Dark Scythe 〜闇の誘い〜

  0
 心地よい香り……。
 血の匂いがこれ程心を澄ませるとは、私は知らなかった。
 ……否、私が変わってしまったのか……。
「……」
 胸が痛む。……この胸の奥から湧く痛みは、心から響く。
 ……気分が悪い。

 一陣の風が後ろから吹き付けられ、風に揉まれる。紅い……紅い風だ。
 その涼しい風を身に受けると、私は振り返る。胸の痛みを誤魔化すかのように……。
 視界に入ったのは、一面の屍。血の海に彼らの筏が浮かぶ。
 私が殺した者達。私が愛した者達。

 さあ、あなたも眠りなさい。
 子守歌は唄えぬけど、眠りにつかせることは出来るから。
 冷たい刃をその身に受け入れなさい。

  1
 緑に囲まれた山岳地。
 シュナイツ合衆国連邦の辺境の地だ。
 他の地方が進みすぎた開拓により失った木々を、この土地は数多く確保していた。
 人々は呼ぶ、「妬みの地」と。
 それは自らが滅ぼした緑への羨みと、強く欲する闇の意識がそう名付けた。
 正式地方自治名オクティーバ。
 オクティーバ地方管理局政府は他勢力の介入を強固に拒絶している。

  2
 久々に森を見たいなんて思うとは……。
 その男は、何かに惹かれるように家を出た。
 年齢は20代中盤か。無駄な筋肉がつかないスレンダーな体格に、普段自室で居る時と大して変わらない服装だ。
 彼の自宅はオクティーバでも辺境に位置する場所にあった。
 近くにあるものと言えば、小さなモーテルを中心に小さな家が何軒か、そういう寂れた場所である。
 その分緑……木々の多くが生息する場所も近い。

 男は考えごとをしながら緑の中を歩く。
 眩しい太陽の光は、まだ昼頃でもないにも拘わらず高い位置に見える。
 彼は今の生活に満足していなかった。昔の彼は……。
「……!」
 突然感じた不思議な気配に、身体が反応する。
 男は過去に味わった感覚を思い出した。
 臭い……。血の臭いだ。
 今まで眠っていた感覚が、表面へと出る感覚に男は悲鳴を上げた。
 ……喜びの悲鳴だ。だが決して快くはない、暗い歓喜。
 男は駆けだした。

  3
 そこは修羅場だった。広がるは生きた墓場。
 まだ腐敗もしていない新しい死体達が、寄り添うように倒れている。
 男は無意識に近くの死体に駆け寄った。
 そんな自分自身に対しての苦笑が脳裏に浮かぶ。
 死体達の服装は、どこかの宗教に属する者のように見えた。不思議でいて、そして神々しいような印象を与える。
 それらは古めかしい部族の衣のようにも見えた。
 外傷は……。
 手に脂汗が湧くような感覚を男は覚える。
 死者達の体には大きな切り傷が入っていた。
「酷いものだな……」
 男はぼそりと呟いた。
 横たわる屍は、例外なく両断されている。大きな刃に切り裂かれたかのように。
 この惨事は、この世のものとは思えぬ、別世界の出来事に思える。
 古めかしい武器……剣のようなものでやられたのだろうか。
 こんな時代に、剣……か?
 不思議な違和感を覚え、男は身震いする。それらの傷口は綺麗な切断面を見せていた。
 剣などと言う古典的な武器が、ここまで破壊力があるとも思えない。
 手が無意識に自分の腰に当たっていた。……昔頼りにしていたものを求めるように。
 頼りにするものがそこにないことに気づくと、男はその死体から立ち上がる。
 頭に手を当て、髪をかき上げた。
 彼は胸騒ぎを感じる。とにかくこの惨事が近所に知られれば騒ぎが起こるのは必然だろう。
 男は考えを巡らせると、家へと戻ろうと振り返った。
 そこへ……。
「!」
 一瞬悪寒のような、不思議な感覚に男は動きを止める。
 自分をここへと誘い込んだ感覚に、再び支配されたのだ。
 ……やめろ!
 男は心の中で悲鳴をあげる。
 どす黒い何かが、彼の中に広がっていく。だんだん、だんだんと心を犯し始める。
「やめろ!!」
 男の誰に向けてかもわからない絶叫が、修羅場の森の中に轟く。
 その叫びを引き金にしてか、男の心を蝕む闇の感覚が消えていった。
「……」
 荒い呼吸をし、男は地面に手をついていた。悪夢から目覚めたように気分が悪い。
 なんだ、この感じは……。
 なんとも言えぬ心地悪さを感じ、彼は立ち上がる。
 帰ろう。帰って眠ってしまおう。この騒ぎが露呈してから面倒なことは考えれば良い。
 男はそう自分に言い聞かせると、家へと向けて重い歩みを進めた。

  4
 あなたに、何が出来るの?
 その女は俺に語りかけた。
 ……見えない。辺りは靄が掛かったように白い霧で覆われている。
 その空間には女と俺、ただ二人しか存在していないように感じる。
「誰だ!?」
 女の姿が……見えない。
 あなたは、私に何を捧げることが出来るの?
 何かを求めるような女の声が、俺の心を揺さぶる。
 捧げる? この俺に何を捧げろというのだ!
 気分が悪い……。
 お前は何者なんだ。俺に何を求める?
「……」
 女はクスッと笑った。
 視覚的には見えないが、女が笑ったことだけは分かった。
 その仕草に強烈な不快感が湧き起こる。
「殺してやる! 殺してやるぞ!」
 俺は死にものぐるいで女に飛びかかった。
 抽象的な女のイメージに熾烈な殺意が浮く。
「……っ!!」
 次に受けた感覚は不思議な浮遊間。
 分かっているでしょう。あなたの罪を……。
 女の声が遠くから聞こえる。
 あなたが、望んでいた事よ。
『馬鹿な……』
 声が出ない。視界が霧の中に落ちる。
 女が見下ろしてくる。
 自分の身体が、立っている。……首の無い状態で。
 俺の身体が……。
 クスッ。
 再び女があざ笑う。
 意識が遠のく。
 俺は……。俺はただ……。
 意識が暗い闇へと包まれ、俺の自我は消えていった。

