アンビバレンス

————きっかけは、1本の電話だった。

 

 

『312号室の上原多香子さん、上原さん。お電話が入ってます、管理室へいらしてください』

「あれ?」

 寮内に響く放送に耳を傾けていた島袋寛子は、思わず声を上げる。

 寮は基本的に電話は呼び出しである。かける場合は公衆電話————今はPHS等を持っている人の方が多いというのに、中等部では持ち込み禁止である————となっている。

 既に夏休みに入って10日余り。普段は騒がしい寮内も、残っているのは中・高等部あわせて百名もいないだろう。高等部3年ともなると、色々と補習や予備校などに通っているらしく、思ったよりも人は多かった。————しかし、中等部はそのうち15名程度であるが。

 多香子は今はバスルームである。寛子はドア越しに電話があったことを告げようとしたが、思い直してベッドに戻った。

 重大な用があったらまたかけてくるだろう。

 それが寛子のモットーであった。

 

「多香ちゃん、さっき放送入ったよ」

 風呂からあがった多香子に寛子は告げた。濡れた髪をがしがし拭きながら、多香子は怪訝な表情をする。

「・・・・・・あたしに?」

「うん」

 ベッドに寝転がりながら雑誌を読んでいた寛子は、顔を上げずに答えた。濡れ髪の多香子は妙に色っぽいにだ。そんな美人を真正面から見られるわけなかった。

「いつ?」

 寛子は枕もとにある時計に視線を向けると、

「う〜〜〜ん、30分ぐらい前だと思うけど・・・・・・多香ちゃんの風呂入って直ぐだったから」

「————そっか」

「用があったらまたかけてくるんじゃない?」

「そだね・・・・・・でも、とりあえず、管理室行って来る」

 濡れた髪をひとつに束ねると、多香子は足早に部屋を出て行った。

 パタパタと遠ざかる足音を聞きながら、寛子は雑誌をパタンと閉じる。そして、仰向けに寝転がるとぼんやりと天井を眺めた。

————明日は何をして遊ぼっかなー。

 夏休み前に交わした約束通り、休みが始ってからずっと遊んでいる2人であった。

 もちろん中学生だし、お小遣いだって少ないから、遊ぶと言っても限られているが、それでも一緒にいるだけで楽しかった。

 絵理子は父親の下で休みを過ごしてから、仁絵の所に遊びにいくらしい。昨日連絡があった限り、一人で退屈しているらしいから、早々に仁絵の元へといくのだろう。仁絵はもちろん、実家に帰っていた。

 遊園地でもいいよなー、でも、買い物もしたいし・・・・・・。

 そんな事を徒然考えている寛子の耳に、ドアが開く音が届く。

「お帰り」

 起き上がった寛子の目に、むちゃくちゃ複雑な表情をしている多香子が映った。

「ど・・・・・・どしたの?」

「う・・・・・・ん」

 前髪をかきあげながら、困った表情で寛子を見つめた。

 可愛いよ————!!

 どきりと寛子の胸は高鳴った。こういうふとした時に見せる、無防備な表情が本当に、本当に好き。

「多香ちゃん?」

「————うん」

 寛子のベッドにぽすりと腰掛けると、はぁっと息をついた。寛子はその肩をきゅっと引き寄せる。

「誰から?」

 寛子の問いに、多香子は小さく小さく答えた。

「————母さん、だって」

 複雑な表情の意味が何となく判った。多香子は複雑な事情があって、家に帰りたがらない。しかし、その事情を多香子の母は知らないのだ。————大方、帰ってこない理由を問われるのだろう。

「そっか・・・・・・」

「————どうしよう、寛ちゃん」

 寛子の胸に凭れながら、多香子は呟いた。濡れた髪を撫でながら寛子は囁く。甘い香りが鼻をくすぐる。

「・・・・・・帰りたく、ないよね」

「うん・・・・・・」

 その囁きに多香子は頷く。————そんな時、2人の耳に放送が届いた。

『312号室の上原さん、上原多香子さん。お電話です』

 どうしよう?

 多香子は情けなさそうに寛子を見上げる。その表情は、胸がぎゅうぅぅぅっと締め付けられる程、可愛くって可愛くって、寛子はその頭をぽすぽすと叩いた。元気付けるように笑顔を見せる。

「行っといで」

「・・・・・・うん」

 小さく息をつくと、多香子はベッドからゆっくり立ち上がった。そして、寛子のブラウスの袖を————寮内はクーラーが効き過ぎて寒すぎる場合もあるのだ————キュッと掴む。

「ん?」

 怪訝な表情で首を傾げる寛子に、多香子は答えようと口を開くが、何と言えば良いのか判らないらしい。再び情け無さそうな瞳で俯いた。しかし、それでも寛子の袖を離そうとしない。

 寛子は仕方なさそうに————本当は頼られて滅茶苦茶嬉しいのだが————溜息をつくと同じように立ち上がった。その瞳を覗き込み、髪を優しく撫でる。

「————寛ちゃん・・・・・・」

「いこっか?待たせてるだろうし」

 寛子の言葉に多香子は小さく頷いた。寛子の気持ちが素直に嬉しい。髪を撫でられるままに瞳を閉じると、寛子の唇が柔らかく頬に触れた。

 

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