あなたにとって一番大切なものは何ですか。

自分の身体ですか、夫婦や子供や家庭や同族ですか、大
切な友人、自分の持ち物や車、家や土地、お金や財産、
銀行預金、株券債券、ひとを支配できる権力ですか、資
格や学歴、威張れることや自慢できること、仕事上の地
位ですか、それとも仕事そのもの。あるいは愛や信念、
信奉する宗教、自分の恋人や愛する人、自分の達成した
ものや知識ですか。あなたの価値観は何ですか。

それらは「我執」と呼ぶものです。
これらはすべて「自分にとって重要なもの」の中味で
あり、架空の「私という記憶」にすぎません。

そして自分にとって重要でないものは見えないし、見て
いないのです。実は、自分にとって本当に重要なものは
見えていないモノです。
すべてのものが「生命体」として同じように重要なもの
だとしたら、すべてのものが見えてくるのです。
自分と他人という区別はなくなり、全ての命は同じよう
に重要になるです。このとき「慈悲」というものが生ま
れます。
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それでは

「史上最強の人生」のつくり方を伝授します

TRANSLATION

好きなことだけやってしかも勝手なことばかりやってきたが、

全てがうまくいったという人生を過ごすには?

人は誰でも幸福を求めて生きようとしますが、よく見ると
、人生には次の三つの生き方があります。

第一は社会の法律を無視し、自分の利己心のおもむくまま
に利益を貪ろうとする反社会的で不道徳な生き方です。こ
れらの人は、常に、思うようにならないことに怒ったり悩
んだり愚痴を言ったりして苦しみ、最後に悲しい生涯を終
えます。たとえ目的を達成することはできても一時的であ
り、結局破滅します。本人が破滅しない場合は子孫が破滅
します。

第二は社会の慣習や法律に従いながら、一度きりの人生を
自分のやりたいことを全うする事が一番だと考えて、自分
の才知によって成功をめざす生き方です。これは普通世間
一般にみられる方法ですが、やはり損得中心の利己心に基
づいているため、良くなったり悪くなったりして、常に心
が澄み切らずにざわつきイライラとして落ち着かず、本当
の安心幸福がどこにあるのかわからないと言って、迷い苦
しみ悩み続けて一生を終えてしまいます。

第三は苦労しなくて楽しく暮らしている人で、極めて少数
の人たちです。成功は幸福のカギではありません。成功と
幸福とは別です。幸福とは、常に心が静かで、心が落ち着
き、心が穏やかで澄み切っている状態です。
人間愛と慈悲心を持ち、積善で徳を積む人です。
良き師の教えに従い、自己中心でない無我を旨とし自分の
言動や行動を慎む人です。親や先祖を安心させるように心
掛ける人であり、物事に執着せず、相手の心のうちを感じ
取り、他人への思いやりを大切にし、何事も寛大な精神で
許し、人の悩みを救い、常に自己反省し、自己の品性・人
間性を高め、より良い社会のために貢献し、他人のために
尽くす人です。

これは、非現実的で迂遠な方法に思えるかもしれませんが
、実は合理的で力強い生き方です。真の安心・平和・幸福
をもたらす方法です。人の生き方は結局、「人間とは何か
」ということに行き着きます。「われ思うゆえにわれあり
」つまり、人間は思考の産物です。動物と人間との決定的
な違いは、自我があるかないか、ということです。生を受
けてしばらく経つと、思考が生まれると同時に「自我」に
目覚めます。この自我の強弱によって、人生の苦しみが増
減します。自我に執着する時、心が常にざわつき、苦悩が
生じます。

ところで問題はそのような良き師がいない場合です。なぜ
なら宗教界をはじめあらゆるトッブリーダーでさえ、権力
・金力・知力・執着心・名誉欲などの虚飾に汚染されてい
るからです。周囲にいないのは当然です。そのときは、ダ
イレクトに聖人の力を借りましょう。特にブッダを学び修
行することです。ブッダは苦しみから解脱するには自分自
身を変えることが唯一の道と説いています。

「どう生きるべきか」には正解はありません。ただ、「心
安らかな生き方」については聖人の考え方があります。
セネカ「人は気品ある生き方にはまったく関心がなく、
永く生きることばかり気にしている」

旧制高校では「生き方についての参考を探すなら儒教。個
人としての生き方を考えるなら道教。思想的には仏教。」
と教えていた。

佐々木閑「真理のことば」NHK出版 
・中村元「ブッダの人と思想」NHK出版 ブッダを要約すると、
①形ある一切のものは変滅する。苦である。一切にわがものはなし。
我執を離れる怒りの心をおこさず、人を傷つけない。
③うそいつわり、そしり批難批判、荒々しい言葉をやめる。
④殺生、盗み、不倫など、よこしまなことをしない。
⑤衣食住について貪らず、適正な生活をする。
⑥善悪に対して正しい判断をする。
⑦一瞬一刻に、常に注意を払う。
⑧瞑想・座禅をする。
⑨心にわだかまりがなく穏やかで、落ち着いていて、静かで、澄み切
っていることが最大の幸せである。

阿頼耶識
人の運命になぜこんなに差ができるのでしょうか。それは
人の顔がそれぞれ違うように、心づかいも皆違っているか
らです。潜在意識や無意識のさらに深くに阿頼耶識があり
ます。ここに人間の我と執着を生み出す妄執があります。
それではこの世の中で何を頼りにすれば幸福になるのか?
それは我と執着を滅して慈悲行を実践したときに現われる
「徳性・品性」を頼りにする以外にありません。
人は誰でも悪行に敏感で、善行には鈍感に反応しますから
、運命が悪くなってしまうのです。人の価値は非常時の場
合に必ずあらわれます。特に利害損得に関する問題ともな
れば、あわてふためき迷い道に入ってしまいます。我と欲
のために、自分を見失わないためにも、徳を積み品性を完
成させることが大切です。

心づかい
釈迦はこの世の中を見て「三界はただ心の諸顕」と言いま
した。人の心づかいが人生の全てを決めると言いました。
不平・不満・不足の自己中心の心で、暮らす人は大不足が生
じます。たとえ不足に思える生活の中にも、何かに守られ
ているのを見つけ出して、喜び感謝して慈悲の心で他の人
を助ける人は徳が積めるので幸福になれます。給料が安い
、仕事が合わない、嫌な人がいるなどと我を出して、思う
ようにならないことを人や社会のせいにする人がいますが
、このような考え方では徳を失い、年とともに不幸になり
ます。


よく辞職する人が「不徳」という言葉を使います。蒔かぬ
種は生えません。種を蒔くから芽が出ます。時が来ると花
が咲きます。実も結びます。降る雨も心づかい次第で喜べ
る人と不足に思う人がありますが、何があっても今が最高
だと、喜び感謝できる品性を身につけなければなりません
。そして前向きに生きることです。樹木が太陽の光を受け
てどんどん大きく伸びるように、楽しいときも苦しいとき
も、ただひとすじに報恩し、徳を積む人は栄えます。
決して失われないものがあります。「自分といつもいっし
ょにいるもの」「自分から離れずに一体のもの」それは「
自分の人格・人徳」です。法句経