  5
 トントン。
 扉を叩く音に男は目を覚ました。殺風景な天井が目に入る。
 彼はベッドから身を起こすと、音のした扉にふらふらと近づいた。
 途中、時計に目をやると午後3時過ぎを示していた。飾り気のない小さな部屋に、時を刻む音だけが響く。
 トントン。
 再び扉が叩かれる。
「ブライ。いるか?」
 扉の向こう側から声が掛かる。割と年季の入った渋い声だった。
 男……ブライは、扉のノブに手をかける。
「ああ、起きてるよ。保安官」
 ブライが扉を開けると、不機嫌そうな顔をした中年男が顔を現した。
 この地区を守る保安官ドミニク。愛称はデニーと呼ばれている気の良い親父だ。
「寝ていたのか?」
 全身汗をかいた後のようなブライの様子と、的をはずしたような答えからドミニクは聞き返す。
 彼は気分の悪そうなブライの様子を見て、心配した表情を見せた。
「悪い夢でも見たか?」
「ああ……」
 何か夢を見たのは確かだが、思い出せない。彼は曖昧に答える。
「それよりも……」
 彼のところに保安官が尋ねてくるなど珍しいことだ。
「何か、あったのか?」
 ブライが訪ねると、ドミニクは顔を曇らせる。
 それで彼は思い当たった。あの修羅場の事だ。緑で囲まれたその場所に、死体達の亡骸が連なるシーンが脳裏に一瞬浮かび、そして消えた。
「殺し、と言うのか。とんでもない事態だ」
 ドミニクが言いにくそうに言葉を紡ぐ。
 内心を悟られないよう、同じように表情を曇らせ、ブライは怪訝そうな顔をする。……自分は何も知らないという風に。
 だがドミニクの言いたいことは理解していた。。
「お前の家の裏手で、大規模な殺しがあった。それもかなり酷い奴がな」
「裏手?」
「いや、悪い。裏手の林と言うべきか……」
 彼の歯切れの悪い言い方から、大分混乱している様子が伺える。
 あんな惨事を目にするのに慣れていない人間なら、当然だろう。
 ブライは心で思いながら話を促した。
「とにかく酷い事件なんだだ」
「ああ……そのようだな」
 落ち着かない彼の様子を見れば、普通の人間が感じる印象はわかる。気が動転し、取り乱さないほうが普通ではないのだ。
「猟奇的な大量殺人というべきか。かなりの人が殺されていた」
 それを聞きながら、ブライは昨日の惨事を再び思い出す。
 あんな現場は、二度と見たくはないと思っていた。
 彼が過去のことに思いを巡らせたとき、とあることに気づいた。
「かなりの人と言ったが、被害者は誰だ?」
 宗教的な衣装。そして数多くの死者達。とてもここ、オクティーバで見られる人種ではない。
 昨日はそんなことを考える余裕もなかったことに今更気づかされた。
「問題はそれだ。ここの人間じゃない。地元の人間でない事は不幸中の幸いだが……」
 言葉を濁すように彼は語る。
「管理局が来るな……」
 相手の意図を、ブライは言葉にした。
 ドミニクは頷く。
 管理局。その呼び名は一部の者たちが使う通称である。
 ……正式にはオクティーバ治安維持管理局特別委員。オクティーバ政府が治安を守るため、そして徹底した管理体制をとるため、設置した施行委員である。
 そのことを知っているのは、この辺境ではドミニクとブライのみ。それだけここは、のどかで平和な地方であるはずなのだ。
「奴等が面倒なことはやってくれるだろう。俺達は関知する必要はないんじゃないか?」
「普通ならそうなる。しかしな」
 今のやり取りのように、この男が歯切れが悪い時は……何か頼みごとがある時だ。通常では面倒な、それも厄介ごとに他ならない。
「言いたいことはわかった。どうすれば良い?」
 言い難そうにしていた彼は、ブライの促しで依頼を口にする。
「生存者の保護を頼む」
 その台詞にブライは、かなりの厄介ごとだと思い直した。

  6
 生存者……。あの状況でよく生きていたな。
 それがブライの率直な感想であった。
 凄まじい傷口。あれはここオクティーバでは、殆ど見ることのできない高度な武器による結果だ。
 そんなものと戦ってか、襲われてか……。どちらにしろ惨殺劇を逃れた事自体奇跡的だったのだろう。
 そして、さらに驚くべき事は、その生存者が女であったことだ。
 ブライ自身が現場を見たとき、死体は全員男で、一人も生きていないと判断したのだ。
 女の容姿は、灰色がかった黒髪。黒いドレスのような、地味ながら優美な長衣。そして今時見られないような、古い感じのする装飾品を多く身に着けている。
 彼女は気を失った状態で、今はベッドに寝かされていた。
「武器は?」
 ドミニクと例の生存者を部屋に招きいれたブライは、彼女の装備を確認するように保安官にたずねた。
 ブライの住む家は、小屋と言っていいような小さなものだ。家具も殆どない。
 ベッドにパイプ椅子が二つ、後は小さなテーブルにタンス、他はバスルームやキッチンがあるくらいだ。
 彼らは二つしかない椅子にそれぞれ腰を降ろすと、話し合いを始めていた。
「この小剣が一振り。腰に収められていた」
 ドミニクは自前の業務用鞄に入れてあった小剣を取り出し、テーブルに置く。
 その小剣の鞘には、女の服装と同じような宝飾品が使われている。刃渡りは40センチメートルほどあるだろうか。
 ブライはその剣を手に取ると鞘から抜いてみた。驚くほど綺麗な刃が目に入る。切っ先が少し反り返った片刃だった。
「綺麗だな」
 ドミニクが率直な感想を述べた。それにブライも同意する。
 刀身自体はシンプルな作りで、曇りもない。業物だろう。
 ふと思い当たったことがあったのか、ブライは立ち上がると近くにあった林檎を手に取る。
 彼は怪訝そうな表情を浮かべるドミニクを尻目に、例の小剣の刃を上に立てると、その刃の上に林檎を落とした。
 林檎は刃に触れると、何の抵抗もないように両断され、床に落ちる。
「すごい切れ味だな……」
 ドミニクが心底、感心したように言った。切れ味の素晴らしい刃物は人を虜にするというが、彼もそれに惹かれる一人だろう。
 ブライは小剣を鞘に収めテーブルに置くと、二つになった林檎を拾い、その切断面を確認した。
 指でなぞって見るが、綺麗な切断面だ。
「それだけじゃないようだな」
 考える様子を見せながら、ブライはドミニクに答える。
「どういうことだ?」
「魔法と科学、どっちが好みだ?」
「は?」
 突拍子もない彼の質問に、ドミニクは呆気に取られる。
「この剣に使われている刃は、普通の刃じゃないな」
「それはつまり……」
 ブライは結論づけた。この刃は超科学の賜物か、神秘の力だと。
「この女はロストナンバー入りだ」
「……」
 ドミニクは予想はしていたが寝覚めが良いとはいえない、と顔をしかめる。
 ロストナンバー……ある者が、管理局が指定した以上の力を持つ場合。それを地獄へと沙汰し、記録ファイルに振られる裏の通し番号。
 この小剣の技術は、オクティーバには相応しくない。
 二人の表情は暗かった。管理局はそう遠くないうちにやって来るだろう。
「他に何も持っていなかったのか?」
「その女のものか分からないが、こんな物も近くに落ちていた」
 彼は再び鞄から物を取り出す。今度の数は二つ。
 それは拳大の大きさをした球体。やはり同じように宝飾が施されている。二つのそれは、対照になるように二対で一つという雰囲気だった。
 見た目は占い師が使うような水晶玉だが、色は深く黒い闇の色だ。
 印象としては、女の服装の雰囲気と完全に一致しているが……。
「なんだか分かるか?」
 ブライは考える。ただの飾りにしては変だ。大きすぎる。
 この物体自体が一般的な地方では価値あるもの、例えば宝石のようなものなのも知れない。
 お手上げの仕草をドミニクに送ると、ブライは椅子に腰を降ろし天井を見上げた。
 少し灰色がかった汚れが目に入る。
 手にしたままだった林檎を、彼は何気なく口に運ぶ。甘酸っぱい味覚が口の中に染みた。
「ブライ……」
「ああ。二択……だ」
 詰まりは、管理局に女を渡し見殺しにするか。それとも……管理局に逆らうか、だ。
 答えは決まっている。女には悪いが死んでもらう。この地に来たのが間違えだったのだ。どんな理由があっても。
「俺はこの地を守らなければならない。あの被害者たちを皆殺しにした奴だって近くにいるに違いない。管理局に報告し、いち早く安全を確保するのが俺の仕事だ。だがな……」
 先を続けようとするドミニクの言葉を、ブライは手で遮った。
 保安官というものは、その地方の治安を守るため、異変をいち早く管理局へと知らせる監視役だ。その報告はできる限り正確で確実でなければならない。
 その報告に虚実は許されない。もしもそれが明らかになれば、処罰される。……死という形で。
 保安官とは、オクティーバではそれだけ重要であり、誇り高い職業なのだ。
「俺も殺人鬼が近くにいると思うと安心して眠れない。早く安全を確保して欲しいと思う」
「ああ……」
 ブライがドミニクの職業を理解していることに、彼は心で感謝した。
「今回の事はいち早く報告してくれ。すべてを、だ。間違えは一切無しだ」
 ブライは、はっきりと言った。
 それを聞いてドミニクは、今もベッドに横たわる女の姿に目をやった。
 まだ若い。20代も前半だろう。あの惨事を生き延びたのは幸運だったろうか。
 しかし……。
 彼は目を瞑った。
「仕方が、ないか……」
 ドミニクは「仕方がない」という台詞を嫌っていた。それをせねばならない職業に就いたことに、何度後悔したことか。
 だが、そんな職業に自分が就かなければ、他の人間が同じ思いをすることになる。彼はそれを心の支えとして生きてきた。
 言い訳でしかないと、心に病みながら。

