光の使徒 第一章 ヴァンブリア編
 一話「爆弾魔」

  1.
 夜の車道……その真ん中を、一人の男が歩いている。
 ロングコートを深めに被り、よたよたと歩を進める様は、飲酒者かとも思わせるが、その足取りは危ういものとは違っていた。
 何か不気味な……不思議な足取りである。
 男の容姿は細かくはわからない。180を超える身長と言う以外は、その長いコートに阻まれ、有力な情報は得られなかった。

 ふと前方から眩しいヘッドライトを全開にして急接近する車両があった。
 最近、人気が出てきている、四輪でわざわざ地面を蹴り進むタイプのスポーツカーだ。
 空中に車道が幾らでもあるこの時世に、地を走る車を駆るのは、裕福な人間か一部の特殊な趣味の人物か……何れかと言う代物だ。
 その車には、二人の人影があった。
 男と女……。調子の良い男に遊ばれているのか、女が自らか望んでかは知らないが、その二人はこの深夜にドライブを楽しんでいるようだった。

 歩行者の安全を全く無視した危険な走行で、その車がコートの男のすぐ真横を通り抜ける。
 コートの裾が車に軽く当たり、引っ張られるようにして、その男の身体は、大きく姿勢を乱した。
 彼の手にしていたものと思われる物体が空中に巻き上げられ、その一つが開けられていた車の窓から、その中へと偶然にも、飛び込んだ。
 轢き逃げかと思われる動作を遣って退けた車は、一回クラクションを鳴らしただけで、コートの男に気を止めた様子もなく、凄まじい速度で離れていった。
 片膝をついていたコートの男は、何事もなかったかのように、辺りに散らばった自分の荷物を拾い集めて、顔を軽く歪めた。人を軽蔑したような、不気味な表情へと……。
 すぐ後に激しい爆音が轟く……。彼がそちらの方へと首を回すと、その音のした方向には赤い光が広がっていた。
 彼は口元を歪め、満足そうな笑みを浮かべると、再び不気味な歩みで、その場から歩き出す。
 コートの男が確認した方向は、彼を撥ねた車が走り去っていった道の、その先であった。


  2.
 軌道都市ヴァンブリア。
 シュナイツ合衆国最新鋭区ガニメデの空に浮かぶ浮遊都市は、宇宙への玄関口として利用されている。
 様々な科学技術が応用され、交通機関の主力は、空を自由に走行するエアカーだ。
 そこは色とりどりの高層ビルが立ち並ぶ、言わばメガロポリスであった。同時に一つの小国が丸々収まる程度の広さを備えた、人工の浮遊大陸とも言いえた。
 ヴァンブリアに住む人々は、その空飛ぶ大陸を安堵の地と信じている。
 そして、その本当の姿を見てはいない……。

 COAと書かれた物々しい看板がついた建物に、一人の女性が入っていった。
 最新の設備を持ったホールに、用途別の受付が幾つか並ぶ。床には光でそれぞれの受付へのアナウンスが浮いていた。その女性は、迷わず関係者用の受付のガイド光に従う。
 たまたますれ違った男性が、ふと軽く振り返る。
 彼女は少し世間離れしたような、黒色で少し古い感じのする多少地味ながら美麗なドレスに身を包む。自慢と思われる灰色がかった黒髪は、結い上げてたくし上げられ、そのまま背中へと流されていた。それでも髪の長さはあり、その先は肩の下あたりまで降りていた。
 キリッと締まった顎に、理想的な鼻立ち。ガラスを思わせるその美貌に、金色に縁取られたアンティーク風の眼鏡をかけていた。
 また、両肩の上方に浮遊する二つの黒い玉を模したイミテーションも、余り見られない不思議な感じである。水晶玉のように透明感があるように見え、同時に何者も看破する事の出来ない漆黒を内に秘めていた。変わった飾りを纏うのが流行っているこの時世でも、それは珍しい品物に違いなかった。
 二十代後半……。妙齢と言える年齢に、美麗な容姿を持つ彼女は、服装の特殊さもあいまり、建物の中に居合わせた人々の注目を、一身に受けていた。
「こんにちは」
 建物の受付へと訪れた彼女は、担当の受付嬢に声をかける。
「いらっしゃいませ。今日は何のご用件でしょうか」
 女の不思議な雰囲気に気取られていた受付は、内心にそれを隠し、ビジネスライクに応じた。笑顔を浮かべ、マニュアル通りの対応を心がける。
 その上品そうな様相からも、受付はただの一般人では無いと見て取った。
 黒ドレスの女性は、腰の小物入れから一枚のカードを取り出すと、それを受付テーブルに置いた。
「COA講師の認可を受けているガラテア・ルミナンスです。召喚指示を受け、参上致しました」
 少し古い言葉遣いながら、優雅に彼女……ガラテアは身分を受付に明かした。真っ直ぐと受付の瞳を直視する。
 受付嬢はその様子に内心面食らいながらも彼女の差し出したカードを手に取った。
 受付用テーブルに設置された端末に、そのカードを通し操作を行うと、その結果をディスプレイに表示した。
 カードが本物であることと、パーソナルデータに不振なものが無いことを確認すると、受付嬢は無意識にため息をつき、それから思い直したように慌てて、そのカードをガラテアと名乗った女性へと返却した。
「ガラテア講師……確認しました。確かに予約が入っております。60階、第一会議室です」
「ありがとうございます」
 ガラテアは受付嬢からカードを受け取りながら笑顔で答えると、ホールの奥に設置された、集中総合エレベータへと乗り込んでいった。
 不思議な彼女の動きを受付は目で追い、エレベータが閉まるまで気になっていた。


 空気圧縮を利用した高速エレベータは、乗り手に殆ど負荷を負わせずに望みの階までと導く。柔らかい空気に押し上げられる感じは不思議なものがある。遙か昔に利用されていた、ワイヤーなどで稼働するそれと異なり、「もしもの事」があっても、その気圧を少しずつ解放し、搭乗者を安全に降ろす工夫がされている。
 ワイヤーが切れて一気に落下、ということはあり得ないのだ。

 ガラテアが60階でエレベータを降りると、辺りの様子を確認した。
 エレベータホールの左右には廊下が左右に分かれ、丁度正面にはその階の構造と機能を示す案内板が備え付けられていた。
 廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁の色合いやインテリアなどの雰囲気は、高級ホテルを思わせる上品なものだ。心地よい香りがほのかに漂い、管理者の小さな気遣いを感じる。
 彼女は、自分好みの様子に少し表情を綻ばせると、正面に歩みを進め、案内板を確認する。青いガラスのような板の、光学式ディスプレイに、この階の部屋が表示され、目的の場所を尋ねてきていた。
 ガラテアがその細い指で軽く触れると、案内板はすぐに望みの答えを返してきた。彼女はその案内図を軽く記憶し、赤い絨毯の上を歩き出した。

 第一会議室と書かれたプレートのついた扉は、木製のような特殊な樹脂が使われていた。セラミック製のそれとは異なり、その扉は暖かみを感じる。
 ドアの前に立ったガラテアは、その戸を軽くノックした。
 しかし、しばらく待ってもそれに答える声は、帰っては来なかった。
「?」
 彼女は怪訝に思いながらそのノブに手をかけると、以外にもその戸は開いてしまった。
 電子ロックもされていないとは、と彼女は感想を持ちながら、そのドアを開くと、出迎えたのはただの無人の空間だった。
 その部屋は会議室と称されていた割には狭く、どちらかというと応接間のような印象を持っていた。中央に長テーブルとそれを囲むようにソファが左右に並べられている。部屋の奥には、外が一望できるほど大きなはめ殺しのガラス窓が備え付けられ、その窓からはヴァンブリアの力を見せつけるかのように、雄大な超都市の景色が広がっていた。
 その景色に惹かれるように、ガラテアは部屋の奥……窓際まで寄ると、その街の景色を見渡した。
 数々のエアカーが頻繁に行き来し、自らの目的地へと急ぐ。上下左右立体的な交通網を、それらは忙しく動き回っていた。その情景は働き蟻が動いているようにも見える。
 騒がしい処だ……。ガラテアはそう思った。


 彼女が窓の景色に見とれていると、後方でドアの開く音がした。
 乱暴に開かれたのか、それが壁にぶつかり、跳ね返って閉まる音が続く。
 その音を耳にしたガラテアは、半身だけを軽く振り向かせた。
 彼女の身体の動きにあわせ、その肩の上に浮かぶ黒い二つの球体状のイミテーションも共に動いた。同じ位置を守るように、それらはまるで、既に彼女の体の一部であるように。
 見れば藍色のスーツをラフに着込んだ男が入ってきていた。一見したところ、中年に入るか入らないかの年齢だろうか。彼の顔立ちは悪くない。二枚目とは言えないが、彼の持つ粗野な感じは、好む人間もいるだろう。
 ネクタイは付けておらず、ワイシャツのボタンは幾つか外れていた。きちんと洗練されていないその服装のスタイルは、不快ではないにしろ、他人からの評価に影響を与えるに違いない。
「わりぃ、寝坊した」
 男の一声はそれだった。部屋の奥で窓を覗いていたガラテアへ向け、彼はそう声をかけた。
 初対面の人間ならば、それだけで不愉快になってもおかしくはない様子だ。
 長身に入る彼の表情を、視線だけで見上げるように確認したガラテアは、小さくため息をついた。
「今更、気にもしません」
 男の方へと完全に向き直りながら、彼女は答えた。眼鏡のレンズを通して、澄んだ翡翠色の瞳が男を真っ直ぐに捕らえる。
「そう怒るなよな」
 ガラテアの視線を避けるように、彼は悪い悪いと声を出しながら中央のソファにドンッと腰を降ろした。
 そして彼女に座れ、と手で指示を出すと、彼自身がくつろぎ始めた。ふと顔に生えた無精髭が気になったのか、手でそれを触っている。
「怒ってはいませんが……」
 彼女はそう口にしながら、男と合い向かいにあるソファへ腰を降ろした。
 すると長テーブルの上に置かれた、裸体の女性を象った小さな彫像が彼女の目に入る。その精巧な作りは艶やかで、ガラテアは少し表情を曇らせた。
 それを忘れるように視線を目の前のソファで、今も髭を撫でている男へと向けた。
 彼の名はゼッツ……。COA講師のチーフに当たる一人である。
 主に重火器の扱いに長けた専門家で、COA内での地位は高いほうにある。
 対してガラテアはCOAに所属して日も浅く、専攻は魔術研究及び武闘部門であった。
 しかし最近は講師としての業務は休業していたのだが……。
 ゼッツはガラテアの上司と言う位置づけであるが、自身はそんな素振りを見せない。
 事実、彼女も上司として敬っている気配はなく、お互いあくまで同僚と言う認識であった。
 ……COAとは、ヴァンブリアにおける様々なライセンスを取得するための学舎。
 正式名称はセントラルオーダーアカデミー。
 特殊で専門的な技術を習得した仕事人「オーダー」を育成する為、ヴァンブリア政府の公認を受けて設置された民間組織である。民間の企業といえ、その影響力は大きく、COA所属者は社会的に大きなステータスを得られる。簡単に言えば一流の企業だ。
 その力は、ヴァンブリアにおいて軍需的、社会的にも重要なウェイトを占めている。
 ゼッツは向かいに座ったガラテアの姿を見て、何やらニヤニヤと表情を浮かべる。彼は深々とソファに座り、膝を組んでいた。タバコでもあれば吸いだしそうな勢いだ。
 その彼の仕草に、ガラテアは苦笑を浮かべた。
「どうかしましたか」
 ゼッツのその様子を見て、彼女は無駄と思いつつも尋ねる。
「いやぁ、久々だと思ってな」
 一瞬、なんと答えようかと迷ったようだが、惚けた感じの返事が返る。
「ほんの二週間ぶりです」
「その二週間、お前がいないと淋しくて……」
「ご冗談を」
 ゼッツの言葉を遮るように、ガラテアは割り込んだ。
「この部屋は気に入ったか? お前はこういうところじゃないと好まないと思ってだ」
「実にありがたい配慮ですね」
 二人の会話は何とも淡白な投げ合いであった。明らかに本心で語っていないと言う様子がありありと分かるが、それぞれの皮肉を二人は気にしている様子はない。
 その無意味な会話により、軽い沈黙が落ちた。
「私を呼びつけた理由はなんですか?」
 先に沈黙を破ったのはガラテアの方だった。彼女からは不真面目な回答は許さない、と迫力のある雰囲気が溢れ、緑の瞳が真っ直ぐ彼を貫いていた。
 その問いかけに、ゼッツは視線を宙に泳がせる。
「そうだな……」
 彼は一瞬だけ真剣な表情を浮かべると、すぐにわざとらしく考えるような仕草をする。勿体ぶるような、そんな仕草だ。
 そしてガラテアの顔を見て……。
「ふむ……。眼鏡なんか、かけるようになったんだな」
 そう的外れに続けた。ニヤリと笑みを浮かべて会心の一言という気配であった。
「……伊達眼鏡です」
 ガラテアが再びため息を漏らし、答えた。
 かけていた眼鏡を外し、腰の携帯用バックに収めると一息つく。眼鏡を外した彼女のその容貌は、ゼッツにとって魅力的であった。
「つまらない話をするために呼びつけたのなら、帰ります」
 そう宣言し、彼女は腰を浮かせた。その動きにあわせ、ガラテアの肩の上に浮いている丸い球体も高度を変えた。肩から30センチメートル程度上の位置を保つように。
 ゼッツはその球体の動きに視線を寄せる。興味深そうな視線だと、ガラテアは気づいた。
「ちょっと待ってくれ。悪ふざけが過ぎちまったな」
 ゼッツは素直に謝罪の言葉を述べた。そして、先を続ける。
「その浮いてる玉も、魔法の力なのか?」
 ガラテアはチラッとその浮遊球に視線をまわしてから、再び彼に目を向ける。
 彼の表情は真剣だ。ふざけているのではないと確認すると、彼女は姿勢を正した。
 魔法について聞きたいのだと、ガラテアは予想した。
「厳密に言えば魔法とは少し違います。これは、いわば私の分身……」
 ガラテアは不可解な台詞を言いうと共に、手の平を前に差し出した。それに同調するように、その黒色の球体の一つが差し出された手の上へと乗る。
 まるで体の一部のように、ガラテアはその玉を望むよう動かしている様子だった。それはただの飾りとは思えない、生物的で自然な動きであった。
 拳大のその玉を弄ぶ彼女の様子を見ながら、ゼッツは再び考える。
「先ほどから何を考えているのですか?」
 ガラテアは今一度彼に尋ねた。
「つまりだ……」
 立ち上がっているガラテアを、彼は真剣な面持ちで見上げる。
「魔法のような力が、個性を持つ事はあり得るか、と聞きたい」
 ガラテアにとっても、それは不思議な問いかけに聞こえた。

