音楽の友73年7月〜9月号より引用しました。明らかな誤字・誤植は訂正しましたが、それ以外は原文のままです。
()内の注は原文にあるものです。

わが音楽家への道
愛情と誠実さをもって

 関東大震災といえば数えて五十年の昔、その大きな出来事も、私にとって始めてヴァイオリンを手にしたということで、忘れられない年にも成っている。それから十年を経て、音楽で生きて行く道を歩み出してから四十年のお祝い事を、この五月にはしていただいたのと相前後して、編集部からあなたの回想記のようなものを書くようにとのご依頼である。
 取りとめのないままに忘れてしまうよりはと思って引き受けては見たものの、やはり取りとめのないものに終わりそうである。ただその時ふと考えたのは、大過ないどころではなくあやまちも失敗も数知れず、ためらいや迷いの多かったその歳月を途切れとぎれにでもたどってみれば、奇蹟ともいうべき半世紀間の日本音楽界の成長と発展の姿が、断片的にも浮かび上がってくるのではないかと思って筆を進めることにした。年代や日附はきわめて曖昧、出来事の前後もはなはだ心許なく、名前を挙げる方々の姓名にも間違いが多かろうことは前以ってお断わりして置きたい。むしろこれを読まれてあれはこうだ、それは違っているとお気付きの向きには、是非ともご指摘、ご教示をお願いする次第である。
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 大正の初めといえば、山田耕筰という大先達がすでに志を立て着々とその業績を積み重ねつつあり、近衛秀麿氏がその後に続こうとしていたとは言え、一般の生活の中ではきわめて一部の人々を除いて、西洋音楽は庶民の生活とは縁遠いものだった。ピアノというものも珍貴な楽器で、小学校でも足踏みの小さなオルガンしか備えていないのが普通で、中途編入した青山師範附属小学校の唱歌教室にはグランド型のピアノがあり、私はその響きに心を奪われた。担任の村松先生(御健在)はそれを巧みに演奏され、美しい声で歌われるので私はその授業が楽しみだったが、唱歌科目の成績は芳しくなく、学芸会などに選抜されるグループに入ったことは一度もなかった。平凡な子供の生活で、当時普及され始めた蓄音機とレコードで、カルソーやパデレフスキーのような大家の演奏をきくことがある以外、私にとって音楽的に何事も起こらなかった。
 中学生として、当時新しい制度の学校であった東京高等学校の尋常科に進んだ頃から、海外から高名な演奏家が訪れることが活発に成ったようで、それにはヴァイオリンのエルマン、セロのシコラ、ピアノのゴドウスキーらがあり、彼らのすぐれた演奏とその名声は、日本にとって強い刺激であり大きな話題でもあった。その背景には第一次欧州大戦後の上海、香港など欧米植民地の繁栄と、ロシア革命による大量な各国芸術家の流出と移動があったようである。
 話はかなり前後するが、この頃から昭和の初めにかけ、アレキサンダー・モギレフスキーのヴァイオリンに於ける、ニコライ・シフェルブラット、ヨーゼフ・ケーニヒのオーケストラ指導に於ける、長く日本楽界の方向付けをし、その生命力を培った人々のわが国への定着もそれらの動きの一つであった。
 オーケストラと言えば、最初の職業団体ともいうべきものの胎動が、山田耕筰なる天才的な組織力を持つ指導者の手で、氷層を破って芽生える春の草のように、うごき始めていたのもこの時代である。