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人間関係の根本原理
「悪感情は悪感情を誘発して悪循環を起こしていき、肯定
的な感情は肯定的な感情を引き起こしていく」。人生の達
人はこれを片時も忘れずに実践している。しかし人間はそ
のときの気分や自己中心的な感情に左右される。自分が聞
きたくない意見や忠告、批判や非難には、耳を傾けてみる
価値がある。そこには必ず適切な真実の指摘の一つ二つは
ある。それは自分の人間性・品性・気品・人格を向上させ
るものです。自分が独善にならないようにと、正しい道を
照らしてくれる人だ。気に入らなくて、煙たく思って、遠
ざけようとするのが人情です。ほとんどの人はここで終わ
ってしまう。そのため、本来、人が持って生まれた無垢な
心が輝かなくなります。
人生の達人は自分にとって耳の痛いことを言ってくれる有
用で価値のある師を身近に置き、その人に従っていこうと
する。人生の達人には、限りない向上の道が開けている。
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怒らない、いつも感謝して、ご機嫌で暮らす。
「怒らないこと」というのは、実は人が生涯をかけるに
ふさわしい、人生の目標とするに値するテーマなのです。
それにはとても勇気がいります。普通の人には到底無理な
ことです。心を完成させるということなのです。その道の
りを一歩一歩、階段を上るように実践していくなら、人生
はバラ色のハッピーとなります。一般の人は「怒りは悪そ
のものである」とキチンと認識していません。本音では「
怒るのはよくないとわかっているけれど、いざとなったら
怒るのもしょうがない。それで解決することもある」と思
っています。しかし、怒りは猛毒です。「どんな怒りであ
ろうと、怒りによる行為の結果は、必ず不幸となる」これ
は真理です。
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怒りは猛毒
怒りの毒を抜く方法は「怒っている今の自分に気づくこと
」です。生まれた怒りはその瞬間に消えてしまいます。怒
るたびに毒が出て、自分の健康を破壊し、幸福は危機に瀕
します。怒ったら「自分は負け犬だ」ということです。怒
る人というのは「自分の中身に自信を持っていない」から
です。中身が空っぽのプライドが傷つけられたからです。
自分の中身のなさを知られたくなくて、負け犬の遠吠えを
しているだけなのです。怒る人ほど頭が悪いということで
す。「私は怒りました」と言うのは「私はバカです」と触
れ回るようなものです。怒る人は人格や品性のない空っぽ
な最低の人間です。意識下に苦しみやストレスがあるから
怒るのです。可哀想な人です。相手が怒ったということは
、毒入りの料理を出してきたということです。それを食べ
てはいけません。自分は腹が立ったと観察した後、何も言
い返したりしないで、その場を立ち去るのがよいでしょう
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感謝
自分を愛する者は他を害してはならない。不害の徳
しかし、人間は他人に迷惑をかけねば生きていけない存在
です。だからこそ「他によくしなければならない」
相手の人格を傷つけたり誹謗してはならない。
慈しむ者はよく怨みを防ぐし、与える者には福徳がある。
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快楽主義
エピキュロスの快楽主義は官能の快楽を追及したものでは
ない。魂の快楽を求めたものである。快楽とは肉体的な苦
痛がなく、精神的に平静であり、精神の自由を得ること。
だから快楽をむさぼるということとは大きく違う。官能の
快楽の追求はその何倍もの苦悩がついてまわる。
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何事も喜ぶ。四恩に感謝。祖先に感謝する。
自分をとりまくあらゆることに対して感謝し、今が最高だ
と思い、以後の行動を前向きに生きる。感謝こそ幸福への
最大の近道。ストレス学説のハンス・セリエ博士は「スト
レスから救う方法は感謝の原理」と説きました。祖先たち
は太陽や水などの自然の恩恵に合掌し、人間関係でも、深
い恩の精神を培ってきました。一日に何回となく「ありが
たいなあ」と声に出す。
何かもらったり、してもらったりしたらすぐにお礼を言う
。そして必ずお返しをする。感謝と報恩はセットです。
自然や社会の恩、祖先父母の恩、師友の恩、神仏の恩。
父さん母さんのおかげです。先生のおかげです。友達やみ
んなのおかげです。お米や野菜のおかげです。服や靴のお
かげです。社会で働く人たちのおかげです。
人間として生まれることほど有り難いことはない(法句経)
盲亀浮木(もうきふぼく)」海底に目の見えない亀がおり
まして、百年に一遍だけ海上に上がってくるチャンスがあ
る。その時に海上の大海原にたった一本だけ木が浮いてい
る。その浮いている木に辿りつけたならば、人間として生
を受けることができる、という話があります。百年に一遍
チャンスがあって、それを何回も何回も繰り返していくわ
けですけれども、目が見えないわけですし、また浮木も海
に一本しかないということですから、なかなかこれに辿り
着くというのは、一体何回繰り返したらそれが実現するだ
ろう、と。途方もなく長い時間なんですが、そういう位に
して私たちの亀が浮木に辿り着いた、そして人間として生
まれてきたという。もう実に稀なことである。

謙虚と謙遜は違う
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我を捨てる。あるいは小我で。/理屈を言わない。

自分の考え、自分の意見にしがみつかない。
私曲を存するなかれ。自分の考えだけを正しいと思っては
ならない。自分の考えだけでものごとを判断してはならな
い。自分の考えを押し通そうとしてはならない。自分の考
えにこだわってはならない。自分の都合や立場、考え方で
物事を決めてはならない。自分中心的な考え方から離れる

我執を離れる 
私たちは、自分自身が確実な存在である、と思っている。
しかし、私たち自身非常に危うい存在で、みな確実な存在
ではないということを知るということが大切です。いつど
んな事故に巻き込まれるかわからない。いつどんな深刻な
病気が見つかるかわからない。そしてそれによって、いつ
命を失うかわからない。その不確実な自分に執着して、苦
しんだり悩んだりします。そういう愚かさを知るためには
やはり自分自身をよく見つめる行が必要となります。

不言の徳。
上善水の如しで、逆らわない。謙虚で、柔軟に、目立たず、
でしゃばらず、べらべらしゃべらず、余計なことや理屈を
言わない。

和光同塵(わこうどうじん)
自分の才能や徳を包み隠して、世俗の中に交じって慎み深
く、目立たないように暮らすこと。光を和らげて塵に交わ
るの意味。個性を出して、自己主張することが現代の生き
方になっている。その結果、失われたのが、謹みや謙虚さ
です。いぶし銀のような深みある人が少なくなった。こん
な時代だからこそ「和光同塵」の言葉を見直したい。私た
ち凡夫のレベルでも、出来ることを何ら自慢することなく
謹みを持ち謙虚で奥ゆかしく暮らし、ささやかでも困って
いる人のために優しさの気持ちをふりわけたい。

他者は自己に優先することを知る
イスラム圏において、政治的信条のために自爆を選択する
青年男女が現れています。この自己犠牲は仲間内あるいは
地域社会といった小さな集団のための利他的行為に見える
のですが、何の罪もない他者を犠牲にするエゴイスト利己
主義者です。
人間の身体と精神は他者に向かって活動しようとしている
のです。精神は他者を求めているのです。もし他者がいな
ければ、言語能力の存在意義がなくなります。
自分が他者である家庭や学校や地域社会仲間内といったな
かに入り込む過程を通じて、自分は個人私人であると同時
に集団公人であることが確認されます。そこにおいては「
気配りと言葉使い」が必要になります。

生命のネットワーク

我を捨て去ってしまえば、そこにあるのは生命体です。「
無数の生命の中で、自分という一つの生命が、他からやさ
しくされたいと思っている」のです。生かされているので
はなくて、成り立っているのです。生かされているという
のは、神の奴隷のようですが、一切の生命は対等なのです。
本当のやさしさは、我エゴのない「生命」という次元なの
で、必要以上を求めません。「欲しい」というところまで
はいかないのです。一つの「生命体」の立場で、他の一つ
の生命体との関係を見ると、相手から何を要求されている
か見えてきます。お互いの生命を大切にすること。これが
慈悲という本当のやさしさです。本当のやさしさは自然の
ネットワークの中で、我エゴがない状態でいて、すべての
生命とつながりの関係を持っていて、生命を成り立たせて
くれているそのつながりです。

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美的感受性が大事

人は誰も右するか左するか、二者択一の岐路に立たされる。
損得より、どちらが調和が保れて美しい可能性が広がって
いるか、その判断は美的感受性の問題に尽きる。

見苦しいことはしない。マナーやルールを守る。
電車の中や歩きながら大口を空けて食べ物を口に入れる姿
は見苦しい。食べるというのは動物的な行為なので、食欲
の本能のままに食べたのでは、人間としての品位を損なう。

我慢の美徳
日本人は子供のころから、特に男の子は「我慢するように」
教えられてきた。精神的または肉体的にも、耐えることを
学ばなくては、この世は生きていけない、という教えです。
なぜ我慢するかと言うと、我慢しなければ、もっと悪いこ
とや不都合なことが起きるからです。外からの圧力に負け
ない意志の強さをいい、不撓不屈の精神の基礎になるもの
です。受動的というより能動的なエネルギーです。

カネの話は最後にする
契約・購入・販売などで最初からカネの話をするのではな
くではなく、カネのことは最後にしたほうが奥ゆかしい。

割り勘
お金の使い方払い方やりとりで、その人がわかる。割り勘
は公平の原理に基づいているので合理的な決済方法である。
あとくされがない。あとくされがないということは、それ
っきりで会うことがなくてもてもいいし、会う必要もない
。金の切れ目が縁の切れ目にも等しい。もし、おごられた
場合、おごられた側は、金銭的な貸借関係はないにしても、
幾分かの恩義は感じている。
人間関係の基礎にあるのは、縁や恩やきづななどといった、
心と心のとの間の執念といえる。だから個人的な場はもち
ろん仕事の場であっても、永続的な関係を築きあげたいと
思ったらならば、割り勘はマイナスになる。
部下に食事をおごる場合、予算を示したり特定の料理を勧
めたりするのはよいが、選択肢があるのに選択させなかっ
たときは横暴となる。
他人や公や組織のカネだからといって「親方日の丸」的に
公私混同したり、無駄遣いをするのは、無責任な人間であ
ってその人の品性を疑われる。出張でビジネスクラスを買
った後で、エコノミーに買い替え差額を小遣いにするとい
うような詐欺的なけち臭い了見は唾棄すべき行為である。

ときにオウバン振舞をする

時々でよいから相手が思いがけないようなオウバン振舞を
する。その意外性とあいまって人間関係が大いに深まって
いく可能性がある。一飯が人から慕われる道へとつながる。