「ここ最近、奇妙な事件が発生しちまってるんだが……」
 彼はガラテアを呼び出した理由を話し始めた。
「シティ下層の地表区で爆発騒ぎが起こっている」
 地表区。ヴァンブリアシティにおける一番下の階層のことである。
 空を飛ぶ交通手段が多くなったこの時世には、高さによる交通に差異はそれほどない。その代わり、住所には高さの表記が追加されている。
 つまりは、このヴァンリアでは一定の高度ごとにも地区として区切られている。
 三次元表記の住所で、高さを表す単語の一つ「地表区」は、一番下の階層に当たり、徒歩での移動が容易であり、昔ながらの車輪によって走行する交通手段も多い。
 そして人間は、やはり足場がしっかりしている事を好むのか、この地表区に住みたがる者が多かった。人は生まれたときから、落下すれば死亡する事を無意識に認知していると言うのだから、それは当然なのかも知れない。
 すると必然的に人気のある区画の地価は高騰し、今や地表区は最高級地となっている。
 もっとも、落下物による事故も頻繁に起きているのだが……。
「騒ぎ……?」
 ガラテアは聞き返した。騒ぎなどといっても、それが単純なことではないと、彼女には分かっていた。
 正確には事件、と呼ぶべきなのだろう。
 今時、そんな目立つ事件が起これば、COSなり他の治安組織なりがすぐさま解決してしまいそうだが……。
「不可解だと思ったか?」
 考えが表情に出ていたのだろうか。ゼッツはガラテアの顔を見て尋ねてきた。
「魔法が個性を持つ、と言っていましたね?」
「それだ。さすがだな。話が早い」
 頭の回転が速い彼女に感心したように、ゼッツは応じた。
「爆発の原因が不明なんだが……。重火器や爆発物の類ではねえんだ」
「すると……」
「もちろん、ただの魔法でもないぞ」
 ヴァンブリアでは魔力の動いた痕跡も記録される。一般的な「魔法の力」ならば、そこから調査する事も可能だ。
 逆に魔法の力を許可なく使用することは禁止されていた。
「お前のその浮遊球だって、このヴァンブリアじゃ魔法と認識されてない。だからと言って科学と呼べるようなものでもないしな」
 ガラテアは少し考えるように視線を床に向けた。
 この浮遊球のようなイミテーションは、このヴァンブリアに実際には存在する。新しいもの好きの若者が、挙って身につけている流行の飾りだ。だがゼッツがわざわざそれとは異なると認識しているのならば、他の意味合いがあると言うことだ。
 彼女は多少、何事かに迷ってから顔を上げると口を開いた。
「魔法、と一言で言っても、その種類は多数。簡単にあげるだけでも、魔術、呪術、陰陽術、精霊術……」
 魔術の講義かと思える話をはじめる彼女。
「それらは全てが同じく「魔法」と一般人が呼称します。しかし、それは正確には異なる力の根元を扱っています。つまりは……」
 彼女の説明を、ゼッツは難しい顔をしながら聞いていた。
 そして……。
「すまん……。さっぱりわからん」
 と割り込むように彼女に言った。
「……」
 講義を途中で止められ、少し間が抜けた様子のガラテアは、軽く咳払いをする。
「分かりやすく言えば、この街のシステムでは調査できない力は、幾らでもあると言う事です」
「言ってくれるなぁ……」
 彼女の指摘にゼッツは顔をしかめる。
 COAはヴァンブリア政府公認機関であるため、実質上政府の人間に近い性質がある。
 そのCOAに所属しているガラテアがその問題点を指摘するのでは、ゼッツでもさすがに良い顔を出来ない。
「事実を言っただけですから……。実際のところ、魔法と分類される力全てを解析する事など、不可能ですよ」
 悪いことをしたと思ったのか、ガラテアは表情を和らげて言った。
 彼女の結論を聞いて再びゼッツは考えを巡らした。
「事件の詳細は、このファイルを見てくれ」
 彼は答えの代わりに小さなディスクを、ガラテアへ向け投げてよこした。
 一辺が2センチ程度の正方形のディスクで、一般的なメディア媒体である。
「プロテクトコードは通常通りだ」
 情報媒体を引き出すとき、COA職員同士で通じる解読コードが定められている。通常と言う場合は、対応した端末に通すだけで簡単に解読出来るシステムだった。
「はい」
 ディスクをバックに納めて彼女は答えた。
「また後で連絡する。今日は解散だ」
 ガラテアは視線をゼッツに軽く送って挨拶をすると、腰から先の眼鏡を取り出し、顔にかけた。
「眼鏡はない方が可愛いぞ」
 部屋を出て行こうとするガラテアに、ゼッツがそう声をかけたが、彼女からの返事は無かった。


 COAの建物から出ると、ガラテアはそのまま帰路についた。
 高度が高い場所にあり、交通手段はテレポータを利用して中継空中道路を幾つか伝い、徒歩でCOAまで通っていた。
 道のりとしては、近くはない距離だが、彼女は余り気にしている様子はない。
 彼女が自宅としている場所は、中級レベルのマンションである。
 COA所属の者はそれなりに高所得者であるが、彼女はそれほど高いレベルの生活は好んでいなかった。
 一時間を掛けてガラテアが家に帰って思うことは、孤独で在ると言う事実。
 彼女の年齢は20代後半であるが、独りで生活していた。
 普通の女性ならば、それほど苦にはならないかも知れない。
 だがガラテアには子供がいたのだ。しかし現在、その子は手元にはいない。そしてその父親も……。
 運命の悪戯か、宿命なのか、彼女に普通の幸せは与えられていないのだ。
 定められた運命に従うしか無いことに、やりきれないと思った事はあった。
 しかし……それが今まで自分が行ってきた罪への報いだと、彼女は自らを戒めた。

「ロゼ……」
 彼女は、独りの男性を思い出していた。彼女が愛する娘の、その父親。
 彼との婚姻は結んでいない。子を成すための行為を行っただけ。
 それ以来、彼とは会っていない。悔しいが、そんな男の事を思い出してしまう事実を、ガラテアは認めずにいられなかった。

 ゼッツのことが頭をよぎり、彼から受け取っていたメディア媒体の存在を思い出す。
 気を紛らわせるように彼女は、その媒体を読み込むため専用の電子端末へと差し入れた。
 そこには「爆弾騒ぎ」と、彼が呼称した事件の調査ファイルが示されていた。
 発生している場所は、地表区でも余り繁栄していない暗黒街。時間は深夜の遅い時間。
 俗に「品の良い」と言われる場所では起こっていない。逆に言えばそんな場所であるから、余り公にされておらず、世間には知られていなかったのかも知れない。
 起こった件数は、既に6件。被害者はどれも高貴とはほど遠い人種である。
 ただ共通している点は、深夜に外を出歩いていた者達と言うこと。その殆どは、四輪車を走らせている連中であったが……。
 COSの調査では、詳細不明の爆発事故、と結果が出ているだけだった。
 一言で言えば原因不明。一件や二件、この手の事件があっても、被害者の種類によっては見向きもされない内容であったのだろう。
 だが被害数が6件に達した時、COSへヴァンブリア政府から調査命令が下されたという。
 COSとは、セントラルオーダーサービスの略で、COAの姉妹機関であり民間の治安維持組織である。COAと同じく政府公認の機関で実質上ヴァンブリア政府直属の組織に当たる。
 COAからオーダーとなった優秀な人材が、COSに編入される場合が多い。
 ヴァンブリア政府から直接……?
 ガラテアは妙な違和感を覚えずにはいられなかった。
 いくら地上区の事件と言っても、今まで放置していた事件を今更、と言う感じがある。
 犠牲になった人間が政府によってそれほど重要でない人物であるのは明らかだ。
 未来、重要な人物に当たる人間が被害を受ける可能性を防ぐ為か、それとも……?
 ガラテアには裏があるように思えて仕方がなかった。
 この手の事件は、最近のヴァンブリアでは残念ながら、と言うべきか、多発していると言っても良いことなのだ。
 ゼッツの言っていた魔法という件も頭をよぎり、調査をしてみよう、と彼女は心に決めた。


  3.
 翌朝、目覚めたガラテアは出かける為に身なりを整えた。
 ヴァンブリアの風潮からすれば、浮いた存在のガラテアだが、その事は本人も承知していた。
 だが彼女はそれに誇りを持ち、その手入れは入念に行っていた。
 元々ガラテアは、この地の出身者ではない。遠く離れた、全く別の文化を持つ地の人間だったのだ。
 長い独特な色合いを持つ灰色がかった黒髪の手入れ。眉毛をはじめ薄い化粧と爪の手入れまで。
 彼女は自らが美しいということは自覚しており、それなりの自信も持っていた。
 だが同時にそれが心に隙間を作っている事も、また知っていた。
 その美しさを見せたい相手がいなかったから。


 久々の地上区は、彼女にとっても心地が良いと感じた。
 高いビルが平然と立ち並ぶ街の一番底では、天然の光が到達することは殆ど無い。
 その光を浴びることは出来ないが、それでも足場があると言う安心感は、どこかしらにあった。
 ……それが本当の大地から切り離され、宙を浮かぶ人工浮遊大陸であったとしても。

 人工光では光が足りないのか、少し薄暗い公園へとガラテアは足を踏み入れた。
 地上区でも高級住宅街とは程遠い、スラムにも近い寂れた場所。
 人によっては暗黒街と称する場所に、それは存在していた。
 高級地区の多い地表区も、その全てが高級の地域ばかりではない。華やかな表街があれば、同時に裏の街が存在する。
 そこは多少の植木とベンチなどが置かれた、どこかのどかな情景だった。懐かしさを誘う草の臭いが、ここにはあった。
 利用者など殆どいないであろう、子供用の遊戯具が物寂しい……。
 彼女は近くのベンチに腰を降ろし、物思いに耽る。
 自分は何のために生きているのだろう?と。
 子とも引き離され、独り生きている自分。
 今更ながら自分が、幸福というものを欲していたことに気づいた。
 14歳くらいになるかしら……?
 少なくとも6年は会っていない。
 あの子はあれから賢く育っただろうか?
 子を預けた相手は彼女が信頼する人物。きっと大切に育ててくれるだろう。同時にその人物に対し、少なからず嫉妬の心もあった。
 私の事を覚えているだろうか……?
 時々恐ろしい考えに陥るときもある。
 我ながら老けたな……。

 ふと後ろに人の気配を感じて、彼女は顔をめぐらせる。
 そこには一人の青年が立っていた。位置にして5歩程度の距離……。
 ガラテアはその人物に面識があった。
「こんにちは、シオ」
 彼女はその人物に笑顔で声をかける。
 彼は白いロングコートに身を包み、両手はポケットの中に納め、立っている。
 風が軽く吹き抜けると、彼のコートの裾がひらひらと棚引き、そのコートの割れ目から、刀剣と思われるものの柄が、顔を覗かせていた。
 身長は170センチ程度だろうか。長い黒髪を一つにまとめ、それは無造作に背中へと流されていた。
「お久しぶりですね」
 久しぶりと表現するくらい、彼女はここ……地上区には訪れていなかった。
 当然そこの住人と合うのも久しい。
「こんな所に降りて来るなんて、お前こそ……珍しいな」
 その場から動かず、彼は答えた。
 どことなく眠そうな表情をしているが、その視線は至極鋭い……。
「お前は敵が多い。気をつけろよ」
 シオに言われてガラテアは考える。「う〜ん」と、少し惚けたようにも見える仕草を、彼女は行っていた。
「どうして私がここに訪れた事を、知っているのですか?」
「分かっているとは思うが、お前は目立つ。こっちの住人はお前の動きがすぐ分かる」
 こっちの住人……地上区の暗黒街に住む、曰くある人種の事だ。
「……ご苦労なことです」
 軽く顔をしかめながら彼女は答えた。自分の行動が監視されているのは、好ましくは思えない。
「態々こんなところに、何の用なんだ?」
 彼は歩みを進め、ガラテアのすぐ近くまで寄ってくる。
 それにあわせるように彼女は、ベンチに腰掛ける向きをシオの方向へと正した。
 彼が腰に下げているものの柄が目に入る。シオは今時珍しい実体の刀身を持つ剣を下げているのだ。
 そんなものを平気で持ち歩けるのは、この地区くらいであろう。
「調べたいことがあります」
 意味ありげな笑みを浮かべ、ガラテアはシオの顔を見上げた。
 微笑ましい表情をニコリと浮かべ、彼の顔を捉える。
「なるほど。そういうつもりでここにいたのか」
 呆れたような、妙に納得したような表情で、シオは答えた。
 彼はガラテアには下心あり、と見て取ったのだ。
「用件は?」
「最近、こちらで爆発事件が起きていますね?」
「……ああ」
 何か心当たりがあるのか、シオは少し間を置き答えた。
「僕は何も知らない」
 そしてすぐに言葉を続ける。
 それに対して彼女は応えない。変わりにシオの顔を見つめ続けていた。
「……」
 気まずい空気をシオは感じていた。
「……ついこの前もあった」
 ……仕方なく、という風に、彼はボソリとつぶやく。
「2,3日前かな。賭博打ちの男だ。最近羽振りが良く四輪車で遊び回っていた」
 四輪車の持つステータスは大きなものがあると、彼は語った。
「その人が被害者?」
「ああ……」
「……裏はありますか?」
 シオは顎に手を当てて考える。その様子は本当に心当たりが無いように見えるが……。
「只の遊び人だと思う……。奴の運を妬んでいる奴はいるだろうが、殺されるほどでは無いと思うんだが……」
「ただの爆発事件では、ありませんよね。何か分かりませんか?」
「多分、そっちが知っている程度の事しか、僕も知らない」
 ガラテアはなるほどね、とあいづちを打ち、天を仰いだ。
 上空では多くのエアカーが行き来している。それが落ちてこないものかと、旧世代の人間の様に考えていた。
「……あら」
 今まで頬を軽く撫で付けていたそよ風が、少し変わった気がした。
 彼女はシオとは別の人物の気配を感じ、注意をその方向へと向けた。
 二人のいる公園の入り口に、もう一人の若い男が、いつの間にか立っていた。
 何の特徴もないような、あえて表現するならば一般人か。
「ん?」
 シオも振り返る。
「爆発事件の他に、もう一つおかしい事が起こっているんだ」
 そして彼はそう口を開き、言葉を続けた。それと平行して腰の剣に手を当てる。
 そこに立っていた男は、不気味な気配を持っていた。只の人間とは思えない、言うなれば生気の感じられない生きた屍。
「あの人も……。いえ、あれも……最近の事象?」
 ガラテアにはそれが人ではないことが分かった。人の姿をした別のもの……。「あれ」と形容しなおす必要があるもの。
「うむ」
 シオが彼女に答え、刀剣の柄に手を当てると、前屈みに構えを執った瞬間。……公園の入り口に居た男が消えた。
 それとほぼ同時に、ガラテアはベンチから立ち上がる。
 次の瞬間、シュッという何かが風を切る音だけが聞こえてきた。
「ガアアア!」
 一瞬の間を置き、人間のものとは思えぬ雄叫びが轟いた。
 立ち上がっていたガラテアの目の前に、その男は立っていた。
 ガラテアに「あれ」と称された彼は、手を前に突き出し、彼女に掴みかかろうとしたのだろうか。
 だがその手は彼女まで届いていなかった。
 何故なら、ガラテアと男の間に割って入るように、シオが立っていたからだ。
 右手には抜き身の刀身を。左手は男の方へと向け……。
 彼の身体はシオが差し出した左腕に阻まれ、ガラテアの目の前で止まっていた。
 そして……。
 その男の上半身と、下半身は真横に二つへと分かれた。ドサッと音を立て、それぞれの身体は地面に転がり落ちる。
 するとその二つの物体は黒い靄のようなものへと霧散し、消えていった。
「……」
 残された二人は無言で立ちつくす。
 呆れたような、惚けたような表情を浮かべていたガラテアは、手にした刃物を鞘へと収めるシオへと視線をゆっくり向けた。
 その視線に気づいた彼は「こういう事だ」と、目で訴え返してきただけだった。

