┌───────────────────────┐ │渡良瀬にこにこサークル通信 │2001. 7. 5 発行 │ │ │ │文責 山中伸之 └───────────────────────┘ 読解コードについて考える №1 前回のサークル通信で、作品と読解コードについて考えてみた。「きつつき の商売」は物語のコード、「新しい友達」は日常のコードで読み解くべきで、 別のコードで読んでいくと分からない、読めない部分が数多く出てきてしまう ということを述べた。 しかし、例会の後も、読解コードについて考えているうちに、前回とは別の ことがいろいろと頭に浮かんできたので、それをまとめてみることにする。し ばらくの間は、この問題について考えていきたい。同時に授業でも試しながら 結果を報告することにする。 まず、作品の読み取りと読解コードとの関係について、いくつか思いついた ことがあるので、それをあげておきたい。単なる思いつきなのだが、この思い つきを実践を通して検証していきたいと考えている。 思いついたことは次の項目である。 ┌─思いつき その1────────────────────────┐ │ 作品に描かれていない部分(空白の部分)を、読者が自由に想像するこ│ │とで、読者が作品の成立に能動的に関わっていくことができる。イーザー│ │の「空白を読む」という行為だが、この読者論的な読みをより意図的に作│ │り出すことができるのではないだろうか。 │ │ つまり、物語を物語のコードで読んでいるうちは当然のこととして見過│ │ごされることも、日常のコードで読んでみると納得できなくなり、そこに│ │「空白」が「意図的に」作り出される。そして、この「意図的に」作り出│ │された空白を埋めることで、物語の読解に新たな視点を持ち込むことがで│ │きるのではないだろうか。 │ │ その結果、物語の読み取りが深まり、より深い鑑賞につなげることがで│ │きる場合が出てくる可能性がある。 │ │ もっとも、この場合、無意味な深読みに陥る危険性もある。 │ └─────────────────────────────────┘ ┌─思いつき その2────────────────────────┐ │ 「きつつきの商売」を物語のコードで読んだり、「新しい友達」を日常│ │のコードで読んだり、いわゆる同質のコードで読んでいては見えないこと│ │も、異質なコードで読むと見えてくる場合があるのではないだろうか。 │ │ つまり「きつつきの商売」を日常のコードで読んだり、「新しい友達」│ │を物語のコードで読んだりするのである。異質のコードで読むことにより│ │別の視点から作品を眺める、別の視点を設定することが可能になる。とい│ │うよりもその設定を迫られる。 │ │ この異質のコードで読むということについては、分析批評が国語教育界│ │に華々しく(再?)登場し、国語教育界を席巻して、「コード」などの記│ │号論的な述語が使われ始めた時、宇佐見先生が「コード異質性の原理」と│ │いう言葉を登場させたのだが(確か最初は『国語教育』誌上だったと記憶│ │しているの)、その考え方を真似したものである。 │ └─────────────────────────────────┘ ┌─思いつき その3────────────────────────┐ │ 読解コードにはどのようなものが考えられるのかは詳しく考えていない│ │のだが、今は、物語のコードと日常のコードの2種類について考えていく│ │ことにする。 │ │ この2種類のコードをうまく組み合わせて用いることで、読みの深まり│ │が変化しそうだということをこれまでに思いついた。では、少し具体的に│ │立ち入って考えてみる。この2つをどのように組み合わせていくか。 │ │ 異質なコードで読むと、読解がより分析的になっていくのではないかと│ │いう印象と思いつきを得ている。いわば作品を突き放した読みである。逆│ │に同質のコードで読むと分析というよりも、味わう読み、いわば作品に寄│ │り添った読みができるのではないか。つまり、異質なコードで読めば分析│ │読解に傾き、同質のコードで読めば鑑賞に傾く。 │ │ まず異質なコードで読み、その後に同質のコードで読むとよい。 │ └─────────────────────────────────┘