岐阜城

築城1201年、鎌倉幕府政所執事だった二街堂行政により築城される。当時は井ノ口城とよばれていたが4代目光資の代に稲葉山城と改名。

室町、戦国時代に斎藤氏の城となり加納城が居城となったため、重臣の長井氏が在城したが1530年に斎藤道三により奪取され居城となる。このとき大幅な改修がおこなわれた

1567年に織田信長の居城になりさらなる改修がおこなわれ、岐阜城と改名される。
1576年に安土城が築城され織田信忠が城主となる。その後神戸信孝、池田輝政、羽柴秀勝が城主となる。

1592最後の城主織田秀信がはいり、関ヶ原合戦
時に東軍に攻められ落城、戦後は廃城になる。
戦後奥平信昌が岐阜にはいるが加納城が居城とされ、建築物、石垣が一部移築される。

現在の天守閣は昭和にはいっての復興天守である

08小隊潜入記録
(痛恨のバッテリー切れのため写真すくないです、追加があるか?)

1999、6月某日08流血小隊は岐阜城への潜入に成功、偵察を慣行し報告をもちかえった
断崖が多い山城の要害で正面攻撃には困難が予想される、秀吉の千成ひょうたん発祥の崖も
あったが100パーセント麓からでは見えないだろう(笑)

いよいよ潜入開始、ロープウェイの気のいいおじさん。城主不在で士気は低い様子(笑) 大手筋から、岩壁と崖にはさまれ功城のは苦戦が予想される 上格子門後、左に櫓、右に崖と岩があり、1600年東軍福島正則等と城方木造具康との間で激戦があったとの事
本丸天守への道、両側は崖でありここも要害である 天守から、中央の緑の小山が道三隠居城鷺山である。眼下の長良川をはさんで義龍との決戦がおこなわれた 同じく天守から尾張方向を望む、標高300mの天守は偵察性もよい
天守には信長公が、、、、(京都大徳寺所蔵重要文化財の複製でした) 説明そのままに天下布武の印です(笑)天守にはフロイス原書などもあり、なぜか忍びグッズまで、、、、、? 岐阜城への水の手口1600年池田輝政が攻めのぼったルートのようです、どのルートもこのような道で要害ぶりがわかる

交通手段などおきがるに担当までどうぞ、市営駐車場わかりにくいです
(岐阜市なんとかしなさい)