  4.
 二人は薄暗く狭い路地を歩いていた。
 旧世代にはホームレスと呼ばれた人種達が住んでいたような場所だ。一般に路地裏とも言えそうな場所である。
「どこへ行くつもりなんだ?」
 シオは前を歩く黒ドレスの女性へと声をかけた。
 彼女の容姿は、黒を基調としていた闇に溶ける色合いとはいえ、このような場所には似つかわしくない。
 不衛生を感じさせるこの場に、ガラテアの存在はひどく浮いて見える。それほど上品さを持っている女性が、わざわざこのような所へ来たことに、シオは疑問を感じていた。
 彼女は振り返りながら、口元に手を当て、少し考える素振りを見せた。視線が横へ泳ぎ思考が深いことが伺い知れた。
「この辺りに、少し変わったお店……。そうですね……」
 辺りを見回すようにしながらガラテアは口を開いた。
「例えば、酒場とか宿屋のようなところはありませんか?」
「……?」
 彼女の問いかけにシオの頭の中には疑問符が浮かんでいた。
 酒場はともかく宿屋?
 今時使わない単語だな、と彼は疑問に感じたのだ。
「それはつまり、バーとかホテルということか?」
 今風の呼び方へとシオは言い換え、尋ね返した。
「う〜ん……少し違うのだけど……」
 なんと説明して良いのか分からないと言う風に、ガラテアは悩んでいた。
「分かった。少し変わったバーなら知っている」
 心当たりがあるのか、彼はガラテアの前に立った。そしてあんまり近づきたく無いんだが、と愚痴のように零した。
「そこへ案内して下さい」
 ガラテアは彼の持った印象に、何か確信を持ち、彼の後に続いた。

 シオは今まで通ってきた路地裏よりも、更に奥へと入っていった。
 彼の後をガラテアは不安そうな素振りも見せず、ついて歩く。
 そこはすでに一般人では到達出来ないような不気味なところあった。普通とは言えない、いわば「曰くある」人間が多く棲む場所。犯罪など問題にならないようなところだ。
 物珍しい容姿と美貌を持つガラテアに惹かれたのか、要らぬ心を持つ人間が何人か近づいてきたが、シオの鋭い眼光によって、簡単に迎撃されていった。
 自らの身分を弁えない者は、ここでは生きていけない……。
「ついた」
 一軒の建物の前でシオは立ち止まった。
 その建物は古めかしく、現在使われている技術とは異なる建築方式で造られたような建築物だった。木と漆喰で固められ、薄汚れた外観は、まさにガラテアの望む「酒場」であった。
 彼女はその様子に苦笑する。いかにもか……、と。
「ありがとうございます」
 彼女は礼を述べその建物に入ろうと歩みを進める。
「ちょっと待った。僕は余りお勧めできない」
 感想と言うのか、印象と言うのか……。彼は空気から感じた雰囲気を口にした。
「はい」
 ガラテアは振り返り、優しい表情を浮かべると彼に答えた。
「案内してくれてありがとう。後は一人で行きますね」
「いや、僕も行く」
 一人で行かせるわけにはいかないと思ったのか、シオは反対の意を述べる。
「お勧めできないと言っただけで、行かないわけじゃない」
 シオは無意識に腰に手を当て、得物の武器を確認していた。彼の武器はチャラっと言う音を立て、小さく鳴く。
 ガラテアはふふっと笑みを零すと、そのまま目的の建物の中へ入っていった。

 酒場の中へと入った瞬間、カビ臭い空気が鼻についた。
 店内は古びたフローリングが敷かれ、丸テーブルと椅子が並べられていた。広さはそれほどではなく、その円卓が6組程度綺麗に並べられている。
 空間は薄暗く、壁に備え付けられたアルコールランプと、入口の戸から漏れる光が唯一の光源であった。
 ガラテアは一番奥のカウンターまで進むと、その奥に並べられたアルコール類が目に入った。大きめの棚に様々な酒瓶が綺麗に並んでいる。
 それらの種類を確認するようにガラテアは視線だけを動かしていった。
「ガラテア……」
 後ろからシオが体を軽く小突き、小さな声をかけてきた。何か興味深いものでも見つけたような声であった。
「?」
 ガラテアが何事かと振り返ろうと、視線を回した時……。
「いらっしゃいませぇ」
 突然カウンターの奥から声がした。少し気の抜けるような、それでいて澄んだ声……。
 訓練されているのか、沈黙だけがあった薄暗い空間に、印象的によく響いた。
 ガラテアは一瞬目を細め、シオへ向けようとしていた視線を、声のした方へ向け直す。
 そこにはいつの間にか……本当にいつの間にか、一人の女性が姿を現していた。
 彼女は濃いオリーブ色のプレーンドレスを纏い、ベージュ色の長めの髪の毛を三つ編みにしてまとめ、肩から下へと流していた。大きな胸が生地の薄いドレスを押し上げ、魅力的な様子であった。
 20代前半に見えるその女性は、店を訪れた二人を見て、嬉しそうな笑みを浮かべていた。目元にある黒子が、艶やかだ。
 シオの気配が気構えた事にガラテアは気づいた。彼の持つ警戒の色が強くなる。
「初めてのお客様だねぇ」
 彼女は無邪気に笑いながら、二人に話しかける。両手で「どうぞっ」と言う、大きな仕草をする。
 ガラテアは答えの代わりに、カウンターに腰を下ろした。
「そっちのお兄さんも座った方が良いぞぉ」
 魅力的な容姿とは異なり、かなり幼稚な言葉遣いでカウンターに立つ女性は言った。その台詞は、未だ立ち尽くし鋭い眼光を送るシオへと向けられていた。
「シオ……」
 ガラテアが顔を彼へと向け、笑顔を浮かべると、腰掛けるように促した。
 彼女のそれを見て、納得いかないという仕草をしながらもカウンターへとかけた。
「初めまして、愛名って言います。よろしくねぇ」
 自己紹介をしながら彼女、愛名はカウンター奥の棚から一本の酒瓶を取り、二人の方へ振り返った。
 どこからともなく酒グラスを取り出し、手にしていた瓶の中身を注ぐ。透明で真っ赤な液体がグラスを満たしていった。
 その色はどこか美しく、そして毒々しかった。
 愛名はどうぞ、と言って中身のつがれたグラスを、二人へ向け、カウンターの上を滑らせた。微妙な力加減で、中の液体が波打つが、それが溢れて零れることは無かった。
「私はガラテア。こちらはシオ」
 滑ってきたグラスを受け取ると、ガラテアは答える。そして「よろしくね」と、続けた。
 シオは頷くだけで、注意を愛名へと向けている。
 彼へ向けられたグラスは、彼の目前を通り過ぎ、少し行ったところで止まっていた。
「そんな怖い顔しなくても良いのにぃ」
 あはは、と笑い声をあげて愛名は言った。そして、クスッと一瞬だけ鋭く、そして妖艶な視線をシオへと向けた。
 彼はそれに気づき、更に警戒の色を強める。
「このお酒は何というものですか?」
 そんな二人のやりとりに気づかなかったのか、ガラテアは手にしたグラスの中身を、愛名へと尋ねた。
「ふふふぅ、それはねぇ、ブラッディマリーって言うのよぉ……」
 ブラッディマリーとは、本来カクテルの名前である。しかし彼女は、そのまま酒瓶から取り出した。独立した酒の種類名となると……。
「血を啜る植物、アルラウネを原料に発酵させた美味しいお酒だぞぉ」
「……」
 愛名の台詞をどこまで信じたものかと、シオは勘ぐる。
「効果は媚薬? それとも永遠の眠り?」
 グラスを揺らし、綺麗なルビー色の液体越しに、愛名の姿を見るガラテア。それは、少し挑戦的な問いかけであった。
 彼女の問いに、愛名は少し驚いたような表情を浮かべる。
「そっかぁ、ただの女の子じゃないんだ?」
 再び楽しそうな笑顔を浮かべ、自らよりも年上と見えるガラテアを、愛名は女の子と称した。ガラテアの浮かべる浮遊球に、興味深そうな視線を送っている。
 愛名は、ん〜、と声を出しながら、カウンターの端まで歩き、そこで姿を消した。
「!」
 彼女は、いつの間にかシオの隣に姿を現していた。
 彼は驚き、剣の柄へと手を当てながらカウンター席から立ち上がる。
「目的は、ギルドでしょぉ」
 愛名はシオを無視し、右手で宙に印を結ぶ。白い線が空中に、何もない空間に刻まれゆき、何かの記号となり浮かんでいった。
 紋章術の発動印だと、ガラテアは気づいた。
「ようこそ、魔術師ギルドへ」
 愛名の台詞と同時に、不思議な空気を持った場が生まれた。確かに感じられる「何か」が、そこに出現している。
 何もないように見えるそれは、時々空間が歪んだように背景の像がぼやける。
 ガラテアはチラッと彼女に視線を向けてから、その空間へ足を踏み入れた。

  5.
 焼けた煤の臭いが鼻につき、まるで別世界のように感じられた。
 愛名の作り出した空間へと、一歩足を踏み入れると、そこはすでに別の場所であった。
 前方には、石をあわせて作られたような壁や通路が真っ直ぐと続き、均等な間隔でランプが灯されている。
 ガラテアは自らが小部屋のような場所に立っている事に気づき、足下に魔法陣が描かれているのが目に入った。石で囲まれたそこは、牢獄のような場所にも思えた。
 転送制御の魔法陣……。
 チラッと視線を走らせ、彼女はその意味を解読した。
 司るルーンは、転送と誘導、そして出口。それは転送の呪文をその場へ引きつける魔力が込められている。その許容範囲はそれほど広くはなく、「偶然」に転移の術を使用したものを拾うことはない程度である。
 この魔法陣の意味。つまり、この場を知る者にとっての入口。多少の転送誤差による事故を防ぐため、そして別の部屋へ直接転移されることを防ぐための、魔法的な仕掛けが施されているのだ。
「ここが入口、ですか?」
 ガラテアは後ろを振り返り、闇に向かい声をかけた。
 魔法陣の描かれた小部屋は、明かりは灯されていない。必然的に前方の通路から漏れる光のみでは、闇となる部分が出来る。
 その闇の切れ目には、シオと……。
「そうだぞぉ。ここに用事があったんでしょぉ?」
 闇から溶け出すように現れ、愛名は聞き返してきた。その顔は無邪気なように見えて、どこか冷たい。
 彼女はシオを押しやるようにしてガラテアの前へと出て行く。邪険にされたと思ったのか、彼は不快な表情を浮かべていた。
 彼等の仕草を見たガラテアは、ついつい笑顔を綻ばせる。
「どうした?」
 不快そうな顔のまま、シオはガラテアに食って掛かった。
「ふふ、ごめんなさい」
 彼女は謝ると、愛名の後へと続いた。
 真っ直ぐと続く、長い通路へと、三人は歩き出す。先に進むたびに、不思議な感覚が三人を包みこむ。重たい空気……というのか、特殊な雰囲気が肺を圧迫する感じ。
「我々のような部外者が、訪れても大丈夫なのですか」
 ガラテアの問いに愛名は「ん〜」と声を出して振り返る。
「今更だし、大丈夫っしょぉ」
「いい加減だな」
 シオがすかさず口を挟む。
「も〜、私が可愛いからってそういじめないでぇ」
「……」
 あはは、と再び声を出して笑う愛名を尻目に、シオはガラテアの耳元で尋ねた。
「大丈夫なのか?」
 彼女は少し視線を宙に泳がせてから、シオに答えた。
「……どうでしょうね?」
「……」
 シオは内心、大丈夫か……?と、ガラテアの思考を疑ったが、今更どうしようも無い事実に、彼は沈黙を保つことを決定した。

