成人式報道に思う
成人式に参列する若者の傍若無人ぶりが報道されている。昨年ほどではないにしろ、沖
縄の事件は相当にひどい。もはや「成人」という言葉は死語になり、「成人」=「大人」
という事実関係はあやしいものとなっている。
成人式の辞書的な意味は
成人の日に、国・地方自治体・企業などが主催し成人に達した人を祝う儀式。 〔社〕成人に達したことを社会的に認知する儀式。イニシエーション(入社式)のうちでも最も重要 なものの一。(広辞苑第5版) |
である。しかし、今の「成人式」は「成人に達した人を祝う儀式」としての性格はかろう
じて保ってはいるものの、「成人に達したことを社会的に認知する儀式」とはなりえてい
ない。
現在の日本では、成人=大人、の仲間入りを認知するだけの、社会に認められた歴史的
な儀式はなくなってしまっているのである。現在、成人=大人、として認められる儀式的
なものとしては「就職」とか「結婚」とか「出産」であろう。
その意味で、成人式に集まる若者が、大人とはかけ離れたものであるのは仕方のないこ
とかもしれない。彼らにとって、成人式とは何の意味もないただのイベントなのであり、
そこに出席することで、社会から大人として認知されるものでもなんでもない。社会も成
人式に出席したからといって、それだけで出席者を大人とみなすことは全くない。だから
成人式に大人にあるまじき振る舞いをする成人も出るのである。
さて、このような報道がなされると、多くの人は
○今時の若者はなってない。
○親はどのような育て方をしているのだ。
○もっと警察も厳しく取り締まるべきだ。
○社会全体が若者を常識を備えた大人に育てるべきだ。
というようなことを感じる。
教師もまた例外ではない。
しかし、私は
これらの若者を生み出した最大の原因は学校教育にある |
と思うのである。
我々教師は、小学校教育中学校教育を通して、児童・生徒に耐えることを教えてきただ
ろうか。ささいなことでも守るべきことはきちんと守るべきことを教えてきただろうか。
刹那的なおもしろおかしい楽しみではなく、全力を出し、苦しみに耐えて味わう楽しさを
提供してきただろうか。そして、それらを底辺で支える深い愛情を持っていただろうか。
そう考える時、私は、今までの教育はどこか足りないところがあったのではないかと思
うのである。
教育がやるべきことは多い。多いがそれは基本的なことばかりである。教育の場という
のは王道、正道、常識、を繰り返し提供していく場である。それが、どこかマスコミにふ
り回されて見失っているのではないだろうか。
まず、常識を繰り返し提供していく教育の場を復活させなければならない。