 また大正人特異のエネルギーの燃焼が、東京の一角で華やかに咲き出していた。所謂「浅草オペラ」と呼ばれたものがそれで、今日でもドイツ諸国の歌劇場で正規のレパートリーとして演目に登っている《ボッカチオ》《フラ・ディアボロ》《天国と地獄》などが、巧みな日本的処理で連日上演され大衆の圧倒的な支持をうけていたのである。原典の本格的演奏を旗印にしての近年の私たちのオペラ活動が、果たしてあれほどの支持が得られているかと思うとき、ちょっととまどいを覚えるのは私だけでもあるまい。少年である私は、時に両親の目をかすめ十銭銅貨を握り締めて牛込から歩いて浅草に通った。何にせよ「活動写真」の東京倶楽部、芝居の常磐座、そしてオペラ金竜館が共通で子供十銭だったのである。大震災で浅草そのものが壊滅するまで、この「三館共通」の繁栄は続いた。
 大正十二年九月一日、東京の大半は破壊、炎上した。今からちょうど五十年前、私が今でいう中学三年生の時である。
 市ヶ谷の高台にあった私の家は倒壊を免がれ、焼けもしなかったので祖母、叔父、従兄など幾組かの家を失った親族が同居することになった。その春に父が亡くなって母と二人暮らしのわが家は、急に賑やかになった。
 その従兄の一人に、当時としては珍しくヴァイオリンに長じた早稲田大学の学生があった。物珍しそうに傍へ寄ってきき耳を立てる私を見て、祖母は焼け残りのどこで探してきたかヴァイオリンを買ってきてくれた。楽器を肩に当て、弓を持たせて貰ってEの線に恐る恐る触れたとき、未知の世界に踏み入る感動で私の心はふるえた。
 この小さな出来事に大きな意味を見て行動したもう一人の人がいた。それは私たちの学校の音楽担任教師、田中敬一氏だった。新設の東京高校の尋常科すなわち中学課程には、当時に他にはない音楽課目が置かれていた。男子の中学生と音楽というおよそその時代には結びつかないイメージを、何とかして稔らせようと献身的な苦心を続けておられた田中先生は、正規にそれを学ぶことを許されない私に自ら手ほどきをしようと言われ、勿論無報酬で放課後のヴァイオリン・レッスンが始められた。上野の音楽学校で副科として修められたというヴァイオリンを熱心に、そして丁寧に教えてくださった。そしてしばらくすると「これから先は私の力に余る、私の弟が私より進んだ勉強をしているからそこへ行くように」と言われ、その頃には三人に増えた仲間と大森にある御令弟のお宅に通うようになった。それが後にピアノ科の教授となられた田中規矩士先生で、先生も兄の命令だからと貧しい私たちから謝礼を受けようとはなさらなかった。そしてまた一年、「私はこれまで」と兄君と同じことをいわれ、これは自分の後輩で前途有望のヴァイオリニストであるからと、橋本国彦さんについて学ぶことになった。橋本さんはちょうど卒業したばかりで、上野でも画期的な秀才といわれたヴァイオリニストで、美しい夫人と二人で、私たちの学校(中野区初台【ママ】)の近くに住んでおられ、その時分すでに作曲にも筆を染めておられ、授業に伺うと「今書き上げた曲だ、いいだろう」などといわれ自作の小品をピアノで弾いたりしてくださった。私たちはその作品もだが、美しい奥様が運んでこられるお茶とお菓子の方が楽しみだったかもしれない。この頃私は高等学校の文科に進んでいた。
 関東地震という大きな災害は、その被害地の東京にもそしてまたそれによる経済・文化圏の変動なども加えて、ある意味で強いエネルギーに転化するという日本的たくましさを示したようにも思われる。
 音楽の世界でも内外からのいろいろな動きが見られる。
 ヨーロッパの極東に於ける二大基地であった上海とハルビン、この揚子江河口と北満州に発達した植民都市は、さながら小パリー、小ロンドンであり小モスクワであった。そしてそこには当然、彼らの本国の音楽的生活が定着した。
 上海のフランス租界には小さいけれど劇場機能の完備したオペラ・ハウス「ライシアム・シアター」が建てられ、イタリア人を始めロシア、フランス各国の優秀な演奏家を集めたオーケストラ、上海工部局管弦楽団が配備された。
 一方、北満州では長春以北満州里に至る、所謂東支鉄道を運営するロシアは、革命後も帝政時代の極東政策をそのままに、アジア経営の拠点をハルビンに置いた。革命の動乱を逃れた白系、そしてユダヤ系の技術者、芸術家、商人たちはこのロシア的な非ソ連都市に集中、流動的な性格の東支鉄道会社も彼らを大いに援助した。