 真っ直ぐに続いた通路の先は、大きな扉が設置してあった。両開きのそれは、豪華な宝飾が使われており、何より目を引くのはその大きさが3メートルを越すほどの高さであった事である。
 扉には槍が天使を刺し貫く絵が描かれている。神話の一部を持ち出したように……。
 その絵を目にしたガラテアは、無意識に表情を険しくしていた。両肩に浮かぶ魔法球が微かに揺れた。
 チラッとその様子を確認した愛名は、扉へと向き直り、通常の人の言葉とは異なるもので、扉へと話しかけた。
『聖なるものを貫く呪いの槍よ。その戒めを解き放ち、我等を闇の世界へ誘え。それが死の前触れであったとしても……』
 詠うように空気に響く、耳への響きは綺麗な愛名の言霊。
 シオは理解できぬ他国の言語かと思い、同時にその美しい発音に聞き惚れていた。
 しかし、その意味を理解できるガラテアには、呪いの台詞とも聞き取れた。
「……」
 しばらくの沈黙の後、それはググッと言う重い音をさせながら開かれる。
 その扉が開かれた事により、ただでさえ重々しい空気が、更に重みを増したように感じられた。
 強力な魔力の重圧……。ガラテアはそれを感じて、小さくため息をついた。
 扉から覗くことの出来る先は、広いホールとなっており、中央には大きな燭台が設置されていた。壁には神話を司った絵が描かれ、不思議な骨董品が並べられているのが目に入る。
 そして、そのホールの入口には、人以外のものが立っていた。扉の脇に仕えるよう、左右に一人ずつ……。
 いや、それは人の骨格を持った、それのみの存在……スケルトン。綺麗に磨き上げられたそれらは、飾られる骨董芸術品のよう。
 彼等は剣と盾を手にしていた。胸の前に抱くようにそれらを守る。そして、何の支えも無く、ただの骸骨が直立の状態で立っている。……自らの意志であるように。
 その禍々しい物体を目にし、シオが腰の武器に手をかける。
「大丈夫よぉ」
 愛名が安心させるように前へと足を踏み出した。彼女は骸骨の前に立つと、その顔に向け、それらをからかうよう手を振ってみせる。
 彼女の行動に、骸骨はそれが当然であるかのように反応は見せなかった。ただ同じ姿勢で立ち尽くすのみ。
 ガラテアは愛名に倣い、ホールへと足を踏み入れた。やはり反応はない。
 それを目にしたシオも、恐る恐る歩みを進めるが……。
「ただ問題はぁ……」
 ちょうど骸骨の目の前を、彼が通りかかるという時に、愛名は含みある台詞を口にした。
 そして、微動だにしなかった髑髏の瞳に、光が宿った。
「!」
 シオは咄嗟に剣を抜き放ち、右から当然迫りきた衝撃を弾き返していた。
 激しい金属音が、ホールに響く……。
 次は左か!
 シオが敵の攻撃を予想し、構えた瞬間。再び右から衝撃が襲ってきた。
 それは人の末路なる者の体当たり。盾を前に構え、全身の重さを利用した一撃であった。
 シオはホールへと吹き飛ぶ。
 ガラテアは、突然あがった耳障りな金属音と、後ろから飛び出してきたシオの様子に、何事かと振り返った。
 そこには、先ほどまでただの無意志な人形であった骸骨達が、今はその暗い空洞の瞳の中に殺意と言う光を宿している。
 右手に反り身の剣を、左手に円形の盾を構え、再び襲いかかる瞬間を待っていた。彼等の狙いは、今まさに立ち上がり、次の攻撃に備え構えを正したばかりのシオだ。
 愛名は彼が宙を飛んできたとき、それにぶつからないよう扉の横へと身をかわしていた。そしてどちらを応援しているのか、フレーフレーとはしゃいでいる。
「ちっ……」
 躙り寄る不気味な戦士に、シオは悪態をついた。人で成らざる亡霊達は、彼の目には悪夢のように映っていた。そしてそれは、彼の予想を上回る攻めをしてきたのだ。
 こんな骨人形に!
 骸骨だけの存在が動くなど、彼の常識を超えていた。戦闘用マシンでも、こんな悪趣味で、精巧な物は存在していないはずだ。
 彼は手にした曲刀にチラッと視線を送る。
 シオの扱う剣は、「刀」と呼ばれるものだ。反り身で片刃の刀身を持ち、普通の剣と異なり、叩き斬る事よりも、切り裂く事を主眼に入れた武器だ。その分扱うにはそれなりの技術が必要であった。無闇に刃を叩き付ければ、刃こぼれをしたり、折れてしまう恐れすらあるのだから。
 愛刀が鋼すら両断する事を思い出し、彼は髑髏の化け物も切り伏せることが出来ると自信を持ちなおし、精神を落ち着かせる。
 そして、シオが仕掛けた。二体の骸骨の戦士に向け、目にも止まらぬ早さで肉薄する。
「ただ……と、言っていましたね?」
 ガラテアは祭りを楽しむかのように、彼等の戦いを観戦する愛名へと尋ねた。
「ん〜、そうだぞぉ」
 目の前で激しく起こる攻防に、時折歓声を上げながら返事をする彼女。その様子は無邪気な子供を思わせる。
 事態が事態だけに、落ち着いた印象ではいられないが、ガラテアはそれを見て、場合によっては表情を綻ばせていたかも知れない。
「こうなる事は、確信していたのですね?」
「うむぅ。警戒心ばりばりだからなぁ」
 彼女は、いつものようにあはは、と笑い声をあげる。
「それはつまり……」
「ん〜、あの子達ねぇ。武器を構えたりしてると、悪い子だと思って懲らしめようとしちゃうんだよねぇ……」
 愛名は困りものだよねぇ、とうんうんと頷く。
「なるほどね……」
 ガラテアは納得したものの、多少困ったような顔をし、頭を巡らせた。
 彼女の視線の先には、今も激しい戦いを繰り広げるシオの後ろ姿が目に入った。
 彼のコートの裾と、長い黒髪が宙を舞い、華麗な連続攻撃を仕掛ける。闇に白い衣装が棚引き、異形の者と戦うその姿は、神話に出てくる戦士の様か。
 二体の髑髏の剣士は、それらを無駄な動作も無く的確に受け止め、そして隙を見つけては反撃を繰り返す。
 一見不毛とも思えるような鬩ぎ合い。だが……。
 右の一体から不意に放たれた無防備な盾による打撃……。シオの注意がその一体へと向く。
 隙は……あった。
 彼は盾を放つ事で空いた骸骨の、左腕の脇へと滑り込むように姿勢を屈めると、鋭い突きをそこへ向け放った。
 彼の刀の先端は、その髑髏のあばら骨を、見事に二本ほど砕く。
 それとほぼ同時に、シオの頭上を何かが掠めたのを彼は気づいた。黒髪の何本かが斬られ、サラリと地へ流れていった。
 身を下げねば首を跳ね飛ばされていた位置……。そこへ脇腹に一撃を食らった髑髏が、手にした剣を、人では出来ぬ動きで真横へと振り払っていたのだ。
 骨格が軋むような音が、その骨からは聞こえていた。
 隙だらけに見えた一撃は、自ら受ける被害を考えずに練られた、魔の戦略……。
「あ〜!!」
 一気に畳み掛けようと、シオが二撃目を構えた時、愛名の、今度は喚声があがった。
 その声に彼はおろか、二体の骸骨達も動きを止めた。
「こ、壊しちゃ駄目だぞぉ……」
 彼女は物悲しげな声で鳴き、その骸骨に近寄った。
 うるうると目に涙を浮かべ、砕かれた脇腹を確認する。
 シオは呆然とその様子を見ていた。……手にした刀を鞘に収めたのは、無意識だったのだろうか。
 そして彼は、ふと気づいたように表情を歪める。
 そんな不気味な骸骨は大切で、僕は壊れても良いのか、と。
 ガラテアはそんな対照的な二人の様子に苦笑を浮かべた。
 そして思った。どこか微笑ましいな……と。

  6.
「ここで、待っててねぇ」
 愛名は二人へそう告げると、自らは係の者に知らせてくる、と去っていった。
 ホールからは正面と左右に通路が続いていた。
 ガラテア達はその正面の通路を少し行った所にある、小さな個室へと案内された。
 石造りのその個室には、やはり石の椅子とテーブルが置かれていた。
 狭い小部屋は3人が入れば窮屈と言えそうなところで、壁には壁画が描かれている。
 ガラテアはその絵を興味深そうに見入った。
 それは一人の魔神が何人かの魔女を従え、戦いを繰り広げる神話であった。そしてその戦う対象は、人は疎か、神や同族であるはずの魔族すら敵としていた。
 どういう意味だろう……。
 彼女はその壁画の意味に興味をそそられた。
 ガラテアがその絵画を見ている丁度その時、シオは置かれていた椅子にどっかりと腰を下ろした。だが彼は、すぐに慌てるように立ち上がった。
「?」
 ガラテアは怪訝に思い、壁画から彼の方へ視線を移す。
 彼は顔をしかめ、腰の辺りをさすっていた。
「如何致しましたか」
「……椅子が……堅い」
「……」
 そう言うことか、と軽く呟き、ガラテアは気を遣いながらその椅子に腰を下ろした。
 冷たい感触がドレス越しに感じ、堅い椅子も心地悪い。
「確かにあんなに勢いよく腰掛ければ、痛めるかも知れませんね」
 ガラテアは笑顔を浮かべシオに答えた。
 彼は不機嫌そうな表情を浮かべたまま、今度は立ち尽くしたままだった。先の件で座る気は無くなったようだ。
「……こんな不気味な所に一体なんの用事なんだ……?」
 壁により掛かり、シオは彼女へ視線も向けずに尋ねた。
「例のおかしな事、と言うのがありましたよね」
「……ああ」
 シオは少し考えて答えた。
 公園でも遭遇した、斬ると消える謎の男。そう言うのが存在する、と噂を聞いたとき、そんな馬鹿なことが、と彼は思った。だが、それらは段々と頻繁に姿を現すようになった。
 常識外れな事が、平気で起こる。そんな世界がこれから訪れるのだろうか……。
「こんなおかしな所が、あるとは……な」
 シオは顎をくるっと回し、今いる部屋の様子を指し示した。
 部屋のことではない。彼はこの魔術師ギルドと呼ばれた場所全体を言っているのだ。
「ふふ」
 ガラテアは小さく笑っただけで、彼への返事は返さなかった。

 8メートル四方程度のその薄暗い部屋の床には、大きな魔法陣が描かれていた。
 その魔法陣の脇で、一人の少女が豪華な椅子に腰掛けている。彼女は熱心に両腕を動かし、何かの身振りをしているようにも見えた。
 床にある魔法陣の中心には蒼い炎が灯り、不思議な光を放っていた。その光により少女の影が壁に映り、不気味な様子を醸し出している。
 その影は何かを待ち望んでいるようにも見えた。何かの儀式かと、見るものがいれば思ったであろう。
 ふと壁に映る影にもう一人の姿が現れる。女性のものと思えるそれは、少女の後ろに、その姿を見せた。
「エリス……現れたぞぉ」
 その影の主は、脳天気な声をあげ、少女の座る椅子の背へと声をかけた。
「愛名……驚かせないで……」
 突然の来客に、彼女は驚いた様子も感じさせぬ返事をした。非常に落ち着いた、冷たい声。聞く者をゾッとさせるような、惚けた感じの愛名とは、対照的な声であった。
 愛名からは、大きな椅子の背が視線を遮り、エリスと呼ばれた少女の姿は確認できない。
「現れたと言うのは、誰が……?」
「綺麗な女の子と、そのおまけだねぇ。今、拷問室に待たせているけどぉ」
「そう……」
 エリスは興味なさそうな返事をしながら、自らの作業に集中している。
 愛名は魔法陣に燃える蒼い炎を興味深そうに覗き見ていた。
「どうするのぉ?」
「……殺して」
 愛名の問いに、簡素に少女は答えた。感情も感じられない無表情な言葉。
 彼女の口ぶりは、その言葉の意味が冷酷なものとも思わせない。
「ん〜、でもぉ、おまけの方は何とかなると思うけど、女の子の方が手強そうだぞぉ」
 彼女の言葉に、エリスは動かしていた手の動作を止めた。それに同調するように、魔法陣に灯っていた炎の勢いが抑えられる。
 少女は愛名の方へ椅子の向きを正す。そして、彼女の姿が愛名の目に晒された。

 歳の程は14か15程度。
 身長も低く小柄で、大きな椅子に腰掛けているせいもあり、ひどく幼く見えた。彼女は、露出度の高めな半袖のビスチェに、丈の短いスカートを履いていた。太股もそのまま外気に晒し、黒を基調としたそれは、幼い彼女の妖しい魅力を引き立てる……。
 綺麗なルビー色の瞳に、額にはもう一つ宝石のようなものが張り付き、それが第三の目のようにも見えた。
 それら三つの視線が、愛名を捉える。
「その女……手強いの?」
「ん〜、実際に喧嘩したわけじゃないんだけどねぇ……」
「気になることでも?」
「彼女の両肩の上に変な玉がふよふよ浮いてるのよぉ。あれってどこかで見た気がするんだけどねぇ」
 エリスはチラッと後ろの魔法陣に目を走らせた。しばらく作業をしていなかったせいで、炎の勢いは微弱ながら、段々と小さくなっている。
 彼女は思い出したように魔法陣の方へ向き直り、作業を再開した。弱まっていた炎が、再び忙しく燃え始める。
「……そうね……」
 少女は口にして、ふふふと小さく笑う。幼い子が、何か楽しいことでも思いついたように。
「ここへ連れてきて」
 愛名は一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、意味ありげな笑みを浮かべ答えた。
「おけぇ」