小銭もきちんとする
何かの拍子に小銭の持ち合わせがなくて、一緒にいる人か
ら借りる必要に迫られる場合がある。いくら小額であって
も人から借りたのであるから、借りた金は返さなくてはな
らない。できるだけ早い機会に両替して返しておくべきだ。
寸借詐欺のまねをしてはならない。

義理立てに金を惜しんではならない
何をするにしても、自分が「そうしたい」と思い、まして
人のためになる時にためらう必要はない。しかし、自分が
「しなくてはいけないのだけれど」と思ったときは、心の
中で義理と金の計算が葛藤している。そのときは、自分の
計算高い心についてよく反省した上で、義理を優先させる。
そうすれば男としてのランクが少しは上がる。ケチな人な
らば投資と考えれば納得できるだろう。もちろん投資だか
ら回収できるとは限らない。
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「不親切の親切」
修行者は人の目を気にするんじゃなくて、それが仏の教え
で本当の慈悲の行いで、正しいと思ったことだったら、世
間や人がいくら非難しようとも、やっていくということで
す。『往生要集』を書かれた恵心僧都源信という人の事で
すが、鹿が寺の庭にやってきて庭の草を食べるわけです。
その時に、人を使わせて、「あの鹿を棒で打って追い払い
なさい」というのです。人々は「いいじゃないですか。鹿
が庭の草を多少食べても、そんな鹿を棒で打って追い払う
なんていうのは、あまりに慈悲の心のない行いではないか」
と非難するんですね。その時に、恵心僧都は「私は、鹿が
人里にやって来て、人に慣れてしまう。そうすると、もし
悪い人がいたならば、悪い人にも近づいてしまった時、殺
されるようなことがあるかも知れない。だから鹿には人間
というのは恐い存在でもあるんだ、ということを教えてお
かなければいけないから、やって来ると棒で叩いて追い払
うようにしているんだ」というんです。
これはまこ
とに鹿に対して慈悲深い行為であるんですね。その打つと
いうことは慈悲の心で行う行為のようには思えませんけれ
ども、実際はそういう深い思いがあってやっているのです。
立派な指導者の行うことは、周りから見て、理解出来ない
ような悪事とも思えるような行為であっても、深い心があ
って行っている場合もあるのだから、そういうことをよく
よく知っておきなさい、と言っているんです。
ただそれについて説明しないといけないと思います。そう
でないと誤解されてしまう。でも、そこで敢えて説明しな
くても、自分がほんとに信念を持って、今の話でいえば、
鹿のためにやっていることであれば、そのようにいくら人
に非難されてもやっていくんだということですね。
よきことをなすに楽しみをもつべし、善根を積むは幸いな
ればなり。法句経。
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人は自分の心が自分の利益や保身に向かっている間は
、正しい判断も勇気もわいてこない」。
親戚付き合いや葬式も心から祝福したい、冥福を祈りたい
と思う人の式しか行かない。他人を拒否したり、申し出を
拒絶したりすれば、敵をつくると考える。これは自分がか
わいいと思う心で、他人の評価を気にするのと同じ。
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神仏にたいしてこそ
世間の人が善いと言っていることが、必ずしも善ではない。
もともと「善悪」とは人間が考え出したことであって、神
が創ったものではない。人がいかように思うとも、神仏に
たいして恥ずかしくない行いや先祖の声に従って生きる。
例えば八正道や六波羅蜜。世間体や体面など一般的な意見
は参考程度にする。私達には人にほめられたいとか、人に
よく見られたいという虚栄心がある。だからどうしても、
そちらに媚びる。人いかに思うとも。
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責任をとる
至福の人生とは真に尊敬できて交際したり師事できる師を
持ち、自灯明で主体性をもって生きる。自分のしたことは
自分が責任をとる。自分が引き受けたことを部下や他人に
任せたり依頼したにしても、その責任は自分がとる。
また会議で決まったことは、自分もその会議に出席してい
るかぎり、たとえ反対の意見を持っていても、その決定に
は責任をもち、従わなくてはならない。実は自分は反対だ
ったのだなどと言ってはならないのです。

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自己主張より相手満足方式
北風方式よりも太陽方式のほうがすべてに効果的である。
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人生は出会いがすべてです。素晴らしい師を探す。
利益志向より人間関係志向。

すべては縁によって起こる。縁を大切にする。人間は一生
の内に逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず一
瞬遅すぎない時に。小才の人は出会いに気づかず、中才の
人は出会いを生かせず、大才の人だけ偉大なる善智識との
出会うことができる。我々のまわりにだってそのような善
智識(人生において真のいきがいを教えてくれる人)はた
くさんいるのであるが、こちらがぼんくらだから向こうは
何も言いようがない。それで黙って通り過ぎてしまうので
ある。
自分が立派な人間になる努力をしなくては立派な人との出
会いというものは起こり得ない。私達はせっかく生まれて
きたのだから、力量というものがあったら、善智識を引っ
張り出すことができる。その時、自分の真の生き方がわか
る。
「霧の中を行けば、覚えざるに衣しめる」霧の中を歩いて
行きますと知らないうちに衣服が湿っている。それと同様
に善き人と一緒にいると、知らないうちに善き人となって
いる。昔、倶胝(ぐてい)和尚に仕えてた一人の童子などは、
一体いつ学び、いつ修行したのかわからないけれども、長
い間修行した人と一緒にいたので、知らないうちに悟りを
開かれた。 

人の世は一期一会であるから、何事も丁寧にしよう。会っ
たときが別れのときでもあるから出会いを大切にしよう。
 
子孫に「何事でも相談できる善智識」良き師を遺す。
良き師に巡り会うというのは本当に大切なことです。

良き師の教えに従って自分を修し、自己の人格を高め、利
己心を捨て去り、慈悲心をつちかうことが大切です。
生活を過剰な欲望によって汚さず正常に保ち、一瞬一刻に
注意を払い精神統一することです。家族や他者と仲良く暮
らし助け合っているのは当然としてだから、賭博や投機・
不法行為・不道徳行為、貪る、怒る、ほかに下記のような
愚かなことはしてはならない。

【人を困らせる、苦しめる、いじめる、批判する、皮肉る、
いやみを言う、悪口を言う、けなす、からかう、見下す、
突く、裁く、責める、とがめる、憎む、無慈悲、独占する、
人の不幸を喜ぶ、冷淡な心、不平不満不足、人を心の中で
打つ、見栄張る、虚栄心・誇る・自慢する・驕る、欲深い、
執着する、こだわる、争う、競う、受け入れない、許さな
い、暴力をふるう、殺生する、騙す、嘘をつく、盗む、仲
たがいさせる、怒る、いじわるする、愚痴る、忠告する、
注意する、欠点や間違いを指摘する、法を破る、約束を破
、我を張る、感謝しない、無責任、人の喜びを喜ばない、
ねたむ。

自分のことは責任をとる。楽観的に陽性的に生きる。義理
のつき合いはさりげなくやる。世間体には、ほどほどに。

相手や世間の人がどう考えるかについて関心がないという
のは、自分勝手な自己中心の心です。「許せない」のは「
自分が正しい」という我エゴがあるからです。この世は無
常つまり不完全で理不尽だから「許せない」というのは成
り立たない。
自分こそが自分の頼りである。他のいかなるものにも頼
ることなく主体的に生きよ。法句経

盗まない
盗みは欲望のエネルギーを強烈に刺激します。しかし盗ん
だ瞬間からバレたらどうしようおびえるので、不安という
怒りのエネルギーも増幅します。心は邪悪な欲望のため荒
んでいきます。自分の盗みは死ぬまで記憶します。因果応
報により罰を受けます。

他人を認める。ほめる
とんとん拍子に出世していった人だが、彼はお茶を入れて
客に持ってくる女性に対しても、丁寧な口調で「ありがと
う」といい「**さんの入れるお茶はおいしいんだ」などと
言う。その女性がはにかみながらもうれしく思っている様
子が、はっきりわかる。
部下には目的とポイントを言った後はすべてを任せ、責任
は自分がとると明言する。手柄をできるだけ人のものにし
ようとする謙虚な姿勢をしめしている。リーダーは指導者
であると同時に、フォローする人になる心構えが必要であ
る。メンバーの一人ひとりを世話することではじめて、効
果的なリーダーシップが可能となる。そのためには子供の
ころから隣人や親戚との接触から自然と価値観や道徳規範
を察知するのです。

家族の安否を問う
人の信頼を得ようと思ったら、その人が最も大切にしてい
るものを知り、そこに関心を集中させなければならない。
相手の最大関心事を共有することで、人間としての一体感
が相手に通じる。

祖父母が家庭の中心
三世代同居は確かに相互葛藤の問題があります。しかし三
世代同居または近隣に住むことは生活上の利便、例えば孫
の面倒を必要に応じてみてもらえるなどの便益がある。そ
して教育上の効果が少なくない。特に経験の知恵をめぐる
情操教育や利己的な人間にならない教育効果もある。
子や孫にとって遠隔地病院や介護施設や老人ホームに放り
込むことは、一種の姥捨て行為であり恥多き罪深い状態と
感じられます。
核家族は祖父母から独立するだけでなく親戚および隣人か
らも独立することになる。それは相互扶助の通念がなくな
り、最終的に自分自身の孤独や独居の増大となります。

