。
 
「え・・・あの・・・・」母親は未だ目覚めぬ子供を盾に粘ろうとしたようだが、見かけによらず対応が切れる親父の前に言葉がでてこない。「あ・・・・あの・・・・」
 
「お家は遠いんじゃないですか。急がれた方がいいでしょうな・・・・」すうっと立ち上がると親父は黒電話をかける。じーこじーこ。相手はサッカーの監督ではなく、もちろんタクシー屋である。「ああ、すまないが一台頼む。なるべく早くな・・・」
 
 
その親父の背中を母親がどこか獣じみた、吊り上がった凄まじい目で睨みつけている。
 
 
「ああ、そうだ・・・ああ、それじゃあな」
黒電話を置き、親父が振り返る前に、母親の目つきも元に戻っている。艶やかではあるが、しおとした。そこで初めて親父は思いだした。テレビで見たようなこの女が誰なのかを。
 
 
赤宮輝亜(あかみや きあ)
 
 
女優兼脚本家という才女で、自分が主役のドラマをバシバシ書いてバシバシ視聴率を稼いで大ヒットさせるという、言ってみれば有名人である。最新作は「冬のカナタ」。そのおかげで世間は今、ロシアブームなのであった。
 
 

 
 
・・・・・というわけなんですがね、志貴先生。心配のしすぎだったみたいですね。途中で引き返してまた歩いてやってきたりしたらどうしたもんか、と思ったもんですからね」
 
 
外はとっぷり日が暮れて、虫がきるりり鳴いている。
 
見張り親父が遠野診療所でかかあの作ったおかずと自分が作ったスイカを届けるついでに日中の出来事を遠野志貴に話していた。
同居している手伝いの女性は用事があるとかでまだ帰っていなかった。
 
 
「へえ。赤宮輝亜が・・・・僕でも名前くらいは知っていますよ。ドラマは見たことはありませんが」
眼鏡の青年、遠野診療所の所長であるところの、遠野志貴が答える。
 
外に出るときは暑かろうとなにかろうと青いコートでばっちり決めるが、さすがに家の、入院患者の居ない時分の診療所の中では、それを脱いでいる。しかも今は作務衣である。
頭にはてぬぐいを巻いていたりする。
 
有名人が子供を連れてお忍びで自分に必死になって会いに来た、というわりにはずいぶんと余裕の反応である。いかに見張りの親父が控えめに話してもこれは異常な話である。
 
 
ずいぶん冷酷なやつである、というと、そうではない。
 
 
基本的に彼は、世界でも珍しい”タナトス系熱血ヒーロー”な性格をしているので、物事に対しては能動的な態度をとる。控えめに行動しているとすぐに死んでしまう激しい世界で生きていたためでもあろう。学習成果が体中に叩き込まれているのである。
 
 
かといって、四方八方美人で誰にも彼にもやさしいかといえばそうでもない。もともと貧血気味で持続的体力がないため、そんなマネはできないせいもあるが、こうだ、といったん道を決めてしまえば、その道の外にある者のことは一切感知しない、という割り切りもできる。
 
 
要するに、乾を通していない話である以上、それは「勘違い」である可能性が非常に高い。
 
なんのつもりか、たまに久我峰はこんなマネをする。遠野診療所は名医が隠れている場所などではないのだ。優秀な医者が必要なら、優秀な医者がいる場所へいくべきだ。
微妙に闇の世界で囁かれているここ最近の裏の噂、遠野志貴は絶大な力を持った「憑き物落としの行者」かなにかである・・・・というのも微妙に違う。というかマンガの読み過ぎだ。
精神科医に通った方がいいだろう。どうしてもというなら、有能な行者をさがせばいい。
あいにくこちらでは案内できないが。田舎ではあるが、そこまで、アウトオブアウトドアではない。どちらかというとインドア派なのだ。
 
 
じつのところ、遠野志貴は医者の免許をもっていない。医学部に通ってもなければ医師の国家試験を受けてもないのだから当たり前だ。それにしても、いちおう医学部に通って研修医でもあった間黒男氏と比べるとひどい話である。が、
 
 
「病院と名乗ってないんですから、そんなの全然おっけーですよ〜」お手伝いの女性はそういって平然。それに洗脳されているらしい遠野志貴も「まあ、そうかな」などと納得して疑問を全然感じていない始末。
 
 
ただ一点、世界中の医者が寄り集まって逆立ちしても敵わない業を、もっている。
世界中の死神が、シンクロナイズドしても敵わない業を、この男は、もっている。
 
 
いってみれば・・・・・・・・「必殺技」である。
 
 
医師が持ってはいけないものだが。遠野志貴は前述したとおりそうでないからいいのである。先生呼ばわりもこそばゆいが、師匠とよばれるよりはいい。相手も呼び名に困ろうし。
 
 
だからこそ、境界を越えて、その業を求める者がいる。耐え難い苦しみから救われようと。
 
 
「それにしても・・・・・それこそ、なんだかドラマめいた話ですね。僕だって昼間、あの道は通りたくないのに・・・・もしかして、撮影の一環だったんじゃないですか」
 
 
「あのねえ、志貴先生。わたしらがそんなこと許可するわけがないでしょう・・・。力が抜けてきますよ、そういうこと仰られると。もっと自覚していただかないと。
どうにも心配だなあ・・・・志貴先生お一人ってのは。
そういえば、巫浄の娘さんはまだ戻られないですかね・・・・ちと、遅くないですか」
 
 
「ほんとに心配性だなあ、刀崎さん。・・・・それから、いいかげん名前を呼んでくださいよ。いつまでも巫浄の、なんて、なんか複雑な顔してますよ」
 
 
「そりゃあ、もちろん年寄りの嫌みですよ。なんのかんのと、ダダこねて。二つくらい歳が上だとか埒もつかない理由をつけて。・・・さっさと遠野の姓になればいいってんですよ。まあ、七夜がよけりゃ七夜再興ってのもいいんですがね。まとまりがないのはいけませんよ・・・・・あの娘が志貴先生にふさわしいかどうか、認めているかどうか・・・・、
この片腕見ればわかるでしょ」
見張り親父、刀崎はぶらんと、存在しない腕を振って見せた。
 
 
「・・・・・・・」遠野志貴は反撃できない。しかも顔が赤い。
 
 
「ついでに言わせてもらいますがね、この診療所でやってることは人の仕事といえるようなことじゃあない。・・・・救われた人間はそりゃ、いいんでしょうがね。・・・もちろんわたしもですがね・・・・・でもねえ、志貴先生、あんたの本当の仕事はここで、二人なかよく生きていくことだと、わたしは思いますよ。だから、あの娘の言うことをよおく聞いてくれぐれも考え無しで動いたりしちゃいけませんよ・・・・・志貴先生、
 
 
あんたのその目は、正宗も村正も及ばない、根源の名刀だ。
 
 
くれぐれも、めったなことじゃあ抜いちゃいけませんよ・・・・」
 
 
「・・・・・・・」
そっと、己の眼鏡に指をやる遠野志貴。無意識に中央のフレームをおさえる。
 
 
「説教になりましたが、そういうわけでこれからも巫浄の、で呼ばせてもらいます。
それでは、戸締まりには気をつけてくださいよ」
好きなことを言うだけ言って刀崎の見張り親父は帰っていった。
 
 
「あれだけズバズバ言ってれば普通、禿げないと思うんだけどな・・・・・・」
それは遠野志貴のささやかな反撃だったのか。苦笑いして、一息。
 
 
 
しゃら。ら。ら。しゃらららら・・・。しゃら。ら。ら。しゃらららら・・・・
 
 
蒼白い月をおもわすピアノ曲の呼び出し音。固定電話にメロディがあってなぜ悪い。
 
 
「はい、遠野・・・ああ」
同棲相手、いやさ同居人からの連絡。・・・・すこし意地になっている若者である。
入院予定患者のための「腕」を人形師に注文していたのだが、それが出来たらしいので取りにいってもらっていたのだ。電話の向こうでなにやらかなり出来上がっている様子。
 