  7
 月明かりが窓から差し込む。
 ……綺麗な月だ。
 ブライは窓際に寄せた椅子に腰掛け、それを見上げていた。
 満月ではない少し欠けた月。後数日で満月が見られるだろう。
 ドミニクは夕方帰した。彼は署に戻り管理局に通報しただろう。
 彼らは、早ければ明日にはここに来る。
 なんだ……? この感覚は……。
 胸の奥が落ち着かない感じがし、ブライはそれを心地悪く感じる。
 顔に手を当てその感覚を納めようとするが、何故か落ち着かない。
 今再び、女を殺そうとしているからか?
 自問する。
 答えはすぐに出た。自分は後悔している、と。
 だがその時の結果は逃れられないものだったのだ。
 ブライは想いを振り切るように頭を振り立ち上がると、ベッドに眠る女の様子を確認した。
 よほどのショックを受けたのか、未だに目を覚ます気配は無い。
 不思議なものだ。これから死ぬ人間がすぐ近くにいると言うのに、こうも落ち着いていられるとは……。
 自らが異常だと自嘲気味に想いながら、女の顔を確認した。
 月明かりに照らされるその寝顔は、美しい。その異国風の顔立ちは、白い肌に整った相当の美貌だ。
 ブライの心は揺れた。
 何かが訴えかけてくる。何か、心の奥底から響いてくる……。
「はぁはぁはあ……!」
 息が荒くなった。呼吸が苦しい。
 床へ膝をつき女の眠るベッドの端に手をついて身体を支えた。
 何とも言えぬ衝動が身体を支配していく。
 ……殺したい。
 ブライは女の首に両手を当てた。
 そして締め上げる。
「……ぅ」
 それまで静かな寝息を立てていた女の口から、苦しげな声がかすかに漏れる。
「はぁはあはぁ!」
 女の細い首を締め上げるたびに歪む彼女の表情を見ると、ブライは何とも言えぬ満足感を感じた。
 もっと……苦しませたい……。
 絞めすぎず緩すぎず、少しでも永い苦しみを……!
 異様な感覚だった。自分が自分で無いと言う状態を、ブライはこの時感じた。
 その時、女が瞳を開いた。苦しげな表情の中、かすかに瞳孔が広がる。
「!」
 その瞳に捕らわれたのに気づいたブライは動きが止まる。
 手の力を弱め、女の首を放す。彼はベッドから身を引きそこで硬直した。
 その女の瞳はブライの心を貫いていた。
 深い深い緑色の瞳。儚く悲しい輝きが浮かんでいた。
 彼はその瞳を知っていた。だからそれを見たとき我に返ったのだ。
 女は横になったまま苦しそうに軽く咳き込み、荒い呼吸を繰り返した。
 俺は一体……?
 ブライは自分が何をしでかしたのか、分からなかった。雲を掴むように捕らえ所が無い。
 ただ代わりに一言、彼女へ言葉を紡いだ。
「すまない……」

  8
 ブライの部屋には人工の光が灯され、明るさを得ていた。
 二人は椅子とベッド、それぞれに腰をかけ黙っている。
 重い沈黙が二人の間に落ちていた。
「……名前は?」
 先に沈黙を破ったのは、ブライだった。
 彼は自らの犯した行為にショックを受けていたが、表面上は冷静を装った。
「……ガラテア……です」
 彼女は戸惑いがちに答えた。
 その言い方に、確信が無い。自分を掴めていない。そんな様子だ。
 ……長い間気を失っていたからだろう。
 そう考えたブライは、自分自身も自らを掴めていない事に苛立ちを覚える。
「さっきはすまなかった。怖い思いをさせたな。少し……気がおかしかったようだ」
 そうとしか言えない、とブライは語った。
 再び沈黙が落ちる。
 ガラテアと名乗った女性は、不安そうな表情を見せながら床に視線を下ろしている。
 自分を殺そうとした人間と居れば、当然か……。
 内心、苦笑が浮かんだが、元から直接的では無いにしろ、殺そうとしていることには代わりがない。そう思うと、ブライは自らに皮肉を感じた。
 彼はその時まで、それを彼女に悟られないつもりであった。
「ここはどこなのでしょうか……?」
 彼女は遠慮がちに訪ねてくる。
「……俺の家だ。あんたが気を失っていたのを見つけて、運び込んだ。それ以上のつもりは無かった。信じろとは、言えないがな……」
 その答えでは、彼女は満足していない様子だった。
「私は何故ここへ……。何故ここで……」
 ガラテアの自分に言い聞かせるような呟き。それでブライはハッとした。
「自分がこの地に訪れた理由が、分からないのか?」
「……はい」
 彼女は顔を伏せがちに答えた。
 なんて事だ……。
 ブライは悩んだ。この地に訪れ、自らが何者かも理解していない人間を殺さねばならないとは。
 この地に訪れた事実は、この女に非があるだろう。だがそれを忘れた彼女を、理由も知らせずに死なせるのは哀れにも思えた。
「……行く当てが無いのなら、しばらくこの家にいると良い。……狭いがな」
 気のない様子でブライは彼女に言った。その後、ふらりと家の扉を開ける。
「あの……」
 ガラテアが何か言おうと声をかけたが、ブライは聞かずそのまま自宅を出た。

