TRANSLATION
いろいろな人の言葉を書き留めた私の備忘録です

「考え方」によって政治や経済・宗教・道徳倫理・芸術・行動

・正義観など人間世界が変わる。考えるのは人間だが、そもそも

人間は極めて不完全であり、忌まわしい卑小さを持っている。

その不完全な人間が集まって理不尽な社会を作り、

その理不尽な社会を守るため法律を作った。

だから「法律」はむろん「善なる正義」などではない。

極めて不完全なシステムだ。「真実」はそこでは何の意味もない。

「法律」が目指しているはメカニズムである。自販機でボタン

を押せば飛び出してくるようなものだ。

法律を作ったり実践している官僚や役人には正義などなく

でっち上げに忙しい下劣な税金泥棒と化している。

法曹界を志望している若者には気の毒な転落話だが・・。

ならばマスメディアが正義を持っていると思うかもしれないが

、マスメディアというのは金持ち連中によって所有されており

、彼らは権力者や官僚と同じクラブに所属していて自分たち

の権益や地位が損なわれないかぎり、

でっち上げ以外の何もしない下劣な俗物だ。

マスメディア界を志望している若者には気の毒な転落話だが。

選挙はデモクラシー民主主義の見本だとだれもが考えている。

ただし投票するのは国民だが、候補者は政党組織が選ぶ。

政党組織は莫大なカネを必要とする。カネは誰かが与えていて、

見返りを求められる。

低俗な国民はメディアのプロパガンダによって洗脳され投票する。

この段階ですでに民主主義は変質しており、堕落している。

投票はカネを出す既得権益側つまり特権階級に流れる仕組みだ。

この国の特権階級は、そのへんのツボは押さえており、

卑劣さにおいては下種であり、その中身はカラッポだ。

我欲に満ち忌まわしい卑小さをもつ不完全な人間が作った社会や

官僚機構や警察・法執行機関や特権階級が垂れ流すあらゆる

害悪と犯罪は、国民の不完全さの見返りとして国民自身が

当然支払わなくてはならない代価なんだ。永久に。

不完全な人間を完全化するとは、聖人になるということ。

聖人とは不完全な人間を救済する人。

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ソクラテス「何のために生きるのか」 答え

自分とは何か 
人が死体を見て、それを嫌うのは、そこに本能的に、
「生」への否定を感じるからだ。しかし・・・。 

禅の言葉に生死一如というのがあります。生も死もひ
とつという意味です。
生と死の間に境界があるのでしょうか。今のこの一瞬
一瞬の刹那の生きている時間は過ぎ去り死んでいく一
瞬でもある。生死は融合しています。

死は生の対極としてあるのではなく、その一部として
存在している

つまり座っている椅子の中にも机にも死は存在してい
た。なぜなら、生じたものは必ず滅するというのは「
真理」だから。

それではなぜ私たちは死を恐れるのでしょうか。私達
は生と死は正反対のものだと思っています。生きてい
れば楽しそうなことは何でも出来る。しかし死んだら
すべてが終わり、何も出来ません。だから長生きした
い。死ぬことなど考えたくないと思っています。

しかしこの世は楽しいことばかりではありません。苦
しみの連続です。ガンや心筋梗塞や交通事故で突然あ
の世へ行ってしまう若者も多くなっています。
それにものすごい競争社会です。高校や大学の入試、
学校から帰るより早く塾に飛んでいって少しの余暇も
なく試験に追いまわされています。卒業しても入社試
験があります。
会社に入れば仕事上のトラブル、保身のための上司へ
の追従、へつらい、同輩との仲たがい、さらにリスト
ラの不安。
一人前になってやっと結婚すれば次から次へと起こる
夫婦間のトラブル、子供が成長すれば彼らとの反目、
心配や悲しみ、苦しみや葛藤・恐怖など数え上げれば
この世は苦しいことの連続です。
こんなに苦しくて醜くて愚かで恐くても、死ぬのはい
やです。

それほどまでして絶やしたくない自分
自身の正体とは一体何でしょうか。

それは私の身体、私という名前、私の名声、権力、家
庭、友人、自分の持ち物や家や土地、銀行預金、株券
債券、仕事上の地位、自分の恋人、自分の達成したも
のや知識など「我執」と呼ぶものです。

これらはすべて「自分にとって重要なもの」の中味で
あり、架空の「私という記憶」にすぎません。

そして自分にとって重要でないものは見えない、とい
うか見ないのです。自分にとって何も重要なものはな
い人は何も見えていないのです。ところが、すべての
ものが「生命体」として同じように重要だとしたら、
すべてのものが見えるわけです。例えば自分も他人も
どちらも同じように重要になるです。この時、意識の
変革が現れます。これを慈悲または無我といいます。

この世は移り変わる無常世界ですから、これらの所有
物は死ねば手放さなければならない仮想のものです。
「私の仮想所有」しているものは何ひとつ失いたくな
いにもかかわらず失うという恐怖があります。

恐怖の正体は時間と比較と記憶など「思考」の自己中
心性です。
今生きているがそのうち死ぬかもしれないと怖れる。
そのうちという時間が恐怖なのです。また持っている
状態から失う状態へ、他人は持っているのに自分は持
っていないという比較も恐怖なのです。それどころか
もっともっと欲しい。
そして「執着と欲望」が生まれ、ついには始皇帝のよ
うに、永遠の生が欲しくなります。
しかし、ご存知のとおりこの世のものはすべて移り変
わります。数百年も生きた人はいまだに一人もいませ
んし、地球すら限りがあります。太陽系は数百億年後
には姿を消します。無限ではありません。「思考」を
働かせているかぎり欲望も執着も比較も「時間」に制
約されます。

そこで私達は時間の彼方にあるものを探りたいのです。
この死という破局は、生きている間に果たして知るこ
とが出来るでしょうか。もし私たちが生きている間に、
死がどういうものかを知ることができるなら、私たち
には問題がなくなります。私たちが死を恐れているの
は、生きている間にその未知のものを経験することが
出来ないからです。そして「死ねば終わり」という認
識と違った何かが欲しいのです。