 東支鉄道管弦楽団、またはハルビン・オーケストラはその時期、指揮者エマヌエル・メッテルの下に、ヴァイオリンにヒルスブルグ(後にフィラデルフィア交響楽団主席)、シフェルブラット、ケーニヒ、セロにぺッケル、クラリネットにブジンスキー、オーボエにシュワイコフスキーなど錚々たるメンバーを擁し、東支鉄道会社は給与を金ルーブルで支払うという力の入れ方であった。
 市内目抜き通りのキタイスカヤ街にあるモデルン劇場では、当然ロシア系のオペラ・バレエが盛んに上演され、その頃の日本の状態と比べればこの両都市の存在は、ヨーロッパがそこに出張っているがごとき別天地であった。
 その時点でハルビンの中心楽員を誘致し、日本人演奏者と交えて日露合作の大交響楽演奏会を催し、未だ曙も遠い日本楽界に初球を本塁打するような一大警鐘を打ち鳴らそうとの着想は、正に生まれながらの大先達、山田耕筰氏ならではの大ヒットであった。
 忽然として歌舞伎座に、青山会館に響き渡ったこの大交響楽団の音は、正に黒船の来航にも似た日本音楽界の「夜明け」であった。指揮は山田耕筰とその後継者と目される新知識たる近衛秀麿の二人の日本人、居並ぶはコンサート・マスターにシフェルブラット以下のロシア人音楽家に交わって、創成期を担う自負と責任に頬を緊張させる若き日本のプレーヤーたち。まことに偉容と呼ぶに相応しい日露交歓交響楽団の大舞台であった。
 青山会館での演奏会のあと、最後の曲目のタイホンザー序曲の壮大な響きが耳の奥に鳴り止まぬまま、私は友人と二人赤坂見附から半蔵門、九段を廻って市ヶ谷見附まで夜更の道を歩き続けた。
 二十数年後ハルビンで、上海でその時の音楽家たちの幾人かに指揮者としてまみえ、見覚えあるメッテル先生の筆蹟【ママ】の書き込みのある総譜を見て、人の世の縁の奇しきを感じたことは、また章を改めて記さねばならない。

わが音楽家への道
メッテル氏の音楽に魅せられて

 ともあれこれは起爆剤であった。
 機を逸せずその盛上りの中で山田先生は「日本交響楽協会」の設立を宣言、日本最初の「予約会員制」による会員募集、そして明治神宮外苑の日本青年館での第一回演奏会と一気呵成に持ち込んでいかれた。それこそ日本楽界にとって維新革命にも比すべき歴史的な夜であった。
 定期演奏会は毎回盛会に続けられたように思う。その時のうわずった私たちの感覚では、すべてが夢のようで客観性はきわめて薄い。
 近衛秀麿氏が指揮する演奏会の時には、決まって山田先生が羽織・袴姿で舞台の上手に立たれ、「交響楽運動は苦しい。ここに並んでいる楽員たちはみんな腹がすいています。どうか皆さんで会員たちを一人ずつ勧誘して貰いたい」というような挨拶というか、前説みたいなことをされた。してみるとあまり盛会でなかったのかもしれない。
 オーケストラは第一ヴァイオリンが八〜十、セロが四〜五ぐらいの規模で、五十名前後だったのではあるまいか。戦後大阪からオーケストラとともに上京して日本青年館で一夜の演奏会を持ったとき、なつかしさで胸が躍るとともに舞台・客席の小さいのに驚いたことがある。
 しかしその頃の私たちにとってこの場所こそは、檜舞台であり至高の楽堂であったし、青山四丁目の電車の停車場から青年館までの道と青年館から信濃町駅までの外苑の歩道は、交響楽に魅入られた若者たちにとって「聖なる道」であった。演奏会は全楽壇の集会場でもあり各層の社交場でもありサロンでもあった。上野の外人の先生たちの顔も見えれば、知名のピアニストや声楽家の姿もあれば、われわれのような若い学生の一群が三階の上手の「固定席」(シタムブラッツ)に熱気を漂わせていた。当時近代的なセロの奏法と教授法を学んで帰朝したばかりの若き日の斎藤秀雄さんの、長髪をかき上げながら今も変わらぬ痛烈な批判を、低い声で語られるのに憧れの目を注ぎつつ聞き耳たてたこともあった。