  9
 液晶のディスプレイに、検索中の文字が出る。
 暗闇の中、男はその画面に写されたタッチパネルを、苛々した様子で叩く。
 コツコツと無機質な音がその部屋に響き、ディスプレイから放たれる光が、男のシルエットを壁に映し出していた。
 その影は恐らく戦闘用のプロテクターに銃器を身に着けたもの……。シルエットだけでも常人ではないと伺える。
「こちらダークリング。もう少し時間が掛かる」
 男はヘッドセットに装備されたマイクに向けて声をかける。
 ダークリング……。彼のコードネームだ。
『了解。気づかれるまで、もう少し余裕があるでしょう』
 ヘッドセットから返事が返る。男が信用している女からだ。
 その男の使命は、オクティーバ政府の極秘データを奪うこと。なんのデータかは知らされていないが、彼にとっては関係が無かった。
 依頼主は他地方の政府重役。オクティーバの裏で蓄える力を察知し、調査を依頼してきた。
 裏の仕事に精通する、その男に……。
 彼は森の奥の極秘施設。オクティーバの極秘軍事施設へと侵入していた。
 表面上はただの自然保護区。だが実際は超科学に迫る兵器の開発施設だ。
 遅い……。
 男はハッキングをかけたデータの検索に、時間が掛かりすぎていると感じた。
「時間が掛かりすぎている。網に掛かってないか?」
 網……侵入者を察知する、警備装置の事だ。
『……こちらからは確認できません。恐らく大丈夫かと』
 しばらくの沈黙の後、女は答えてきた。
 彼女は施設の入り口付近で、コントロールにハッキングを仕掛け、セキュリティシステムの動向を監視している。
 セキュリティに妙な動きが感じられたら、男へと知らせるのが彼女の仕事だった。
 男は妙な違和感を感じていた。虫の知らせと言うのか、それとも仕事柄の勘というのか、嫌な予感が彼の心を支配した。
「ミリア。様子がおかしい。検索に時間がかかりすぎる」
 男は女の名を呼ぶ。彼が愛している者の名を。
『……』
 しばらく待ったが、彼女の返事はなかった。
 彼は舌打ちした。自分の予感が当たってしまったことに。
 検索を強制的に打ち切ると、彼はヘッドセットに写し出されるモニターをを戦闘モードにする。左目の前に眼鏡のレンズのようなものがかかり、そこに様々な情報が映し出されるのだ。
 HMHUD……多目的人間向け小型ディスプレイというものだ。
 彼は背中に背負っていたショットガンを構えると、部屋の外へと飛び出した。
 部屋から出た通路はひんやりした空気が感じられた。通路の幅は横幅6メートル程度。そこそこの広さだ。光源は殆どなく薄暗い。
 ピピ……。
 素っ気無いが、しかし確実に注意を引く警告音がヘッドセットから発せられた。
 そしてその音に続き、HMHUDに文字が表示される。
 Warning! Personal missile approach.
 警告。対人ミサイル接近。
 そう愉快なほど、明確に状況を説明した文章だった。
 通路の右側から熱源が接近するのを確認した。
「グラウンドチェイサー!」
 彼は兵器の種類を見分け恐怖した。
 こんな閉鎖空間で、ミサイル兵器を使うとは……!!
 彼はショットガンを操作し、弾薬を迎撃モードに切り替える。すぐさま電子制御された大型のその銃器は装弾を完了させた。
 キーンと言う甲高い音が通路に段々と響いてきた。
 ピコピコ……というショットガンのFCSがミサイルをロックオンした音を確認すると、男は引き金を引いた。
 ……!!
 薄暗い通路にフラッシュが八回連続する。
 HMHUDがショットガンの弾室にあった迎撃弾の残弾が0になったと表示した。
 次の瞬間、轟音が男を襲った。そしてそれを追うような激しい空気の壁が続いて襲い来る。
「……元からこの施設がどうなっても、良いって事なのか」
 地面に身を伏せ爆風を避けた男は、悪態をつくように呟いた。
 ショットガンの弾室に散弾をセットしなおすと、男は立ち上がり出口へと向かった。
 行くときは姿も見せなかったセキュリティメカが、息を吹き返したように攻撃を行ってくる。
 中まで誘っておいて、後は逃がさないとでもいうように……。
 冷静な攻撃でそれらのセキュリティを破壊しながら、男はとある考えに行き着いた。
 ミリア……待っていろ……。

  10
 今夜は何故か、月を見上げると心が落ち着く。
 ブライは自宅の外の草むらで、空に浮かぶ明るい月を見上げていた。
 家を出たのは特に理由があったわけではない。なんとなく彼女と共にいるのは気まずいからだ。
 あの感覚……。
 彼はガラテアを殺そうとした時の事を思い出した。
 心の底から、ただ殺したいと願ったあの瞬間。何とも言えぬ快楽を感じたのは事実だ。
 しかし、何故だ……?
 ブライは自問した。
 何故、そんな感覚を突然持った? 少なくとも昨日までは、あの現場を見るまでは、自分は普通だったはずだ。
 ……だった、はずなのだ。
 正直、自分がわからなくなっていた。本当に自分は、今までは普通だったのか? 自信がない……。
 サラサラと風で草同士がすれる音が聞こえる。
 それがあなたの本質……。
 ……違う。
 それがあなたの望むもの……。
 ……違う。
 そう。あなたは血に飢えている。
 違う!!
 突然、心に訴えかけている謎の声。ゾクッとする悪寒。彼はその言葉を強く否定した。
「はぁはぁ……」
 気づけば彼は荒い呼吸をしていた。
 このままでは、自分は壊れてしまう。彼はその事に気づき、恐怖した。
 俺を許せないのか……?
 ブライはその女へと尋ねた。答えは当然……無い。
「ふぅ……」
 彼は溜め息をつくと、草むらに腰を下ろした。
 安らぎなど、自分に存在しない。それは理解しているつもりだった。だがそれがこうも辛いとは……想像以上だった。
「すみません……」
 ふと女の声が聞こえ、ブライは咄嗟に身構えた。
 先ほどの心に響く声とは、違う。今の彼には心地よく感じる、現実の声だ。
「あんたか……」
 ブライは声のした方へと顔を上げると、ガラテアが立っていた。
 いつの間に傍にきたのか、彼も気づかなかった。……いや、あの声に支配されていたから気づけなかったというのが、正確だろうか。
「どうか、したのか?」
 ブライは声をかけずらく、遠慮がちに訪ねた。
「お礼を言おうと思いまして」
「いや、良い」
 殺そうとしている人間に礼を言われると、皮肉にしか聞こえない。ブライは心の中で思った。
 ……そこでふと彼女を疑った。
「心でも、読めるのか?」
「?」
 ガラテアは不思議そうな顔をする。
「……冗談だ」
 自分で馬鹿なことを言ったと後悔しつつブライは彼女を見上げた。
 深緑色の瞳が、ブライを捉えている。彼はその瞳に魅入られた。
「どうか……しましたか?」
 ガラテアは黙り自分を見上げるブライを怪訝に感じ、訪ねる。先ほどから彼の行動は不可解だと見て取れたのだろう。
「いやなんでもない」
 たずね返され、ブライは我に返ると、彼女から視線を外した。
「言動がはっきりしている。何か思い出したか?」
 話題をずらすように、彼は尋ねた。彼女は首を横に振る。
「そうか……」
 彼女は何も覚えていない。今はそれで良い。
 今度は、俺が騙す番だ……。
 ブライは心の中でつぶやいた。
 月の明かりが照らす草むらで、涼しげな風が優しく二人に吹き付けられていた。