私たちは、いつまでも持続して終わりにならない方法
を知りたいだけなのです。だが持続するものには新生
や創造がないのです。常に新しいものが生まれるのは
持続が途絶えたときだけなのです。
だから新しい何かが生まれるにはそれまでのものが死
ななくてはなりません。「既知」のものに執着してい
るかぎり「未知」のものは理解できません。
「自分の」という個に執着するかぎり「時間」の枠か
らは飛びたてません。ですから死後のことが知りたか
ったら、いま元気なうちに死んでみることです。自殺
しろというのではありません。死んだ時の心の状態を
いま現実に味わってみたらというのです。

全体的な「生」を生きるには既知なる「思考」から自
由でなければなりません。自分だと思い込んでいる「
あらゆる記憶や知識や思考」との訣別です。
肉体的に死ぬ時には自分の財産をそこに持っていくこ
とはできません。だから、記憶している自分の財産を
忘却することはもちろん、自分の知っている知識すべ
てを生において絶たなければならない。
「絶ったと思う」だけではなく本気で真剣にその気持
ちを持つのです。そのとき自分の心の権威である「我
」と手を切っており、個の観念はあり得ません。個の
意識との完璧なまでの別離です。

自己中心性が「自分だ」と思っている自我を没却した
とき、つまり無我のとき、仮構築された現実世界は消
滅し、残されているものは「生命体としての存在」の
みです。
人類全てが同じ生命体となる。それが我を捨て去った
ときの「ありのままの真実の世界」です。そのときは
じめて愛が何か、慈悲が何か、生きとし生けるものの
命が大切であることがわかるのです。

実は、「存続しなければならないと信じている私」と
の決別や「思考によって組合わされた私」や「高邁な
意識が存在すると信じている私」をはじめ、「身体や
名前や記憶など本当の自分だと思い込んでいたもの」
との決別や、「自分に属している様々のもの」との訣
別を恐れているだけだったです。
そのカギは今現在、一切のものへの執着である「我」
を捨て去る「無我」です。この「無我」は完全に全体
と一体になった境地です。

「私」が存在しない「無我」のとき、愛と慈悲心が生
まれます。この意味で愛は仮我の死(無我)であり、死
(無我)は生(愛と慈悲心)なのです。

生死一如。愛の世界に生きたいならば、完全に「思考
の運動が一切ない精神の沈黙している状態」「無我」
と共に生きることです。死を怖れて遠ざけるのではな
く、生と死のきずなを絶ち、生死を超越する時、自我
は終焉する。

我を捨て去るということは無限の彼方にあるように見
えるが、不可能なことではありません。過去に多くの
人がこの境地に到達しています。現在も小乗仏教国で
は多くの僧がいます。

人間は本来無我なのだから、仮構築された自我を取り
去ってしまえば、自分と他者との区別がありませんの
で、死すべき自分というものは、消滅する。ただ無我
といっても、仮構築された個別的自我がないのであっ
て、自己存在そのものが無いのではありません。

永遠の宇宙のいのちの存在を知るには小さな利己心や
自我を捨て去るのが前提です。

そのような「自我の終焉」のなかにのみ、新生と永遠
のものである創造とが生まれるのです。一瞬一瞬を死
と共に生きることによって愛と慈悲と叡智の海に生き
ることができます。

愛は情熱であり慈悲心である。そこは死の恐怖など一
切存在しない境地です。経験したことのない死など怖
れようがないのです。それなのに死を恐れるのは自分
の小さな自我という思考の愚かな働きに他なりません。

個々に分離されていない宇宙全体のいのちが厳然と存
在していることを洞察するには個つまり自我を捨てな
ければなりません。宇宙的立場から見ると、死とは単
にこちらからあちらに移っていくだけのことで、死を
迎えたからといって騒ぐこともないし慌てることもな
いのです。(krishnamurti)自我の終焉
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krishnamurtiは言う。

私たちの頭の中で働いている心理的な「思考」が完全
に停止し、精神が完全に静寂になったとき、私たちに
絶対の「真理」を知ることができる、と。

その大前提として、「自己認識」が必要です。それは
自己の内部で働いている全ての思考や反応や感情の全
体を、性格に完全に知るということです。
この「自己凝視」とは、私たちの中で絶え間なく動い
ている思考や反応や感情を、いかなる判断や比較もせ
ず、批判や非難もせず、また正当化もしないで、ただ
受動的に注意深く見つめることです。またそこから結
果や回答を求めてもいけないのです。

そのとき私たちは意識面ばかりでなく無意識面におい
ても、思考の全体を知ることができるのです。その結
果、「あるがままの真の自己を、あるがままに、全体
として知ることができる」のです。

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「あなたの精神は我エゴと欲と執着で汚染され腐りきっている
。それどころかあなたは死んでいるも同然だ。覚醒せよ!。」

もしあなたがブッダにこのように言われたら、どのように感じ
ますか。「おまえは何様のつもりだ。何をバカなことをいって
いるか。狂っているのはお前のほうだ」と思われたら、ここか
ら先を読むのをやめてください。

私達は朝から晩まで24時間、考え事をしています。人間は考
える葦である、われ考えるゆえにわれありともといいます。
突き詰めると、人間は他の生き物と同じく生命体にすぎない。

しかし他の生き物と決定的に異なる点は「我」を持っているこ
とです。その我によって苦悩が生じる。
考え事つまり思考は現実でも事実でもない仮想妄想の世界です。
その中にいつも心を引きこもらせているなら、生きていないも
同然です。それは自分が作り上げた自分だけの仮想世界ですか
ら。

私達は刻一刻と老いていき、身体は少しづつ壊れていきます。
「年をとる」ことは緩慢に死んでいくことなのです。それは死
をゆっくりと体感していくということです。それを受け入れる
ならば心は安らかなのですが、生存欲本能がそれを受け入れな
いから「髪が抜けた、顔が老けた、肌が荒れた、足腰肩が痛い
」と一日に何回も身体の老化でストレスを感じ苦しみます。