 さてここでそのオーケストラを構成している「楽員一期生」とも言うべきサムライたちについて触れなければなるまい。
 大正期の日本でオーケストラ・プレーヤーの最初の供給源は何と言っても陸・海軍の軍楽隊であった。吹奏楽を任務とする軍楽兵であっても、瀬戸口、春口らの先覚者は絃楽器の履修をも義務付けることを忘れなかった。この中から、第一期から長く戦後のNHK交響楽団まで舞台に生き長らえた、有能な絃楽器奏者を多数生み出していることに注目すべきである。
 それについでは三越、松坂屋の両百貨店であると言えば奇異の感があろうが、例えば履物を下足番に預けて店内に入った時代に三越は少年音楽隊を養成して、東京・大阪の両店に配備した。ホテルのベル・ボーイに似たスマートな制服を着た可憐な少年たちは、時間をきめて中央階段の下で円舞曲やマーチなどを演奏した。この一群からも絃・管の優れたプレーヤーを輩出、半世紀に及んでクラシック・ポピュラー両面での指導的な役割を果たした者が多く、現在も彼らの親睦団体である三越会には七十歳を超えた元少年が多数健在である。
 やがて私たちオーケストラに魅せられた若者たちは、これらのプレーヤーの誰彼の周囲にそれそれ輪を作った。私のグループの中心はティムパニの小森宗太郎(健在)とトロムボーンの伊藤昇だった。小森さんは青年であったのに今と同じ立派な頭だったし、伊藤さんは大柄で堂々たる口ひげが威容を添えていた。
 演奏会がすむと二人のスターを囲んで、信濃町までの暗い道を歩き電車で有楽町へ、そして不二屋【ママ】の二階で一杯のコーヒーを大切にのみながら、楽屋話などに胸をおどらせたしあわせな一時を持つのだった。その「取巻き」の中からもう第二期生の群が育ちつつあった。それは私たちの仲間、後に新交響楽団期の幹部団員となるセロの橘、ヴィオラの田中らである。
 ここで日本交響楽協会の分裂について記さないわけにはゆくまい。
 もともと内蔵した矛盾や無理もあり、山田・近衛両氏の性格や音楽観にもよったが、とにかく、二人の指導者はあたかも維新成功後の西郷と大久保のように袂を分かたねばならなかった。山田耕筰の腹心と思われていた支配人・原善一郎氏は、近衛氏を擁して楽員の大半を率いて脱退「新交響楽団」と称することを宣言した。
 山田耕筰氏は予約会員への残余責任を負い「日響」の存続すると主張、訴訟にまで持ち込まれる師弟の悲しい争いとなったが、それはまた未成熟な日本楽界の悲しい体質でもあった。
 こうして大正から昭和へ、私は高等学校の生活を終えるのである。
 その頃われわれ第二期生たちは二軍ともいうべきセミ・プロ的オーケストラに形作られていった。国民交響楽団という名を記憶される人はもう少ないかもしれない。有楽町のガード傍の小さなビルの三階で、小松平五郎さんを指揮者として情熱を燃やす私たちのグループには学生が多かった。立教の学生服でホルンを吹いていた橘が、新知識たる斎藤秀雄さんを慕ってセロに転向したのもその時分である。彼はその後新交響楽団から戦後の東京交響楽団まで、セロのリーダーとして驚くべき長期記録を作った。
 山田耕筰氏は残党を率いて邦楽座に拠って映画の休憩音楽(というものがあった)などでがんばっておられたが、一日日比谷の野外音楽堂で宮内省楽部などの協力の下に大演奏会を開いて旧予約会員への責を果たし、飄然と欧州へ旅立たれた。その演奏会で私の先生である橋本さんが、足利竜之助という変名でヴィオラの主席として、アルジェリア組曲の独奏部をさっそうと弾かれたのは記憶に鮮やかである。変名を用いられたのは、当時上野の音楽学校の職員が町の楽士に交わって、オーケストラで弾くことはタブーだったからだよと、橋本さんは話しておられた。