子供にとって親戚や隣人が折に触れて示す基準から子ども
たちは価値観や規範の何たるかを察知するのです。親戚と
隣人がいなければ子供は育たないのです。つまり仲間内の
閉塞世界にひきこもることになります。
相互扶助をやめることによる節約が孤独や子供に対する感
化と見合うはずがありません。親戚や隣人がトラブルの種
であるとすれば付き合いを断ったり減らしたりすればいい
のです。

家事の重要性
ヨーロッパでは他者に対して信頼を表す最高の社交法は「
その人を自宅に招く」ことだとされています。会話は男だ
けでなく妻も参加します。会話能力や社交能力が必要です。
料理の腕やサービスも精練されていなければなりません。

炊事や掃除や洗濯を中心とする家事は精練の度を高めよう
とするには心身の集中力が要ります。家事は繰り返しの作
業であり、その繰り返しを厭わないことは、家事をする人
間の活力が並みでない水準にあることの証拠です。それを
他者に評価してもらうことが、家事をする人間への称賛で
あり栄誉なのです。そのためには人を自宅に招待しなけれ
ばなりません。
住宅事情を言い訳にせずやってみることです。
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競争に勝つコツ

それは競争に参加しないことだ。人と違うことをやると、
そこには競争はない。努力をしなくてもよいし、一生懸命
やらなくてもいい。おまけにこれで一番トップ。学力、権
力、智力、暴力、金力など力で争う者はその力によって滅
ぶ。優劣を競わなければならない人生は悲愴である。
大多数の人はそういう価値観しか知らない。勝つこと、優
れることの脅迫・強制の時代である。究極の競争社会、実
力主義はケダモノの社会。

「知足安分」の精神は多くの人に安らぎと幸福をもたらす。
見栄を張るのは、自分のあるがままの姿に満足していない
から。見せびらかしたいと思うのは、一般的に知られてい
ないからであり、したがって大した業績でもない。財産が
「ある」というのは有限であり、限定的である。「ない」
というのは無限であり、条件によって縛られていない。
何かを知っているということは、その対象となるものを限
定的に考えていて、そこから外に広がっていこうとしない。

争いあう者は両者とも退出せよ。勝利者が勝ち取るものは
敵意である。敗れた人は苦しんで萎縮する。心穏やかな人
は、勝敗を捨てて安らかに過ごす。
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出家、捨てる
「重々の用心有るべし。世を捨てて、家を捨てて、身を捨
て、心を捨つるなり」と、四段階で捨てることを教えてい
るんですね。出家する時には、まず、「俗世間のことを忘
れろ、捨てろ」と。それから、「自分の家だとか、両親の
ことだとか、妻のことだとか、子供とか、それも全部忘れ
て置いて来い」と。さら
に今度は「わが身を捨てろ」ということは、暑いから寒い
から今日は修行をやめようとか、そういう「自分の身を思
う気持ちを捨てろ」ということですね。それから、「心を
捨てろ」ということは、心にいっぱい雑念が浮かんできま
すから、こんな修行して何になるとかですね、弱気も浮か
んできますよね。それを忘れて頭を空っぽにして修行に
打ち込め、ということだと思うんです。
五欲には「色欲」「食欲」「睡眠欲」「名誉欲」「利欲」
とありますが、上の三つは修行していれば、大して問題に
ならなくなる。しかし、後の名誉欲だとか、利益を貪る欲
とかは、これはなかなか大変で脱却出来ないですね。
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こだわらない。執着しない。

中道とは、まん中という意味ではなく「いい加減」である。
これはちゃらんぽらんで中途半端で投げやりな態度のこと
ではなく、風呂の湯加減のときのいい加減、それは熱い湯
の好きな人には熱い湯が、ぬるい湯が好きな人にはぬるい
湯が、それぞれいい加減になるわけです。
仏陀は「我を捨て、執着を離れることによってのみ、苦し
みから解脱することができる」と説いた。無意味なこだわ
りは、焦りや嫉妬や恨みや憎しみなど苦しみを持つ。そう
すると健康を害して早く死ぬ。

人間本来無一物
自分という我を捨てれば、そこは無一物の世界です。空っ
ぽで生きていくことが大切なんです。ここにお茶腕がある。
いっぱいものが入っていたら注げないんです。常に空っぽ
ならいくらでも注げる。心を空っぽにするということは、
心にすべてを受け入れる豊かなものにすることです。人間
は裸で生まれてきて、裸で死んでいく。何にもないよ。

「自分」とか「自分のもの」というこだわりをなくせばす
べて無一物の世界です。全てのこだわりから解放されれば、
宇宙の存在そのものです。
宇宙そのものが、こだわりのない存在です宇宙そのものに
なれば、人間はもちろん花を見ても鳥を見ても、動物や全
てのものが、生命体として同じように見えてきます。そこ
から「慈悲」という心が生じるのです。
本来無一物とはそのようなことをいいます。

無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)      
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途中が大切
好きでもないことを一生懸命ガンバリをやった結果は悪い。
健康を害するなど運命が悪くなる。「ついでにやっている」
くらいでよい。目標を持つ場合は少し心と体に余裕をもっ
てやる。あまり先のことを考えずに「今」を大切にする。
天才も勤勉のみ。用意周到に事に
当たれば惑うことはない。事の敗れるは得意のときに因る。

「腹が立った」
昔或る理不尽な扱いを受けたことがあった。余りに腹が立
ったので、知人の先輩に相談したらこう云われた。「私は
お前の方が正しいと思う。しかし、世間ではそうは思わな
いだろう。何故なら、相手がお前より社会的地位が上だか
らだ。どちらが正しいかは、ことの真相ではなく、どちら
が社会的に上かでこの娑婆世界は決まる。
お前は一介の無名の人間に過ぎないのだから、お前の方が
間違っていることになる。そういう理不尽なことをする人
間はいずれ自滅する。可哀想な人だ。お前が納得できず、
それが腹にすえかねるほど口惜しかったら相手より社会的
に上になることだ。」この言葉で私は発奮した。「なにく
そ!今に見ていろ。」という気持ちである。
しかし、そもそもこの世界は理不尽で不合理なのだ。だか
ら放っておけばよかった。今思えば、穴があったら入りた
いくらいだ。未熟で面目次第もないが・・・とある人が述
懐されていた。
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心と同時に身体(生命)も大切。

仏陀は心がすべてである、とおっしゃられました。確かに
運命を決定するものは心です。PUREでCLEANな清浄心こそ
が究極的に幸福をもたらします。
さらに、そこに至るには、旅する人が馬を大切にするよう
に仏の教えを聞く人は、身体も大切に守らなければなりま
せん。仏教の修行というものも、身心一如というように心
と身体は切っても切れない関係です。
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畢竟して何の用ぞ 時間(命)を大切にする。死の決定して
いるこの大きな世界で命を見る目を持っていることが大切
。結局それは意味のあることかと自分に問う。
私たちは必ず死ぬのだ、ということを切実に思わなければ
なりません。まずは時間をいい加減に過ごすまいと思って
、無用のことを行って無駄に過ごさないで、有益なことを
行って時を過ごすことです。僧にとっては修行の実践です
。坐禅を中心にさまざまな修行や生活規則とか、自分に対
する戒めに従って生きていくということです。
一般の人にとっても、時間を大切にするということが重要
で、それぞれの人が自らやるべきことを一生懸命に集中し
てやるということです。 
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『生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸』 
意味は「生死は人間の一大事です、時は無常に迅速に過ぎ
去っていくから、各人はこのことに目覚めて、精進につと
め、無為に過ごしてはいけない。」
まず無常を感じるということが大切なことです。私たちは
、自分のことはあまり気が付かないのですね。例え
ば「自分の老い」ということを考えてみても、毎日毎日鏡
なんかを見ておりますと、ほんの少しずつ変わっていきま
すので、自分が老いていくということはあまり感じない。
ところが、知人の子どもさんが、小さかった子どもが、「
中学生になった」「高校生になった」なんていうとびっく
りするわけです。それは私たちに自己中心的な見方と言い
ますか、エゴ(我)があるので、なかなか自分自身を客観
的に見れないのです。「自分は違う」、「自分は別だ」と
いうふうに思いがちです。「私が」「俺が」という気持ち
がいつも出てくるのです。光陰矢の如し。
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今を輝いて生きていますか
「今日が最後だ」と思って真剣に取り組め!』と、先人が
警鐘を鳴らしても、人は「縁起が悪いことを言うな」とい
う。けれども、身近な死に出会ってようやく感じる。「あ
の人が死ぬなんて思いもしなかった」と。しかし「他人の
死」に死を感じることはあっても、自分の死については自
覚しない。
時の流れは非常に速いということは、もう目の前に起こっ
ている道理ですね。仏道に生きる者は、今日この日だけと
思って、今日だけでも、命のあるうちに仏の道に順って生
きていこうと思う。そういうために、一つのことに一生懸
命に集中してゆくのです。
人生は約三分の一を眠りに費やしています。60歳の人生
ならば20年は眠って過ごした計算になる。私たちは限ら
れた時間の中で生きています。この「無常」に目覚めると
、人は人としての理想の生き方を求めるようになります。
命は時間です。この「時間」は絶え間なく減りつつありま
す。例えば、わが子と過ごす時間もわが子と別れる日に向
かって絶え間なく近づいていっています。一期一会の毎日
です。ある日仏陀が「人の命はどれほどか」と弟子に問い
ました。弟子「一呼吸の中にあります」仏陀「よいかな」
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永遠の寿命
人のために良いことをするという一瞬の思いを起こすよう
なことがあれば、永遠の寿命が現れるということです。
一瞬の中に永遠がある」というような時間なんです。過去
を追ってはならない。未来を待ってはならない。ただ現在
の一瞬だけを、強く、生きなければならない、ということ
です。
そういう掛け替えのない人生をおくるには一体どう修行す
ればいいのか。修行ということは「継続していくこと」な
んです。本来の意味は毎日毎日同じことをするわけですけ
れども、同じことの連続の中にそれを地道に続けていく中
に修行というものの本当のあり方があるわけです。