ブッダは身体は汚物の皮袋だと喝破しました。身体の穴からは
次々と不浄物が流れ出る。目やに、耳垢、鼻汁、胆汁と痰、汗
と垢さらに脂肪や血、脳髄、肝臓、腸、骨や骨髄、関節液や大
便小便が身体にはぐちゃぐちゃと詰まっている。

死を受け入れないで「何が何でも生きたい」という生存本能の
ままに生きるなら、いざ死を迎える時、どんなに死の恐怖に苦
しむことでしょう。
他人の死は、自分の心に影響を与えませんが、近しい人の死に
「人は必ず死ぬんだなあ」という厳然たる事実に向き合います。

他人に迷惑をかけてでも自分は得したいという心の暴走を静め
てくれます。
死を超越した時、生存本能というDNAの支配から開放され自
由となります。そのためには、日頃から我を捨て去り、執着か
ら離れる修行をすることです。

さて、現代の物質文明社会の中で、私達はより多くのおカネを
得、地位を高め、豊かに暮らすことが価値ある人間であり、価
値ある生き方だと教え込まれています。
そのために小学校時代からたくさんの知識と情報を詰め込み、
能力と知力の向上のために時間とエネルギーを費やしています。

しかし私達は豊富な物に取り囲まれ、お金を貯め、多くの知識
や情報を得ることによって、果たして幸せになったのでしょう
か。実際は常に不足を感じて、もっともっとという守銭奴か拝
金主義者になって、喜びや充足感をあまり感じません。一日一
日が無味乾燥で単調で、いつも将来に不安を感じています。

金や物や知識をたくさん持てば持つほど、私たちの生き生きと
した生命力は枯渇してゆくのを感じています。一体なぜそうな
るのでしょうか。

その答えを知るためには、私たちの持っている知識や親や先生
の言うことや既成の宗教や道徳や社会常識などからの先入観・
固定観念を捨てねばなりません。そして素直に謙虚に真剣に、
聖人の叡知の言葉に耳を傾けたなら、きっとあなたの人生は根
底から変革してしまうことでしょう。

この世界は美しい。
そして、人間のいのちは甘美なものだ(梵本)
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「如何に生きるべきか(哲学)。
あるいは良い生き方」とは。
答えはありません。

結局「自己の探求」というような、
自己というものをどう考えるかという
ことになります。(ソクラテス)
自分自身を知る、自己とは何か?


皆それを追い求めるが、誰も答えを出せていない。唯一人、答
えを出した人がいます。ブッダです。

自己とはもともとは無垢であるが、内面に自己中心に生きる自
我と我執の無いつまり無我な自己の二面を持っていると説く。

自我の目覚めと共に自己中心の自己つまり自我が強く現れる。
そのため社会は我欲むき出しとなり、人殺しから戦争まで災い
と苦しみの世界が現出する。

現代は強烈な「自我の時代」です。
自己を確立し自己を主張し自己実現するための教育をしている。
この我欲むき出しの社会は現代だけではなくブッダの時代にも
あったわけです。オウム真理教は、この我欲で目がくらみ金の
亡者の群れと化した汚濁渦巻く現代社会を忌み嫌い敵視し破壊
しようとした。

これに対してブッダは自我に強く執着すれば苦しみを作るとし
て、あくまでも人々の苦しみの救済を目指しました。

ブッダは五蘊つまり肉体にはもちろんのこと、意識や認識、意
思、感受作用、思考など表象作用には自己はないと説いた。
この自己は一人ひとりの我執つまり自己愛と利己的な欲や自分
本位の思考(貪瞋癡)に基づいて仮構築された虚構の世界だとし
ました。

それでは真実の自己とは何でしょうか。人は死を間近に迎えた
とき、やっと我であるプライドや意地といったものや欲を捨て
て、執着のない本当の心を取り戻します。ブッダは自我と執着
を取り去ったとき現われる浄化された自己を無我とした。
無我は自己否定や自己放棄ではなく、真実の自己の存在である
としています。

また、個体としての行動は、他から隔絶されている個体が行動
するのではなく、何らかの縁によって相互に関係しながら行動
しているとしました。みな繋がっている自他不二の生命体だと
説いています。ここから慈悲という考えがうまれるわけです。

命の次に大切なものは何ですか?

現代物質文明の社会では財を多く持つ者が価値ある人間
とされる風潮です。しかし・・

3.11の大地震で、これまで私たちが「これが幸福だ」と思
い込んできたものが、実は自己中心で利己的な「脳内」でつく
りあげられた幻覚だった、ということに気づく良い機会になり
ました。
そういった意味では、多くの人がうっすらと「突然、死ぬかも
しれない」ということを実感したと思います。
そして本当の幸福とは、常に欲望を満足させ、快感を刺激する
ということではなく、生のわずらいと死の恐怖からの開放であ
り、苦や悩みがなく、心が安らいでいる穏やかな状態こそ幸福
であるという価値観の転換へのチャンスをいただいたのです。

なぜ人生では悩みがあるのか?

結論から言うと、すべての形あるものは変滅し(無常)、自己の
思いどおりにならないにもかかわらず、自我がものごとに執着
し、何とかしようとするから苦しむわけです。 

死の恐怖は克服できるのか?

死の恐怖は人生最大の克服すべきテーマです。なぜ死の恐怖が
起こるのか、なぜ死が苦しみなのか、ブッダは苦悩しぬいて出
家修行し、ついに一つの結論に達しました。

人間存在の根本には、やむにやまれぬ妄執があり、それがつる
草のようにはびこって、心(人格)を形成しているというので
す。したがって、その妄執を打ち砕いて、心を清らかにしなけ
ればならないと説いた。そのための修行が「執着からはなれ自
己を浄化する清浄行」です。

「生き方の善し悪しがあるのはわかるけど、死に方にも善し悪
しはあるのですか」--ありません。人間は自然に死にますから
。善く生きるためには努力が必要です。しかし死ぬためには努
力をする必要はないのです。ただ死ぬ。それだけです。
いい死に方をするために実践すること