 
「今夜を、帰れません」
 
 
ということだ。「明日が、帰ります」だそうで。帰ってきて欲しいのは貴女なんですが。
むこうで少し調べものがあるとかなんとか・・・・
しょうがない、今夜ははさびしく独り寝しよう。・・・・体力の回復にはちょうどよいかもしれない・・・・次の患者さんは少々てこずりそうだし。徹夜が続いてもいいように。
 
 
診療所の戸締まりをする遠野志貴。子供の頃、鬼神のような奇襲にあい自分を除いて一族郎党皆殺し、という体験をしただけあって、その戸締まりは完璧である。たとえ相手が人外の魔術師であろうともそう簡単には入って来れないほどだ。
 
 
寝室には月の光がはいるようにしてある。自分は月が好きなのか嫌いのなのか、よく分からないが、人生の節目節目には、あまりにもきれいな月が浮かんでいた。それを考えると月の光を寝所に求めることは、波の激しい人生を望んでいるのか、ということになるのだが。
 
 
眠る前、一番最後にやることは決まっている。明かりを消すことでもなくラジオの音を小さくすることでもなく目覚ましをかけることでもなく、眼鏡を、外すことだ。
 
ざざざ
じじじ
ざざーーーーーーっっ
 
ざざあっ・・・・・一気に視界に「線」が走る。継ぎ接ぎの線、モノが壊れやすい線・・・・黒い線・・・・それを、もし、ナイフでなぞれば・・・・モノは・・・・
 
 
そのモノであることを、やめてしまう。
 
 
そんな線が見える、目。眼鏡を外せば、それが見える。見える以上、思うことは一つ・・・・やることは・・・・
 
 
その前に、寝てしまう。この目とも長いつきあいだ。御しきることはできなくとも、御することはできる。そうでなければ・・・・こちらが・・・・・ふわあ・・・・・
 
夢はなるたけ、視ないようにしている。夢のなかで線がみえたらたまらない。
 
 
すう・・・・・・赤ん坊にも負けない寝つきはそういうわけで、能力をコントロールするテクニックのひとつなのだ。深層睡眠まで一気に沈降する・・・・・
 
 
どんどんどんどんどん!!!
 
「遠野先生!遠野先生はおいでですか、夜分遅くにすいません、遠野先生は!!」
戸締まりは完璧である以上、少々扉を叩いたくらいでは遠野志貴は起きたりしない。
月の光が入るくらいであるから、この緊急のメッセージも寝室に届いていないはずはないのだが、遠野志貴は起きてこない。このくらいで目覚める神経ならとっくの昔に狂死している。この状態の遠野志貴を目覚めさせることのできる女は出かけていて明日帰るという。
 
 
どんどんどんどんどん!!「遠野先生!すみません!どうしても診ていただいたいんです!わたしの子供が、輝花が苦しんでるんです!お願いします、遠野先生!!」
 
 
ここで遠野志貴が目を覚まし、入り口のあたりを見おろしてみれば、そこに刀崎の親父が言ったあの母娘の姿を見ただろう。髪を振り乱しながら扉を叩く赤宮輝亜の姿はとても今をときめくスターとは思えない。どうやってか、戻ってきたらしい。刀崎に見つからないここまでのルートというのはないでもないが、まともな道ではない、山を転がるようなやり方でないと辿り着けない。まさに、執念。そのガードの固さに逆に、真実の匂いを感じてしまったのだろう。深読みしすぎて人生大損するパターンである。
 
 
ともあれ、遠野志貴は起きてこない。眠り続ける。千年城の真組の姫君のように。
 
 
しばらくすると、悲痛な声が止む。代わりに、低くくぐもった声がすると・・・・・
 
 
ぱちぱち
ぱちぱち・・・
ぱちぱち・・・・
 
 
危険な赤や黄色や白を連想させる、熱い酸素が爆ぜる音が・・・・・
めらめらめらめら・・・・・それがすぐさま大量の酸素を呑み込み巨大化する音へ
 
 
白くペンキが塗ってあった診療所の木製の塀が燃えている・・・・・いわゆる火事。
 
 
その火が火炎となり、すぐさま轟火となり診療所全てを呑み込むくらいになればさすがに遠野志貴も目覚めただろうが、そこが現世の続きかどうかは保証できない。
 
だが、結局そうなる前に診療所の対火設備が作動しはじめた。手伝い女性が育てている、トーテムポールのようなバカ高いサボテンである。そこから水がホースのように吹き出すと、アッという間に火を消してしまう。サボテンが火点近くまで動いたような気もするが誰も確認してない。
 
 
アーッアーッアーッアーッアーッ
 
 
サボテンがエマージェンシーを押したのとオペラ歌手もびっくりの声量の悲鳴とで遠野志貴はようやく目を覚ました。反射的に眼鏡をかける。それからの反応は凄まじく早い。
知ってたくせに意地なってわざと起きなかったのではないかと疑われるほど対応が素早い。
 
 
悲鳴のもとを視認するのは当然として・・・・・。
 
見たことがあるようなないような、女性が青い炎に包まれた両手を上に上げて・・・バンザイのような格好で悲鳴をあげながら焼かれた塀の外でくるくる踊っている・・・・水を求める砂漠の民の民族舞踊のような・・・・のんきに感想までおぼえながら寝室の窓からそこまで一息に飛び降りる!。火を飲まないように目の保護をかね女性の顔を手で覆う。
 
「ジョニー!!ウオター!水だ!」サボテンに怒鳴りながら命令すると再び水が放出される。
砂漠の慈雨一年分くらいだろうか。けっこうな水量だ。当然、女性ともどもびしょぬれになる。
 
 
「一体・・・・どうしたんだ・・・・」
眼鏡も濡れた遠野志貴。
一連の動きはほぼ、身体が自動的にやったことで、頭で判断したことではない。たとえでいうなら、脳みそはまだ寝室におり、ぼけーっと己たちを見おろしているような状態。
放火犯が火をつけるのに失敗して、自分の手につけてしまったのか?
それとも・・・・・
 
 
「ずいぶんもったいつけてたが、ここのお医者は消防士の真似事までするのかよ・・・オレの天敵かもしんねえー、ケケケ。
こいつは当たりかもしれないよ、マミー!!」
 
悪意と敵意で嘲りをはさんだサンドイッチのような、破壊寸前のラジオであの世からの放送をかろうじて受信しているような、人の耳には聞くに耐えない”声”。
学生時分にかなりの修羅場をくぐってきた遠野志貴だが、それでも怖気がくる。
いや、それは衝動。心臓の中心に血流がゾン、と集束し、肉体を列震させる。
気に入らない、気にくわない玩具が耳障りなことを。意識が、銀の歯車が、切り替わる。
眼鏡を外して、今すぐに線をなぞって「破壊」してやりたくなる・・・・・!
 
 
ナイフはないが、この手で十分。ひたすらに耳障りなだけで、威圧感はない。敵するほどの力はない。その薄い皮膚にやわらかい肌に儚げな肉に手刀で突き入れれば・・・・・・!
 
