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│渡良瀬にこにこサークル通信          │2001. 6.21 発行  
│                       │                  
│                       │文責 山中伸之    
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文学作品の分かり難さについて考える②

かりに難いという印象は、この設定の違いによるところが多い。
 通常、人は、ある事柄を別の事柄を通して知る。例えば、待ち合わせの時間
に1時間以上も遅刻して、なおかつ相手に連絡がとれなかったような場合、遅
刻した人間はまず相手の顔色を伺う。この場合、相手の顔の表情から、相手の
心理を知るわけである。
 文章を読むのもこれと全く同じことである。「きつつきの商売」の冒頭の一
文「きつつきが、お店を開きました。」という、単語のある一定の並び方を通
して、ある事柄を知るのである。そして、この場合、次の二つのことが分かっ
ていなければ、ある事柄を知ることができない。つまりそれは、
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│①きつつき、が、お、店、を、開き、ました、という単語の意味(とそれ│
│ らが組み合わされることで新たに句となった部分の意味)      │
│②それらの単語のつながり方の規則                 │
└─────────────────────────────────┘
であり、この二つを合わせて「コード」と呼んでもいいかもしれない。すると、
先に述べたことはこう言い換えることができる。
┌─────────────────────────────────┐
│コードが分かっていなければ、文章からある事柄を知ることができない。│
└─────────────────────────────────┘
 このことを頭に入れておこう。
 「きつつきの商売」の冒頭の文「きつつきが、お店を開きました。」を考え
てみる。単語の意味はいいだろう。それらのつながり方も分かり難い点はなさ
そうである。しかし、この単語が組み合わさってできた部分はどうであろうか。
「きつつき」も分かる。「お店を開きました。」も分かる。しかし、「きつつ
きがお店を開きました。」は分からない。分からないというか、日常のコード
にはない事柄である。鳥である「きつつき」が「お店を開く」はずがないので
ある。つまり、この文は通常のコードで読み解くことができない文である。こ
の文を理解するには、通常のコードとは別の「物語のコード」が必要になって
くるのである。物語のコードでは、きつつきが商売をすることがあるのである。
 一方「新しい友達」の冒頭の文はどうであろうか。「お父さんの仕事の都合
でロンドンに行っていたまりちゃんが帰ってきた。」この文には日常のコード
で読み解けない部分はないのである。
 つまり、「きつつきの商売」は別のコードを必要とし、「新しい友達」は普
段使っている日常のコードで間に合うのである。
 日常とは違う別のコードを体系として持っていればよいが、そうでない時に
は、参照するコードがないから、無理矢理(あるいは類推して)コードを作る
必要が出て来る。無理矢理でも何でもとにかくコードを作らない限り、作品を
読み解くことができないからである。そのコードはではどのように作られるか
と言えば、読み解く人が自分の知識や想像力を動員して作るのである。当然出
来上がったコードは読み解く人によって大なり小なり異なっているはずである。
 時枝誠記『国語学言論』にも
┌─────────────────────────────────┐
│言葉に於いて意味を理解するといふことは、言語によつて喚起せられる事│
│物や表象を受容することではなくして、主体の、事物や表象に対する把へ│
│方を理解することとなるのである。その様な把へ方を理解することが、我│
│々に事物や表象を喚起させることとなるのである。          │
└─────────────────────────────────┘
とある(『国語教育』2001年6月号 宇佐見先生の論稿より孫引き)。
 つまり言語主体の把握の仕方こそ、言葉の意味なのである。
 「きつつきの商売」の文章は、日常のコードとは別の物語のコードを必要と
する。そのコードは言語主体が文章をどのように把握するのかによって、いろ
いろな様相を呈するわけである。つまり、読み手の数だけ、というか読み手が
捉えた数だけコードが存在するという状況になっているのである。
 もっとも、この流れは「新しい友達」の文章においても同じことである。た