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有名な哲学者カントは言った。「人間は、その祖先の類人猿と
同様、利己的で邪悪な存在である。自分の利益ばかり考えてい
る人間が作ったのが国家です。だから戦争状態は自然な状態で
あり、国連があっても戦争をなくすどころか、終わらせること
さえできない。
そして平和など永遠にこない。理性的な倫理や道徳が栄えない
限り、法律で人間を縛らなければならない。しかし個人の間に
は法律があっても、国家間には法律がないから、たとえ平和条
約を結んでみても、それは単なる戦争の停止状態にすぎない」。


ユングは、40歳を境にして、それ以前を「人生の前半」、以後
を「人生の後半」と呼びました。そして「人生の前半の課題は自
我を確立することであり、後半は個性化の過程を進めていくこと
である」と言う。
私たちの心には、自分で意識できる領域と、自分では意識できな
い領域があります。前者を「意識」、後者を「無意識」と呼ぶの
ですが、ユングは「意識」の中心を「自我」と呼んだのです。

「自我の確立」とは、自分と他者の境界線を明確にし、他者や世
間に振り回されることなく、自分の気持ちや欲求を大切にするこ
とによって、自分の頭で考え、自分の意志で判断し、自分の責任
で選択する主体としての自分を確立するということです。

後半の課題である「個性化」とは、その自我を、高次の全体性へ
と志向せしめる努力の過程を言い、人生の究極の目的と考えまし
た。
つまり、それまで無意識化に抑圧してきた自分の中の対立する要
素を統合し、それらを調和的に働くようにすることです。なぜな
ら、無意識の部分は意識と対立するからこそ無意識の中に追いや
られていたのであり、簡単に意識の中に取り込んだり、意識と並
行して生きたりすることのできないものものだから、「個性化」
(自己実現)は非常に困難なことで、相当に強い自我が確立され
ていてこそ可能になる、とユングは言っている。これに対して、

ブッダは、我執を捨て去り、自我を超越し、自我を没却したとき、
無我になるといい、無我こそ悩みや煩悩から離れた涅槃だという。
無我は自己否定や自己放棄ではなく、自己を捨て去って無になる
のでなく、自己の命が尊いからこそ他者の命も同様に尊重するこ
とをいいます。無我は自他同一(慈悲心)であり、真実の自己の
存在であるということです。

無我は、自己受容を深めるものものではなく、選択する力を養う
ものでもなく、また、自分の人生を最高の物語にするわけでもな
い。
唯、無我こそ人生を映し出す鏡となり、無垢なる心の底で認めた
ものが現実化し、心の波長と同類の出来事が引き寄せるのです。
心の穏やかな生き方、つまり幸福をつくりだすものです。
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生の核心人は如何にして自分自身を知ることができるのか

ふつう私達は、自分の快感に従い、条件付けに従い、あるいは自
分の夢など理想主義的な見地に従い、常に物事を部分的に断片的
に見ている。生をひとつの全体的な運動として観察してごらん。
瞑想や座禅によって、私の中身である我の意識が終焉するとき、
まったく別個のものが現れる。そこにはどんな幻想もない。精神
の状態は完全に無となっている。そこに存在するのは「空」と「
沈黙」です。空は、あらゆるエネルギーの集約です。私という意
識である「我」が存在しないとき、慈悲心が生まれるのです。
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思考が作り出すこの不安定なもの

ブッダは説く。「森の中で飛び跳ねる猿は、一本の枝を掴んだ
かと思うとすぐに手放し、また別の枝に近づいて同じことを繰り
返す。弟子たちよ、思考や認識というものは、この猿と同じよう
に、際限もなく形をなしては消えていく過程を繰り返しているに
すぎない。」

私達は朝から晩まで24時間、考え事をしています。考え事つま
り思考は現実でも事実でもない、仮想妄想の世界です。ゆえに目
の前の風景や風の音や鳥の声だけでなく人の表情まで明確に認識
できなくなったり、食べていても素材の本来の味を味わっている
という実感が抜け落ちてしまうほど、しっかりと生きているとい
う充足感が欠落しています。

つまり人の話を聞いていても一秒間
に0.9秒は「相手がどう思っているか」などという思考や過去
の雑事の残響で五感が鈍りぼんやりしているのです。60分なら
54分。多くの方が年をとるにつれ「最近は年月が早く過ぎて行
きますねえ」と言います。この原因は「思考」という現実に直結
しない妄想にふけった報いとして、実感がスカスカになっている
からです。現実の情報が蓄積された「思考のノイズ」によってか
き消されたからです。そしてこのノイズのほうが、現実感に完全
に勝ったとき、「ボケる」のです。

新しい現実が全く認識できなくなるためです。これを仏教では
「迷い・無知」といいます。無知というのは頭が悪いということ
とは違います。今、自分の脳内でどのような思考が働いているか
を意識しているのか知らないという意味です.
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思考という知性は知識や論理で生と死の関係を見つけようとし
たり、持続するものと終焉にあるものとに橋をかけようとしてい
る。人々は、架空の世界をさまよい生きる。

思考を離れ、無我である「あるがまま」を直視し、認識して淡々
と受け入れればよいのです。そのとき、同時に人は別の清らかな
精神の質を見出すでしょう。人は活力とエネルギーに満ち、可能
性に満ちた生を生き、注意深く生き、この世の美しさを見、そし
てその終焉を見ることができるようになる。
だから肉体的な死の前に本当に「生きる」ということは、「死と
共に生きる」ということになる。

人は、自分の得たものすべてが絶えず終焉していくような生を生
きていくこととなる。私たちが一日一日、古くなった全てのもの
に対して死んでいくときのみ、新しいものつまり創造や未知のも
の、永遠であり、真理であり、本当の「神」が生まれることがで
きる。自分が世界であり、世界が自分である。そのとき真実在の
自分が神です。思考が作り出した既成の宗教の神は時間的なもの
であり区別されており幻想であったことがわかる。

恐怖や悲しみなどの本質である「思考」は過去から生ずる運動
であり、時間的なものであり、測りうるものである。測りうるも
のは測りえないもの、つまり「真理」を見出すことは絶対にでき
ない。もし、過去の運動である「思考」が作り出した既知の宗教
や教会や寺院や既存の神にしがみついているときには、恐怖はな
いけれども安定もない。