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 話をここで数年あと戻りさせねばならない。大地震の年の春父を失い、その翌年後を追うように母が死んだ。父は脳卒中、母はガンであった。全くの独りぼっちとなり呆然としていたとき、私は朝比奈の家の育て子で、実家がそれも眼と鼻の先にあると告げられたのである。これは私の少年期に於ける大変動でひとり子で育った家とちがい、新しい家は兄姉弟まで揃ったにぎやかな一族だった。このことは幼時から虚弱だった私の肉体にも、妙に不安定だった精神の上にも大きな変化をもたらした。高校へ進む頃には、スポーツにも身を入れるようになり、サッカーではリーグでもちょっと知られた選手であり陸上では一五〇〇メートルにかなりの記録が出せたのは、以前の私を知る人々を驚かせたようである。音楽でも積極的に先に述べた二軍のグループの中へ入り込んでいった。
 そんな時のある月の新交響楽団の演奏会は、私の生涯を大きく転回させた人との出会いの場となった。
 客演指揮者エマヌエル・メッテルの指揮するカリニコフの交響曲から与えられた異様な感銘を、私はここでうまく記すことができない。帝政末期のロシア知識人たちが文学の、演劇のそして音楽の分野でなし遂げた輝かしい民俗芸術のモニュメントは、すでに久しい以前から日本の青年たちにとっての英雄像であったが、おそらくこの人メッテル自身に、その文化的革新の波をくぐり抜けてきた者の持つ磁力のようなものが具わっていたのかもしれない。そこには民族の歌があり踊りがあり、何よりも誇りと希望があった。いつしか私たちは自らを十九世紀末のロシア青年層に置きかえて、裡に燃え上がるものを感じたのであろう。
 その冬は私たち高校上級者が大学を選ぶ時期であった。文科系の者は常識的に東大か京大かの選択が普通で、志望届け用紙を前に仲間であれやこれや語り合う日が続いた。その時ふと目にした京大の学内新聞に、神戸在住のロシア人指揮者メッテルが学生の音楽指揮者に就任する旨報ぜられていた。迷夢のさめた者のように、私は京大法学部と記して担任教授に呈出【ママ】すると家族にもその許しを乞うた。母はただ微笑して「京都へ行ったら兄さんみたいにお酒を飲みすぎないようにしておくれよ」と言っただけだった。この母の希望は大学を卒業するまで充分に満たされた。
 かくして昭和三年の春、四月、大きな鞄と風呂敷包みを両手に、私は吉田山麓の大学の門をくぐった。
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 昭和三年春の京都の町は美しく静かで、初めて家を離れて下宿暮らしをする東京からの学生にとって、見るものすべてが別世界だった。
 法学部は佐々木、米川、竹田、瀧川など錚々たる大家の居並ぶ全盛の威容を示していたし、すぐ目の上に大文字山を仰ぐ農学部のグランドや古風な木造建の学生集会所では、新しい友達がすぐに多勢できた。第一期生である私には高校の先輩というものがなく、従って大学ではどこの高校のグループへも首を突っ込んで仲間に入れて貰うより仕方がなかったが、みんな親切で下宿の世話をしてくれたり、安くて分量の多いめし屋を教えてくれたりした。鈴木さんという陸上部の上級生は、ついて来いと言って寺町通りにある鍵屋の二階へ連れて行ってくれた。三条通りに明治製菓の喫茶部のできたのは後のことで、鍵屋はただ一つのそれらしい所で、テーブルを五つほど置いた二階の席へ坐ると、鈴木さんはアイスクリームを注文し「お駒っていうんだ、こいつは新入生だ」と給仕に来た小柄な娘に私を紹介した。おとなしそうなそのお駒さんは黙って頭を下げ、私はどぎまぎしていそいでアイスクリームに食いついた。上下にウェファースのついたケーキのような形のアイスクリームだった。 