「お待たせしましたぁ」
 二人は突然部屋に響いた声に顔を上げた。
 そこには部屋の入口に立つ、愛名がいつのまにかいた。部屋のドアが開かれ、普通に入室して来たのであろうと、想像は出来る。
 だが……。
 ガラテアは腰掛けた椅子の横にあった絵を見ており、シオは腕を組み、俯き気味に壁に寄りかかっていた。
 ……どちらも彼女がいつ現れたのか、気づかなかった。
 ガラテアは立ち上がり、愛名に笑顔を見せた。
「ここの絵画は興味深いですね」
「あ〜、『裏切りの傀儡』の絵の事ぉ?」
「『裏切りの傀儡』?」
 愛名の口にした単語に、ガラテアは興味を持ち、再び壁画に目をやった。
 主役として描かれていたのは、赤い肌の魔神と三人の魔女。彼等の内、果たして誰が『裏切りの傀儡』なのか、見当がつかない。
 だが、その答えは愛名によって伝えられた。彼女はガラテアにもう一度座るように手で指示し、語り始める。
「昔々あるところに一人の魔神がおりました。彼は悪魔族でありながら悪魔を嫌い、同時に悪魔族特有の破壊心も持っていました……」
 昔話を聞かせるように愛名は言葉を紡ぐ。詩人が詩を詠むように……。
 ガラテアは愛名の指示通り、もう一度石で出来た椅子へ腰を下ろし、彼女の言葉をなぞるように絵画を眺めた。
 彼女のよく通る澄んだ声は聞いていて心地よく、気づけば聞き入っていた。

 いつしか彼は、何かの目的に向かって戦いを仕掛けました。
 彼の力は大変強く……誰も彼を止めることは出来ません。
 まるで子供のように、彼は無邪気に戦います。
 そう……。戦うことが目的であるかのように。
 彼ははじめに人間達と戦いました。当時、強力な魔力を持っていた魔法使い達を蹂躙し、そのうちの何人かを自分の配下に加えました。無慈悲な彼が気まぐれの中に僕にした二人の魔女。彼女たちの魂は彼へと忠義を誓います。
 そのうち彼は天使族に戦いを仕掛けました。悪魔族本来の宿命に、従うように。
 しかし彼は満足しません。
 そして彼は遂に同族に手を出します。同じ悪魔を相手に戦うその様子に、同族達はいつしかこう呼ぶようになります。
 『裏切りの傀儡』と。

「かくして、彼は人間も天使も悪魔も敵に回し、孤独な戦いを続けました。そしてそれは、彼を裏切った一人の魔女が、彼を刺し殺すまで続いたのでした。めでたしめでたし」
 シオは「どこがめでたしなんだ?」と口から出しかけて、その言葉を飲んだ。
 彼はもう関わらないつもりでいたからだ。ろくな事に見舞われないと、悟っていたから。
「素敵な語り部なのですね。まるで吟遊詩人のように……」
 ガラテアは笑顔で彼女を褒め称える。
「あはは。照れるぞぉ」
 愛名は頭に手を当て、いかにもな照れ笑いを浮かべた。
「この壁画には、三人の魔女が描かれているようですね。先の話では二人でしたけど……」
 ガラテアは視線を壁画へ移し、言った。
 その言葉を聞き、シオも壁画へ視線を向け、チラッと確認する。
 壁画は壁の面に大して一つの絵が描かれている。入口から向かい、正面の壁に人と戦う一人の魔神。右に天使と戦う魔神と二人の魔女。左に悪魔と戦う魔神と三人の魔女。そして天井には……三人の魔女達。
「それはねぇ。もう一人の魔女は後から入ってきたからだぞぉ」
 答える愛名の声は、段々トーンが落ちていく。
「そして、その最後に来た一人の魔女が彼を殺しちゃったんだよねぇ……」
 ふふっと口元だけに笑みを浮かべ、彼女は声を殺して笑っていた。
 シオがその様子に驚き、身を竦める。愛名からは、何とも言えぬ不気味な気配が漂っていた。
「一番、彼に信用され、愛された魔女なのに、裏切っちゃったのよぉ……。馬鹿よねぇ……」
 愛名の様子では、その罵りの台詞は誰に対してかは伺い知れなかった。
「……その神話上、最後の魔女は悪人なのですね」
 しばらくしてから、ガラテアは口を開いた。裏切った魔女が誰なのか、天使と戦う絵と、悪魔と戦う絵に出てくる、それぞれの魔女達を見比べていた。
「ん〜……」
 ガラテアの言葉を聞き、愛名はいつもの惚けた様子に戻り口元に人差し指を当てて考える。
「ま〜、お陰様で今の世の中は平和になったんだから、良いんじゃないのぉ?」
 その神話は実際にあったものだ、と彼女は信じている。そう言う口ぶりだった。
「ふふ……そうですね」
 愛名に合わせるガラテアに対し、シオは呆れたような視線を向ける。本当に信じているのか?と視線で訴えかけた。
 彼女はそれに気づき、にっこりと微笑み返してきただけだった。
「あ、そうそう。ギルドマスターが呼んでるんだった。こっちきてねぇ」
 愛名は思い出したように声を出し、自らが部屋へ出ると、ガラテア達を呼びつけた。
 ガラテアは立ち上がり、シオに視線を送ってから部屋を出た。
 シオはやれやれという感じでその後に続いていった。

 7.
「マスターは無愛想だから、気をつけてねぇ」
 ランプの光源に照らされながら、愛名は振り返った。クルリと身を翻すと、長いスカートの裾が浮き上がり、通路の壁をこする。
 広さはそれほどもない通路を三人は進んでいた。愛名を先頭に、ガラテア、シオが続く。
「無愛想?」
 シオがふと疑問に感じた事を口にし、その後しまったと口をつぐむ。
 それを聞いた愛名がニヤリと笑みを浮かべ、待っていましたとばかりに、シオの方へ迫り、口を開こうとする。
 ガラテアは壁際に寄るように身を引き、彼女に進路を譲っていた。
「えっとねぇ……」
 しかしその次の台詞が出る前に、シオは愛名の顔を手の平で覆うように腕をつきだした。
「言わなくて良い」
「も〜……まぁ、会えば分かるぞぉ」
 不満そうな声を上げながら愛名は再び先頭に戻った。
 そのやりとりを見てガラテアは考える。彼女は魔術師に対しての知識は深い。そして魔術師というものが、無愛想である事が多いと言うことをよく分かっていた。もっとも彼女の考えが指す魔術師が、ここヴァンブリアで広く知られている魔術師のイメージと違うと言うことも、また認識していたが。
 通路は迷路のように右へ左へ分かれ、折れ曲がり、目的地へちゃんと向かっているのか、愛名以外は分からない。シオは段々と不安に感じてくる。
「大丈夫か……?」
 彼は本日何度目かの確認の台詞を、ガラテアへそっとかけた。
 彼女はチラッとシオへと視線を向け、返事はすぐに返さなかった。そして、
「……正直自信はありませんが……」と続けた。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんとついたぞぉ。ほぉら」
 シオ達の声が聞こえたのか、愛名は二人へ声をかけながら壁に手を触れている。
 彼女がほぉら、と言いながらパンパンと叩いているのはただの壁だった。そしてその壁は、今までと同じような普通の通路の途中に、何の目印もない場所にある。どう見当をつけて場所を決めたのか、一見判別がつかない。
『魔力の鳥籠よ、その守りを解き、我々を招き入れよ』
 愛名が例の特殊な言語で発音すると、その正面の壁の持つ像がぼやける。目の錯覚かと思うのもつかの間に、そこには暗い穴がぽっかりと開いていた。
「幻覚……ですか?」
 ガラテアが珍しく感想を漏らす。
「うん、そうだぞぉ。ただし物理的に干渉出来るし、本当にものを遮るから、実物と何も変わらないけどねぇ」
 うふふ、と笑い声をあげながら愛名は応えた。
「とにかく中へ入った入った」
 愛名はガラテア達の後ろに回り込み、二人を押すようにしながら声をあげる。
 暗い穴を不気味そうに見ながら、シオは歩みを進めた。

 暗闇のトンネルをくぐり、その闇の奥から淡い光が段々と迫ってくる。距離的には10メートル無いと思うが、体感ではかなり長い距離を進んだように思える。
 穴を抜けるとそこは、薄暗い蒼い光が支配している空間だった。
 大きな部屋の中心から、蒼白い光が発せられ、部屋の模様を不気味照らす。床に大きな魔法陣が描かれ、その中心に魂を司るような、その炎が燃えていた。
 そして、丁度ガラテア達に背を向け置かれていた大きな椅子が目に入った。その背には綺麗な模様が書き込まれ、高級そうな宝飾が施されていた。
「マスター。お客様きたぞぉ」
 愛名はいつもの様子で、その椅子に声をかけた。
 四脚の椅子がそのまま向き直る。接地面から抵抗は感じられず、それは自然に向き直った。
 椅子に腰掛ける主……。このギルドの主が姿を見せた。そして、その姿を目にした、シオは息を飲んだ。
 ギルドマスターと思しき人物は、薄い生地の飾り衣装に身を包んだ少女。足を組み、短めなスカートからは太股までが視線に晒される。額に怪しく輝く宝石と、部屋に満たされる淡い光で正確な色は分からぬが、綺麗な瞳が印象的だった。
 彼女は冷たい視線を来客者達に向ける。
「初めまして」
 ガラテアはいつもと変わらぬ様子で、挨拶をした。姿勢を正し、頭を下げる。
「ガラテアと申します」
 彼女は顔を上げてから、真っ直ぐに少女の瞳を直視し、名乗った。少女は動じた様子も無く一瞬チラッとシオの方へと視線を向けたが、すぐにガラテアの方へ戻した。
「ようこそ、と言っておくわ……。私がギルドマスターのエリシーク……」
「略して、エリスって呼んでねぇ」
 ギルドマスターであるエリシークの台詞を遮り、今まで静かであった愛名が突然声を出した。彼女はいつの間にかエリシークの隣におり、どこからともなく取り出した携帯用の小さな個人用のベンチに腰を下ろしていた。
「……愛名」
 顔を彼女の方へと向け、エリシークは一言だけ言った。
「あうぅ……ごめんねぇ。怒っちゃいやぁ」
 少女に睨まれ、愛名は萎縮した。自らの体を抱いてガクガク震えているが、どうも芝居に見えて仕方がない。
「女の後ろにいる男。……そんなに怯えて……哀れね」
 エリシークはガラテアの後方で警戒していたシオに対して声をかけた。彼は顔を歪める。
「ギルドマスター、エリシーク。訊ねたいことがあり参りました。よろしいでしょうか?」
 言葉を発したガラテアの視線は、エリシークの耳元に向いた。耳たぶにも額と同じように光り輝く小さな宝石がつけられ、彼女の耳の形は先が尖っており、普通の人とは異なるものになっていた。
 つまり彼女は……。
「応えるとは限らない……」
 冷たい笑みを浮かべエリシークは言った。
「ありがとうございます」
 尋ねる許可を得たと、対してガラテアは優しい笑みを投げかけ礼を述べた。
 二人の女は、お互い顔も背けず真っ直ぐに話し合う。
「この浮遊大陸の主要都市。そしてその地上階層に現れている魔の陰を……知っていますか?」
 ガラテアはゆっくりとその台詞を言った。
「……」
 エリシークは応えなかった。代わりに視線をガラテアの肩の上に浮かぶ拳大の球体へと向けた。
「もうすぐ……よ」
 そして彼女はそれだけを言って、椅子ごと体をむき直した。ガラテア達に背を向け作業に戻り、状況は部屋に入ってきたときと同じ状態だ。
「ガラテア……僕はこいつらが好きになれない」
 話が終わったのを見て取ったシオが、ガラテアの背に声をかける。それを聞いた彼女は振り向くと一回笑顔を見せた後、ごめんなさいと謝った。
「ありがとうございました」
 エリシークの座る椅子の背に向け、ガラテアは礼をもう一度述べた。
「あ〜、まだ帰るのは早いぞぉ。これから面白くなるのにぃ」
 いつの間にか彼女たちの後ろへと先回りし、愛名は言った。ここへ侵入する為に通ってきたトンネルはもはや姿を消し、どこにも無かったのだが。
『其は血の盟約。汝らが望むものを約束しよう……』
 今まで聞こえなかったエリシークの声が、部屋全体に響き渡る。愛名が使うのとは別の意味を持つ力の言葉。彼女の冷たい声が、台詞の意味をより一層引き立てる。
 魔法陣の中心に灯る蒼い炎が一際大きくなり、部屋は蒼白い光が強まった。光度が得られ薄暗いとは言わぬ部屋。しかしその光は目には優しくなく不快な印象を与える。
『求めるものが血と破壊と言うのならば、その力を行使するが良い。汝が力の証明として……』
 ガラテアは彼女の言葉を聞きながら、魔法陣の中心が見える位置へとゆっくりと歩いた。
 そして眩しい光に目を細くしながら、魔法陣のその意味を読みとる。
 『拘束の檻』と『魔の門』。それらを使う必要のある儀式……。
 ガラテアはシオの方を向き、ゆっくりと口を開いた。そして彼へ尋ねる。
「戦えますか?」と。
 シオは彼女の雰囲気から、只ならぬものを感じ、腰の武器へ手を当てると、顔を縦に振った。
『我は招く魔の化身。その力、この場に現し、存分に破壊を楽しめ』
 エリシークの呪文が終わると同時に、紅い光が部屋を満たした。今までの蒼白い光とは正反対の鮮やかな色。
 そして、それは姿を現した。
 紅い光の後、魔法陣には蒼い光の残光と、そして一体の異界の者が現れていた。
 逞しい筋肉を持つ大きな巨体。身長三メートルはあるだろう。部屋の天井は高かったが、それでも頭をこするのでは無いかと思わせる。そして、その顔は獅子を思わせた。背には蝙蝠のような翼を生やし、それが通常ならざる生き物であると物語っていた。
「なんだこいつは……」
 シオはそれを目にし呆然としていた。前に見た骸骨の化け物とはまた別の違和感。嫌悪感とは違う不思議な威圧感を感じていた。
 エリシークは椅子から立ち上がり、フラフラと愛名の方へと歩いてくる。
「お疲れぇ」
 愛名は自分の胸に倒れ込んでくるエリシークを抱き抱えると苦労をねぎらった。
 魔法陣の中心に立ち尽くした異形の者は、それらの動作に顔を向け様子を伺っていた。小動物が何をしているのか、興味本意で観察する、そんな様子だ。
 しかし何か気に入らない事があったのか、魔法陣の外に向けその太い腕を突き出した。
 腕は真っ直ぐと進み、魔法陣の境界線まで行くと、ばちばちっと電気が迸るような音が響き、発光が起こる。異形の者は、驚いたように手を引っ込めた。
『があぁあ!』
 そして彼は、声を張り上げた。魔法陣の途切れ目と向かって、連続して腕を突き出す。人がガラスの窓を突き破ろうとでもするように。
 腕が魔法陣の端に突き刺さるたびに鋭い閃光が部屋を支配した。
「愛名さん」
「愛名で良いぞぉ」
 ガラテアが声をかけると、彼女の返事はすぐに返ってきた。愛名は大切そうにエリシークを抱き、頭を撫でている。
「では愛名。あの魔法陣の結界ではそう長くは保ちませんね」
「だねぇ……」
 愛名はすんなりと同意する。
「う〜ん、予定じゃもっとちっこいのが来ると思ったんだけどねぇ。エリスもこんなに精気を奪われるはずじゃ無かったしぃ……」
 珍しく不安げな物言いを彼女はした。
「予定外という事なのですね」
「うむぅ……。ま、予定外の事が起こるのはいつもの事だしねぇ」
 あはははは、と声をあげて彼女は笑う。愉快なことだ、と。
「デーモンデストロイヤー。高い知性は持たず、悪魔族でも下っ端ながら、凶悪な破壊力を持つ筋肉馬鹿」
 愛名は異形の者の正体を説明した。
「ん〜……。じゃ、後は任せるから」
 そしてその言葉を最後に、彼女はエリシークを伴い姿を消した。闇に溶けるよう、二人の姿は突然消え去る。
「……」
 彼女たちのやり取りを目にしたシオは言葉を失い、恨むような視線をガラテアに向けた。
 それに気づいた彼女は、さすがに気まずそうな表情を返した。
 そして……申し訳ございません。と口にした。
『があああ!』
 一際大きなデーモンの雄叫びがあがると、魔法陣の端にあった見えない何かが砕け散っていた。それらの破片が床に散乱し、淡い光を放つ。薄暗い部屋を、それらがぼんやりと照らした。
 シオは鞘から刀を抜き構えた。刃に蒼い光が反射し怪しく輝く。
 デーモンは彼の姿を確認し、見下すように正面に捉えた。
 ……異形の者との戦いが開始されようとしている。