「思考」にはどんな安定もないと知って「思考」は未来の理想的
状態を投影して安定を見出そうとする。しかしそれは幻想の中に
生きていることになるだけです。思考が宗教や神やイデオロギー
などを作り出そうとするが、その中には安定などないという真理
を見るとき、その見ることが「叡智」であり、その叡智があると
き思考は終わる。叡智は愛であり慈悲であった。

そのとき、あなたはこの不安定な世界に住んでいるにもかかわら
ず、この世界の外にある違う次元・領域にいる完全なるアウトサ
イダーです。そして、日々刻々自分がつかんでいるものと訣別し
ていく時、自分の意識の中身を空っぽにしたために、時間が一切
なくなったことを自覚する。時間が終焉する。それが「死」です。

汝自身を知れ、さすれば神と宇宙の謎を知ることが
できる。ソクラテス。

汝自身を知れ。自己内洞察をせよ。自分のハートに耳をかた
むけなさい。あなたは自分のハートの鐘を鳴らしなさい。無
垢な自分の直感を信じなさい。あなたは他人が作った既成の
道を歩いてはならない。あなたは自分が歩くことによって道
を作らねばならない。それはあなただけのものであって他の
誰のためのものでもない。空を飛ぶ鳥が後から来る鳥のため
に痕跡を残さないのと同じようなものだ。

鈴木大拙
娑婆がエデンの園そのもので、エデンの園がわれらの日常生
活そのものだというところに目覚めないでは、宗教を語る資
格はない。「空」は空空寂々の空ではなくて、森羅万象、有
耶無耶が雑然としていて、無尽に縁によって繋がっている所
です。現世のこの限られた自分の生が、そのまま永遠の生に
通じているのです。とにかく、「空」を時間の上から解釈し
て「即今」という。ただいまココニ、只今、herenow
である。だから「即今」を手に入れなければならない。この
「即今」が「無限」そのものだと悟るとき、「ゼロすなわち
無限」の式が成立する。アッという、この一瞬が直ちに無限
の時間そのものであると気づくとき、東洋思想の根本にふれ
ることが出来る。 
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真実在の自分 another myself

人間が「時間」を所有・支配しているわけではない。逆に「
時間」こそが人間を所有・支配している。だから「今の時間
」こそが「存在」であり、「真実在」としてちゃんと手元に
押さえておかなければならない。釈迦が新入りの僧に常に語
っていたと言われる言葉に「いつも自分の一瞬一瞬の思いや
行動に気を付けていなさい」がある。この教えは簡単で単純
なようでいて、奥が深い。つまり、自分の行動を見ている「
もう一人の自分」を作らなくてはならないからである。煩悩
や欲で動く自分を仮に「自我」とみると、もう一人の自分と
は「真我」となる。「真我」を出現させたなら、その人は「
父母未生以前の我」となり、無我の人である。

存在するものは無常(移り変わる)である。無常であるから、
人はそれを苦と感じる。苦であるようなものは「真実の自己
(真我)」とはいえない。苦と感じる自分自身(自我)が真実の
自己でないのだから、存在するものは真実の自己に属するも
のでもない。こう悟ってくると、存在するものを厭離する気
持ちである解脱が起きる。こうして存在するものから解放さ
れ、執着心がうすれ、真実智が生じる。つまり真実の自己で
ある「生命体」がのびのびと生きるようになる。

「覚醒」した人が、この世界を生命体の集まりとして「慈悲
」の光に導かれて、生きとし生けるものすべてに「命を大切
にする」ことや「平等」な真実を持っていくのに対して、覚
醒していない人は「思考」という反射光によってこの世を見
る。つまり人間は「思考」という妄念にさえぎられて「真実
在の自分である無我」という本質を実現出来ないでいる。「
思考」は物事を分離的・対立的に相対的・二元的・対立的あ
るいは区別・差別してとらえる。生と死、是と非、善と悪、
愛と憎など作為をもって物事を二元的に見る。その時に煩悩
・苦悩が生じる。
「宇宙のいのちの働き」である「本来の真実」を自覚し、も
のごとを直覚的に一元的にみつめる時それらの束縛から脱す
ることができる。

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世の中は行為によって成り立ち、人間は行為によって成り立
つ。人々は無執着で無欲な人を精神的指導者と呼ぶ。生まれ
によって尊いのではない、無執着で無我の行為によって崇め
られる。一切の悪をなさず善をなし、ただ一途に心を清める。
心はくるくると揺れ動き、ざわめき変転し、欲するがままに
おもむき、制御し難い。心を治めることは善いことである。

心を治めたならば、安楽がもたらされる。目的地は安楽の境
地であり、苦の克服である。どう心を治めるかの答えは清浄
行に帰ってくる。妄執我欲の克服は自己浄化の道であり、善
悪の基準は実践より生まれる。真理はひとつであって、第二
のものは存在しない。真理を知った人は争うことがない。あ
らゆる事柄を断定したり固執することもない。真理を知った
人には論争は全く無意味であり、論争そのものを超越してい
る。ゆえに心の制御はひとえに人の心の姿勢にかかわってい
る。ものごとは心にもとづき、心をあるじとして、心によっ
て作り出される。清らかな心で話したり行ったりするならば
、安楽はその人につき従う。影が体から離れないように。す
べては、心の持ち方、心の姿勢の問題である。

悪をあなどってはならない。清浄行は人間の生き方の基本と
いっていい。悟りとは因縁の道理であり、現実とは個人の欲
望のつくり出した虚構の世界にすぎない。人間の本能の生存
欲から立ち昇るさまざまな欲求願望によって、人間は自己中
心の世界を構築している。この世界像が偏狭的で利己的であ
ればあるほど争いが起こる。犯罪・人種差別・不当な収奪・
戦争や殺人まで起こる。これが「現実」の世界というものだ。

したがって我々は「ありのままの真実の世界」を見てはいな
い。この自己の中核である生存欲からくる妄執渇愛によって
執着が起きる。この「執着」を打ち砕けば、自己中心の世界
は消え去り、悩める自己は消滅する。自己が消滅すれば、執
着欲望によって構築された現実という仮想世界は壊滅してし
まう。その時ありのままの「真実」の世界があらわれる。