  11
 ミリアの瞳には、つい今しがたまで激戦を繰り広げていた、彼の姿が映っていた
 施設の入り口。自然の洞窟に偽装したそれは、自然の一部に溶け込んでいる。太陽の光が眩しかった。
 彼の姿は酷いもので、全身に多数の銃弾や光学兵器を受けた様子がある。リアクティヴプレートもその殆どが機能を停止しており、満身創痍の様子だった。
 得物のショットガンも破損し、彼の戦闘システムは、機能の大半が停止ていた。
 男はヒビの入ったHMHUDを通して、ミリアを見ていた。
 ミリアの体は、震えていた。彼女は、その震えを抑え付けるように勤めるが、どうしても震えが止まらない。
 自らも最高と自負する肢体が、オペレータ用のスーツでも抑えられないくらい震え、大きな胸が、服に締め付けられる感覚に、彼女は苛立った。
 施設から出てきた男の前に立ちふさがるように、彼女は立っている。
「それが、答え……か?」
 男は達観したような、そして予想していたようにミリアに尋ねた。
 彼は疲れたようにゆっくりと肩で息をし、ショットガンの銃口も下へと向いている。
 ミリアはハンドガンの照準を、彼に向けていた。両手で銃を構え、体を震わせながら。
 距離は5メートル。素人でも外す距離ではない。
「ごめんなさい、ブライ……」
 彼女は泣きながら男に謝罪した。深緑色の綺麗な瞳が、ミリアの愛しい男へと向けられている。
 金色の美しい髪の毛が風になびき、彼女の前髪が顔にかかった。
「理由は……?」
 彼女の瞳を見つめて、彼はただ一言聞き返してきた。
 ミリアは右手で銃を構えたまま、左手をポケットに入れる。
 そして何かの束を掴むと、その手をブライに見えるよう差し出し、中身を見せた。
 それはカプセル状の薬剤のようだった。白と赤、そして黄色などの鮮やかな色がついている。
「ごめんなさい」
 彼女はそのカプセルを口に含みながら、もう一度謝った。
「薬か……」
 ブライははき捨てるように呟いた。
 彼女は美しかった。彼はミリアの美しい容姿に惹かれ、共に仕事をするうちに愛し合うようになった。
 だが……。一緒に仕事をするたびに、共にいる時間が増えるたびに、彼女の美麗な容姿に疑問を持つようになった。
 古くから、まだブライが裏の仕事を始めたばかりのときから、共に過ごしていると言うのに、彼女の若さと美貌は、いまだに変化していないのだ。
 それは薄々感づいていた。彼女がその事を隠そうとして、苦しんでいることも、なんとなくわかっていた。
 超過万能ドラッグ。人によって望む効果は異なるが、それらがもたらす恩赦は等しく、多大な影響がある。そして当然、その副作用も克服しきれぬ大きな犠牲を伴う。
 強すぎる常習性。人はそれの為に精神を支配され、何が何でも薬を欲するようになる。
 そして薬を失ったときに待っているのは、身体的、精神的な耐え難い苦痛と、凄惨な死なのだ。
 ミリアは自分の美しさを至福としていた。そして、それが失われる事に恐怖していた。
「俺を殺せば、幸せになれるのか?」
 ブライの問いに彼女は首を大きく横に振り否定した。涙で歪んだ、その表情が痛々しい。
 ミリアにはわかっていた。自分の犯している大罪を。そしてそれが間違っている事も。
 彼女は政府から麻薬を買うための大金と引き換えに、ブライを売ったのだ。
 彼女なりに、生きる為に……。
「……撃て」
 ブライは一言だけ言うと、嫌なものでも見たように、彼女から視線を反らした。
 ミリアの心は、彼のその仕草に酷く痛んだ。
 お願い! 私を……私を見て!
 心の中で訴えかける。美しい私を、あなたの女を、見つめて!
 しばらくの沈黙が落ちても、ブライが再びミリアを見ることはなかった。
 パン……。
 小さな銃声と共に、ブライの頭に装備されていたヘッドセットが砕けた。彼の頭から血が噴き出した。
 ミリアは引き金を引き、足の力が抜けたように地面に腰を落とす。
 ブライは呆然とその様子を眺めていた。耳の上辺りから血が流れていたが、今更気にすることもなかった。
 砕かれたヘッドセットの破片がゆっくりと地面へと散っていくように見える。
 彼女の撃った銃弾は偶然にか、彼のヘッドセットを撃ち抜いただけだった。彼の頭のすぐ横を銃弾が通り抜けていた。
「撃てない……。もう撃てない……」
 彼女は子供のように泣きじゃくる。そして彼女は泣き顔でブライを見つめると、口をゆっくりと開いた。彼に何事か伝えようと。
 ブライは凍り付いた表情のまま、ショットガンを構え彼女に銃口を向けた。
 そして……。
 深い森の中に、一際大きな銃声が響く。

  12
「我が血の契約にて、汝を封印する……」
 それは敗者の呪いの呟き。
 私は崩れ行くその者を見下しながら辺りの空気を吸い込んだ。
 血生臭い……。
 胸が焼けるような気分を害する感覚が、沸き起こってくる。
「……」
 一瞬要らぬ考えが頭をよぎり、軽く頭を振るってその思いを消す。
 ……今更慈悲など、私には要らない。
「?」
 ふと不思議な感覚に身が捕らわれる。後ろから何かが包み込んできたような謎の感じ。
 突然、ゾクッと身の毛がよだつ。
 その不快感に私は頭を押さえた。
 この感じ……。この感じは確かに……。
「…………!!」
 私は悲鳴を上げていたかも知れない。
 襲ってくるその闇の者に恐怖し、二度と味わいたくないと全身が、精神が恐慌する。
 来ないで! 二度と……二度とそれだけは! ……来ないで!!
 だがそれは、確実に私の魂に喰らい付いてきた。
 人を殺すと言うこと。宿命づけられた私の業……。
 休みたい……。ほのかな安息を……。
 お願い……。

