┌───────────────────────┐ │渡良瀬にこにこサークル通信 │2001. 12. 7 発行 │ │ │ 572号 │文責 山中伸之 └───────────────────────┘ 例会報告 ② という記号と「ヤマナカ」という記号が<山中の名前>を表すということを知 るということである。 では、ある方法を知るということはどういうことだろうか。車の運転の仕方 を考えてみよう。細分化するとこうなる。 ①キーをドアのキーホールに差し込む。 ②キーを左右どちらかに回す。 ③キーを引き抜く。 ④ドアの取っ手を引いて、ドアを開ける。 ⑤シートに前を向いて乗り込む。 ⑥ドアを取っ手を引いて、閉める。 ⑦キーをキーホールに差し込む。 ⑧キーを回してエンジンがかかるのを確認する。 この程度でよいだろう。これは、細分化するつもりならさらに細分化すること ができるのは言うまでもない。では、この①から⑧までを知るとはどういうこ とだろうか。 ①について言えば、「キー」という記号と「キー」という記号が<キー>を 表すという関係を知ることである。同様に、ドア、キーホール、差し込むにつ いても知ることである。次に、「を」「の」「に」の記号とその記号が他の記 号をどのような統辞関係に導くのかということを知って、「キーをドアのキー ホールに差し込む」という記号の集まりが<キーをドアのキーホールに差し込 む>ということを表すということを知るということである。 さて、この一連の自動車の運転についての、記号とその記号がある事柄を表 すということを知る、ということと、自動車の運転が「できる」ということと の間には違いがある。 話をしやすくするために、ある記号が別のある何かを表している場合に、そ の記号とその記号がある事柄を表すということを知る、という知り方を「記号 論的な知り方」と呼び、記号を介在させずにある事柄を直接知る、という知り 方を「体験的な知り方」と呼ぼう。 分かりやすい例で考えてみる。スキーでもスケートでもいいのだが、ここは ネイチャーゲームに関することで考えてみよう。 樹木に直接触れてみるという活動を行うとする。 手のひらを直接樹木の表面にあてて表皮の感触を知るという活動である。こ の場合の「記号論的な知り方」は、「樹木の表面はざらざらしていて意外に暖 かい」という記号とその記号が<樹木の表面はざらざらしていて意外に暖かい >ということ(意味)を表しているということを知ることである。これに対し て、「体験的な知り方」は、「樹木の表面を手で触れてみた時の感触や温度な ど」を記号を介さずに、直接、感覚器官の感覚として知ることである。 記号論的な知り方は、直接その場に行かなくても可能である。教室の机の上 にいても可能であるし、病院のベッドの上にいても可能である。これに対して 体験的な知り方はどうしてもその場に行かなくてはならない。少なくとも実物 を目の前にしなくてはならない。 記号論的な知り方はどこにいても可能である反面、記号が、その記号が表し ている、記号ではないある事柄と結び付かない限り、「記号がある記号を表す 」という循環に陥ってしまって、ついに記号とその記号がある事柄を表すとい うことを知らずに終わってしまうということになる。つまり、「樹木の表面は ざらざらしている」ということを記号論的に知る場合、「ざらざら」という記 号が<(記号ではない)ざらざら>ということを表していることを知らない限 り、知識としては完成しないのである。「ざらざら」という記号が「さわった 感じが荒く、なめらかでないさま」という記号を表すということで終わってし まうのである。(この場合を「辞書的な意味は知っている」と言う場合がある) では、「ざらざら」という記号が<(記号ではない)ざらざら>ということ を表しているということを知るとはどういうことか。それは、 ┌─────────────────────────────────┐ │「ざらざら」という記号が、体験的な知り方で知った<ざらざら>という│ │事柄を表しているということを知る │ └─────────────────────────────────┘