 裏門の前にある昼食十二銭のめし屋では、お茶はともかく飯と漬け物が食べ放題なので満足した。日本は貧しくて何もなかったが平和で暮らしやすかった。
 午後の講義が終わってから、大学の裏の方の駅から電車で八瀬の里まで行き、ケーブルというものに初めて乗って比叡山にも登った。箱根や大磯に行くのには幾時間も汽車に乗らねばならない東京と比べて、山にも大きな湖にもそして奈良の都へも一時間内外で簡単にゆけるのは夢のようだった。
 四月末のある日、私は大学のオーケストラに入れて貰うために、掲示に記してあった学生集会所の二階へ上って行った。ヴァイオリンの音が聞こえていたのでそっと扉を押すと、がらんとした広いホールで色の白い長髪の学生が一人立ってクロイツァーのエチュードを弾いていた。私は傍へ行って帽子を脱ぎ、オーケストラに入れていただきたいのですがと言って頭を下げた。文学部の襟章を付けたその学生は、ちょっと手を休めると「今夜六時からここで練習があるからそのとき来たまえ」と言った。国際的な考古学者であり音楽評論家でもある長廣敏雄さんだった。
 こうしてこの日から私は、エマヌエル・メッテルに率いられるオーケストラの一員になった。と言うよりは、その時からこの人の魔力に捉えられ夢のように卒業までの月日を過したと言った方が適切であるかもしれない。
 彼は学生のオーケストラを指導することを依頼されて来たにかかわらず、職業音楽家と学生、京都大学と他の大学の区別も一切認めなかった。選曲にも編成にも絶対的な要求をし、短い期間にオーケストラは京都の「フィルハーモニー」に変容していった。他の大学の学生も含めてあらゆる階層、職種のディレッタント、京都の、時には大阪からさえ参加する専門演奏者たちは、メッテルにとってはただ有能と無能、音楽的と非音楽的、勤勉と怠惰の二種類でしかなかった。多くの京大の学生や卒業生は、練習所から放逐されまたは自ら席を蹴って去った。まだ三高の生徒であったM君は、その優れた才能の故に主席に据えられたし、早稲田出身のA氏が第一ティムパニストであることは絶対の事であった。徹底した精神主義者、芸術至上主義者であり強引な独裁者であった。それでいて誰もが鎖につながれた者のように、彼の不思議な魅力から離れることはできず感動し、傾倒した。時に「荒野の説教者ヨハネ」とはこんな人だったかと思わせる激越な煽動者でもあり、また時には美の陶酔の中にすべてを忘却させる異教の魔術師のようでもあった。
 その激しい口調はリムスキー=コルサコフやボロディン、チャイコフスキーなどが、いかにして自らの裡なるデーモンの火に駆り立てられて、それぞれの軍務、学問、官職などの拘束を断ち切って、ロシア民族の音楽を創るという時代の奔流に身を投じ、そしてついに輝かしくそれを成し遂げたかを語るとき、あたかも閃光を発するがごとく私たちの心を打った。
 「君たちがその手でやるのだ。日本の音楽を創造し演奏家を育て、オーケストラを作り日本の耳を世界に開眼するのだ」との国語を、小学校の国語読本全巻を学んで獲得した流暢な日本語で私たちに説く先生の目の光りは異様でさえあった。
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 この間東京ではさらに新しい成長と脱皮のため混乱や苦難が続き、さらに海外からの強力な波が押し寄せていた。

わが音楽家への道
指揮者として楽界に貢献

 樹木が成長していくときには、そのか細い根の枝は岩を砕き土をうがって伸びようとする。成長期の楽壇もそうであったのかもしれない。近衛秀麿氏を中心に新しい結束を固めたかに見えた新交響楽団にも根深いところに多くの問題を抱えていたし、近衛氏自身の内部にもこの偉大な芸術家の最後の日まで静まることのなかったデーモンの火が燃えていた。
 二十数名の楽員が退団したいわゆる「コロ事件」によって小康を得たかに見えた(昭和六年)が、それも一時のことで昭和十年の夏には支配人・原善一郎氏とともに自らのオーケストラと袂を別った。
