┌───────────────────────┐                   
│渡良瀬にこにこサークル通信          │2001. 12. 7 発行 
│                       │                  
│ 573号                  │文責 山中伸之    
└───────────────────────┘                   

例会報告 ③

ということである。つまり、記号論的な知り方による知識は必ずどこかで体験
的な知り方による知識と結びついている必要があるのである。どこかのレベル
で体験という体験的な知り方による知識と結びついていて、初めて知識として
機能するのである。今、このようにある記号が体験的な知り方で知った事柄と
結びついていることを知る場合の知り方を「記号−体験結合による知り方」と
呼んでおくことにする(そう考えた場合、「記号ー記号結合による知り方」と
いう知り方も考えられることになる。そして、両者は記号論的な知り方の二つ
の場合ということになる)。とすると、数学とか理論物理学とか哲学とかの高
度に抽象的な学問分野においても、最終的には「記号ー体験結合による知り方」
によって知ることが必要になってくるのである。
 記号論的な知り方も、体験的な知り方も、最終的にはある知識の獲得を意味
している。その意味において、両者に優劣はない。あるのは、場合の違いだけ
である。つまり知識を獲得する場合の方法や手順が異なるのである。
 記号論的な知り方による知識が体験的な知り方による知識よりも優れている
のではなく、体験的な知り方が記号論的な知り方よりも有効な場合があるとい
うことである。また、記号論的な知り方が有効な場合や、体験的な知り方が有
効な場合があるということである。。当然、記号論的な知り方が体験的な知り
方をサポートする場合もある。その目的によってどちらが有効かどちらを先行
させて、どちらをサポート役にするかを考えることこそが大切で、闇雲に体験
を重視するのはおかしいのである。
 それでも、これほど「体験重視、経験重視」が叫ばれるのはなぜか。
 その一つの理由は、
┌─────────────────────────────────┐
│体験的な知り方による知識が充分でないために、記号論的な知り方による│
│知識が完成しない                         │
└─────────────────────────────────┘
ということであろう。
 一般的に言えば、抽象性が高まるにつれて、記号論的な知り方によって身に
つける知識の量は体験的な知り方によって身につける知識の量を遙かに凌ぐは
ずである。物事のほとんどが体験的な知り方による知識でまかなえた時代は別
として、現代は記号論的な知り方による知識がなければ生活そのものができな
い時代になっている。記号論的な知り方によって知識を獲得することの方が頻
繁になってきている。そういう時代だからこそ、記号論的な知り方で身につけ
た知識が知識として完成して役に立つようになるためには、体験的な知識が重
要になるのである。だから、体験や経験の重要さが叫ばれるのである。
 もう一つの理由は、
┌─────────────────────────────────┐
│知識だけがあってもできることにはならない             │
└─────────────────────────────────┘
からであろう
 車の運転を知るというように、ある動作を伴う場合、そしてその動作をする
ために一定の練習や習熟が必要だという場合、「知る」という言葉には「方法」
を知識として知るということ以外にその動作を実際に行うことが「できる」と
いう意味もまた含まれている。知ることとできることは、重なりのあるベン図
ととらえることができる。とするならば、両者のマトリクスを単純に考えれば
 知識として知っていてできる
 知識として知っているができない
 知識としてしらないができる
 知識としてしらないのできない
の4つの場合があることが考えられる。
 体験が知識よりも重要視されることがあるのは、この4つのマトリクスの2
番目、知識として知っているができないという状況を憂えているからである。
できるためには、体験を繰り返して習熟することが必要となる。反復の回数は
目指す動作によってまちまちであろうが、「知識として知っているができない」
という状況を打開するためには、とにかく「やってみる」ことは不可欠だから
である。