  8.
「あの女……生き延びると思う?」
 エリシークはそっと口を開いた。
 彼女は豪華な寝台の上に横たわり、ぼうっと天井を眺める。
「ん〜……あの女の子の事?」
 その寝台の片隅にある椅子に腰掛け、返事になっていない返事を返す愛名。
 二人は小さな小部屋の中にいた。エリシークの寝室だ。
 部屋は殺風景で、少し変わった骨董品のようなものが置かれているくらいで特徴が無い。ただ天井は吹き抜けのように高く、かなり上方でガラス張りになっていた。今は昼間であるため、少し眩しいが、夜になれば綺麗な星空も覗くことが出来るだろう。
「でもなんで急にあんなの出したのぉ? 予定じゃしょぼい奴呼び出して確認するだけじゃなかった?」
 愛名は悪魔の巨人のことを言っていた。以前のエリシークの話では、更に力の弱い悪魔を呼び出すはずだった。
「あの女……似ていたから」
 彼女は愛名とは逆方向に寝返りを打ち、顔を背ける。
「ん〜……」
 何か思い当たったのか椅子に腰掛けた気楽そうな女性は、天井を仰ぎ見た。日はまだ高いのか、眩しい光が瞳を刺す。
「あの子にかぁ……。確かにちと似てる気もするけどねぇ……」
 誰に、とは彼女は言わなかった。
「ま〜、どっちでも関係無いっしょ。死んだら同じ死体よぉ」
 あははは、と愛名は笑い声をあげ、逆を向き寝ているエリシークの様子を伺った。
 しかし彼女は特に反応も見せず、静かにしていた。
 カチカチっと機械仕掛けの時計が時を刻む音だけが部屋に聞こえてくる。
「ま、どちらにしろ……あのデーモンは何とかして貰わないと、ねぇ」
 クスッと愛名は笑ったが、エリシークはそれに気づかないのか、そのまま静かな寝息を立てていた。
 愛名はその小さな身体に、薄い掛け布団をかけると、自らは部屋を出て行った。


「直撃に気をつけて」
 ガラテアの警戒が飛ぶ。
 その言葉のすぐ後に、巨大な悪魔の拳が、シオに迫った。
 ゴォンという風を切る音が響き、その拳は彼の目の前を通り抜けた。
「……っ!」
 シオはその拳の持つ威圧力に舌打ちした。
 身につけているコートが、デーモンの振るった拳の後を追うように引っ張られる。
 彼はバックステップを踏み、悪魔から多少の距離を離すと、コートを投げ捨てた。
 白いコートが床に散乱した、輝く破片の上に被さる。
「直撃で無くても、危ないな」
 シオは後方にいるはずのガラテアに応えた。彼女の姿を確認したいが、不用意に悪魔から注意をそらすわけにはいかず、それも出来ない。
「戦えるか……?」
 シオはガラテアに尋ねる。
「私は……」
 彼女から返ってきたのは、自信のなさそうな返事だった。
 再びデーモンの拳が繰り出される。今度は上から叩き潰すように、その太い豪腕を振り下ろす。かなりの速度を伴った一撃を、シオは横に倒れ込む感じでかわした。
 凄まじい音が部屋全体に響き、悪魔の拳が命中した床は衝撃でクレーター状に沈没した。
「生きろよ……」
 彼は一瞬だけガラテアの方に目をやり、シオは敵に集中した。
「それは……」
 どういう事……と続けようとして、ガラテアの台詞は遮られた。
『がぁああ!』
 いつの間にか彼は、シオは、デーモンの脇の下に回り込み、鋭い剣戟を叩き込んでいた。彼の刀は悪魔の巨人の皮膚を切り裂き、その血を流させる。その血が赤い事を、シオはこの時初めて知った。
 デーモンは怒り狂いその自慢の豪腕を振り回す。普通の生物にしては浅くない傷であろう程のダメージを受けながら、悪魔は身体を大きく暴れさせる。傷口から血が溢れ出るが、気にする様子は無い。それは、恐るべき生命力を発揮していた。
 シオは暴れ狂う暴君の打撃を、その動きをよく見てかわしていた。少しでも無駄な動きをすれば捉えられる。彼はそう感じていた。
 凄まじい拳圧に耐え、絶え間なく続く攻撃をかわし続ける事に、シオは限界が迫ってくる事に気づいた。このまま攻め続けられれば、遅かれ早かれやられる、と。
 その時、彼の視界の隅に、デーモン以外の動く陰が入った。悪魔もそれに気づいたのか、そちらに注意を向ける。
 一瞬攻撃が緩んだ瞬間を付き、シオは左腕を斬りつけた。それは両断するには至らなかったが、直径の半分を程を切り裂いた実感を、彼は持った。
 すぐに繰り出される悪魔の左腕による薙払い。シオが避けると、その腕は地面に突き刺さった。
『がああぁあ!』
 しかしその腕は、シオの剣により多大な損害を受けていた事により、地面を殴りつけた衝撃でぽっきりと折れ曲がった。
 怒り狂ったデーモンは形振り構わず暴れた。シオは距離を取り間合いを離そうとして……先ほどの陰が、ガラテアであった事に気づいた。彼女は暴れる悪魔の攻撃範囲にいる……。
「退け! ガラテア!」
 そのシオの忠告も虚しく、彼女は悪魔の一撃を受けてしまう。ガッと言う音が響き、彼女は錐揉みするように吹き飛ばされ、壁に叩き付けられていた。
 その様子を目にし、一瞬呆然としたシオは、隙を作ってしまっていた。怒りのなかにも狙いをすました悪魔の一撃が、彼をも襲う!
「……!」
 シオが強打を受けることを覚悟した瞬間、デーモンの身体に蒼白い光が取り付いた。輝く縄状のものが悪魔を縛り付け、その動きを封じる。悪魔は声にならない悲鳴を上げた。
 彼は一瞬何が起こったのか理解できなかったが、すぐに我を取り戻し、悪魔に止めを放った。ほぼ普通の生物と身体の構造が変わらないと見て取り、急所となる場所へ力一杯叩き込む。厚いデーモンの胸板を切り裂くと大量の血か吹き出し、その巨体は、どうっと後ろに倒れた。
 シオはその返り血を避けると、刀を腰の鞘に収める。彼は落としたコートを拾いながら、ガラテアの元へと駆け付けた。

 彼女の左腕はあらぬ方へ曲がり、胸で荒い息をしていた。
「大丈夫……か?」
 自信は無さそうにシオは尋ねる。彼女は床に倒れたまま……。
 女性の身体に不用意に触れられないと、シオは躊躇していた。
「……はい」
 少し間を置いてガラテアは答えた。彼女は顔をシオに向け、微笑みかける。
「どうして危険なことをした」
「攻め倦ねていたようですので……」
 ガラテアが身を起こそうとしていたので、シオは慌てて彼女の背を支えた。柔らかな感触が伝わってくる。
「確かにそうだが……」
 実際あのタイミング、隙をつくように移動した彼女の動きは効果があった。悪魔も疎か、シオですらあの動きに一瞬注意を払っていた。戦いになれているが故、発生する注意力……。彼女はそれを知っていてやっていたのだろうか。
 彼女は血で染まる左腕を支えるようにしながら、左腕を覆う袖を引き裂こうとしていたが、片手ではうまく出来ない様子だった。
 シオはそれを見、仕方なく手を添え、代わりにやろうとしてから、途中で口を開いた。
「見ない方が良い」
 少し間を置いてから、ガラテアは再び「はい」と答え、左腕から視線を反らした。時々走ってくる激痛に「くっ……」と声をあげているが、シオはそれを無視した。
 シオは自らのコートを引き裂き、丁度包帯になる程度に切ると、傷口をふさぎ、彼女の左腕を固定した。応急処置としては上出来だろう。
「ありがとうございます」
「うむ……」
 ふぅと彼はため息をつくと立ち上がった。
 ガラテアは壁に背を付き、目を瞑ると軽く休んだ。

「あれぇ……。もう終わっちゃったのぉ?」
 その時、突然声がした。いつものことながら驚かせる彼女の台詞。
「あちゃぁ……こりゃ痛そうじゃなぁ……」
 愛名は床に倒れたまま動かないデーモンの傷口を見て、率直な感想を述べる。
 致命傷である。その悪魔を死に至らしめた傷が痛くないはずもない。
 彼女はシオの姿を見つけてちょこちょこと近づいてきた。
「ふぅん、デストロイヤー倒しちゃったのねぇ……」
 案外強いんだぁ、と彼女は続けた。その声には、どこかつまらなそうな響きがあった。
「あれをやったのはお前か?」
 シオは尋ねた。彼の危機に、デーモンに突然走った光の呪縛。あの援護が無ければ、彼も無事ではいられなかったろう。
「ん〜……何のことぉ?」
 彼女は口元に指を当て考える仕草をしながら、惚けた様子で答えた。
「……」
 シオはそれ以上追求するつもりも無いらしく、愛名から視線をはずしていた。
「……そろそろ帰ろうと思います」
 軽く瞑想をしていたガラテアは、目を開くと立ち上がり愛名に言った。
「ん〜、そうだねぇ……そろそろかぁ」
 付いてきてねぇ、と言うと彼女は踵を返して歩き出した。部屋の片隅に向き、愛名が何事か語りかけると、この部屋に侵入した時と同じように、暗闇の通路が現した。
「それじゃ、また来てねぇ」
「今日はありがとうございました」
 愛名の台詞にガラテアは答えると、躊躇いもなくその通路に入った。
 シオは愛名にチラッと視線を向けると、彼女はクスッと笑っただけで言葉は無い。
 一瞬彼は無事に帰れないのではないかと危惧したが、黙ってガラテアの後に続いた。

  9.
 見上げた空には、太陽が目に入らず、それをガラテアは少し惜しんだ。天空を貫くよう、多くのコンクリートのビルが高々と連なる。
 時間的にはそろそろ日が傾き始める頃なのか、近場に存在する街灯に光がつき始める。
 ガラテアは目の前にある階層移動用エレベータの前に立つと、後ろを振り返った。
「シオ……今日はありがとうございました」
 彼はそっぽを向くようにしながら軽く「ああ」と答えた。彼なりの照れ隠しだった。
 本来の彼は、ガラテアを見送る為に、ここまで来ることは無い。今日はどういう気まぐれか、付き合ってくれていた。
「腕は早めに治せよ」
 エレベータに乗り込むガラテアの背に、シオは声をかけた。閉まるエレベータのドア越しに、彼女は笑顔を返した。

 ガラテアは軽い浮遊感を感じながら、背をエレベータの壁につけた。それに身を任せると心地よい……。
 ふと携帯端末が気になり、小物入れから取り出してみると、いつの間にか着信があったことが分かった。カード大の小さな光ディスプレイに、差出人がゼッツと表示される。
 ガラテアは余り興味が無さそうにその件名に目を通した。
「いつものところで待つ -title only-」
 そう短絡的な文章のみがテキストにされている。
 エレベータが目的の上層部へたどり着くと、ドアが開き、丁度数名の利用者が乗り組んでくる。ガラテアはそれらを避けるように、エレベータから身を乗り出した。
 すれ違った何人かが彼女の左腕の傷に気づき、軽く悲鳴をあげたが、ガラテアは気にせずその場を去った。
 ヴァンブリアで大怪我をして、そのまま歩く者は……少ない。