つまり世界には現実の世界と真実の世界がある。真実の世界
は無我であり、無我は自他不二であり、不生不死である
執着が無くなるときなぜ不生になるかというと、自己とは妄
執と執着によって仮構築された現実世界の自己であり、妄執
の中核を打ち砕けば自己は消滅する。自己が消滅すれば現実
世界も壊滅してしまう。そこには有るとか無いとか分別した
世界はなく、自己は無限定な存在となるから出生もなくなる。
出生がないから老死もない。
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思考の中には愛はない OSHO
●思考とは過去の経験である知識を使って推論することです。
受験などで「頭のいい人」というのは過去に解いた問題のパ
ターンや覚えた公式や解き方の中から使えるものを選んで解
決する能力のある人のことです。

●自分ひとりだけの思考であるから、自分中心の思考になる。
独りよがりの利己的な結論となる。自分が損をする思考には
ならない。

●人は普通、自我の働く心理で「思考」によって評価、判断、
比較、批判、結論をしている。その限りにおいて「きづき」
もないし「感受性」もない。その人は「愛」もなく「生の動
き全体に目覚めること」もなくただ鈍感に生きるだけです。

たとえば人に無礼にあたり、花を摘んで捨てたり、生きも
のを粗末に扱ったり、木に名前を彫ったり、平気でものをこ
わしたり、誰かがつまづけばあざ笑ったり、人をいじめたり
怒ったりする。確かに思考から作り出された信仰や主義や道
徳の中にはみせかけの安心がある。しかし、それらの集団の
悪しき論理が新たな悲惨と混乱と苦悩を生み出すのです。

人は思い出や経験・愛の体験に幸福を見出して過去に執着す
る。若者は現在に執着します。つまり私達はなにか安定した
ものにしがみつきたいという不安があります。ただ、思考に
よって「愛とはなにか」という問題は解けないし、愛をはぐ
くむこともできません。人間は思考によって社会をつくりあ
げました。ですからそこには愛はないし安心もないのです。

人間の根源的な望みは安心・安定です。安定を追い求める安
定志向こそ悲惨と混乱と無秩序の原因である。

●「覚醒によって洞察」すれば「愛」は感受性であり情熱で
あり慈悲心であり創造である。亡びゆくもの、太陽や地球や
花や生き物や人間にたいする限りないあわれと愛おしさを感
じます。思考による知性しかなければこのことに気づいたり
、愛の意味を知ることはない。

自分の中の不安や苦しみや悲
しみから離れないで、苦しみを「あるがままに」観察すると
き、人はたぐいまれな劇的な心理の変容が起きる。それらが
感受性、情熱、慈悲心だということが「叡智」によってわかる
。心に愛がなければ醜い人間であり、それも度を越して醜い
のである。しかし愛は恐怖の前ではすぐ消失してしまう。
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思考とは服従 思考がつくりだすものは服従を求める

●過去は記憶である。記憶の働きである思考は経験・過去に
限定される。つまり有限である。自分の思考に頼れば当然自
己中心的になる。未来は現在の延長線上にあるのではなく、
現在の一瞬の後に過ぎない。過去何万年もの進化の結果が今
の人類の頭脳である思考を作りあげているから、自分の意識
と思っていることも人間全体の思考でもある。

だから、社会
や世界で起こるいろいろなことの責任は自分にもある。つま
り、自分が変わらない限り自分の周りも変わらない。大きな
海の水面の波である恐怖や権威や体制や宗教や主義など、人
間が思考によって作り出したすべてを叡智によって理解した
とき、「思考」はその中に入ることはできない。その意識の
次元には、完全に神聖で永遠なるものがあらわれる。つまり
、思考によって作り出されたものは不完全で有限だったこと
が洞察できる。

●たいていの人は人生上の諸問題つまり政治的社会的、宗教
的、主義的な問題に不満をもつようになる。が、既得権益を
持つ者や主義者、宗教者、政治家や組織がつくりだした社会
の種々のワナや法や恐怖、あるいは自分が作りだす罠によっ
て不満の炎は消えていく。社会のワナとは「現実世界のリア
リズムの中では理想論をいってもそれは夢のようなものだ」
。自分の罠とは「覚醒とか叡智とかそんなキレイゴトでこの
世間は渡れない。矛盾・葛藤(ギャップ)はなくならないも
だ」など言って、服従を価値あるものとして自分の監獄をつ
くりあげる。

●世間の人は皆優れた他人と劣った己を比べて非常に苦しん
でいる。比較は「あるがままのもの」を「あるべきもの」や
「あるかもしれないもの」と比べることによって生じる。こ
の自分を苦しめる「比較地獄」とは自作自演のドラマだ。こ
の比較地獄から脱出する鍵を誰もが自分の心に持っている。
その鍵でガチャリと監獄の門を開ければよいのだ。そこを出
ればタヒチやクック諸島のようなどこまでも続く青天井、青
海原、広大無辺な世界がある。

覚醒によってものごとを洞察するとき叡智が生まれる。叡智
の炎は人間がつくりだしたそれらの罠をすべて「放棄」する
。放棄したとき、その鍵がさがしだされる。その鍵とは「無
私と執着を捨てた創造」である。

●われわれは誰もが悩みや苦しみをもっている。すべての苦
しみから人は自由になることが出来ようか。長い間の進化の
結果が今の人間の頭脳になった事実を直視するならば頭脳は
人類全体の頭脳と言える。知的所有権も人類全体のものだ。
つまり、苦しみや喜びや悲しみなどの意識は人類全体に共有
されている。「自分は世界であり世界は自分である」。もし
あなたの意識の中で苦しみから自由になった時、その自由は
意識の変革を引起こし、その変革の影響は人類全体に及ぶ。
それこそが慈悲心の核心である。