私たちは元々、初めからお釈迦様のように素晴らしい人と
いうのはいないわけです。最初はみな凡人であって、素晴
らしい宝石の原料になる玉も磨かないと光が出てこないわ
けで、それと同様に私たち凡人もやはり錬磨し、鍛錬して
いかないといけない。いわゆる修行ですね。修行していか
ないと光というものは出てこないんだ、ということになり
ます。自未得度先度他
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清潔感を漂わせる
飛び切りの美人には高嶺の花として近寄ろうとしない人が
多い。美人には引き寄せる力と同時に撥ね退ける力もはた
らいている。しかし清潔感は常にプラスにはたらき、人を
引き寄せる力がある。いつも体や衣服や住まいを清潔に心
がける。
突然の怪我で病院に連れて行かれたときなど、下着がきれ
いでないと恥ずかしい。人目に触れないものほど清潔にし
ておく必要がある。もちろん、いくら体や身につけている
ものが清潔であっても汚い心を持っていたら、その汚らし
さは言動のどこかに表れる。心が清く保たれていたならば、
自然に礼儀正しく謙虚に振舞うことになる。すべてにすっ
きりを心がけていれば皆が好感を寄せてくれるようになる。
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偉そうにしない。誇らない。威張らない。謙虚に生き
る。「なんにもしていない」。自負心を抑える。人の見
ていないところでこそ、仕事・掃除・善行を精一杯やる。
他人に小さいことでもよいから何らかの奉仕をする。

男の魅力は権力に迎合しないところにある。「強きをくじ
き、弱きを助ける」点にある。常に人間に焦点を合わせ、
すべての判断において最終的な価値観を人間におく。人間
に対する優しさに発した勇気ある公明正大な決断に従う。
豊かな常識と共に、我エゴを捨てている者にのみ備わって
くる先見的な洞察力です。非難されたり、もてはやされな
いかもしれないが、社会全体にとっては有用であり、それ
が男の度量である。その結果の褒美は、多くの人から慕わ
れ愛される豊かな日々となる。

愚かさを知ること
自分の愚かさを悲しむ人がいる。しかし、この人はもう愚
か者ではない。自分は賢いのだと言っている人ほど愚か者
はない。法句経。
偉そうにする人や威張る人に真に立派な人はいない。ささ
いなことやちょっとした仕草にその人柄が出る。あなたは
偉そうにしている人や威張る人が好きか。類は友を呼ぶと
いうが、同じような波長をもった人同士は引き寄せあう。
人間嫌い人嫌いは友人がいない。人間好きとは人を大切に
する。愚の如く、魯の如し。愚禿親鸞。大愚良寛。

潜行密用は、愚の如く魯の如し、ただ能く相続するを、
主中の主と名づく
人が見ていないところでも、仕事なり掃除なり善行なり、
精一杯する。「いい目でみられたいから」などという思い
でやる善行が多い。そんなものは善行でもなんでもない。

陰徳を積む
多くの人は、善い事を行った時はきちんと人に知られよう
と思い、悪い事を行った時は人に知られたくないと思うも
のです。こういうことによって、内面と外面が一致しない
ことが出てくる。しっかり修行し、内面と外面が一致する
ようにして、誤りがあれば誤りを反省し、まことの徳とい
うものを内に秘めて、外見を飾らず、誰もがしたいような
ことは他人に譲ることです。他人が好まないこと、嫌がる
ようなことは、自分が引き受けるぐらいの、そういう心構
えを持つべきです。実際、私たちは人に知って貰おうと思
わなくても善いことを行っていると、誰か見ている人がい
るものですね。逆に悪いことは隠そうと思っても、これは
なかなか隠し通せるものではない。
だからこれを逆にして、善い行いを隠す、これは陰徳を積
むというんですね。
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「下座行」とは1、足元のゴミを拾う 2、乱れた履物を
揃える 3、近隣の雑草をぬく 4、トイレ掃除をする。
不浄な所ほど一入きれいに掃除することが大切である。
便所は常に掃除するのであるが、ただそれだけでないもっ
と深い意味がある。高慢な心では便所掃除はできない。高
慢な我を殺し謙虚な心になってこそ心底から便所掃除がで
きるのである。人は常に便所掃除の時のように謙虚な気持
でなければならない。

なぜ掃除が大切なのか
汚くても平気な人がいる。他の事はやるのだが、掃除はし
ない。なぜだろうか。汚くなっている人は、自分が持つさ
まざまな欲を実現するのに忙しくて、自分自身とその周囲
を磨く余裕がない。要するに自分の欲には忠実だが、それ
以外は面倒くさいと怠けていく。汚さに慣れて、自堕落の
道へと落ちていく。そのうちに、心の中までもが汚れが蔓
延し、ついには心身ともに卑しい人となりさがる。皿や茶
碗を洗う場合も表だけ洗い裏をそのままでは、気持ちよく
過ごせない。気持ちよく一日を過ごし、心を清らかにして
いく手段です。
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真実の人は智者となるなかれ。
無能を装って生きなくともよいが、自分が愚かであること
を知っていること。「こういうことを知っているか」と
聞かれても「知らない」と答えて一向に差し支えない。そ
うかといって、知っているのに知らないと答えるのもなか
なかむずかしい。自分が立派な仕事をしている時に、「な
んにもしていない」という心が大切になる。しかし、やっ
ぱり誇りたくなる。「この頃は忙しくて、あれもやってる
し、これもやっているし、あの仕事も私がやった」と言い
たくなる。そういうことを言ってはならない。そういうと
きに「なんにもしていない」というすんなりした気分が大
切なのです。立派なことをやっているという自負心がなく
、なんでもないことをなんでもなくやっているという気持
ちになる。それを真実の人という。
『満は損を招き、謙は益を受く』書経
「満」は慢心「謙」は謙虚。 自分の力をたのんで、権力
や地位や金力や知力などで相手をおさえようとする態度。
人を見下す態度、威張る、教えてやるといった驕る態度。
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人間の品性を高めていくために六波羅蜜という修行があり
ます。人様のために尽くしなさい(布施)足るを知って戒律
を守りなさい(持戒)耐え忍びなさい(忍辱)心身ともに精進
しなさい(精進)集中し、心を穏やかにしなさい(禅定)そう
すれば智慧を得ることができると(智慧・悟り)。
因果応報の法 つまり善い事をしたらよい結果が出ると
いう。悪いことをして、うまくやっている人がいるように
みえるが、短期的には判らなくても、数十年という長い期
間から見ると自滅するということです。
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物事が生じたとき「損か得か」よりも「善か悪か、絶対
的な損得」を考える。自分がしてほしくないことは相手に
はしない。

たとえば、遺産相続の争いで裁判にまで訴えた場合。もと
もとは仲が良かった兄弟姉妹親子が我エゴと我エゴのぶつ
かり合いの果てに悪感情しか残らない。将来の事態が悪く
なるのは明確です。相対的な損得ではなく、絶対的な損得
勘定をしてみる。すると、場合によっては我慢し泣き寝入
りしたほうがいい。君子は危うきに近寄らないのである。
醜い争いまでして勝とうとしてはいけない。相手が箸にも
棒にもかからないと思ったら、スタコラ逃げることを考え
る。相手を変えることができないならば、自分自身の考え
方を変えるのが、賢者の智慧であり賢明な生き方である。

死の決定しているこの大きな世界で命を見る目をもつこと
が大切。つまり、結局それは意味のあることかと自分に問
う。人とつきあうとき損得勘定を入れない。
家訓は司馬光家訓に尽きる。「子孫に金を遺すも必ずしも
守らず、書を積んで遺すも必ずしも読まず、陰徳を積んで
子孫長久の計をなすは先哲の格言なり」「一年の計は穀を
植うるに如くはなし。十年の計は木を植うるに如くはなし
。終身の計は人植うるに如くはなし。」
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和顔愛語。温和な笑みをたたえる。慈悲喜捨の四無量心
ささやかな愛を与える、ささやかな善行をする布施
ささやかな貢献心。おもいやりあわれみの心をもつ。