 雨の似合う店……「コールレイン」は、落ち着いた雰囲気の、割と歳の行った貴婦人に人気のある店だ。観葉植物やハーブなどがあちらこちらに植え付けられた洒落た喫茶店で、店のシンボルカラーであるオリーブ色のイメージを、一層際だてていた。
 この店は、雨の日になると、風情を好む女性客で賑わう。普段も一人の中年男性がいるのは似つかわしくない店なのだが……。
「はっはっは……そんなに堅くならなくても」
 店の主人は、カウンター席に座り、独りぴりぴりしている男に話しかけた。
「どうにも落ち着かなくてなぁ」
 声をかけられた男性は、四十代半ばに入るかという店主に返事を返す。
「元々俺の趣味じゃないんだが……」
 中年に当たる彼は、確かにこの店の雰囲気に合っているとは言い難い。
「そう言いながら、いつも来てくれるのは、ありがたい事ですがね」
 主人は男のティーカップにハーブティーを注ぐ。
「悪いなマスター……。かれこれ3時間もゆっくりしちまってるが……」
「いいえ、あなたはなかなか人気者でして、こちらの商売としても助かりますよ」
 店主はほらと言って顎で店内にいるお客の一団を指した。彼がつられてそちらに目を向けると、齢40代前半の婦人方と目があい、絶句した。彼女たちは熱い視線を彼に送っている。
「まぁ助けになるなら幸いだな……」
 彼は何かを納得させるような口ぶりで言いながら、ティーカップに口を付けた。本日、何杯目かになるハーブティーだが、口にする度に何とも言えぬ安らぎを覚える。
「それにしても遅いな……。あの女がここまで遅れる事は無いのだが……」
「デートでしょうかね? とっても美人ですし」
 少し物寂しそうに愚痴を零す彼に、主人はサラッと答えた。
「それは……!」
 彼は何かを言いかけて、口を詰まらせた。
 マスターはあっはっは、と大声で笑うとカウンターの奥へと戻っていった。
 それを見た彼は、ふぅ……とため息をつき、落ち着かない様子でティーカップを見つめていた。

「ふぅ……」
 ガラテアはため息をついた。左腕から激しい痛みが走り、苦痛に呻く。
 彼女は、悪魔の直撃を避けたつもりであったが、予想以上の被害を受けた。
 油断大敵か、と自らを戒め直す。
 ふと空を見上げれば、雲行きが怪しくなっていった。
 高度の高い浮遊大陸での天候は変わりやすい。天候操作装置が無ければ、ひどく荒れ狂うことだろう……。
 そろそろ雨だな、と彼女は考え、今向かっている店の事を思い出した。
 あそこの店のハーブティーは、美味しい……。
 疲れた心を、癒してくれるだろう……。

 半ばいじけた様子の中年男性を目にし、店の主人……ワードナーは苦笑した。
 カウンター席の客は、約束をすっぽかされたのか、暗い表情でティーカップの表面を眺めている。
 あれから更に1時間、彼のファンである貴婦人方も、精算を済ませていた。
 ふとワードナーは、店の外に人影を見つけると、席に着いた男へ声をかける。
「お嬢さんが来たようですよ」
「来たか……」
 疲れたような表情を浮かべ、彼は振り返った。
 その時には丁度、目的の女性が店へと入ってきたところだった。

 ガラテアはカウンター席に着いたゼッツの姿を見つけ、その後ろ姿が疲れた様子を宿している事に、多少の罪の意識を感じた。恐らく長時間待っていたのだろう。
 こちらに気づかぬ振りをしているが、先ほど姿を確認した事を、彼女は分かっていた。
「お待たせしました」
 ガラテアはどこか哀愁の漂う彼の背中へ声をかけた。いつもの着古したスーツに、乱れた襟……。彼らしい服装だと、彼女は苦笑した。
 彼の返事は、振り向きもせず「ああ」と返ってきただけ。ガラテアは、その様を気にもせず、隣のカウンター席に着いた。
 席に着いた女性を確認したワードナーが、店の奥から声だけで尋ねた。
「お嬢さん、いつものですか」
「ええ……お願いします」
 その後、彼女は小さくため息をつく。ガラテアの瞳に、カウンター席の前に置かれた観葉植物が写り、彼女の心には何となく落ち着きが広がった。
「どうした、ため息なんてついて」
 ゼッツはガラテアの方を見ようともせず、そう口を開いた。手にしたカップを口に運ぶ。
 その様子に彼女は一瞬視線を送り、彼の口にしたカップを惜しそうに見つめる。
「少し、疲れました……」
 その台詞を聞いて、さすがに何かあったのかと、ゼッツはガラテアの様子を窺った。
 彼女はどこか虚ろな表情で、ぼうっと前の植物を眺めている……。ゼッツはそれに見とれた。
 黒く長い髪の毛に、漆黒のドレス……。ゼッツは顔に向けていた視線を降ろし、胸の膨らみに目をやった時、彼女が気づいたように顔を向けてきた。
 彼は慌てて視線を反らそうとして……気づいた。
「どうしましたか……?」
 彼女は怪訝そうな表情を浮かべるが……。
「お前、その腕はどうした!?」
 その時、初めて彼は気づいた。ガラテアが大怪我をしている事に……。
 左腕を布で動かないように固定しているが、その布がどす黒く染まっている。
「……」
 ガラテアは一瞬顔をしかめ、そして、
「遅いです……」
 と、ボソッと呟いた。
「すまん……」
 ゼッツが謝ると同時に、カウンターの奥からワードナーがハーブティーのカップを右手に、姿を見せた。左手にはプディングが持たれ、気の利く店主の人柄を連想させる。
「お嬢さん、その傷は……」
 ティーカップ等を置きながら、彼はガラテアの怪我にすぐに気づいた。
 ガラテアは隣に腰掛けるゼッツを睨む。
 彼は一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに思い直したように席から立ち上がった。
「メディカルサービスへ行くぞ」
 ゼッツは強い口調でガラテアに言い放ち、彼女の右腕を取った。
「でも、折角のプディングが……」
「治してからにしろ」
 珍しく強気な彼に、ガラテアは仕方なくと言う雰囲気で立ち上がった。動かすと痛みが走り顔を歪めたが、それよりもハーブティーの方が気になった。
「マスター……折角出してくれたのに、すみません」
「いえいえ、また今度来て下さいね」
 彼女は申し訳なさそうに言葉にし、ワードナーは応じる。
 店を出て行く二人を見送り、店の主人は小さくため息をついた。
「全く、無茶をする方です……」
 そして彼はふふっと小さく笑った。

 10.
 COAの内部に設けられた喫茶店の一席に、その女性は腰掛け、手にした本に目を通していた。テーブルに内蔵されている時計が示すのは、午後三時過ぎ……COAの中でも休息へと人が出てくる時間帯だ。
 彼女は金縁の眼鏡など、古風な印象の装飾品を身につける、どこか普通と違う雰囲気の女性。その場に居合わせた客ならば、少なからず興味を持っただろう。
「腕はもう良いのか?」
 ふと声をかけられ、彼女はその主の顔を見た。綺麗な緑色の瞳が、真っ直ぐに相手を捉える。
 いつもと変わらぬ無精髭。紺色のネクタイ。地味なスーツなどは、今時流行らない。
「ここのメディカルシステムなら、1時間も、かかりませんから」
 ガラテアは顔見知りの中年男性へ返事を返した。あれから数日、完治するには十分過ぎる時間が経っていた。
 彼は、ふぅとため息をつき、空いている席に腰を下ろした。丁度、ガラテアの合い向かいに座る形だ。
「少し付き合って欲しいんだ」
「?」
 唐突な彼の台詞に、ガラテアは怪訝そうな表情を浮かべる。彼女は、どこか不気味だと感じていたのかも知れない。
「ゼッツ……珍しい事を言いますね」
「そうか……?」
「はい」
 ゼッツはそうだったか、と多少考えて見たが、ガラテアに簡単に答えられたために沈黙する。
「……仕事だ」
 彼は何とか言葉を作り、席を立つと、ガラテアについてくるよう促した。
 彼女はそれに従うよう立ち上がり、眼鏡を取ると、それと一緒に手にしていた本……「観葉植物の育て方」を、ポーチに収めた。

「これは?」
 それを見た彼女の一声は、ゼッツの予想通りであった。
 COAの地下駐車場。階層的には、地上区と同等の高度だ。空を飛ばねばならない自動車が、地下に駐車するのは非効率に他ならないが……。
「車だ」
 顔をしかめるガラテアに、ゼッツは簡潔に答えた。
 ガラテアの言った「これ」とは、高級車種に当たる四輪車。今更、地上を進む車など……。
「それは分かりますが……」
「まぁ、良いから乗れって」
 彼の言う車は、赤いボディのオープンカー。高級な四輪車の中でもなかなか高いグレードに当たるはずだ。
「買ったのですか……?」
「おう」
 再び返る、彼の単純な答え。
 ガラテアはそれ以上言葉は作らず、ただ「ふぅ……」とため息をつき、助手席に腰を下ろした。

 二人は車に乗り込んだのは良いが、一向に発進する気配はなかった。
「それで……」
 ガラテアは何かを言いたそうに、ゼッツを見た。彼は困ったような表情を返す。
「いつまでここに座っているのですか?」
「ん……いや、何だ……もう少し、な」
 曖昧な返事をしながら、ゼッツは忙しく機械を弄るが、やはり車は発進しない。
「エンジンスターターは……どこだったかな……」
「そのキーは?」
 助手席の前に置かれた鍵を見つけたガラテアが、ゼッツに言う。
「おぉ、そうそう、それだ」
 彼はガラテアから手渡されたキーを何とか差し込み、それを捻ると、車はうなりエンジンを起動させた。続いて変速レバーを手に取りどうしたものかと首を捻る。
「……ゼッツ」
 ガラテアは小さな声で彼に尋ねた。
「ん?」
「四輪車のライセンス、持っていますよね……?」
「ん?」
 彼の返事は、変わらない。彼女の瞳に鋭い光が宿る。
「ライセンス不所持で逮捕されると、私まで罰金を取られるのですが……」
 段々とガラテアの声が低くなっていった。
「あぁ……」
「もしやとは思いますが、大丈夫ですよね?」
「おう、多分な」
「多分って……うぐっ」
 ガラテアが言いかけた瞬間、車が発進した。……後ろ方向へ。
 ガツンっと言う無惨な音と共に、新車は後の壁に真っ直ぐに激突した。
「わりぃ、間違えた」
 はっはっはと笑いながら、ゼッツは余裕そうな表情を浮かべ、ガラテアの方を見たが……。
 待っていたのは、滅多に見せない怒りの形相で涙眼を溜め、睨み付けてくる彼女の顔だった。

 そろそろ夕暮れかという時間帯。二人の乗った車は地上区の高級地の間を走り抜けていた。その頃には、ゼッツの運転も手慣れたもので、問題も起こらない。元々高度な機械の扱いは、上手な男だった。
「そう、怒るなって……」
「……」
 もう30分はドライブを楽しんでいるが、あれから彼女は一度も口を開いていなかった。
「何か問題があったわけじゃねえだろ?」
「……舌を噛みました」
 ボソッとガラテアは返事を返した。
「……悪い」
「……」

 四つ星に入る高級衣類店グラウンドマザー。婦人服を初め、紳士服も多く取り扱っている。その駐車場に、ゼッツのスポーツカーが止まっていた。
「どういう気まぐれですか?」
「たまには良いだろ。プレゼントって奴だ」
「それは良いですが、どこら辺が仕事なのですか」
 いつものような言い合いをしながら、二人は店内に入った。
「だぁ、お前はしつこいぞ」
「……」
 さすがにガラテアでも、しつこいと言われては、黙ってしまう。
「わりぃ、前言撤回だ。偶には俺の好意と受け取ってくれ」
 言い過ぎたと思ったのか、ゼッツは彼女に謝った。
「……感謝します」
 そのガラテアの返事に、ゼッツは「何だかなぁ」と漏らしたが、彼はそれ以上言い合う積もりは無かった。

 婦人服の担当員は、一組のカップルを見つけた。
 黒いドレスに、不思議なイミテーションを身につけた美貌を持つ女性と、付き添いの男性。男性の身なりは気になるが、良い客だ、と彼女はほくそ笑んだ。
「お客様、当店をご利用になるの初めてでしょうか」
 営業の教科書に習い、女性に声をかける。声をかけられた彼女は、初め困った顔をしたようだった。整った顔立ち、綺麗な緑色の瞳に迷いの光が浮かぶ。
「私は……」
 何事かと言い淀む彼女は、担当でも羨む容姿だ。それが自然に手に入る事など……。
「こちらは如何でしょうか」
 彼女に薦めたのは、派手で高級なドレス。庶民では到底手に入らないような、最上級のものだ。
「大変お似合いですよ」
 彼女なら手を出す。満面の笑みを浮かべながら、その担当員はそう確信していた。

 販売員が差し出した衣服を見て、ゼッツは顔をしかめた。値段の桁を示す丸の数が、彼の想像より二つ多い。
 衣服自体の作りは、少々派手か?と言うくらいのものだった。淡い桃色をした肌触りの良い生地をベースに、煌びやかな宝飾類が取り付けられていた。
 普段これで出歩くような者は、上級階級に当たる人間だけだろう。彼等は常に煌びやかで、そして無駄にコストの高いものを身につける。自らに似合っているかなど、お構いもせずに。
 ゼッツにしてみれば、ガラテアの魅力は、その地味ながら美しい、その安定した美麗さ。共にいるだけで落ち着いた気分に浸れる。彼の中には、そんな彼女を自分のものにしたいと思う一面がある事を、認めずにはいられなかった。
 だが、今の店員はその彼女の良さを理解して薦めているのだろうか。戸惑うガラテアに薦めるものは、値段は張るがどれも似合っているとは言い難いものに思った。
 彼は販売員の美麗な顔を見た。高級店と呼ばれるものに努める接客員は、全て美麗だ。どこか機械的にも感じる、無機質な美貌……。計算された笑顔で、お客を捉えようとしているように感ずる。
「……」
 ゼッツの勘が、何かを読みとっていた。店員の作られた笑顔の中にある感情。仕事と切り離された彼女の本当の心が、見えた気がした。

「帰るぞ」
「え?」
 四着めのドレスを差し出されていたガラテアは、突然後ろからかけられたゼッツの台詞に、一瞬呆気にとられた。
 販売員が薦めるドレスは、どれも煌びやかで、単体で見れば美しい。彼女の心にも響く、魅力的な作りをしているが、どれも自分に似合っているとは思えない。そしてその値段が、どれも高級な事に、手を出せないと考えていた。
「良いから来い」
 ゼッツが半ば強引にガラテアの腕を取った。
 接客員は付き添いの男が、突然邪魔に入った事に、顔をしかめていた。後少しで売れる、その感触を得ていたのに……。
 彼女は去っていく二人を、仕方なく礼で見送った。