  13
 朝日が窓から入り込み、心地よい明るさを部屋へともたらしていた。
 ガラテアは窓際の椅子へ腰掛け、外の様子を見ている。木々を見るその横顔は、どこか楽しそうにも見えた。
 ブライは何が楽しいかと疑問に感じたが、特に尋ねようとは思わなかった。
 彼は食事でも作ろうと台所に立った。
 一般的で簡単なハムエッグとトーストだ。
 ガラテアの座る椅子の手前にあるテーブルに、彼女の分の皿とホットミルクを置くと、自分はベッドへと腰を下ろした。
 ふとベッド脇のサイドテーブルに置かれた、例の小剣が目に入った。
「これは……?」
 ガラテアがテーブルに置かれた食事を目にし、尋ねる。
「朝食だ。口に合うか分からないが……」
 ブライは彼女の方に軽く視線を流し答えた。
「ありがとうございます」
 彼女は笑顔で答えた。裏も何もない微笑ましい表情。
 ブライはその笑顔を避けるように再び剣へと目を向けた。
 管理局はもうじきここを訪れるだろう。そしてこの剣と共に彼女を抹消するはずだ。
「この剣は、あんたのものか……?」
 彼はその小剣を手にし、ガラテアへ見せつけるようにして聞いた。
 彼女はそれをまじまじと見、その剣に手を伸ばしてくる。
「……あ」
 ガラテアは声をあげる。彼女の手がその剣に触れようとしたとき、咄嗟にブライはその手の届かぬ所へ引いてしまった。
「いや……すまない」
 不思議そうな表情をするガラテアの顔を見て、ブライは小剣を彼女の食事の置かれているテーブルの上にその小剣を置いた。
 身体がつい反応してしまった……。
 武器を他人に取られると言う行為に、彼は反射的に身を退いてしまったのだ。
 ガラテアはその小剣を手に取ると鞘から抜き、その刃を見つめた。刃に指の腹を軽く当てこすると血が流れ出る。彼女はその血に魅入られるように眺めていた。
 差し込む太陽の日が反射する刃と、剣を抱くように持つガラテア……。
 ブライの心は、彼女のどことなく艶めかしいその様子に揺れた。
 馬鹿な……。
 彼は自分の思いを否定する。
 ガラテアは剣を鞘に収めると、テーブルにそれを戻した。
 そしてブライの方を向くと首を振り否定する。何度目かの覚えがないと言う意思表示。
 ブライは彼女にこれ以上負担を与えないようにと考えた。
 管理局が来るまでそう時間はないはずだ。
「その剣は元々、あんたが持っていたものらしい」
 ブライはガラテアに言いながら、テーブルの小剣を彼女に再び手渡す。
 そして思い立ったようにベッドの下から小型のトランクを取り出した。
 彼はそのままベッドの上にトランクを開き作業をはじめる。
 手渡された剣を腰に収めたガラテアは、その背中姿を怪訝そうに眺めていた。
 ブライの体の影になり、トランクの中身は確認できない。
「それはなんですか……?」
 熱心に作業を続けるブライの様子に、興味を惹かれたように彼女は尋ねた。
 彼は答えずトランクの中に入っていたものを入念に確認している。
「客人が来る。……騒がしくなるぞ」
 作業を終わらせたブライは、遅い返事をガラテアに返しながら、腰へトランクの中身……ハンドガンを納めた。

  14
 トントン。
 扉が叩かれる。ブライはゆっくりと扉に近づいた。
「誰だ?」
 扉の向こうから返事は無い。彼は仕方なく扉を開ける。
 そこには黒いスーツに身を包んだ男が立っていた。無表情でブライを見つめる。
 ヘッドセットを頭に装備し、顔には黒いバイザーと、小さなマイクが装備されている。
 間違えない。彼は今回派遣された管理局実行委員のリーダーだ。
「管理局だ。事情は聞いているな」
 物々しい容姿で、高圧的にその男は尋ねてきた。
 その男の肩越しにブライは外の様子を覗き見て確認する。彼の他に二人ほど同じ服装の男が見える。彼らはバイザーを頭に装備し、大型の拳銃を手にしていた。
 3人……。始めからやる気か……。
「ああ、聞いている」
 管理局の意図を理解しながらブライは応じた。
 彼のその言葉を聞くと、管理局のリーダーはブライの家へと押し入る。
「ドミニクは?」
 部屋へと侵入する男を、道を譲るようにかわし、彼の動きを横目で見ながら、ブライは一言尋ねた。
「答える必要はない」
 男は淡泊に答えると、そのまま奥へ進みガラテアの姿を確認する。
「あなたは……?」
 彼女は突然の来客に戸惑ったような声をあげた。
「ターゲットを確認した」
 男はヘッドセットのマイクに声をかけた。小さく応答がある。
 ガラテアは身を強張らせるように管理局の男に顔を向けた。
「何の用ですか?」
 ただならぬ雰囲気を感じた彼女は、管理局のリーダーに尋ねる。
 彼は答えず、沈黙が落ちた。
 リーダーの通信を聞いたもう一人の管理局員が家に入ってくると、その沈黙を破るように、ガラテアに命令した。
「来て貰おう」
 彼は彼女の腕を強引に掴み、立たせる。テーブルに置かれた食事が、床に落ちて音を立てた。
 ガラテアは、腕の痛みに表情を歪めながらも立ち上がった。そして床に落ちた食事に惜しげな視線を一瞬向けると、自分を捕らえる男を睨んだ。
 彼女とそれを拘束する管理局の男は、家の入り口に向かい歩いて行った。ガラテアは後ろ手に取り押さえられ、抵抗もせずに大人しく従っている。
 ブライは部屋の隅に寄り、その様子をただ傍観していた。今の彼から見て取れる表情は無い。
 ガラテアが彼の横を通る時、ふと足を止め、尋ねた。
「お名前は……?」
 彼はその時やっと気づく。自ら名前を名乗っていた無かったことに。
「ブライだ……」
 素っ気ない答え。謝罪のつもりは無い。
 今の状況の意味を、彼女は理解しているだろう。
「ブライ……。ありがとう」
 返ってきた答えは、怨恨の台詞では無かった。優しい表情と声。ガラテアは彼の名前を大切に呼んでいた。
 すぐに彼女は管理局員により再び歩くよう促される。
 ……ありがとう、か。
 いつもなら皮肉と返していただろうその台詞。だが、今のブライにはその言葉の重みを感じることが出来た。
 ガラテアと彼女を連れた管理局の男は、ブライの家を出て行き、部屋には管理局のリーダーとブライのみになった。
「さて……」
 管理局のリーダーである男は、壁に寄りかかるブライの方へ向き直った。その表情はバイザーで隠され、読みとれない。ただ不気味な気配を、ブライは感じた。
「もう良いだろう」
 言いながらブライは、外へ出て行くように首で指示する。
 しかし、管理局の男はそれを無視した。動きを見せる様子は無い。
 その様子に、ブライは怪訝そうな表情を浮かべる。
「ダークリング……」
 リーダーはそう一言つぶやいた。
 その言葉にブライの表情が凍る。
「!!」
 彼はは身構えた。突然感じた身の危険を避けるために。
 だがそれよりも先に管理局のリーダーは動き、懐から抜いた小銃を、ブライの胸に撃ち込んでいた。
 彼はその身に銃弾を受け、壁に寄りかかるように崩れ落ちる。
「女が密告しなくても、お前が来ることは分かっていた」
 リーダーは倒れたブライに、その言葉を投げかけると、彼の家を後にした。