 
眼鏡の向こうに、緑の門柱灯に照らされた、左脇に赤い火、右脇に青い火を控えさせて、狂った強い色彩に塗りつぶされた女の子が居る・・・・「ママあ・・」怯えた顔で
 
 
「探し求めた素敵なお医者はこんなに若くてハンサムだ!たまらないねえ、マミー!!
わたしたちを助けて、ドクター!!お願い、ティチャー!!頼むよ、べいびー!!けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ!!」
 
 
そして、そのさらけだされた腹部には・・・・・・もりあがり形を成した異形の肉面が。カン高くて耳障りな笑い声を吐き続ける。それも道理、歪む口は獣のかたちをもっていた。
 
 
それは怪奇小説にのみでてくる、つくりものの病。このような病が現実にあろうか。
毒深くして陰証。吊り上がった目と尖った鼻と裂けた口をもつ疽腫・・・・・
伝説に言う「人面疽」・・・・・いやさ、これはケダモノの形。敢えて呼ぶなら
 
 
「狐の・・・・・」
狐面疽・・・・・・とでも。こんなものを腹に宿してどうやって生きていける。
おそらくは、ここを探していたのではない。ここに来るしか、なかったのだ。
遠野診療所へ。自分の元へ。この母娘は。久我峰の紹介であったが間違いではなかった。
 
 
「と、遠野・・・・先生・・・・・あなたが・・・・・」
もはや影もなく雑巾のようになった女が、呆けたように目の前の青年を見る。
寝間着でずぶ濡れているが、眼鏡が、目の光だけがこの人外の光景を恐れることもなく、射抜くように見つめている。間違いなく縋るべき強者。頼むべき道の達人。
なれど身体が凍る。その目の光の前では、わずかでも動けばバラバラにされそうで。
二本の足がついている妖剣・・・・患者を労る言葉も励ます暖かい心もなく、ただ。
 
 
苦痛の源を、一振りで、ころしてしまえるような・・・・・・
 
 
助けてください、とだから言えなくなった。この人間に出来ることは・・・・
 
 
命に別状はない、と、親切ではあったが体よく阻まれたあの農家の男性は言っていたが、それは正解だけどその答にはもう耐えられない・・・。狐の火は日に日に強くなっている。
周囲を誤魔化すにも限界がある・・・・もはや、なりふりかまっていられなかった。
 
 
けれど、こうして目の前にしてみれば・・・
 
 
自分たちなど見ていない、なにか、べつのものを見ているような・・・・・
 
 
遠野 志貴
 
 
話を聞くべきだろうか。これまでの詳しい経緯を。患者の状態を。原因とおもわれる事件を。狐火に両手を焼かれた母親に、泣き顔しかつくれないような娘に、何を聞けばいいだろうか。この世には不思議なことなどなにもない。異常な事態には一筋ではいかぬ絡みに絡んだ常ならぬ原因があるだけのことで。
 
 
こんなことになったのも、なにか原因があるはずで。
それを取り除かなければ・・・・・それを理解せぬうちは・・・・
 
 
「くれぐれも、めったなことじゃあ抜いちゃいけませんよ・・・・」
さきほどの刀崎の親父の言葉が脳裏に蘇る。
 
 
「いうまでもないことですけど、志貴さんの身体はもう、ぼろぼろなんですから。
くれぐれも、わたしの留守中に勝手に”執刀”したりしちゃだめですよ」
同棲、いやさ同居人の・・・・けれど、なにもかも、指の先、髪の毛の一本、心の闇の闇まで愛している女性がいつもくどいほどに云うセリフも。それを言うときだけ、その宝石の瞳が柔らかさを失う。まるで太古の虫のように自分の瞳に封じ込めようとするかのようにじいっと凝視する。
 
 
「志貴さんのやってることは、基本的に余計なお世話だと思います。どうもこのところ、噂が広がりすぎて・・・・ヘンに利用される前に、どこかへ姿を隠した方がいいかも知れませんね。すこし真面目に考えておいて下さい・・・・それは、ここはわたしも好きですけれど」
 
 
「世の中には悪い人も勝手な人もいるんですよ。必殺仕事人が仕事してるのに、裁判官を呼ぶのは野暮ってものです。苦しみにはそれ相応の理由があるんです。苦しむしかないような、痛みを受け容れるしかないような時が。・・・・・・わたしがそんなこと言ってもあまり、説得力がありませんね。・・・・あはは」
 
 
「志貴さん、死ぬときはやはり痛いんでしょうか」
 
 
確かに。言うとおりだと思う。そばにいないと、あんな狐の化け物がいるというのに、彼女のことばかり考える。どうも、いけないな。
 
 
「・・・なーにをボケッとしてんだ、この先生様は。やっぱ寝ぼけてるのか?なんかダメそうだぜマミー。あー、先に言っとくがな。狐だからってオレをどうこうしない方がいいぜ。実はオレはお稲荷様のお使いの由緒正しい狐なんだ。赤宮って名字で分かるだろう?。
最近、この母親が仕事にかまけて祭祀をほっとくわ、仕事のストレスを娘にぶつけるわ、いわゆる虐待ってやつだ、ためにその方面の描写のリアルなこと。文学賞をとれたのもそのおかげだ。嘘だと思ったらこの子の痣ついた顔を見てみな、ズボンも脱がして足も見てみるか?それを見るにみかけたこの子の祖母が、オレに頼んでこの子が虐められないようにしているわけさ。・・・・・確かに日常生活じゃ不便かもしれねえが、どうせこの子は不登校だしな、家にいれば帰ってきた母親のストレス解消のおもちゃ。べつに大きく困るようなことはないはずだぜ。腹についたのは、顔や尻につくよりはなんぼかましだろう、服で隠せるしな。そのあたりをこんこんとこのバカ母には何度も諭してやったのに、頭が悪いのかなかなか理解しようとしねえ。ドラマなんか書いてるから現実を認めねえのさ・・・・手を焼いてやったら口述でまだ仕事しやがるしな。あきれてモノが藤ねえ、じゃない、言えねえ。だから、この子の調子が上がってきたら、火力を上げて今度は顔を焼いてやろうと思ってな、そうすりゃもう仕事どころじゃねえだろう・・・そう言ってやったら必死こいて医者にかかってやんの。・・・・・どうにかできるわけがねえじゃねえか。
ガマの祟りなんかとは違うんだ。キセルの油を溶かして呑み込ませたってダメだし、大人しく外科手術なんか受けてやるはずがねえだろう。バカだぜ、マミー。そうしたら、最後の奥の手だってんで、先生、アンタのところへ来たわけだ。ムチャクチャだろう?けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」
 
 
「う・・・・・うそよ!!そ、そんなの嘘よ!!そんなの狐の言うこと信じる行者もいたけど・・・先生・・・輝花(きか)!その狐、黙らせなさい!」
 
 
「ばーか!輝花はオレの味方だ!一日中、ずっといっしょにいるんだもんなあ。経験値が違うんだよ。なあ、輝花。この先生に、オレをどうにかしたりしないよう頼んでくれよ。
どうも、この先生はなんか違う。オレでさえ恐さを感じる・・・なんかやべえ・・・。
オレたち、友だちじゃないか。オレはお前を守ってやるし、お前はオレを守ってくれ」
 
 
「なっ!?なんてことを・・・・先生、この放火狐のいうことなんか信じちゃダメ!!」
「フン・・・・・ライターで火をつけたのはアンタじゃないかね、マミー。この先生が起きてこないモンだから。さすがにやりすぎだと思ったから手に火をつけてオレは止めてやったんだ。この通り、この母親は大嘘つきだ。信じないほうがいいぜえ、先生」
 
 
「どうなんだろうね・・・・・・・」
狐と人の両者の言い分を前にして、ゆらりと遠野志貴が眼鏡に手をやる・・・・・
まだ、外さない。が、立ち上る妖気がまだ続けようとした両者を黙らせる。
 
 
「きか、ちゃん・・・か。輝く、花、とか書くのかな?」
そして、当事者に正対する。遠野志貴先生もいろいろここまで経験を積んできた。
 
 
「きみは、どうしてほしい?痛くしないで、お腹を元に戻すこともできるよ」
自分に問いが、自分の意志が聞かれるとはおもってなかったのだろう。一瞬、目を丸くして。返答にはしばらく、時間がかかった。周囲の雑音は、視線で封じられている。
 
