臆病者へ捧ぐ


 逃げていた。
 ただひたすら走っていた。
 まったくついていない。正午の放送を乗り切ってすぐに、妙な奴に狙われてしまった。自分の運
のなさをT.Tは恨んでいた。追いかけられて数分、それが数倍にも数十倍にも感じられる。そんな
はずがないことはわかっていたけど。
「っ!」
 樹の根に足を取られるのも、これで何度目になるかわからない。それは相手にしても同じことだ
った。追う男と追われる女。何もない道を逃げたってすぐに追いつかれるに決まっていた。それを
考えると、ここが森であることは幸いだった。
 とは言うものの、やはり体力の差はどうにもならない。そろそろ限界に近づきつつあるのをT.T
は悟っていた。相手は銃を持っている。発砲した弾は今のところ肩と脇腹を一発づつ、極浅く掠め
ただけ。森という環境、距離、扱い慣れているわけのない銃。T.Tの命はそれによって辛うじて救わ
れている。追いつかれたらどうなるか。少なくとも、楽しいことにはならないはずだ。
(あたし美人だからなあ。犯されちゃったりするのかな)
 その通りだった。女性にしては高い背丈にスラリと伸びた手足。モデルと言われても何とか通用
するくらいの外見ではあった。
(スカートじゃなくてよかった)
 そんなことを考えて——また樹の根に足をとられた。
 違ったのは、そこから持ち直せなかったこと。
「わわっ!」
 大きく体勢を崩し、そのまま転倒。
「あたた……」
 言いながら起き上がると、追跡者は、もう、すぐ後ろだった。

 動けなかった。
 動いたら死ぬ。そう思った。
 とりあえずこの場を動かなければ、今すぐに殺されるわけではなさそうだ。相手にその気がある
なら、既にT.Tは死んでいたから。
 ゆっくりと振り向く。立って見下ろしていたのは、今いち冴えない外見の男。汗をだらだら流し
ている。当然だ。この数分の追いかけっこ。疲れていないはずがない。
 男はT.Tに銃を向け、T.Tは男を睨み、
 そのまま数刻が過ぎた。

「要するにさ」
 T.Tが唐突に口を開く。
「あんたは臆病者なんだ」
「!?」
 男の顔に動揺が広がる。それを見たT.Tは得意気に続ける。
「あんだけ必死に追いかけてきたのに、今のこの態度。殺そうと思えば殺せるのにね。いざその時
になって怖くなったんでしょ。それにその銃、弾切れてんじゃないの? 途中から銃声しなかった
し」
 T.Tは立ち上がり、にんまりと笑みを浮かべた。
 実のところ、それはハッタリに過ぎない。目の前の男が「臆病者」だと自信はあったが、確信が
あるわけではない。もし違ったらどうしよう。今にも襲い掛かってきたらどうしよう。そんな恐怖
心を虚勢の笑顔で覆い隠す。男の表情がおかしくてたまらない。いい気味だ。これは仕返しだ。
「はじめて見かけた人間があたしだったんでしょ。死にたくない、だけど人を殺すのも怖い。そん
な気持ちのまま自分これからどうするかも決められないで、とりあえず見かけたあたしに銃を向け
たんだ。最後の一人にならないと助からないんだもんね」
 喋りはじめたら止まらない。
「一度撃ったら、もう引っ込みがつかなくなった。でもそんな気持ちだから、いざ自分が絶対優位
に立ったときに迷うんだ。冷静になって人を殺すのが怖くなった、だけどこのまま立ち去ることも
できなかったんだ。意地っぱり。あぁどうしようどうしよう……」
「黙れよっ!」
 突然、男が動いた。不意をつかれたT.Tはどうすることもできずに、あっという間に地面に押し
倒される。一度こうなると、もうどうすることもできない。
(あ、やば、言い過ぎた)
 自分が判断した通りの人間を挑発したらどうなるか。そんなのちょっと考えればわかるだろうに。
(あー失敗した。逃げるチャンス逃した、こりゃダメだ…・・・)
 後悔したときは、常に手遅れである。
「そうだよ、お前の言う通りだよ悪かったな畜生! なんだよお前! 見てきたように言い当てや
がってさぁ!」
 男の手がT.Tの服にかかる。あ、と思ったときには、彼女の服は縦にまっすぐ破られていた。
「死にたくない俺は死にたくない……連中が悪いんだお前が悪いんだ俺は悪くないっ!」
(おめーそれは違うだろって、キレてしまった人間は理屈は無意味だよねえ。ああ、この、顔が顔
が顔が……この変態がっ!)
「助かりたくないの?」
 T.Tの胸を貪っていた男の動きが止まる。最後のチャンス。失敗しないように、今度は慎重に続
けた。
「ここはバトロワでもハカロワでもないの。ノンフィクションなの。外に助けを求めることができ
るわけ。わかる?
 例えばこの森。これだけの広さの森に火を放てればどうなるか考えなさい。かなりの煙が上がる
はずよね? ここがどこだか知らないけど、船でも飛行機でも衛星でもいいわよ。どっかの誰かが
絶対に異変に気付いてくれる。後は助けが来るまで生き延びればいいの、わかった?」
「助かる……助かるの……?」
 呆然と問いかけてくる男。あともう一息だった。
「そう。わかったらさっさとどきなさい。今でも犯罪者だけど、これ以上の悪さする必要あるの?」
 T.Tの言葉に操られるように、男の体から力が抜ける。立ち上がったその隙を、彼女は見逃さな
かった。
 その体勢のまま、すかさず男の股間を蹴り上げた。男は言葉に表せない悲鳴をあげ、持っていた
銃をとりおとす。それを奪ってしまえば後は楽だった。まだ少し温かい銃身を持ち、思いっきり振
りかぶる。加重されたグリップで男の即頭部を一発。のけぞる男に反撃の隙を与えず、続けて二発
三発と繰り返す。変態の命と自分のプライド、天秤にかけてどっちが重いかなんて明らかだ。まし
てやこんな状況である。躊躇いは一切なく、ただ目の前の目標を破壊することに努めた。

「無理なんだけどね。実際」
 死体を見下ろして、T.Tは言う。
「あたし達はどうせ監視されてるんだから。そんなことやろうとしたら、ゲームから強制終了くら
います。ねえ?」
 最後の「ねぇ?」は、首輪にあるだろう盗聴器に向けての言葉だ。
 とりあえず、これからのことを考える。
 まずは服をどうにかしたかったが、そんなことに構っていられない状況であることも事実。
 考えようによってはいい武器になる。自分は美人。それに、この服装。上手くやれば馬鹿な男に
取り入ることもできるかもしれない。
(あーでも無理かな。葉鍵板住人だし、3Dには興味ないかもね。あたしロリじゃないし)
 それに、今の男のようにヤバイ人と遭遇したら、再び襲われかねない。
(どうしよっかな)
 溜息一つついて、どこともなしに歩き出す。
 片手には、弾切れで使えない銃を、鈍器の代わりに持ちながら。
 そういえば、この男の名前を知らない。
 知る必要すらなかったが。