  15
 銃声……。
 彼の家の中から響いてきたその音は、ガラテアの胸に深く響いた。
 緑の森が静かな悲鳴をあげたかのように、音は森の中へと静かに沈んで溶けていった。
 ガラテアはそれを聞いたとき何とも言えぬ気持ちが浮かんだ。
 この感覚……。
 彼女は胸の奥に感じる不思議な感覚に戸惑う。
 この感覚は……。
 奥の底から何かが沸き起こる、不思議な感覚。泉から湧き出す水のごとく、それは段々と溜まっていく。その水が、溢れ出したとき……、きっと……。
 彼女は左手を胸に当て、瞑想した。胸の奥の泉を鎮めるように。
 管理局のリーダー格が、ブライの家から出てきた。彼は何事も無かったようにガラテアの前までやって来る。距離は5メートルくらいか……。
 心を落ち着かせたガラテアは、目を開き、その男の様子を注意深く確認した。
 黒のスーツにバイザー。一見地味なその服装と裏腹に、バイザーの奥にあるはずの瞳の内には、不気味な光が宿っているように思える。
 ガラテアはその光に気づいた時、身が竦む思いがした。
「私を……どうするつもりですか?」
「……」
 管理局員達は答えない。彼女を取り囲み沈黙を保っている。
 ……いや、リーダーの指示を待っているのだ。
 彼らは重圧を掛けるように、一定の間隔を保ち展開していた。
 ガラテアに逃げ場は、無い。
「……お前はどこから、何の目的で来た?」
 ガラテアの正面に位置するリーダーは、簡潔な質問を二つ、彼女に投げかけた。
 その答えをガラテアは持たない。自分が何者なのか、理解していなかったから。彼女は答えの代わりに戸惑った表情を一瞬見せる。
「そして何者なのか、答えにより処分が異なる場合もある」
 処分、と彼は語った。
 ガラテアはその言葉に不快な感情を抱き、持ち前の美貌を僅かに歪めた。
「私は……。何者なのかは自分でも説明することは、……出来ません」
 言葉を選びながら彼女は答えた。彼らが自らを殺めようとしていることは理解している。
「しかし、争うつもりが無いことだけは断言します」
 沈黙が落ちる。その中にわずかな危険な気配……殺気を、ガラテアは感じていた。
 ブライに手渡された小剣の存在を、腰元に確認する。
「……ブライは、どうしたのですか……?」
 一瞬の沈黙が落ちる。そしてその問いは、地雷であった。
「……殺せ」
 ガラテアの望む答えの代わりに、リーダーは軽く手を挙げ、部下へと合図を送った。
 管理局は処分を決定した。処刑……だ。
 部下の二人が銃を構えた。大型の拳銃だ。
 無駄と思いながらもガラテアは腰の小剣を引き抜きリーダー格の男に迫った。
 距離は5メートル程度。リーダーも銃の照準を彼女に向ける。
 間に合わない……。
 そう彼女が死を覚悟したとき。
 ガアァン!と一際大きな銃声が森の中に轟く。
 そして、それとほぼ同時に管理局のリーダーは倒れた。

 管理局の部下達は戸惑った。
 リーダーへと襲い掛かろうとした女に向け、トリガーを引き絞ろうとしたとき、銃声が響いた。
 自分達は発砲していない、そう二人は確認しあうため一瞬視線を合わせた。
 そしてリーダーが倒れたのを確認し、何が起こったか理解する。
 男だ! 女を匿っていた男が生きている!
 二人は彼の家に注意を向ける。
 丁度その時、二度目の銃声が響いた。
「ぐあっ」
 一人の悲鳴が上がった。
 管理局員は仲間がやられたと咄嗟に判断し、左腕を前に差し出し身体を庇うようにした。
 予想通り響く三度目の銃声。銃撃の衝撃が彼の左腕にのしかかった。
 ぎりぎり展開が間に合ったバリアユニットが、運良く彼を守っていた。
 虹色に乱反射する、光の皮膜ごしに敵の姿を確認した。
 そこには、リーダーが殺したはずの男……。ブライがショットガンを構え、立っていた。
 古めかしい散弾銃。彼らにしてみれば旧時代の武器であるそれが狙っていた。
「貴様!」
 管理局員は言葉を上げる。
 それに返事はない。代わりに銃声が返って来た。
 しかし旧兵器の破壊力では彼の防御装置を貫くことは叶わなかった。
 小さないくつもの鉛玉が、光にはじかれ地面へとばら撒かれる。
「無駄だ!」
 勝ち誇った雄叫びをあげ、管理局の男は右腕の拳銃の照準を、ブライの頭に合わせた。
 先は防弾装備で生き延びたのかも知れないが、露出した頭部に銃弾を受けては助かるまい!
 彼はバリアの守りを解き、引き金を引いたつもりであったが、同時になにか違和感を感じていた。
 銃弾が……発射されていない……?
 コンマ数秒の疑問。
 彼がその答えを、地面に落ちている自らの腕を発見した事で見つけたとき、すでに死の銃弾を浴びていた。
 頭部を吹き飛ばされた管理局員は、そのままの衝撃で後ろへと倒れこんでいた。

  16
 ガラテアは地面にしゃがみ込み、口元を押さえていた。
 ブライを助けるため、彼に向けられた銃を腕ごと叩き落した。
 彼から手渡されていた小剣の破壊力は凄まじく、何事もなかったかのように管理局の男の腕を切り落としてしまった。
 腕の切断面から血が噴水のように吹き出した光景が、今も脳裏にしっかりと焼きついている。
「……大丈夫か?」
 ブライが彼女に近づき声をかけた。
 彼は胸の辺りを庇うように歩いてくる。
「……」
 この臭い……。血の臭い……。
 ガラテアは身体を震わせ、何かに耐えている様子だった。
「済まなかったな」
 ブライは彼女に謝った。売るような真似をして悪かった、と。
「いいえ……」
 彼女は答えた。頭を何度も横に振り、何かを振り払うようにしながら。
「ありがとうございました」
 ガラテアは立ち上がり、ブライに礼を述べた。
 彼女が頭を軽く下げ会釈を贈ったとき、彼は車が走ってくる様子を確認した。
 オクティーバ偏狭区保安官の車……パトカーだ。
「俺はこの土地では犯罪者だ。あんたも今回は命を取り留めたが、次もあるとは限らない」
 パトカーから降り、こちらに駆けてくるドミニクの様子を見ながら彼は言う。
「早く逃げたほうが良い。南の土地ならば、受け入れてくれるだろう」
 そう彼女に声をかけ、ブライはドミニクと対面した。

「ブライ……!」
 ドミニクは現場の惨事を見て怒りの様子を浮かべていた。
 女を捕らえるために訪れたはずの管理局員たちが、倒れている。明らかに致命傷となるよう、身体が欠けているものまでいる始末だ。
「これはどういうことだ!」
 ドミニクはブライを怒鳴りつけた。
 管理局を殺し、女を助けるとは!
「お前は自分のやったことがわかっているのか!?」
 今にも掴み掛からん様子のドミニクに対し、ブライは冷静に言った。
「先に仕掛けてきたのは奴等だ」
 胸をドミニクに見せる。銃弾を受けた痕が生々しく見て取れた。
 ブライは高度な防弾装備をしていたが、それでも管理局員の使う銃の衝撃は大きく、かなりの被害を与えていただろう。彼には早い治療が必要と言えた。
 その様子を見てドミニクは一瞬言葉を呑む。
「正当防衛だったという証拠もなく、そして管理局を殺したことには代わりがない……。追われることになるぞ?」
 少し気を落ち着かせたドミニクは、ブライを諭すように語る。
 ブライは目を閉じ、その台詞を聞いていた。
「……分かっている。あの女も、同じだ」
 彼が首で指した方向を見ると、例の女、ガラテアがこちらの様子を窺っていた。
 ドミニクはため息を発し、そうか。と頷く。
 小さなため息をつき管理局員たちの遺体へと歩いていった。
「俺は報告しなければならない。このことも、お前達が逃げたことも。だがすぐには行わない。色々と処理がある……」
 ドミニクは独り言のように喋り始めた。
 どこかしら達観したような、疲れたような、不思議な気配が彼からは染み出していた。
「その間にどこか遠くまで逃げろ」
 リーダーの倒れるところでしゃがみ、彼の遺体を確認しながら、ドミニクはブライ達に言った。
「デニー……」
 彼の意図を理解し、ブライはガラテアのところまで行く。
「俺が逃がしてやる。最後の……仕事だ」
 彼は何事かを決意し彼女に宣言した。
 ガラテアは、はじめは戸惑った表情を浮かべたが彼の顔を見ると頷いた。
「お願いします」
 自分が何者なのか分からないけど、まだ死ぬわけにはいかない。彼女は心で思った。
 そして二人はドミニクに礼を述べ、彼に背中を向けた。