 
「・・・・・・・」輝花は小声で返答。
 
「え?なに」優しく囁いてもう一度、言わせる。
 
 
「・・・・・きーくんをころさないで・・・・」
 
きーくん、という子供らしいネーミングはまったくあってないが、狐面疽のことだろう。
 
 
「やったー!勝訴だvサイン、これがほんとの勝疽だけけけ」
勝利を確信した叫びをあげる。「ホントの名前は吉四六(きっちょむ)てんだけどな・・・・・やはり子供の味方の正義は勝つ!真実はいつもひとつ、見た目は狐、頭脳も狐、その名は!!」
 
 
「輝花!!アンタ!!」母親、輝亜の”蹴り”が飛ぶ。いくらここまでの苦労をパーにされ裏切られたとはいえ、手が使えないとはいえ、子供に蹴りはやりすぎだろう。しかも当たれば顎が割れるような威力。あっさり遠野志貴に防がれたとはいえ。輝花はそれに反応もしなかった。それは”彼女”を連想させる。
 
 
「でも、きーくんも・・・ママをいじめないでえ・・・・・・」
 
おそらく、そのまま蹴りをくらったとしても同じことを言っただろう。輝花は泣く。
泣き声を聞きながら、遠野志貴は打つ手の無さを感じていた。
当事者、患者である輝花が「手術」、狐面の切除を望まないのだから話は済んでいる。
あとは、塀を焼いた賠償金の交渉くらいなものだろう。やることは。
 
 
だが、これでいいのだろうか・・・・・・・
 
有彦のコーディネートを通過した件であればこのような迷いはない。ひたすら執刀にのみ集中しておけばよい。人外への殺戮衝動のコントロールもだいぶ、巧くなってきた。
 
だが・・・・この迷い。
 
刀崎の親父さんに心配されるわけだ。こんなことも割り切れないのか。
彼女の助言がなければ、一歩も踏み込めないのか。
あの子の本音は、そうなのか。聞き出す力が自分にないだけ。
 
 
魔の眼。魔眼。直死の魔眼。
 
 
ころすことはかんたんなのに、いかすことはむつかしい。
 
 
狐が笑うなか炎に包まれる母と娘。未来視ではないのに、そんな光景が、見えるようで。
 
 
「ああ・・・・・・」
たまらなくなって、月をみあげた。根源の妖刀が鞘を乞う。宝石の瞳をもつ、永遠の伴侶。
ここにいてくれれば、なにか、もっと、冴えた方法を考えてくれるはず・・・あの人は策士だから
 
 
「さあ、これでオレの正義が分かっただろう、これでも分からねえなら次の医者でも行者でも、それとも魔術師でも探してくるがいいさ。けけけけけけけけけけけけけけ・・・・」
狐面吉四六の勝ち誇った笑い声が響く。耳障りだが、輝亜は怒りを通り越して呆けて、輝花はしくしくと泣き続け、遠野志貴も・・・・・その笑いを殺せない。
 
 
だが
 
 
ウオー・・・・・・・オオオオオオオ・・・・・オオオ・・・・
 
 
「な、なんだ・・・・・」
 
滅びたはずの狼の遠吠え、ではない。が、遠方から夜気を駆けてぬけて、音が聞こえる。
エンジン音であることにはすぐ気づいた。だが、はんぱな速度ではない。どんどん威力と大きさを増してえんえんと続く向日葵の道を疾走してきている。こちらを狙う襲撃の速度。
緩められることはなく、どういう技なのかひたすら加速するようにしてこちらに向かっている・・・・単機。車では、こんなマネは出来ない。疾走する爆音に気づいた刀崎家ではあわてて車の用意をするが、間に合うはずもない。バイク・・・・ライダーは道を知り尽くしているらしい。遮られることなく邪魔されることなく全く迷うことなく最短コースで、遠野診療所に向かっている。その代わり近所迷惑なんのその、排気音の凄まじいこと。
何か燃料にやばいものを使用しているのではないかと思われた。林の動物たちにしてみれば自分たちの時間領域を破壊しに来た怪物以外のなにものでもない。だが首を縮めて大人しくしていれば、怪物はすぐに通り過ぎる。目的は自分たちではない、この先にある。
一番頭にある大きな一つ目から強い光を吐き出して闇を裂く。その尻から吐く爆音は夜の気配を粉砕する。が、あまりに速すぎて一瞬のことだ。すぐに、元に戻る。
 
 
ただ、その鉄の怪物を操っているらしい・・・・・者の瞳の輝きが長く光を曳き、不思議と夜の闇に残った。自分たちの相ではない珍しい昆虫のような硬質のそれが樹々の中に。
 
 
博物学者がここに採集にでもきていれば、教えてくれただろう。二種類の輝きの色。
 
 
ひとつは、「翡翠」
 
 
もうひとつは・・・・・
 
 
オンオンオンオンオンオンオンオンオンッ・・・・・・・
 
 
ドウンッッ
 
 
大型サイドカーつきバイクが遠野診療所に一直線に突っ込んできて、ドリフトかまして急停車。荒々しさの極みであるが、あがる土煙の量を完璧に計算していたように、待ち構える者たちに危険を感じさせなかった。実際、誰も一歩たりとも後退していない。
 
 
「ただいま、志貴さん。翡翠ちゃん、無理言っちゃったけど、どうもありがとうね。
おかげでなんとなくセーフ・・・・かな?」
メットもなくサイドに乗っていた、Tシャツとジーンズの若い女がぴょん、と出てきて。
 
 
その瞳の色は「琥珀」。
いろいろあって、現在、遠野志貴と一緒に住んでいる、お手伝いの女性である。
助手というかアシスタントというか、どのくらい彼女の存在が支えになってあてにしているのか・・・・それはスグに分かる。
 
 
「ど、どうして・・・・それでになんで翡翠が・・・・ほんとに?翡翠・・・・」
口をぱっくり開けた遠野志貴が、あうあうと。確かに電話では・・・・明日・・・
 
「志貴様、お久しぶりです」
慣れない他人は分からないだろうが、ヘルメットを脱ぎ確かに翡翠色の瞳に親愛の笑みをこめて、大型バイクの女性ライダーが挨拶する。少し伸ばした髪に黒ツナギが反則的に似合っている。
 
「あ、ああ・・・・・翡翠・・・」
鋼鉄の荒馬を自在に操る翡翠というのは・・・・意外というかなんというか。彼女の職業を考えると、屋敷でともに暮らしている時の思い出が・・・・はあ。悪くないけど。
 
 
「内緒にしてましたから知らないのも無理ありませんが、志貴さんには内緒にするようにおしとやかな翡翠ちゃんから頼まれてたんですけどね。いろいろとこの仕事には足がいりますもので・・・・乾さんとたまに日本を西東〜って。秋葉さまも公認ですからご安心を・・・・さて、と。翡翠ちゃんのメージと秘密を引き替えになんとか間に合ったようですし・・・・いきましょうか?」
琥珀色の瞳が輝いた。にこやかな笑顔の中に、ぎらり、と一瞬。女虎のごとく。
 
 
「アンタは一体なんなのよ!!いきなり現れてきて・・・・・」
「そうだそうだ!!先生のなんなのさ!!スピード違反だ名を名乗れ!!」
一瞬、気圧されたのと場の空気を完全に乱されたことに逆キレして輝亜と吉四六が怒鳴りつける。たかがアシスタントの女風情になんで主導権を奪われなければならない?
 