●苦しみがあるところではとうてい愛することはできない。
苦しみとは自己中心的な存在である「我」の表現です。もし
「我」が存在しなかったら苦しみも無い。つまり叡智は「無
私・無我」に到達する。その時、あなたの精神は真に自由と
なる。「叡智」こそ「慈悲心」だった。それは「思考」の産
物ではない。思考をもって行動する抜け殻の自分に対して、
その自分を見ている叡智を持つ「真実在の自分」こそ本当の
自分であり、慈悲心の所有者である。

このままでは環境破壊や核によって、世界的な科学者たちが
指摘するように、早ければ百年以内に絶滅危機にある人類の
ために、世界が変容を遂げるにはあなた自身の変革に責任が
ある。この社会、文化、文明、教育システムは「服従」を価
値あるものとして主張してきた。人類を絶滅危機の真っ只中
に放り込んでしまった不幸は、この「服従」なのだ。そして
基本的に存在している「徳性」である愛に導かれた、あなた
の変革によるしか人類存続の道は無い。あらゆる主義者や既
得権益をもつ者や組織から服従を放棄するとき、新しい夜明
けがはじまる。

●わたしは人間の生活に思考が不必要だと言っているのでは
ない。思考がなければ何をすることもできません。ただ、自
己中心と結びついた思考は世界に混乱と悲惨さをもたらす。
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永遠なるものは存在するのか??
そもそも、人々は宗教や国家が永遠であるとか、霊魂や地球や
銀河が永遠であると思って自らを慰めているが、実はそれは怪
しい。なぜなら現代科学は永遠に不滅なものを何一つ発見して
いない。素粒子や宇宙空間に存在するものすら、不滅ではない
。数百億年の未来には地球も太陽も消え去っている。要するに
われわれは「無常」なのだ。
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人生に意味などない。
人間はたまたま生まれてきただけです。年をとって徐々に衰え
ていき、ついに寿命をむかえて死んでいくだけです。ただそれ
だけの話で、そこに意味などありません。

「我々には天から与えられた使命がある」とか「人生には深い
意味がある」とか刷り込まれて、多くの人が人生には絶対的な
意味があると思わされてきただけで、そんな証拠はどこを探し
ても見つかりません。「そんなことはない。私には目的がある
」と反論される方も、目的の中身を調べてみると、意味などな
いことがわかります。

例えばお金をたくさん稼いで家を建てることを目的とします。
家を建てて目的達成しても、家はどんどん壊れていきます。出
世して社長になって目的達成しても、いつか退職します。
このように、世間で生きる意味とか目的とか呼ばれているもの
は、単に生きているからやっている時間つぶしにすぎません。
生きているから働き、家に住み、人と付き合う、ただそれだけ
です。自分を自分だと認識する「自我」が自分を特別にしてい
るだけなのです。

生まれてからどんどん年をとって、結婚して、子供が生まれて
、一生懸命育てて、大人になって独立して家を出ていくまで面
倒見続けます。そして気がついたら自分は老いて、死にます。
どう生きても最後はゼロです。そこにも全く意味はありません
。その人は価値ゼロで死にましたということです。
アルボムッレ・スマナサーラ

あなたは世界であり、世界はあなたである。
私たちの人生は、誰にも顧みられることのない束の間に開花し
て終わるひとつの生命のモニュメント記念碑です。私たちの人
生は、無駄で、無意味で、無価値です。無駄だけれども、少な
くとも生命が輝くような無駄でありたい。銀河の一隅で、歴史
の一瞬において、閃光のように生命が輝くような無駄にしたい
。自分のために後世に残すための生命の記念碑を建てる必要は
ありません。なぜなら宇宙そのものがすばらしい生命の記念碑
なのですから。
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分離と区別が平和を奪う

人間が平和に生きられない原因は「分離と区別」の思考に
ある。「人は私の土地、あなたの土地、アメリカの大地、フ
ランスの大地と言います。しかし大地は大地なのです」。
この言葉は強烈です。宗教間の分離、区別は最もひどいもの
です。殊にキリスト教やイスラム教は他の宗教を全く受けい
れません。民族主義、国家主義、共産主義、民主主義などイ
デオロギーはどれだけ人を殺したことでしょう。

平和は宗教家、政治家、主義者を通しては決してこの世に
もたらされることはない。平和は自分の「思考」があるかぎ
り不可能です。平和主義者が平和を求め叫び、「平和は武力
によって得られる」と叫ぶ現実主義者を非難する時、新たな
対立が生じ、争いが起こる。平和を求めれば求めるほど、平
和から遠ざかる。

我々の諸問題は解決しようと試みることで
は決して解決されません。解決へのあがきを捨てさり、自己
中心を振り切り、完全に静寂なる時に悲しみは消え、そこに
愛と慈悲の平和な世界が生まれる。一人一人が「自我を捨て
てあるがままの無我なる真実の世界」を見るなら、言い換え
れば「覚醒」した時、人々は平和な愛の世界を見ることがで
きる。
釈迦・老子・ソクラテスがなしたような洞察をする。その時
、一切の価値観・思考から開放された行動が即座に自得され
、はじめて間違いのない生き方が可能になる。
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自由
オーストラリアのアボリジニは柵を持たない文明を17世紀
まで維持していた。彼らは根っからの自由人だった。好きな
ときに好きなところに行って好きなことをすることができた。
彼らの人生は歩き回ることだった。
ところがイギリス人がやってきて、家畜を入れるための柵を
作ったとき、彼らは柵が何を意味するのか理解できなかった。
柵の原理を理解できないままに、イギリス人によって反社会
的な存在として荒野に追放された。
この世界では結局、高くて丈夫な柵を作るものが有効に生き
残れるんだ。

まず最初に個人があった。個人は好きな土地に住み、好きな
ものを食べ、好きなところへ行き、好きなように過ごした。
それから、国ができて境界を作った。国は巨大な力を持ち始
め、個人を圧殺しだした。国家がその名において、何百万も
の無辜の死を強制した。
国は個人の集積である。個人がいなくなれば国はなくなる。
人間の規範は個人が優先する。国家は個人に従属する。それ
を認めない国家は維持するに値しない。国家は無辜の死に対
して何百万回も死ぬべきだ。