 車に乗り込んだガラテアは、ゼッツの様子を窺った。
 彼は突然不機嫌になり、途中で帰ってきてしまったが、店員には悪い事をしたか、と彼女は気がかった。
「買うつもりはありませんでしたから、大丈夫ですよ」
 ガラテアはムスッとした表情を浮かべているゼッツに笑顔を向けた。さすがにあの値段はCOA関係者でも、早々とは支払えない。三ヶ月程度の給料が丸々無くなってしまう。
「そうじゃねぇ!」
 ガンッと車のドアを横殴りにして、ゼッツは声を荒げた。
 その様子にガラテアは見ていられないと、片目を一瞬瞑った。
「……突然、どうしたのですか」
 彼女は仕方ないと言う風に、シートに背中を任せると、落ち着いた様子で尋ねた。
「……」
「何か気に障る事でも、言いましたか」
 自分に落ち度があったかと、彼女は考えた。店に入る前の言い合いが思い立ったが、その時には、不機嫌そうな気配は微塵もなかった。
「すまん……。お前にじゃない」
「?」
「あの店員の顔……気づいたか」
 彼に言われて、彼女は考えてみた。
 美しい美貌。自らも美しいと自負していたガラテアだが、それよりも整った計算された美貌を、あの店員は持っていた。そしてその顔で作られる見事な営業スマイルは、同じ女性からしても、魅力的に見えた。
 だが、その笑顔の裏には……。
「私を、お金持ちだと思ったのでしょうね」
 ゼッツは鼻を鳴らした。
「ここでは金さえ払えば、幾らでも美貌なんざ手に入れられる」
 彼はどこか軽蔑するような気配で、語り始めた。
「それは……」
「勿論、それが悪いとは言わねぇ。……だがな」
 ガラテアはチラッと横目で彼の表情を見る。久々に見た不機嫌そうな彼は、まだそこにいた。
「お前まで同じように見ていたのが、気にいらん」
「ゼッツ……」
 彼が何に苛々していたのかを理解し、そしてどう考えていたのか、ガラテアは思うと、何故か苦笑が出てきた。それを彼に見られないように、顔を反対側に向け……。
「ふふ」
 そして笑顔を再び作り、「ありがとう」と彼に伝えた。

 11.
「済まなかったな……」
 二人の乗る四輪車は、再び地上区のハイウェイを走っていた。
 すでに日は沈み、街は鮮やかな人口光で満たされていた。多くの四輪車が共に走り、横をすり抜ける。対向車線を走り抜ける、ヘッドライトの閃光が五月蠅かった。
「何がでしょうか」
 彼女は惚けたように、そしらぬ返事を返してきた。
「……」
 彼は言いづらそうに沈黙する。
「何だ……。俺が誘っておいて、ぶち壊したからな」
「気にしません」
「……」
 何とか口を開いた彼に、ガラテアは簡単な返事を返す。ゼッツは何か言いたげな表情を一瞬だけ彼女に向け、運転に集中するように前へと向きなおした。
「冷てぇな」
「前からです」
「……」

 二人の乗った車は、地上区の高級地から外れた郊外の方へと入っていった。
 それまでは派手な人口光の独特な光の世界により、逆に夜だという事を認識させていたものが、今度は闇によっての真の意味で夜を知らせていた。
 ガラテアは、彼が向かっている先が、スラムの方面だという事に何となく気づいていた。
「準備は良いのですか?」
 ふと尋ねた彼女に、ゼッツは親指を立てて、後ろの座席を指した。
 釣られるようにガラテアは、後部シートを見ると、そこには接近戦用の長銃が寝かされていた。
 それを目にしたガラテアは、あら……と多少驚いたように声を漏らした。
「準備は良いのですね」
「まあな」
「あんな風においたまま、車を離れるなんて、不用心ですけど」
 彼女は、衣類店へと入ったとき、そのまま車を離れた事を言っていた。
「……」
 ゼッツは言われて気づき、「しまった」という顔を一瞬浮かべたが、すぐに惚けた表情を浮かべる。
「盗まれる事はないと思ってな」
「また保証の無い事を……」
「細かい事、気にするな」
 好きに言ってなさい、とガラテアは応えながら、銃の性能を思い出していた。
 高級なオートショットガン。複数の弾丸を連続発射する完全オートマチックの長銃だ。高度なコンピュータ制御により、FCSを有し、扱う人間の負担を軽くする。従来のようにコンピュータの援護を利用しなくとも使用出来る、クラシックな銃だ。名銃グローリーブレイクの姉妹機で、名は確かロイヤルブレイク……。
「その銃持っていましたっけ」
「おう」
「2週間前には持っていませんでしたよね」
「おう」
「昨日買ったのですか」
「おう」
「なるほどね……」
 誤魔化すように同じ返事を繰り返すゼッツに対し、ガラテアは呆れるように苦笑を漏らした。
「まぁ、欲しくなってな……。車を買ったついでだ」
「……」
 確かに高給取りの彼が、何にもお金を使っていない事は、ガラテアも知っていた。逆に一回金を使い始めると、一気に使い込んでしまうのだろう。
 二人が乗る車は、大分高級地から外れ、物寂しい地区へと入っていった。主要な施設もなく、品の悪い建物が続く。
 物寂しい暗闇の道を、一台の車は走っていった。空には雲に隠れるように月が顔を覗かせている。
「……ん?」
 ゼッツが何かに気づき、声をあげた。ガラテアもそれに気づき……。
 ヘッドライトが照らす、前方に続く車道の脇に、一人の男が突っ立っていた。不気味な存在感。暗い空間の中に、いると言う事が何故か認識出来る……それだけの存在感を、それは示していた。
 深緑のロングコートに身を包み、一見、軍の関係者かと思わせる。
 車は、その男の横を通りすぎた。
 ガラテアがすれ違う瞬間、男の顔を覗き見た。
 コートを深めに被り、顎を引くように顔を下へと伏せる男……。一瞬、彼の瞳が彼女のそれをかち合う。赤い視線が、彼の瞳に光っていた。
「……!」
 ゼッツは突然、ブレーキペダルを強く踏み込み、車は激しいブレーキ音を響かせ、道路を横滑りし始めた。
 クラシックな四輪車は、ABSを装備していなかったのだ……。

 激しい爆音を辺りに轟かせ、その赤い車は、それよりも鮮やかな紅色で燃え上がった。そして、同時に真っ黒な煙が吹き出し、闇の空へと溶けていっていた。その煙に巻かれ、月の光は届かない。
「いってぇ……」
 ゼッツは道路の上で、愚痴るように漏らした。
「いきなりな挨拶じゃねぇか」
 激しい爆音で、彼の頭は混乱しているが、彼自身もそれに気づいていた。
 頭を振り払うようにしながら、立ち上がると、車の爆炎で明るくなっている周辺を見渡す。
 そして、彼の姿を見つけた。
 向かって正面……。背の高いコートの男……。彼は脚を引きずるように、ゆっくりと近づいてくる。
 ゼッツの背から発せられる爆炎の激しい光が、その男の姿を赤く染め上げ、赤の死神を彷彿させた。
『ヤミは……ドコに……イル?』
 それは言葉を喋った。人の使う、意味を持った音。……声、と呼ぶべきなのか……。
「ご挨拶じゃねぇか」
 彼は再び同じ言葉を言い放つと、腰の拳銃を手に取った。だが、彼がそれを構える前に、男の姿は消えていた。
「!」
 ゼッツは気づいた。
「ガラテア!」

 ゼッツの声が耳に入り、ガラテアは姿勢を正した。
 車から飛び降りたときにか、それとも地面を転がったときにか、彼女は左肩を痛めていた。それを庇うように立ち上がると、正面から何かが迫ってきた事に気づいた。
 咄嗟に右の手の平を前へ突き出すと、何かが手に当たり、偶然ながらそれを弾き返していた。当たった感触から、その大きさは拳大だろうかと推測する。
「くっ!」
 彼女はその正体に気づき、後ろ方向へ思い切り飛び込み、地面を転がった。
 再び起こる激しい爆音。度重なる近くでの激しい爆音に、ガラテアは耳がおかしくなっていないかと気がかりだった。ツーンと言う不快な音が、鳴っている気がする。
 良い運動になる、と彼女は考えながら、片手を付いてすぐに立ち上がった。
 初めに立ち上がった場所から10メートルは後方へと下がっている事を確認する。左側には、燃えさかるゼッツの車の残骸があった。
 すぐにガラテアの前に何かが迫ってきていた。右手で弾いたものとは違い、それは大きく……。
 ガッ。
 何かがぶつかる鈍い音が、一際響いたように感じた。
 ガラテアの顔のすぐ目の前に、男の顔が迫っていた。男は彼女を押し倒そうとするように覆い被さろうとしている。
『シトは、マダなのか……?』
 はっきりとした男の台詞が、ガラテアの耳に入った。呪いの台詞のように、彼女の耳へしっかりと刻み込まれていた。
 男の身体は、ガラテアに触れるすぐ手前で、二つの浮遊球によって阻まれていた。
 普段は彼女の肩の上にただ浮いているだけの黒い水晶球……。それは盾となり男の両腕を押し返していた。
 そして……。
 ガガガガガン!
 けたましい銃声が連続で響いた。
 男の身体は吹き飛ばされるように錐揉みし、ガラテアの右横へと吹き飛ばされていた。
 ドサッと音を立てコートの男は地面へうつ伏せに倒る。
『シトを……やミのしと……』
 最後の台詞と思われるものを残し、まるでいつか見た光景を再現するかように、それは闇へと霧散した。
 彼女はその様子を目にし、ただ何かに考えを巡らせていた。

 12.
 彼は空になった弾倉をリリースし、地面へと落とした。半ば反射的に、次の弾倉を銃床に再装填し、ケースレスを解除する。
 30発装填の、オートマチックバースト拳銃。プロの間で定評のある、精度の高く、そして信頼性の高い、高級オートマチック。秒間12発の連射は、ハンドガンながら高火力を実現している。MC−DAQ……通称ダックと呼ばれているその拳銃を、彼も愛用していた。
 バーストの連射は、確かに手応えがあったが、撃たれたそれは、闇の中に霧散していた。まるで夜の暗闇に溶け込むように、突然消えた。
「……ガラテア!」
 ゼッツは思い出したように声を張り上げ、彼女のところへと駆け付けた。

 彼女は放心したように、そこに立ち尽くしていた。何かに取り憑かれたように、フラフラと何となく立っているような様子だ。
「大丈夫……か?」
 ゼッツが声をかけると、彼女は顔を向け、何事も無かったような表情を返してくる。
「はい。とりあえずは事件解決ですね」
「解決、つったって……」
 彼は困った顔をした。犯人と思われる男は消え去り……。
 あの男の動きは、ゼッツでも捉えきれなかった。直感で移動先を悟ったが、あの速度で突然動ける人間は、普通は存在しない。肉体強化が施されているとしても、死ぬと消える事など……。
「証拠は、燃えた車と……。車……?」
 考え込むようにボソッと口にし、ゼッツは気づいた。
「俺の車!?」
 戦闘の余韻が冷め、やっと彼は自分の愛車がどうなったかを認識した。
「燃えていますね」
 ガラテアは状況を正確に伝えるかのように、冷たくサラッと応えた。
 無情にも、ゼッツの車だったものは未だに狼煙を暗闇の空へとあげていた。そろそろ赤い炎は消えそうだ。
「さっぱり言うな……」
「事実ですから」
 いつものように冷静に彼女は応じる。
「……」
 ゼッツは少し沈黙し……。
「買ったばかりだぞ!」
 やはり腹の虫が収まらないのか、声を張り上げた。
「銃も残念でしたね」
 ガラテアは更に傷口を広げるかのように、もう一つの事を口にした。
「……」
 彼はふと何事かと一瞬考え……。
「……ちっくしょぉ!」
 車と共に燃えているだろう、高級オートマチック長銃の事に気づいた。


 緑色の観葉植物を手で弄りながら、ガラテアはワードナーの出したコーヒーを手に取った。
「お嬢さん、今日はゆっくり出来ますか?」
 冗談めかして言う彼に、ガラテアはにっこりと微笑み返した。
「傷は大したことありませんから」
 前回は大怪我を負っていたが、今回は軽い打ち身程度だ。
 それを聞いた店主は、奥の冷蔵庫から、いつかと同じイチゴプディングを取り出し、彼女の前に置いた。
「ありがとうございます」
 彼女はお礼を述べて嬉しそうにその菓子に手を付けた。
 口に含むと程良い酸味と甘みが、心地よく舌に溶け込む。
 小さなイチゴの乗った可愛らしい色合いのプディングは、この店でも人気の商品であった。
「それで、今回の事件は解決したんですか?」
 ワードナーもカウンターの相向かいに腰掛け、彼女へと尋ねてきた。
「どうもこうもねぇ!」
 ガラテアの隣に座る中年男性が、機嫌悪そうに声をあげた。いつものようにぼさぼさの髪の毛が、更に不機嫌そうに掻きむしられている。
「俺の新車をお釈迦にした奴を仕留めたって言っても証拠が無いだの、これじゃ保険は降りないだと……」
 愚痴るように口早に語る彼の横で、ガラテアは軽く苦笑を浮かべた。
「おや、車の保険降りないのですか?」
 ワードナーが意外そうな顔をして漏らした。
「車どころか折角買ったばかりの銃の保険も下りやしねぇ。騒ぎの責任まで追及されて、減給ものだ」
 苦笑を浮かべながらワードナーは隣に座る女性に視線を送る。
 彼女は涼しげな表情で、彼の話を気にした様子も無かった。
「お嬢さんは?」
「私はただの同行者でしたから。私の身を危険に晒したと言う責任も、彼にはかかっていますよ」
 そして思い出したように……。
「あと、無免許運転の件も」と、にっこりと微笑んだ。
「まあ、そう言う事だ……」
 うなだれる彼の横で、ガラテアはあの時の事を思い出していた。
 闇の使徒……か。
 彼女の心には、その単語がいつまでも引っ掛かっていた。

続く
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