相手の過去の古傷や欠点や悪口や愚痴を言わない。愛語。
人の秘密を話さない(黙秘の徳)。
人は実に生まれながらに、口中に生じた斧をもっている。
人は悪口を言っては、その斧で自分自身を斬(き)る。 
「ウダーナヴァルガ」 
自分を苦しめない言葉、また、他人を傷つけない言葉のみ
を語れ。「スッタニパータ」
他人を傷つける悪口というものは、結局悪口を言ったこと
自体が、決して後味のいいものではない。自分に嫌な思い
をさせ、自分を傷つけるものだ。

相手の利益になる真実ならば、悪口は本人の前で
二度三度とよくよく熟慮して、相手に信頼され信望が厚く
なる建設的助言であること。真実かどうか、相手の利益に
なるかどうか、話す時と場所タイミングはどうか、以上の
三点が合致したとき悪口をいう。
愛語は愛心より起こる。愛心は慈悲心を種子とせり。愛語
よく回天の力あることを学すべきなり。慈しむ者はよく恨
みを防ぎ、与える者には福徳がくる。
心の中で人を打たない、責めない、いじめや差別をしない。

話すより聞くことを優先する
人は無意識のうちに、自分に関係することや得することで
あればごく小さい声であっても聞き、関係ないことは聞き
流している。聖徳太子は人による差別をしないで、同時に
十人の言うことを聞き分けたという。それぞれの言い分を
聞いて何かできることはないかという姿勢である。そのよ
うな人に対して人は信頼し期待する。人は自分の言うこと
を聞いてくれた人にはつながりを感じる。それが目上の人
ならば特にうれしく思う。相手の心の広さに全幅の信頼を
寄せる。人望のある人は、人を理解し、人から学ぼうとい
う姿勢をもっている。ちょっとでも「聞いてやろうか」と
いう驕りの気配を感じたら人は二度と寄ってこない。傲慢
無礼は人の最も忌み嫌うことの一つです。

人の前で腕組みをしない、足組みも。
相手との間に柵を設けるようなもので相手を拒否している
姿勢となる。足組みも同様にすぐに相手を蹴る態勢になっ
ている。人を寄せ付けない閉鎖的な姿勢だから人はネガテ
ィブな感情しか生まれてこない。目の前に人がいるときは
間にまったく障害物のない空間をつくるよう配慮する。

助けるべきときは直ちに
助けを必要としている女性がいる場合は、救いの手を差し
伸べるのが騎士道精神であり紳士といえる。例えば、見知
っている女性が、雨に降られて困っているのを見たら、「
返す必要はないです」と言って、さっと自分の傘を渡して
あげる。自分は全男性の代表という意識で振舞う。外にい
て急に寒くなったとき、さっと自分の着ているものを脱い
で女性に着せかけてやるのが、男の思いやりだ。一緒にい
る女性が何か粗相をしたときなども、後始末したり協力し
たりするだけではなく、自分の注意が足りなかったせいだ
と考えて、自分が悪者になるという盾になって、他の人た
ちから女性を守る。また女性が人に見られたら恥ずかしい
ようなことをしたら、見てみぬフリをする。
その優しさ温かさは女性を外からやわらかく包む。広がり
の大きな愛の持ち主なのです。

慈悲喜捨「慈」・他人の幸福を喜び、喜びを与える。「悲
」・悲しみを共感し、不幸を取り払う。「喜」・相手の有
徳を喜む。「捨」・自分の不徳を取り去る。「慈悲」憐れ
む心で情をかける。「喜捨」我を離れ、共感し、分かち合
う。平等。
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ウソをつかない。武士に二言はない。
己の言葉には切腹の心構えで責任を持つ。

嘘をつきたくなるのは「自分が得をするとか、自分のイメ
ージがよくなるとか、欠点を隠すため」です。しかし
、心に力のある人はそれを言わないように押しとどめるこ
とができるのです。特に結婚生活の基本原則は、嘘をつか
ないということです。
うそつきは泥棒の始まりと教えられてきたが、大人になる
につれ、本当のことを言わないほうがよいときがあり、多
少の嘘を言っても許されることを知る。次第に正しくない
ことをしても、社交上や仕事上で「ウソも方便」と勝手に
拡大解釈し、ずるくなり、堕落し、厚顔無恥になり、人の
道から外れていき人望もさがる。不徳のいたすところとな
って自滅する。約束はよくよく考えて約束をすることです

悪いことをする人を見れば、悪い報いがあることを望むの
は人情です。善いことをし続けていれば、いつかは良い報
いがあるだろうと思っています。お天道様や仏様がちゃん
と見ているんだ、といいますと「どこに神様がいるのか」
という話になりますけれども、仏法というのは曲げること
ができないという意味なんです。つまり仏教では、縁起と
いって原因と結果が歴然なんです。で、結局、善いことを
すれば、善いことをしたという事実、あるいは悪いことを
すると悪いことをしたというひとつの事実が、心の奥底の
瓶に一滴くづつ蓄積されていくわけです。そしてそれが少
しづつ私たちの人格を形成していくわけです。
それがいずれ何らかの条件、つまり縁起によって壷に水が
満たされたとき、その報いが顕れてくるというわけです。

誠(まごころ)を尽くす。誠心誠意で対応する。怠けている
ときは、怠けているのがわからないように気を使うから苦
しい。仕事に打ち込んでいるときは気を使わないので楽で
す。まごころというのは例えばいかなる反対者に対して
も怒らず憎まず怨まず、許し包容し、一切を自己の責任と
するような境地です。至誠のこと。

阿頼耶識人の運命は「習慣」が織り成す
から、悪いことはしない習慣をもつ。「心が変われば態度
が変わる。態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば
人格品性が変わる。人格品性が変われば運命が変わる」

慈悲心の無い正義感は持たない。邪を破らず誠意を移す。
恨まれることはしない。生き方を一言でと尋ねたら「衆善
奉行諸悪莫作」(法句経)と白隠禅師は言った。善い事をす
る悪いことはしない、三歳の子でも知っているが、無垢な
三歳の子でなければいえない。「邪を破らず」ということ
は、他人の不正や過失に対して、非難攻撃をして性急に正
すことはしないで、人の心を育てようという、深い思いや
りの心をもって接し、自分の非を自ら悟るように導くとい
う意味です。人の人格や品性を最もよく表すのは、愚か者
に対する態度です。許し、導き、慰め、美点をひきだすこ
とが重要です。社会の矛盾を攻撃しても混乱するだけで、
社会全体の立場に立って対処することが大切です。
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漢書「貨殖伝」家に居ては千金を致シ、官に居ては卿相を
致ス。久しく尊名を受くるは不吉なり。范蠡はこう言って
宰相の印を返し財産を全部ばらまき、自分にとってかけが
えの無い宝である絶世の美女の妻と子だけ伴って人目を避
けるように陶の国へ行った。陶で大富豪になった。功成り
名遂げて、身退くは天の道なり(老子)と言って隠遁した。
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積善の家には必ず余慶有り。積不善の家には必ず余殃有り
善行をなす家には慶事が訪れる。悪行をなす家にはもちろ
ん天罰がくだる。善行も悪行もなさない積不善の家には災
いがおこる。【五戒】不邪淫、不飲酒、不殺生、不妄語、
不貪欲【悪】不与取与えられないものを奪うことを抑
える。不瞋恚・怒りを抑える。不邪見・不善の心を抑える
不悪口・悪口を言わない。不両舌・仲たがいをさすよう
なことを言わない。不綺語・お上手ごとを言わない。誠実
とは言行が一致すること。血も涙も無い杓子定規な正義感
は衝突することが多い。そして恨みや憎しみを受けて滅亡
しやすい。不汚言・ただ一言をしっかりと覚えなさい。汚
い言葉を使わないこと 【五欲】(色、声、香、味、触)
財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲
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オクスフオード大学のジーンズ博士は「この宇宙には平均
の法則というものがある。太陽も地球もその法則に従って
動いている」と言っている。つまり得るものがあれば同等
の失うものがあるというわけである。人間、稼ぐだけ稼い
で握ったら放さないでいると絶対に必ず天が取り戻しにや
ってくる。金だけなら良いが、もっと恐ろしいものを持っ
ていってしまう。私の知っている金融の財産家も子供二人
共が父の悪評を苦にして自殺してしまった。
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(老子58章)禍は福の依る所、福は禍の伏す所。
わざわいだと思っていると福がよりそい、福だと思ってい
るとわざわいがひそみ隠れている。老子は対立するものは
相互に他を含んでいて、相互に他に転化すると考えた。一
方がなくなると、もう一方もなくなってしまうと。
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吉祥天「涅槃経」大乗経典
ある長者の家に、気品のあるとても美しい女の人が訪ねて
きました。「私は吉祥天です。金銀や宝石、車や召使など
の福徳を授けに来ました。」といいます。長者は大変に喜
んで、家の中に招き入れました。
ところが、そのあとから、もう一人の女性が入ってこよう
としています。こちらのほうは、見るからにみすぼらしい
、醜い女性でした。「おまえは誰だね」と長者
が問うと、「私は黒闇天。私が訪ねると、財産がなくなり
災厄がおきる貧乏神です。」と言いました。厄病神に家の
中に入ってこられてはたまりませんから、「とっとと出て
行ってくれ。」とどなりました。すると、黒闇天は大声を
あげて笑い「さっき入っていった吉祥天は、わたしの姉で
す。わたしたち姉妹はいつも一緒に行動しています。私を
追い出せば、姉の吉祥天だってこの家から出て行きます。
」と告げました。姉は「もし私を愛してくださるなら、妹
も愛してください」と語った。長者は「私は両方を受け入
れることはできない。どうかあなたもここから出て行って
くれ」と告げた。そして、そのとおり、吉祥天と黒闇天は
肩を並べて、その家を去って行きました。
この後、彼女たちはある愚者の家に招き入れられました。
・・つまり吉と凶、福と災はワンセットということです。
楽しいことは苦しみなのだということです。例え話の最初
の家人は惜しいことをしたように思えますが、福の神も貧
乏神も一緒に追い出した家人は、世俗の欲に執着しないの
で、煩悩にしばられることがないため、心が安らいでいる
。一方、愚者は金銭や財産に血迷い、むさぼりや怒りや驕
りの煩悩に縛られて結局、金持ちになったり没落して貧乏
になったりして、苦楽を味わい不安とともに生きる。
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注意・忠告・批判・批難をしない
自己を整えること。言っていることとやっていることが一
致しているならば他人にアドバイスしてあげるといい。そ
うすれば「自分こそどうなのさ」と言い返されることもな
い。例えば、「人に優しくしましょう、平等にしましょう、
ウソをつかないように」と立派なことを先生が言っても、
実際は怒鳴ったり怒ったりしています。「自分ができてい
ないくせに、何をキレイごと言っているんだよ」となりま
す。勉強しなさいと言っても自分は勉強がきらいなくせに、
ウソつきとなります。「自分が出来ていないことを他人に
諭さない」。