 当然これは内外の大きな動揺と混乱を惹き起こさずにはおかなかったが、一方では近衛氏および原氏の指揮者として、音楽プロモーターとしての国際的な大きい発展にもつながり、またオーケストラとしては現在のNHK交響楽団体制の方向に大きく転回する契機となり、併せてローゼンシュトックという当時の日本の演奏界にとって最適の指揮者を指揮者に迎えることにもつながり(昭和十一年)、分裂のエネルギーは新たなる多角的発展の原動力になった。
 オーケストラだけでなくヴァイオリンやピアノ、そして歌唱や合唱までを含めて、プロフェッショナルらしい基本的知識と技術のスタイルが軌道に乗った時期ということもできよう。太平洋戦争開戦まで僅かに六年足らずのこの時期は、まことに稔り多い年月であった。
 精力的で勤勉なローゼンシュトックを中心に今までよりはるかに高く適確な【ママ】次元で、多くの才能が開発された。井口基成、木下保、四家文子等のきわめて意欲的で本格的な活動が見られたのもこの時期である。ブラームスの第二ピアノ協奏曲、マーラーの大地の歌、ヴェルディのレクイエム等は銘記されてもよい演奏の一つであろう。
 この間に私の人生コースにも徐々に、また時に急激に大きな変動が起こった。
 昭和六年春、京大法学部を卒業すると大阪の阪急電鉄に就職、普通のサラリーマン生活に入った。現場見習や百貨店の勤めなど未知の世界は、むしろ心をはずませる楽しいものであった。それにメッテルという強烈なパーソナリティから一歩へだてたことは、解放感にさえなっていた。会社ではすでに多くの先輩、同僚と親しくなり、その内の多くは今日に至るまで私にとって貴重な友人ともなり、庇護者ともなって私の人生を豊かにしてくれている。ともあれ会社員としての私の毎日に何の不満も不足もなかった。日本は貧しく経済も不振であったが、平和で自由な一時であった。
 二年目の春のことである。ある日突然、私の心を不思議な動揺が捉えた。
 それは青年に在り勝ちの迷いであったか、安易な夢想であったのか、私は今でもはっきりとは判らない。 
 とにかくこのままではどうにもならなくなってしまうようにも思えたし、自分のためにはどこかに別の道があるようにも感じられたのは確かである。
 セロの伊達三郎氏やヴァイオリンの田中平三郎氏(N響田中千香士君の伯父君)と識り合ったのもその頃であった。この二人の当時高名な音楽家はメッテルを中心とする京都大学のオーケストラのリーダーも引き受けておられたし、またどういう訳か私をたいへんに可愛がってくださった。百貨店の売場に立っている私を訪ねて、自分たちの組織しようとする弦楽四重奏団に参加しないかと勧誘してくださったのもこの二人の先輩だった。私はそれまで自分の演奏技術が、こんな専門家たちのレベルにあると考えたことはなかったので意外でもあった。
 ある日の夕暮れ時、私は芦屋海岸にあるメッテル先生の家を訪れた。
 迷いの雲の濃くなっていく自分の気持をありのままに語り、音楽に関することで何かできることがあるであろうかと尋ねた。覚悟していた叱責の代りに先生は流暢な日本語で「ヴァイオリンを勉強してみなさい。他のことはそれからだ」といわれた。私には才能があるとは思えませんと重ねて問いかけるのに先生はやや語気を強められた。
 「お前は今まで、才能の有無を判断するほど真剣にヴァイオリンの修行をしていないではないか。お前の国の古諺に石の上にも三年という言葉があるそうだ。これから三年間死に物狂いでヴァイオリンと理論の勉強をやってみろ。私もできる限りのことを教えてやる。三年経って見込みがないと見たら私がはっきりと言ってやる。それでもまだお前は二十八歳だ。別の職業に転向しても充分間に合うではないか。」私はどんと背中を突かれて坂を駆け降りる気持だった。