 
そして、琥珀の女は答えて曰く・・・・・・・・「遠野診療所のお手伝い、人呼んで・・・
 
 
奈須ピノコ
 
 
・・・・・・いやー一発ネタ。こんなんでましたけど」
 
 
 
ひゅるるる・・・・・・風が啼いている。
こんやは、とても、つきが、きれい・・・・・・・・
 
 
 
「こ、琥珀さん・・・・・・」
「ね、姉さん・・・・・・・」
 
 
「ああ、志貴さん。もう解禁ですから。いくらでも呼んでやってください。
翡翠ちゃん、秘密をさらすのも承知で夜中飛ばしてくれてありがとうね、これからも仲良し姉妹でいようね。さあ、刀崎さんがおっとり刀で来る前に、段取りつけちゃいましょうか。ずいぶんと夜遅いし、疲れましたし、子供さんもいらっしゃいますし、わたしがいないのに志貴さん一人で濡れてますし」
 
 
「ふざけ・・・・」
「こんな三流以下のコメディアン、荼毘に付してや・・・」
 
 
「志貴さん、翡翠と琥珀の姉妹が揃いましたから、身体のことは心配いりません。全力でサポートいたします。ちょっと難しい術式になると思いますが・・・・志貴さんもレベルアップしてますから、大丈夫、太鼓判。で、あの女の子のお腹にある狐さんを切除してもらえますか?」
けろっと、琥珀は遠野志貴に指示を出す。棚の上にある調味料をとってください、というような気軽さに。彼らの存在など、台所の据え付け棚に乗るほどのもの、とでも。
 
 
「琥珀さんが、そういうなら・・・・」
乾有彦を通さない飛び込みの話を受けるなど、通常の琥珀らしくない。
だが、その外見からは考えれないほどに策士であり頭の回転が速い琥珀が状況を理解していないはずもなく、なにより、なぜこんな夜遅く、大急ぎで帰ってきたのか・・・・それらを取り合わせてみれば、その言に従うになんの迷いもない。
 
 
「ぬわっ!!なんだよそりゃあ!!いきなり戻ってきた女のいうことなんか聞きやがっててめえそれでも男か!!患者の意思を最優先するのが医者だろうが!!」
狐眼をつりあげて、浮かぶ狐火でもって威嚇する吉四六。
 
 
「すばらしい助手さんです!そういえば、先ほどのジョークもとっても面白かったですわ、な、ナスビの子?おほほほほほほほほほほほほほほほ!ああ、おかしい。最後の最後に形勢逆転、やはりこうでなくては!」
 
 
「翔んでいらっしゃいますね、赤宮さんは。で、志貴さん。”切除”した狐さんをですね、今度は赤宮さんに”移植”してください。娘さんにつくくらいですから、親御さんにも問題なくぺったりこんと張りつくはずです」
 
 
「「「え?!」」」
遠野志貴、赤宮輝亜、吉四六の声がハモッた。
 
 
ほんとに琥珀は事情を分かっているのか・・・・・さすがに心配になってきた。
現場にいた自分でさえ惑わされ迷い、判断がつきかねたくらいなのだ。それが眼にでたのか、それを見て取ったのか琥珀は笑っていう。
 
 
「事情はばっちり分かっています。なんせ志貴さんがわたしのいない間に浮気しないように盗聴器をあちこちしかけてありますから・・・・全ての会話はわたしの頭の中です」
 
 
「え?」今度は遠野志貴のみ。
「姉さん・・・・」翡翠が苦い顔をして。
 
 
「冗談ですよ〜。志貴さんは嘘でも浮気しませんから。そんな必要はありません。赤宮さんのお話は久我峰さんの関係で前から少し調べていたんですよ。ほんとにお金持ちって陰険ですから。油断してるとすぐに叩き潰されてしまいます。
 
 
というわけで、そうすることが今回のようなケースでは一番簡単でいいんです。
 
 
だって、そうでしょう?そうすることで、赤宮輝亜さんは娘さんを狐さんから守ることができて、狐さんは輝亜さんにとりつけば、輝花さんをいじめないように牽制できる・・・・・同じ身体でいれば、火に焼かれることもないでしょう・・・・やさしい輝花さんが無理して我慢することもない・・・三方丸くおさまって・これで、めでたし、めでたし、と」
 
 
ぱん、と琥珀が手をたたく。
 
 
「そ、そんなバカな話があるわけないでしょ!!なんで私が・・・・・」
さきほどの賞賛など投げ捨て、激高して琥珀に詰め寄る赤宮輝亜。人の顔ではない。
これは、どこか獣じみた・・・・・そう、狐の
 
 
「オ、オレはそれでもいい・・・・・それでもいいぞ!!いやむしろその方がいい!できるんだったらやってくれ・・・・!相討ちに持ち込めればこっちが有利だ・・・・・余所者に赤宮を奪われてなるかよ!!」そして、同じ狐がなぜか懸命に叫ぶ。
 
 
「狐さんの方はこういってますが?」
だが怯えることもなく琥珀は静かに見据え返す。再び場が凍りついてきた。
 
 
「バカなことを・・・・・・バカな女、毒キノコでも食べて脳にあたってんじゃないの。そんな狐の肉塊なんて切り捨てときゃいいのよ!!そうでしょう、遠野先生」
吐き捨てつつも目は爛々と銀色に輝き、その手は永久凍土でも切り裂けそうな爪が包帯を破り触れずとも相手を凍らせるだけの冷気が。まともな人間の業ではない。
 
 
「・・・・・・」
返答はせず、琥珀の解説を聞きながら術式への集中力を高めている遠野志貴。
 
 
「志貴さま」隣に控えた翡翠が、恭しくナイフを渡す。姉妹の力が籠もっている。
 
 
そして・・・・・・
 
 
眼鏡を外すと・・・・・・・ナイフを一閃させる。
問答無用に、その一撃で、全てが終わった。
 
 
 
「・・・・・・ほんとに志貴さんは真打ち向きですねー。お話の最初から出て来ちゃいけないタイプですね。気紛れなルート選択で全てを終わらせてしまう予感が・・・・おまけに最近じゃバトルになりませんし」
「やることない時は訓練してますからね。七夜の技も再現できますよ。・・・・それはいいけど、ちゃんと説明してくださいよ、琥珀さん。・・・・信用してますけど」
 
 
「完全に姉さんの言いなりですね・・・・・志貴さま・・・・・」
しっかりしてるようでいて、どうもこの二人はあぶなかったしいのですよ、という顔で。
 
 

 
 
「虐待は実際にあったみたいですが・・・・どうもそれは、例の冬カナの始まるあたりからのことみたいで・・・それ以前は、家族愛をうたったよーな作品が多かったですしね、あと子育てをネタにしたようなのとか・・オカルトものはなかったみたいですが・・・スタッフいわくロシアからの取材旅行から戻ってきた赤宮先生はずいぶんと・・・・人が変わってしまって・・・勉強の成果かどうかやたらに現地の歴史に詳しくなったり・・・・役者たちとのつき合いも悪くなったり、とか、まあ・・・・・自覚がない割りに下手に霊能力がある人間は、外国行っちゃいけませんね、ほんと。お金やパスポートならともかく魂をスリとられてはどうしようもありませんよ。要するに、元々狐の霊に適応が高い赤宮の血に向こうの「狐」が目をつけて乗っ取ってしまったと。財布のふたを開けたままで知らずにスリの目の前を通ればそういうことにもなるでしょう。それと、具合がよかったんでしょうねえ。身体の相性が。
 
 
ここから先はまあ、わたしの想像も含みますが、帰国してきた娘と会って赤宮のお祖母さまは愕然としたのでしょうね。我が娘が見事なまでに”露狐”に乗っ取られて。
相当な葛藤があったと思いますよ。けど、老齢で現地まで行って調査する体力もない。
遠野家みたいに事業で成功しているようなとこはいいですが、だいたいはひっそりと自分の土地と社を守ってほそぼそ、というのがパターンですから。人に頼めるようなことでもないし。離れて暮らしている孫娘が毎日どういう目にあっているか・・・・
この”露狐”は賢くて尻尾をつかませない。出来れば、赤宮の務めを蔑ろにしていたとはいえ、娘も救ってやりたい・・・・・赤宮の名にかけて、孫には不格好であるけど強力な守護の術をかけて、娘を救うべく一戦を挑んだようですが・・・・・
 