注意や批判するのは「自分が正しい、間違っていない」と
思い込んでいるからです。人によって正しさは異なります。
人だけでなく時や地域や気候、宗教や慣習によって異なり
ます。実は正しさなんて百人いれば百とおりあります。批
判の正体は自分の意見・考えつまり我の押し付けです。

人は他人の悪をしつこく見つけて言いふらす。そして自分の悪は
隠してしまう。まるでペテン師のように。ダンマパダ
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一緒に修行する仲間がいるということが大切
船に乗って行く時に、どうやって船の舵を取っていくのか、
ということを自分自身が知らなくても、また行き先を知ら
なくても、良い船長さんに任せて、乗客のみんなと一緒に
船に乗っていけば、自然と向こう岸の目的地に到着する。
つまり、自分勝手な思いや行いをやめて、良い指導者に随
って、他の修行者と一緒に修行していけば、自然と道を歩
む人となっている。挫けた時など励ましたり力づけたりし
てくれる仲間がいる、あるいは他の人が頑張っていると自
分も頑張らなければ、というふうに励まされる。みな一人
ひとりが、本来勝れているんだけれども、実践するという
のは、一緒に修行する者たちの力によってできるものです。
しかも修行ですから、きついことも多分いろいろあるだろ
うが、そういう時にも仲間で切磋琢磨することによって力
を出していこうと。そういうことで、何人かでやっていく
ことに意味がある。
けれども修行ですから、結局最後は自分ということになる。
自分を磨いていくということが大切です。

よき友とは不真面目は駄目だと注意してくれる人。陰で心
配してくれる人。災難にあったときは慰めてくれる人。困
ったときには助力を惜しまない人。秘密を漏らさない人。
常に正しいほうへ導いてくれる人。
親友に譲るものは最も大切な明珠であるべきだ。道元
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一日一度、思考から離れて座禅瞑想する。

一日一度は静かに座って、座禅瞑想し、我を捨て去りこだ
わりを放して心を清めましょう。無我によって宇宙の生命
と一体になり、そのとき本当の自分に巡り合い、生命の尊
さに目覚め、自分も他人も大切にできます。
参禅は身心脱落である。ひたすら惰眠をむさぼって、なん
の役に立つというのだ。覚触せよ。

行住坐臥日常の立ち居振る舞いすべてにおいて、坐禅によ
る無我が充満することが、心身の健康につながる。職業
別長寿ランキングは、あらゆる職種を抑え、僧侶がトップ
との結果が出た。中でも禅宗の僧侶が抜きんでている。

無我 
本当の自分というのはただ感じるだけです。感覚が自分に
流れていくだけです。寒いとか暑いとかいう感覚をコント
ロールできません。本当に自分という我があるなら感覚を
思い通りにコントロールできるはずです。眼耳鼻舌身とい
う感覚には我はありません。従ってそれらを使っている自
分にも我はありません。自分が存在しているという思考が
我を生じさせます。

無常ですから自分自身も常に変化していきます。顔かたち
はもちろん、好き嫌いなどの認識さえ変わっていきます。
我は思うとおりにならない苦を抱えながら、我エゴという
仮の自分が、仮想の世界観をつくって生きているわけです。

座禅には、止行と観行とがある。前者が心を静めることを中心と
し、後者は観察することを中心とし釈迦が新しく開拓しそれによ
って悟りを開いた。「今という瞬間に完全に注意を集中する」、
「今・ここの自分」に気づいていく。自分を客観的によく観てい
く実践によって、心を成長させることを目指す。
臨済宗は公案により見性しようと疑問を抱きつつ坐禅することに
より悟りに至る看話禅の立場を採る。曹洞宗は何かの目的のため
の手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐る
こと自体に集中する黙照禅の立場に拠る。しかし、曹洞宗におい
ても、修行者本人が現成公案を抱えるので、疑問に正面から向き
合うことが要求される。疑問の解消後は、臨済宗・曹洞宗共に最
終的に只管に落ち着くとされる。どちらも自身の懸案から逃げず
に、己自身に対峙するのが坐禅の特徴である。
座禅道場としては 岐阜県多治見市の永保寺・神奈川県鎌倉の建長寺・
徳島県海陽町の城満寺・その他がある
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プラス発想が事態を好転させる。好奇心を持つ。
大自然に出る。

普通に考えたら良くないことを、自分にとって良いように
逆に考えると、案外うまくいくことが多い。こどもが悪い
点数をとってきたら逆にほめるのだ。すると、お互いの気
分が良くなるようなものだ。
人からインドに行かないかと誘われたとき何事でも好奇
心があるので行くことにした。そこで人生観がかわってし
まった。誰のことかというと私のことだ。好奇心は人の心
を物事にたいしてオープンにする。人類のふるさとは大自
然だ。宇宙大自然から生物は生じた。だから人間の脳髄の
根幹と共振し脳が活性化し生命力を高める。

「どうせ我々死ぬのに、なんでこうして生きていなくちゃ
ならないの?」という質問をある所で受けたんですね。彼
は今生きていることに不満を感じているんですね。それ
は、「どうせおトイレ行ってすべてを出してしまうのに、
なぜ食わなくちゃならないの」と同じ論理なんですね。食
い飽きているから言えるのです。頭の中だけで完結してい
ますね。
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三度問われて一度答える。寡黙の人、良し。
口数を少なく、中身を重く。おしゃべりは慎む
会話をするにしても、「何かを話そうと思ったら三回ぐら
い考えて、その上で」
そのことが、自分のためにもなるし、相手のためにも有益
である、というふうに思ったならば、今それを話しなさい
。有益でないというふうに思ったら言うのをやめるべきで
ある。常に心掛けて練習するべきである。
「八正道」という教えの中に「正語」という正しい言葉遣
いがある。その言葉の遣い方が私たちが生きていく上では
とても重要です。ここで「三度考えて」とありますけれど
も、これは、よくよく考えて発言する、という意味です。
普段から口数の少ない人が口を開くと、皆はどんなことを
言うんだろうと興味津々で聞き耳を立てる。この言葉に希
少価値が生じる。「沈黙は金、雄弁は銀」 しかし、まっ
たく口を開かない人はおしゃべりと同様に軽く見られ、人
望を集めることはない。節度のある話し方が大切です。

