┌───────────────────────┐ │渡良瀬にこにこサークル通信 │2001. 6.21 発行 │ │ │ │文責 山中伸之 └───────────────────────┘ 文学作品の分かり難さについて考える③ だし、両者において決定的に違うのは、読み手が捉える捉え方の幅である。「 きつつきの商売」の方は幅が広く、「新しい友達」の方は幅が狭いのである。 それはなぜかと言えば、読みとりに要するコードが異なるからである。日常の コードは読み手によって異なる部分が少なく、物語のコードは読み手によって 異なる部分が多いのである。 だから、「きつつきの商売」の文章を読むと、いろいろな捉え方ができるの である。いろいろな捉え方ができるということは、一つに絞ることが難しいと いうことである。 ここに、「きつつきの商売」が分かり難いという印象を与える理由が出現す る。 しかし、果たして本当に分かり難いのであろうか。 もし仮にここに、 ┌─────────────────────────────────┐ │物語のコード │ └─────────────────────────────────┘ というものが、辞書のように存在し、誰でもそれを引いて物語を読むとする。 すると、読み手によって様々な捉え方ができる部分は極端に減ってくるはずで ある。読み手によって様々な捉え方ができる部分が極端に減ってくれば、分か り難いという印象も減ってくる。 もし、この「物語のコード」が存在するならば、このコードを知っていれば たやすく読みとれるはずであるし、読みとれないとすれば、それはこのコード を知らないからだということになる。コードを知らない故に分かり難いという 印象を持つのであれば、それはコードを知ることによって解消する。 では、このコードは存在するか。 結論は否であろう。このようなコードが明確に存在するはずがない。しかし、 最大公約数的なものとして「物語のコード」は存在するのではないかと思う。 それは、多くの物語を読む行為を経て帰納的に導き出されるものであろう。 もっとも、それが分かったからと言って何か解決するかというと、何も解決 しない。結局そのコードは多くの物語を読むことで帰納的に個人が構築するも のであり、他人のコードを参照して物語を読むと言うことはできないからであ る。 すると、分からない人にはやっぱり分からないということになり、「きつつ きの商売」は分かり難いということには変わりないのである。 ただし、次の点を意識していることは物語を読む上で大切なことである。 ┌─────────────────────────────────┐ │物語を日常のコードで読み解いてはならない │ └─────────────────────────────────┘ 物語を日常のコードで読み解いていけば、訳の分からないことばかりになる だろう。例えば、「きつつきの商売」の中の次の文、 ┌─────────────────────────────────┐ │「できたての音、すてきないい音、お聞かせします。四分音ぷ一こにつき│ │、どれでも百リル。」 │ └─────────────────────────────────┘ これなどは、とうてい日常のコードでは読み解けない内容である。音に値段が あるというのが分からない。しかも、それが四分音符一個につきいくらという のであるから、ますます分からない。そして、値段が百リルである。こんな単 位は日常のコードの中にはないから、果たしてその値段が高いのか低いのか分 からない。 さて、この「きつつきの商売」が分からないという場合、この物語を日常の コードで読み解こうとしていないだろうか。これは物語のコードで読み解かな ければならないのである。音に値段がつこうが、それが百リルだろうが、きつ つきが商売をしようが、野うさぎがしゃべろうが、そういうのが常識の世界な のである。 そういう意識でこの物語を読めば、分からない部分がそうとう減ってくるの ではないかと思うのだが。