赤宮のお祖母さまは首を噛み切られて死んでいたそうですよ。それから、全身氷漬けにされてたとか・・・・・。そんな目にあっても輝花さんに施された術はさほど弱まらない・・・・。焦ったんじゃないですかねえ・・・殺ってしまったはいいけど、今度は仕返しされる番だと。もしかして、輝花さんは相当な才能なのかもしれません」
 
 
診療所の居間にて琥珀は遠野志貴と翡翠と駆けつけてきた刀崎の親父に説明をしている。
狐面疽・吉四六を強制移植した赤宮輝亜は病室に寝かせてある。内面にて激しい霊的な闘いが行われているようだが、こうなると魔術師でもない人間が手をだすとろくなことにならない。結界ははってあるし、狐同士で死闘してもらうしかない。できることはここまで。
 
 
「見てきた風にいうね、琥珀さん・・・・」
とりあえず、一人にするのも不安であろうし、輝花は居間のソファで寝かせている。しかも、遠野志貴の横。なにげに軽く少女の髪を梳いてみたり。
 
 
「この国は狭いんですよ。そんな話はアンテナをたてている者にはすぐ届くんです・・・・正直に言えば少し手伝ってもらったんですが」
 
 
「そんなわけで、赤宮の吉四六狐を切り取って終わっていたら、事情も知らぬくせに外国産の味方をした、と遠野は退魔組織から嫌われて睨まれる、と。久我峰さんは笑いが止まらないと・・・・・・・近頃のちょっかいは要するにこれが目的ですよ。ほんと、イヤになるでしょう志貴さん。この旧血の世界は・・・・・情報収集は死命をわけますよ」
 
 
琥珀がふだんの仮面を半分だけずらして・・・・・また戻す。
 
 
「しかも、志貴さんは隙だらけだし。前から言ってるように、情報が集積されて話がグツグツ煮詰まってから、ようやく登場してくださればそれでいいんですよ」
翡翠と刀崎親父がウンウンと肯く。時代劇のナントカ侍じゃあるまいし・・・・面白くない遠野志貴である。
 
 
「いや、そういわれても・・・・・寝てたところ火事で起きたわけだし・・・・・
でも、琥珀さん。なんでその赤宮母娘がこっちに来てることが分かったんです?翡翠に夜中、バイクを飛ばさせてまで・・・タイミングばっちりだったじゃないですか」
もしかして、ほんとに全身盗聴器か?と思ったが、それでも間に合うはずはない距離だと思い返す。
 
 
「それはもちろん、志貴さんを心から想う愛の力ですよ」
ぬけぬけと答える琥珀。非常に有り難みが・・・・・ない。はっきりいって萎える。
 
「実は刀崎さんから連絡があったんですよ。昼間、おかしげなのが来たぞと。・・・それでですね、急いで乾さんに連絡して調査をして・・・派手にやってましたからすぐに裏がとれたわけですよ。出来れば早く戻って待ち構える体勢を取りたかったわけです」
 
言われてみればそれしかあるまい。ちなみに、肝心の人形の腕を忘れてきている。
琥珀さんにしては珍しい。ミスというほどでもないが、二度手間になってしまう。
疑念を覚えつつ納得しかけた遠野志貴に
 
 
「うそをつけ。わたしは連絡しとらんが」
刀崎の親父が一言のもとに琥珀の嘘をあばく。
「調査自体は事前に全て終えていたが、やってくるのが今夜だとは思わなかっただけだろう。久我峰にしてみれば、志貴先生お一人の時を狙うのが最も都合がいい。甘いな、巫浄の」
 
「・・・・その点は反省しますが。連絡はもらったじゃないですか。もう忘れてしまったんですか?やですねえ・・・よろしければあとで特製の記憶補強剤でも」
反省のある顔ではない。この女を言い負かせるなら米国大統領選もちょろかろう。
 
 
「翡翠、ほんとはどうなの」
埒があかないな、と遠野志貴は適切な相手に聞いてみる。
 
 
「単純なことです。本来は今夜は帰らないと称して、こっそりと診療所に戻り、志貴さまの夜の素行を確認する予定だったのです。”ふぃーばー”してないかどうか、とか。よくわかりませんが・・・・交通機関はすでにありませんので私がつきそいました。診療所近くで私は引き返す予定でしたが・・帰路途中より、少々荒い運転になりましたのは、火災報知器の通報が姉さんの携帯に入り診療所での火災を知り、急行の必要を認めたためです。小火で消し止められたことも連動続報により知っておりましたが志貴さまの安全を確認するため、急いだ次第です。姉は志貴さまのことを・・・」
姉がぬけぬけとなら、こちらは堂々と。聖堂を守護する騎士のように。
 
「ひ、翡翠ちゃん・・・・・ひど!し、姉妹の絆・暴風編〜!」
 
「志貴さまに問われた以上、私には真実をご報告する義務があります。
ですが・・ずぶ濡れになりながら患者さまを出迎えていらっしゃるとは思いませんでしたから、少々驚きました」
お体のことを考えて、ご自愛なさってください、とその目は云うが、あれは不可抗力だ。
屋敷を離れてまだ心配してもらえるのは幸せなことなのだろう。が、ちょっとなあ・・。
いちおう、選挙権ももってるんだし。でも、ありがとう翡翠。
と、なると火事のことで驚いて夜道を飛ばして帰ってくれば、調べていた赤宮母娘がいる。
これで琥珀さんはあの対応の果断。・・・・・ほんとにかなわんな。
 
 
「琥珀さん・・・・」
遠野志貴がいったんは萎えた気を取り戻して、琥珀に何か言いかける・・・・その時
 
 
バタン・・・・向こうで病室のドアが開いた音。
バタン・・・・向こうで病室のドアが開いた音。
バタン・・・・向こうで病室のドアが開いた音。
 
 
開け閉めを意図的に繰り返すそれは、敵意や悪意、罠、黒い感情をもってこちらを呼んでいるようである。今現在、遠野診療所の病室にいるのは唯一人。風などではない。
 
 
「・・・・・・・・・」
結界は内側から壊されたようだ。塀といい、まったく賠償金を払うのが好きな患者だ。
遠野志貴はソファから立ち上がろうとするが、「う」足下がふらつく。魔眼を特殊に用いた代償で顔には出さないが、体力がごっそりもっていかれている。共感能力、自分の体力を契約した相手に譲るというRPGの僧侶みたいな特殊能力をもつヒスコハが近くにいるからまだいいが。一眠りもせぬうちに、もう一ラウンド荒事は無理っぽい。
とはいえ、そこをやるのが、タナトス系熱血ヒーローの由縁であり醍醐味なのだが。
 
 
「どうやら、決着がついたみたいですね。・・・ちょっと、みてきますね」
さらり、と琥珀が立ち上がって、居間に飾ってある箒をとって歩き出す。
 
「姉さん、わたしも・・・・」
肌寒くなってきている。冷気が流れ込んできているのだ。よくない兆候だ。どこからか、”頑丈なおたま”を取りだして姉に続こうとする翡翠。
 
 
「いいの、いいの。ここでは翡翠ちゃんはお客様だから。お掃除はわたしのお仕事。
BJ役の志貴さんはいい仕事をしてくださいましたし、ここはアシスタントの出番です。
そういうわけで、刀崎さんも休んでてください。弱った志貴さんに膝枕なんかしてもらえると助かりますが」
 
「ふざけてないで、さっさと様子をみてこい。巫浄の。相手が呪いでもかけてきたら面倒なことになるぞ。こっちには魔術の覚えのある者がいないんだ」
 
 
「えへへへ。それでも、この”箒”さえあれば問題ありません。そんなわけで志貴さん、輝花さんが起きてしまわないように守っていてくださいね」
 
すいすい、と行ってしまう琥珀。一瞬、止めようとした遠野志貴だが箒を目にして動きが止まる。視線はそのまま刀崎の親父へ。「大丈夫ですよね」「まあ、あれで大丈夫でないなら刀崎も浮かばれませんが・・・・それより、志貴先生、これがいかにも陽動ってことをお忘れなく。朝が来るまでは油断も隙も見せちゃいけませんよ。この世界の鉄則です」
 
 
琥珀が居間から出ていってから、ちょうど二分後
 
 
 
「抜かば血を吸う骨師の骨刀、抜刀奥義!!賀正箒星!!」
 
 
どっかーん!!
 