世の中の人は自由なんて求めていない。求めていると思い込
んでいるだけだ。幻想だ。もし本当に自由を与えられたら、
困り果ててしまう。実際には不自由がすきなんだ。

権力者・既得権益者は思う。「人間には真の自由というもの
などない。誰でも社会や国の制約を受けるのだ」。

ソクラテス「一番大切なことは単に生きることではなく、善
く生きることである」。『クリトン』
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服従
 「服従は権威・イデオロギー・恐怖を必要とします。私達
は恐怖で怯えています。生きることを恐れ、失業を恐れ、隣
人を恐れ、夫や妻を恐れ、権力を恐れ、死を恐れます。恐怖
の中には智慧と愛はないのです。先生や社会の言うことに順
応するのは簡単な方法ですが、恐怖と心の腐敗があります。

既得権益をもつ者や官僚や主義者は服従を要求します。彼ら
にとって自由な個人は許せないのです。彼らは戦争や競争に
よって新たな権益をつくりだします。これは歴史における最
も醜い現象です。まず教育システムにより知識のみで智慧を
もたない奴隷ロボットを作り出す。奴隷ロボットは彼らの命
令により3分間で何十万人もの女、子供、老人を殺しました
。原子爆弾を一瞬ですら「なぜ罪もない人を」と考えること
もなく機械的に落とすのです。

服従こそ、この悲惨の原因です。あなたが服従して偽善者と
して生を生きるとき惨めと苦しみが押し寄せます。あなたが
輝かしい生を創造するのはこの地上においてであり、聖職者
の言うような死後ではない。今この瞬間なのです。服従を拒
否することは何千年にもわたって必要とされてきました。あ
なたが服従をやめ、牢獄から脱出し新しい人間の誕生を宣言
するとき、生のとてつもない偉大な意味や存在の美しさや情
熱に満ちたものに触れ、あなたにとって世界は輝くすばらし
いものへと変容するのです。 
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キリストは言った。「この世は橋である。渡っていきなさ
い。そこに棲家を建ててはならない。愛をもって、ただ過
ぎ去りなさい」と。生は不断の連続体だ。向かうべき最終
の目的地などない。巡礼そのもの、旅そのものが生だ。ゴ
ールもなくただ踊りながら続けていく。何も気にかけずに
歓喜に満ちて進んでゆく。その男ゾルバのように。 
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幸福
どんな征服も憎しみを生む。敗れた者たちが不幸に見舞わ
れることになるからだ。あらゆる勝ちや負けの考えを捨て
去って、我執を捨て去り、心穏やかに平静に生きる者だけ
が、いつまでも幸福でいられる。

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強さ
勝負における強さではない。外からやってくる力を受けて
それに耐えるための強さ。不公平さや理不尽さや不運や悲
しみや誤解や無理解や差別に対して静かに耐えていくため
の強さ。生きていくための強さ。柳の木のような強さ。

覚醒せよ
覚醒とは有為や無明世界から醒めることである。醒めるとは
夢理想や目的を追い求めている行為を発見することです。空
海は「有為の奥山今日越えて浅き夢見し酔いもせで」と言い
ました。有為とは「なすところあり」といい、理想や目的を
追求するとき自我があらわれます。自分が「現在」に生きる
のではなく、未来の世界に移り住んでいる意識状態をいいま
す。人はこの無明という仮想世界で夢を見ているか酔っ払っ
ているような、果てしない欲望の狂気の中で生きています。
未来のことを考えることは一向にさしつかえありません。そ
れを考えている自分を観察しているもう一人の自分に気がつ
いてる限りにおいては。

これが理解できれば人ははじめて二つの世界、現実世界の有
我と真実世界の無我の間を行き来できる。つまり、覚醒し、
不幸から抜け出せるのです。不幸とは、だれのせいでもない
、自分が作り出した幻想で苦しんでいたのです。これがわか
れば、苦しみは解決するのではなく消滅してしまうのです。
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そこで覚醒の第一に「自分とは何か。自分は何を望んでいる
のだろうか」と自己凝視、自己内洞察して自分自身を問いた
だす必要があります。自分は何か。自分をみつけなければ
なりません。自分に何か与えてくれそうな人には、
丁寧にペコペコしますか。そうでない人には冷淡ですか。目
下の者には口のききかたや態度が丁寧ですか。それとも見下
しますか。召使ならば注意すらはらいませんか。重要な人が
入ってくるときは立ち上がりますか。尊敬しているからでし
ょうか?それとも実は恐怖からだとあなたは認識できますか
。自分は地位や権力や金力に追従する卑屈な人間ですか。自
分を知らない人間は非常に愚かです。死体が運ばれ燃やされ
ていく時、高い地位の人が入ってくる時、重い荷物を運んで
いる女の人を見る時、落ち葉が落ちる様を見る時、人が喧嘩
をしている時、それらのときに自分自身を観察しましょう。
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第二の覚醒は「無我とは真実在の自己であることを理解する
」ことです。自分の意識の中に「私」がいなくて、もう一人
の無垢で大らかで清らかな心を持っている自己に気づい
た瞬間こそ覚醒です。人の話を聞いたり読経、礼拝や学問に
よって覚醒することはありません。

「平和は無我によって生じる」。平和は国家や宗教や民族主
義やイデオロギーや政治や科学によっては数千年このかた世
界にもたらされてはいません。我々の諸問題は解決しようと
試みることでは決して解決されません。解決へのあがきを捨
てさり自我を振り切る時、悲しみは消え、そこに愛と慈悲の
平和な世界が生まれるのです。
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第三の覚醒は「真の自由たれ」ということです。過去の既知
の知識や価値観によって、つまり他者の代弁者として生
きていることは、他人を生きていることになります。釈迦が
説いた「自灯明で修行」して覚醒し、「真の自由」の
世界に飛び出さなければなりません。「自己」とはわが人生
の舵をとる人のことです。自己は自分の唯一の指導者です。
大切なことは自己を他のもの「例えば他人や集団や組織や主
義や宗教や金や快楽」に委ねてしまわないことです。他に頼
るならば他力という全面依存と引き換えに自由を失ってしま
います。自己内洞察をして覚醒することが大切です。
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