  17
「ぐっ」
 ガラテア達が背中を向けた瞬間、ドミニクは声を上げた。
 いや、悲鳴と言うのかもしれない。
 彼は首を掴まれ、地面からは足が離れていた。凄まじい力で吊り上げられている。
 足元に倒れていたはずのリーダーが、突然首を締め上げてきた。
 彼はそのまま立ち上がり、かなりの体重を持つはずのドミニクを軽々と片腕で持ち上げている。
 顔は地面に向け伏せられ、彼の表情を窺い知ることは出来ない。
「こ……この……!」
 ドミニクは腰のホルスターから拳銃を引き抜き、引き金を絞った。
 狙いはつけていない。ただ首を絞めあげる者に向け、連射した。
 そしてその銃弾が偶然、リーダーのかけていた黒のバイザーを打ち砕いた。
 突然リーダーが顔を上げ、ドミニクを見上げる。
「……!!」
 その瞬間、ドミニクは戦慄した。
 彼の目は人間のそれではなかった。
 赤いインジケーターのような瞳。サイボーグ処置を受けているカメラ。
 このオクティーバに、存在してはならない……!!
 くそっくそっくそっ!!
 ドミニクは必死に銃を乱射した。だが体や頭に銃弾が当たってもそれは動じていなかった。
 そして……。
 ドミニクの身体が軽々と宙に舞った。

 ガラテアは体格の良い中年警官が宙に投げ出された様子を見ていた。彼の身体は優に3メートルは浮いていた。
 そして彼は地面に背中から叩き付けられ動かなくなる。
 彼女はその光景に身を強張らせた。そしてドミニクを投げ飛ばした凄まじいパワーを目の当たりにし、呆然となった。
 ガガンッと耳障りな銃声が響いた。突然の轟音にガラテアは顔を振り耳を押さえる。
 気づけばブライが得物のショットガンを構え、発砲していた。
 狙いはドミニクを投げ飛ばした者……。管理局のリーダーであったはずの者へだ。
 ……いや、彼は今も変わらないのだろう。元から人間では無かったのだ。
 散弾は管理局のリーダーへ向け襲いかかる。そしてそれは、命中した。
 今までどこを向いているのかも定かでなかったリーダーの視線が、真っ直ぐにブライ達二人を捉える。
 その様子を目にしたガラテアは、戦慄を覚えたように動きが止まっていた。
 不気味な物体。休息を望む我が魂が、強引に眠りから醒まされるような不快感。
 ガラテアは無意識に思っていた。あれは嫌いだ、と。
 管理局の男が動いたように感じた。そしてその感覚は正しく、彼は凄まじい速さでこちらへ迫る。感覚でしか分からなかったのは、視覚的な認識が遅れていたからだ。
 ブライはガラテアの前に飛び出し、トリガーを引き絞った。
 ガンッ!
 再び轟くショットガンの銃声の中に、もう一つ鈍い音が重なっていた。
「……?」
 ガラテアが疑問に思ったのもつかの間、ブライの身体が迫り彼女の体に激突した。彼の体は凄まじい力を受けたように、宙を飛んできたのだ。
 二人はもんどり打つように地面を転がる。
「くっ……」
 一瞬気が遠くなりそうになりながら、ガラテアは頭を振るった。
 そして自分にぶつかってきたブライを確認する。
「あ……」
 ブライの様子を確認した、彼女は言葉を失った。彼の体に触れた手を見つめ呆然とする。
 その手は紅く染まっていた。とても嫌な感覚が体に走り、背筋が竦む思いがした。
 彼の腹には激しい裂傷が走り、内部の臓器を外気に晒していたのだ。
「……す、まな……かった……」
 ブライは弱々しく口を開いた。ガラテアは目を瞑り首を振るって彼の顔に手を当てた。指でこすられた彼の顔に血の跡が残る。どす黒い血の線が彼の顔に化粧を施す。
「……生きて……くれ。みり……あ……」
 それが彼の最期の台詞だった。

  18
 何か暖かい液体の中を漂うような、不思議な浮遊感を彼は感じていた。
 ここは……なんだ……?
 彼は自問した。……だが、彼はその答えを理解していた。
 彼は漂う体をそのままにし、体を動かす気も起こらなかった。
 結局あなたは何も出来なかった……。
 彼女の声が聞こえる。
 そうだな……。
 彼は頷いた。
 結局俺は何も出来なかった……。
 何故あんな女を助けたの? 殺してしまえば良かったのに……。
 ……。
 私よりも、あの女が良かったの……?
 彼女はクスッと笑う。
 お前は……誰……だ?
 ……私はあなたの望む者。
 ……あなたの望む彼女。
 ……あなたの望む力。
 それを得るのは、今からでも遅くはない。
 漂う彼の前に、一人の女性が姿を現す。
 金髪の髪の毛、緑の瞳、何も身につけず素肌を晒すその姿。
 彼の心は揺れ動いた。愛しき君の姿を再び目にして。
 さぁ、私を受け入れて……。何も躊躇することは無いのだから……。
 ……俺は……。
 揺れ動く彼の心……。彼の望んでいた全てがそこにある。
 ……全て……?
 全てとは、何だ……?
 何って、それは……。
 彼女はクスッと妖艶な笑みを浮かべた。彼に体をすり寄せ、誘惑する。
 今更、何になる……? 俺は何も出来なかった。
 ……今更、何になる!?
 葛藤の中の彼を、彼女はただその美しい身体で誘惑するのみ……。
 俺は……。
 彼の苦悩は強まり、その精神は恐慌する。
 俺は……!
 フフッと彼女が笑う。彼女は彼の唇を奪った。
 彼は目を見開き、その唇から逃れようと藻掻く。
 だが彼女はしっかり抱きしめて逃がさない。彼の身体は思う通りに動かず、只為されるがまま……。
 もう……休ませてあげましょう……。
 ふと彼女とは別の声がした。哀れむような慈悲深い響き。
 彼は十分に苦しんだのです。これ以上苦しめる事は許しません……。
 その声を彼は聞いたことがある気がした。どこか心地よい声。
 彼女は彼の身体を離し、動揺した。
 あ、あなただって、私を閉じこめて……!
 彼女はその声に向かい抗議する。
 私の所へ……戻りなさい。
 声は静かな威圧を彼女に与えた。
 い、嫌……嫌……私は……私はただ……。
 私の魂を再び与えます。
 あなたは……あなたは……私より……強い……。
 彼女はその台詞を最後に姿を消した。
 独り残されたのは……彼。
 再び孤独な浮遊感を彼は味わう。
 ふぅ……これから眠りにつこう。彼女と再び出会える事を願って。
 そして、彼は本当の彼女を望み、永い眠りについた……。

  19
「……生きて……くれ。みり……あ……」
「……」
 ブライの台詞を呆然と聞き流し、ガラテアはしばし沈黙していた。
 そして……。
「……ふふ……」
 彼女は不敵な笑みを浮かべると、ゆっくりと近づく管理局のそれを見上げた。
「そう……ですか……」
 ガラテアは何事かに納得するように、ボソリと呟き、ゆっくりと立ち上がる。
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