 
琥珀の裂帛気合いともに大きな大きな破壊音。いったい、誰に奥義を喰らわしたのか。
通常の人間相手ならまさしく肉片も残るまい。
 
「うおっ!琥珀さんっっ!」
やらかしたのは琥珀であるからべつに心配するこたありゃせんわい、という顔で翡翠と刀崎。「最近、歳を考えているのか、あんばーじゃなかったですね・・・・・」「わからんぞ。発動のセリフだけ頂いて他の技を使うくらいのことはやる・・・・」こそこそと話し合っているうちに、にこにこと琥珀が戻ってきた。ドア音は止み、温度は戻ってきている。
 
 
「いやー、赤宮さんは寝ぼけていたようです。トイレを探して廊下が暗いものですから、頭をぶつけたとかで。ええ、大丈夫です。ちゃんと病室に案内して、ふたたびおやすみになられてます・・・・・腫れ物はだいぶ、ひいたようですね〜、あの調子なら朝まで目が覚めることはないでしょう・・・第2ラウンドはじまってますし」
 
 
過小表現もいいところ・・・・・・・・三人ともそう思ったが、黙っておく。
 
 
察するところ、露狐が吉四六狐を制して、輝亜の身体を自由にして、その余勢を駆って小癪な人間どもを引き裂くつもり、その前に恐怖を味わわせてから・・・・などと大物ぶったことを考えていたのかも知れない。口の達者な手伝い娘が様子を見に来たのを待ち構え・・・惨殺悲劇の幕をあけようとしたところを・・・・・奥義にて一撃。あの箒はいわゆる仕込み杖ならぬ仕込み箒であり、その中に骨師が鍛えた骨刀がはいっている。骨師というのは自分の骨を鍛えて刀にする一族であり、それが刀崎。琥珀の持つ箒に仕込まれているのはここにいる刀崎親父の片腕の骨。2本しかない腕をくれてやるのがどういうことか。
頭の回転も速いが、その抜刀術はなお神速い。
ヴァイタルソースを大いに削られ、せっかく獲得した優位性を保持できなった露狐は、再び相討ちを狙う相手と陣取り合戦をせねばならない・・・・
 
この手の状況を読むカンが働かない者は旧血の世界では生き延びることはできない。
 
 
直死の魔眼であるなら・・・・・・・殺して終わりだろう。その場合、吉四六狐もやはり殺すことになる。
 
 
 
「琥珀さん、今日は疲れたね・・」
 
「志貴さん、もうお休みになってくださいよ。あとはわたしが見ておきますから」
 
いや、そういうことではないのだ。そういうつもりではない。逆だ。
なんだか、意志が通じないと云うか・・・。あえて、ごかまされるのかな・・・・・
 
「そうはいかない。僕はここの所長だから。最後までみておかないと。琥珀さんこそ休んでくださいよ」
遠野志貴はここは強く出る。実を言えばぶっ倒れて眠りを貪りたかったが。
タナトス系熱血ヒーローであったころとは別種の頑張りや踏ん張りが必要になっている。
笑顔、笑顔。余裕、余裕。Vサイン、Vさいん。
 
 
「・・・・なんですか、その意味のないVサインは。乾さんみたいですが」
 
「え?・・・・あ」
無意識に出してしまった。外から見ればつっぱってるのが丸分かりである。
 
 
「わたしらが控えていますから、いいでしょう。なんでしたら、息子と娘も呼びますが」
「そうです。志貴さま、わたしたちの仕事を奪わないでくださいませ」
真打ちはあまり出ずっぱっているのもよくない。ズバッとやることやったら退場するのがよい。あとは彼の噂を残ったものがすればよいのだ。休め休めと刀崎翡翠。
 
「いや・・・それは」
帰還系過保護ヒーローであった頃の過去を清算しなければならないのだが、人の良さが足止めをする。
 
 
「そういうことでしたら、皆で起きていましょう。話でもしていれば、すぐに朝もくるでしょうし。それでは、ちょっと着替えて紅茶でもいれてきますね〜」
結局、琥珀がまとめてしまい。ぱっぱと席をたつ。完全なる姉さん女房。
 
 
「かなわないな・・・・・」ほんとにそう思う。遠野志貴はそんな状態を快く思うのだが。
 
 
「姉さんは基礎的に危うさを秘めているので、志貴さまには手綱を握っていて欲しいのですが」
「そうですなあ・・・・この調子では、ここが診療所と呼ばれなくなる日も近いかもしれませんなあ・・・魔女の研究所とか、宝石印の冥土の土産道場とか」
精進しろとまでは言わないが、このままではいかんぞという顔した人たちがいる。
 
そう言われても、そう簡単に勝てる相手じゃありませんよ。口には出さないが。
 
 
「ん・・・・ママ・・・きーくん・・・・」
遠野志貴は輝花の頭を撫でる。・・・・・これでよかったのだろうか。
 
 
傷痕も残さずに、狐面疽を切除してはみたが・・・・・この先、どうなるか・・・・
そんなことまで考える必要はない、と周りの者はいうだろう。自分たちとの接触は最小限にした方がかえって相手のためなのだと。それが最良なのだと。
 
 
「”あんたがた、よくやってくだすったよ”」
 
突如、居間に老婆の声が聞こえてきて、眉をひそめる三人。いまさら怪異に驚くようなたまではない。その声の源をすぐに感知する。輝花だ。眠ったままの輝花の口から。
寝言・・・ではない。
 
 
「”たった今、吉四六のやつが露狐を喰らいつくした。口だけ達者でだらしがないやつだったけど、最後に根性みせてくれたね。まあ、あんたがたの助力あってのことだけどさ”」
 
 
「どちらさんで?わたしは刀崎中鉄、と申しますが」
本名を名乗ることはこの手の霊物に対しては諸刃。若者を後に塞ぎの役になる刀崎中鉄。
 
 
「”赤宮輝巳、口を借りてるこの子の祖母だよ。正確には、だったもの、だけどねえ。
露狐をなんとか追いつめたんだけど、最後に神経痛が出て返り討ちにあっちまった。このままじゃ死ぬにしねないんで成り行きを見てたんだけど、まあ、なんとか最後にはうまくいったじゃないか。これでやっと安心して狐になれるよ”」
 
 
「はあ。成仏・・・じゃないんですか」
審神者のつもりではなく、ただ聞いてみる遠野志貴。
 
 
「”違う。狐になるのさ。成狐だね。こっちの住人のくせにとぼけた若い衆だね。業の方はぶるっちまうくらいに凄いけどさ。・・・・夢ばかり見てる儀礼知らずのバカ娘と、苦労かけちまった孫娘の面倒をみてくれて、ありがとうよ・・・・・”」
 
 
「いえ、僕は・・・」身体の持ち主は寝たまま、しかも声はなんか鉄火風味の老婆ときては・・・・嬉しくないわけではないが。今夜は振り回されていたばかりであるし。腰を据えて自分の判断で仕事をしたわけではない。感謝を素直に受けていいものかどうか。
琥珀さんもいないのに。そんな若者の感性をみてとるふうでもなく赤宮輝巳は続ける。
 