「まず自分のことを言うんじゃなくて、相手の言うこと
をよく聞きなさい」
相手と会話しながらよく聞くというのは難しいことです。
常に私たちには我の心というのがありますので、自分で
言いたいことを言いたいんですね。だから相手のことをほ
んとに聞くのではなくて、相手が相手のことを話題にして
いますと、それを聞き終わった途端に、今度は自分の話題
、「私はこうだ」「私はこう思う」ということを言いたい
のが私たちです。ちゃんと会話のキャッチボールができて
いないというか、相手のことをよく聞いて、それに対して
答えるということがなかなかできていなくて、そういう会
話が日常多いと思います。 
半分ぐらい聞いたところで、それに対してどう答えようか
な、と考えながら聞いていますから、後の半分なんかよく
聞かない、ということもあります。それからその場でパッ
と答えようとして自分で後から、「あ、あの時はもっと考
えてこう答えれば良かった。軽はずみに返答しない方がよ
かったな」と思うこともあります。
多言閑語する無かれ。不言の徳。

侍者を呵責するなかれ 
目下の者に対する言動や態度で、その人の人格や人間性が
わかります。釈迦「自分が自分を愛するように、相手もま
た同じような考えを持っている。だから自分を愛する者は
相手を害してはならない」
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ストレスのない生活をする。やわらかく生きる。不言の
徳・不争の徳・不害の徳・黙秘の徳・中庸の徳・陰徳の徳

鴨長明はこの世で一番大切なのは心が安らかであるとした
。そのためには執着しないこと。余計なことや理屈を言わ
ない。我をだして論争したり言い返したりしない。気分を
悪くさせない。人の秘密を話さない。何事もほどほどに。
人知れず善い事をする。
天にあっては星の輝き、地にあっては心の律
あなたは「何事も頭・理屈で考えていく人」と「何事も心
・情を大切にしていく人」とどちらが好きですか。
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家庭では和を第一とする。嫁と姑のどちらの味方もしない。
家庭とは心と心が最も近く触れ合うところ。睦みあえば花
園のように美しい。心と心の調和を失うと家庭は破綻する。
本生経。子供にとって親こそ施無畏者(おそれなきをほど
こすもの観音様のこと)安心を与える者です。

女を尊敬できる男
仕事の場であれ家庭生活の場であれ、重要度の高い判断を
するときは、いずれは家族が何らかの影響を受ける。妻は
妻として子供の母としての立場から、自分たち家族にとっ
てプラスになることを考える。男としては考えもしなかっ
た角度からの観察や推測が可能である。特に家庭の問題に
対しては、最終的には妻の意見を尊重したほうが良い。家
のことに関しては、より詳しいからだ。親身の度合いにお
いて妻に勝ることはない。妻であれば、将来の将来まで緻
密に考えて、重要なポイントを徹底的にチェックしていく。
たとえ、分析力や将来を見通す能力が劣っていたとしても、
家族全員の幸運長久を願う気持ちには、洞察力のあるカン
も伴ってくる。目先の得に目がくらんでしまうことはない。
女の観点は男とは違う。自分の信じるところに従って進む
前に、妻という自分の顧問の意見を聞くことによって、バ
ランスのとれた判断をすることができる。身近にある宝を
大いに活用すべきである。

扉を開いておく
自分の個室をもつようになった。個室では自分勝手なこと
ができるし、逃げ隠れもできる。また互いに接触も減り言
葉を交わす機会も少なくなる。同じ屋根の下や職場にいて
も、よその人になってしまう。城の中に城があるようなも
のでガードが固ければ物理的にも精神的にも孤立していく。
オーストラリアに留学したとき、日中は部屋の扉を開けて
おくように言われた。会社でも扉を閉める人とできるだけ
開けておく人の二タイプがある。閉めてあると、入るのに
緊張感が漂う。大部屋には「和をもって尊し」の日本流の
考え方がある。どちらがよいかは仕事の内容や場合による。
扉という物理的な壁を開いておくことによって、心の扉も
開いているから、他人は開かれた心に対して、引き寄せら
れていく。
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心    やわらかく ソフトに
心    やさしく
心    ばからしく、気永く
心    ゆるく、ゆるやかに
心    ひろい大きな
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歴史を学ぶ
賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ。歴史を学ぶと右脳
の遺伝子の中にある人類の英知がよびもどされる。禅や老
荘思想、ブッダの思想、インド哲学のなかには宇宙意識が
書き込まれている。
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●秘伝・超越思想老子と荘子の教え
「無為自然」の「自然」とは天が生命体に与えたあり方の
とおりに生きることで、「無為」はブラブラしているナマ
ケモノではなく、「為にスルコト無し」と読んで「人間の
小ざかしい目的や自分の利益の為に何かをしてはならない
」ということで、無為自然とは「小賢しい計らいをせずに
、己の天性のままに生きたらラクだよ」という教えです。
思考や知識から得た杖を手放し「人間らしく生きたい」と
いう切なる願いを実現する生き方でもあります。人間が他
者や金銭の道具にならずに、真実在の自己として生きてこ
そ「生きた !」と言えます。
老子を受け継ぐ「荘子」は善も悪も、是も非も本質的な違
いはないと説く。世俗の人は「人間の価値観」にとらわれ
てアクセクと生きている。タオ(道)という人知の及ばない
広大無辺な存在「神の価値観」がある。宇宙船に乗ってこ
の地球を眺めたら国や都市、主義や主張、価値観、宗教や
なんやかんや人間の思考自体小さいと気づく。なぜあんな
コトに腹を立て争ってきたのか空しいなあと思う。相手か
らおまえは牛のような奴だ馬のような奴だと言われてもハ
イハイ左様でございますかそれで結構でございますと言っ
て少しも逆らわないのがよい(不争の徳)
真人
死の問題についても宇宙的なタオの立場から見るとつまり
星から眺めると死は単にこちらからあちらに移っていくだ
けのことで、死が近づいたからといって騒ぐことも無いし
慌てることもない。淡々と受け入れれば、それでよい。そ
れこそ真人という神と直結している大達観者である。
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その一[逆らうな]上善水の如し。逆らうと無理をする。無
理をすると長続きしない、破綻する。柔軟性と謙虚さ。我
を出さず、目立たず、でしゃばらず、饒舌でなく、理屈や
余計なことは言わない。人が言ったことに逆らわない。
(不言の徳)。しかし主体性はしっかり確立しておく。つか
ずはなれずということ。交際は水のようにサラサラとして
、ベタベタしない。
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その二[とらわれるな]カタツムリのツノの上で争うような
ことをしない。(不争の徳)あらゆる価値観、主義、宗教に
とらわれない。現実の中で生きながら現実にとらわれない
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その三[発想の転換]同じものを見るにしても裏から見たり
横から見たりする。宇宙船から眺める。小さなことや空し
いことに争ってはならない。無能に徹せよ。あらゆること
に誠意をもって対処。足ることを知り、仏性や無我を体得
し、のんびりと行く。真に自由な人間として万事あるがま
まにまかせ、事物を区別差別比較せず、何ものにも執着せ
ず、変化する外界の事象に順応していく自在に生きる。
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私達はうまくいかない人生に、
①プラス思考で対応、それが駄目な場合は
②超越思考、ブレークスルー恩寵的試練
③最後はアルガママに受容する事で対応。精一杯生きて中
途で投げ出さず、人生の上にドーンと座り込む。老子流。
世の父母がよく口にするように「アルガママニ生きると
あまり出世もしない、お金持ちにもなれない、実人生では
うまくいかなくなる。だから勉強して出世せよ」と。それ
はその通りだが、いろいろやっても一時的には幸せの気分
を味わうが長続きせず再び苦に戻るのである。結局この苦
を受け容れてアルガママニ生きる他に生はない。なぜなら
そこに自我と執着という本能があるからだ。生の根本義「
無為自然」の道で、半ば自分のために半ば公のためにする
心、つまり自分の本当の個性で他者を活かし、自分も活か
される時、「おかげさまで」という感謝と愛の心を持つ神
と直結した「真人」となる。この世の名利を手にすること
はなくても「安心」は得られる、と。
④心は以上ですが、体が受け入れない場合があります。常
にそばにいて慰めや癒しが必要。または自然行や座禅瞑想
などが必要。
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老子は孔子に忠告した。「良賈リヨウコは深く蔵して虚しきが
ごとく、君子は成徳ありて、容貌、愚なるがごとし。子の
驕気と多欲と態色と淫志とを去れ」良いモノは店の奥に置
いてあるように、教養や徳を身につければ、謙虚に表面に
出さないようにするから一見愚のように見える。どうもお
前さんは自惚れて、野心が鼻につく。競わず、自分を自分
以上に見せず、静かに自己を見つめなさい。若き孔子は反
省し受け容れ大成した。

孔子 天命に従い徳を積み仁を極める。仁をなすには孝悌
が大切とした。孝悌の徳とは親孝行であり、年長者に従う
ことをいう。社会秩序を保つには礼を尽くすべきとした。
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「世の中の役に立つ人間になれ」などと言わない。
世の中の役に立つ人間って何ですか。戦争中ならたくさん
人殺しのできる人が役に立つ人間で、現代なら大きな経済
活動をやっている人間がそうです。それって地球資源を浪
費し、エネルギー危機と環境破壊をやっている人です。生
まれつき障害があって人の世話になる人はどうでしょう。
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