 
「”それで、お勘定はいくらだい”」
 
 
「え?」
 
 
「”勘定だよ、勘定。ああ、言い回しが旧かったかな。代金だよ。仕事の代金。けっこうとるのかい?”」
ずいぶん経済的だ。身体を失っても狐になっても金銭との縁は途切れないのか。
 
 
「そ、そうですね・・・・・・・塀とか燃やされちゃったし・・・・」
ちなみに、金勘定は得意な方ではない。むしろ苦手。相場もないので言い値になる。
必用経費の算出も非常にむつかしい。ナイフでつー、とするだけのことだから、殺し屋よりはむしろ、ホームラン一本何万円、のスポーツ選手に近いのか?。うーむ・・・・
 
 
悩んでいるところを救うのは、やっぱり琥珀であった。割烹着に白エプロン。
 
 
「それでは、こーんだけ頂きましょう」紅茶の盆を片手で支えて、指を三本。
 
 
「”三本か。まあ妥当かね。若いんだし”」
 
 
「そうですね」そうなのか?と腹の中で唸りつつ遠野志貴。
 
 
「”それじゃ、あたしの口座から払っておいてくれないかい。番号は・・・・・・、印鑑は祭壇の裏にテープで貼り付けてあるから。残りは孫にやっておくれ。墓と葬式代くらいはバカ娘が出すだろうから。それじゃあね”」
それきり、輝花は口を閉じた。そして、寝息が続く。「ううん・・・・おばあちゃん・・・・」ひとつ、寝言をつぶやいて。
 
 
「・・様子を見にいってきます」
老婆の言葉を確認してこようと席を立ちかける遠野志貴。
 
 
「紅茶が冷めてしまいますよ。ひと休みしてから、一緒に行きましょう、志貴さん。
たぶん、お墓代と葬式代の金額を教えにいってるんだと思いますから」
琥珀にあっさりとめられた。
 
 
 
「赤宮もこれで店じまい・・・・・・それでも、血は残っているから・・・厄介なんですよね。野放しの稀なる才能・・・・・混沌(ケダモノ)まっしぐら!・・・・なんてね」
茶を飲みながら、琥珀がまた非常にやばいことをいう。
 
 
「ぐぼっ!」咳き込む遠野志貴。翡翠と刀崎中鉄は涼しい顔だが、楽しい話題ではない。
 
 
「こーんな事件がこれからどんどん増えてきますよ。旧血の家はどんどん滅びていって、監視管理する人間がいなくなる。かといって、家の中で血を重ねすぎるとおかしな人間が現れる。バランスはとうの昔に崩れているんです。志貴さん、こんなことやっぱりやめちゃいませんか。診療所をたたんで、もっと奥地の方へ二人で隠れ住みませんか」
 
 
「え・・・・・・」
笑顔のままに唐突に。思わず肯いてしまいそうで、身体を固く凍らせる遠野志貴。
 
 
「なんといいますか・・・・・」
本性を全天開にした笑顔で、首を傾げて居間の窓より月を見上げる琥珀。
 
 
「あの・・・・月に紅茶の葉を混ぜて、赤くしようというような」
 
 
「・・・・無駄なことだというんですか。僕だって、世界を変えたいとか世直しをしたいとか思っているわけじゃない。けれど、この眼があるかぎり。この眼で世界を見る限り・・・・・・・俺は」
 
 
「ちがいますよ。いつか、ほんとうに月を朱くしてしまうことが心配なんですよ。
 
 
志貴さんはそれだけのなにかをもった、なにか、わたしたちには見られないものを見ることを許された人なんですよ・・・・・だから、正直にいいますと、それがこわいのです」
 
 
「ひとりだけ、朱い月への階(きざはし)をのぼっていってしまうのが。いつか、その眼が人には通れない道を探し出してしまうことが。能力によって変更を余儀なくされる人生って辛いですけどね。それでも」
 
 
「琥珀さんを一人にさせるなんて、俺は・・・・絶対にしないよ」
ひび割れた笑顔をみせる目の前の女から、重い闇が噴きだしてきている。それを全身に浴びても怯むことなく遠野志貴は。真っ直ぐに、告げた。
 
 
返答には、しばし、時間がかかった。その名の通りに。ほんとの気持ちを封じ込めてからまやかしの言葉を紡ぐ以上、時間がかかるのが自然。
 
 
「志貴さんは、長生きしませんし。女の方が長生きですから。いい加減なこと言ったらだめですよ」
 
 
「姉さん、天空に輝く星になりますか」ゆらり、と暗黒翡翠拳の構えをとる翡翠。
「まあ、待て。あまり騒ぐとこの子が起きてしまう」刀崎中鉄がそれを制止し。
 
 
「まあ、旧い血がどんどん導かれるようにここに集まる流れは、わたしも歓迎せんが。
かといって隠居にもまだ若すぎますしな。何事も潮時ってのを考えてが方がいい。
切るだけが人生、ってのも切ないですしな。わははは」
親父が親父ギャグをとばした。しかも若者はわかっていない。
 
「とはいえ、やり始めたらそう簡単にやられないもの、ってのもありますがね。仕事は。
いずれにせよ、決めるのは志貴先生だ。ゆっくり考えてください。
・・・・事も収まったようですし、わたしはこれで帰りますわ。ラジオ体操の監督がありますので」
 
「では、お送りしましょう」刀崎と、それにあわせて翡翠が立ち上がる。
 
「あ、翡翠ちゃんは泊まっていけばいいのに〜。秋葉さまのお許しは頂いてあるんでしょ」
少し焦ったように引き止める琥珀。
 
「いえ。早急に秋葉さまに報告すべきことができましたから。では、姉さん。志貴さま、また」
しらっと言いつつ、最後に振り向き、笑顔をみせて翡翠は出ていった。
 
 
残るは、先の言葉がダメージだったらしい、うつむいた遠野志貴と、その隣で眠る輝花。
と自分だけ。微妙なシュチュエーションに、琥珀にして少し迷う。
 
 
「えー、あのー・・・志貴さん」そっと近づいて話しかける琥珀。
 
「実は、さっきのは・・・なしにしてください。あ、いい加減に言ったことじゃあないんですが、よく考えてみるとですね、志貴さんが言われたことは実現可能だからです。
ただ、主客を逆転してですね、月が赤くなろうが緑になろうが黄色くなろうが・・って黄色は普通ですが、つまり。わたしが志貴さんを一人にしないようにすればいいわけだからでして・・・・・もう、窓からじっと遠くのお庭をみつめている子供じゃないんですから・・・・・・あのー、志貴さん、聞いてます・・・・?やっほー、はいしー?」
 
 
「うーむ、寝てますね。ぐっすり。バッテリー切れですか。メカヒスイちゃんと違って、ゴム動力に切り替える・・・・わけにもいきませんしね」
 
 
少し、ぐるぐると時を持て余す琥珀。空が白みはじめ、モーニングムーンになる。
それを眺めていると、なにをすべきか思い出す。いまさら眠ることなどではない。
 
「まずは、紅茶の後かたづけ。それから、朝食の用意。いきなり二名増えて、ひとりは患者さん用ですからねえ。・・・・このままでも、ふたり風邪なんかひきませんよね・・・・・病室に顔を出してこないといけないし、廊下の掃除もしないといけませんかね・・・・・ジョニーたちに水を補給して、それから・・・人形の腕はどうしようかな、割増料金払ったらコクトーさんが届けてくれないでしょうか・・・それからそれから・・・・・」
段取りを計算しながら、立ち上がる琥珀。まずは、後かたづけだ。
紅茶の盆をさげて居間からでていく。ちら、とまだ遠野志貴が眠りこけているのを見て
 
 
「でもねえ、志貴さん。今さらなんだって言われそうですけど、わたし、けっこう幸せなんですよ。これからも大変そうですが、よろしくお願いしますね」
 
 
少しだけ大きな声で、そんな挨拶をした。
 
 
 
                            (おわり)