 東京の母に長い手紙を書いた。母はお前が考えて決めたことなら私は賛成するが、ただしドイツにいる兄さんには相談しなさいと言ってくれた。そこでベルリン駐在鉄道官であった長兄に、その旨書き送った。長兄からはすぐに葉書が着いて、「何事も目的を定めたら勇往邁進するべし」とあった。厳格な人柄の長兄の優しく暖かい肌に触れた思いで私は泣いた。
 会社の上司や友人の多くは、前途の不安を心配して思い止まるようすすめてくれた。唯一人、正岡忠三郎さんという先輩だけが、お前は会社には向かんようだ、やれやれ、と賛同してくれた。
 京都大学文学部哲学科へ学士入学の手続きをすると同時に、会社へは辞表を出した。総務部長の佐藤博夫さん(後に社長、故人)は、小林社長も心配しておられる、音楽がやりたければ宝塚へ配属してやれとも言われている、と言ってくださったが、私はもちろん止まれないような気持で辞表を置いて帰った。今でもこのお二人には申し訳ないような思いをしている。
 私にしては必死の勉強が始まった。
 伊達さんと田中さんが大阪音楽学校(現大阪音大)の講師の職を世話してくださったので、週に三日勤め、あとの三日間(確か火、水、土)は大学の講義に出た。ヴァイオリンの練習は早朝二時間くらいと夕方以後をあてた。
 小さな私立学校のこととて俸給は阪急のちょうど半額になってしまったので、映画撮影所の夜の内職は辛くてもありがたかった。メッテル先生はモギレフスキーが最上の教師だが、しばらくは基礎技術だけをやれといわれ、メンチンスキー氏を紹介してくださった。
 この二人はどちらもその頃芦屋に住んでおられ、モギレフスキー氏のお住いの前を通るといつもヴァイオリンの音がきこえていた。早くこの人に直接学べるようとの思いをこめて、メンチンスキー氏の厳しい指導に堪えた。この快活なポーランド人は、私の指導に当たっては別人のように峻烈を極めた。テクニックの基本を鍛え直すことは、学ぶ側より教える側の方がはるかに困難で忍耐を要するものであることを、今でも感謝の念をこめて思い起こす。
 後日モギレフスキー氏に聞いていただいたとき、基本がよくできているといわれて、その感謝はいよいよ深いものになった。
 三年間は本当に夢中ですぎた。
 音楽学校はその頃大阪の南東にあり私の住んでいた西宮からは遠かったが、時間にだけは絶対におくれず夏も冬も休んだことはなかった。伊達三郎さんとのクワルテットではヴィオラを担当することになり、大阪室内楽協会というチクルスを年に五〜六回長い間続けた。弦楽四重奏を中心にいろいろな組合せの室内楽やソナタなど、その頃としてはずいぶん広いレパートリーを造っていった。会場は心斎橋筋にあった三木楽器本社の四階にあった小ホールで、聴衆の数は少なかったが熱心なファンもできた。
 その室内楽グループを土台にして小さなオーケストラをやろうと思いたったとき、一番に賛成して僕も弾こうと言ってくださったのは伊達さんだった。この企ては室内楽よりはるかに難しく隘路も多かったが、伊達さんは何時でも先頭に立って仲間を引っ張っておられた。その頃私が少しずつ東西の楽壇に顔を出すようになると、音楽学校の経歴を持たないことが有形無形の障害となって私の周囲を阻みつつあったが、そんな時伊達さんは蔭になり日向になり私をかばい私を推してくださった。収入の少ない私のために弟子を集めてくださったり、冬の寒い季節、暖房もない家での独り暮らしの私は、一ヶ月以上も千里山の暖かいお宅で御夫妻の好意に甘えた年も多かった。
 多年の曲折を経てようやく大阪フィルハーモニーが確立されたとき、伊達さんは同じくセロ主席の座を占め、その創成期から数十年に亘る交響楽団生活の最後は、大阪フェスティバル・ホールでの外山雄三君指揮によるベートーヴェンの《エロイカ》の舞台であった。第二楽章の途中、突然伊達の弓は落ち、隣席の愛弟子・島雅昭君に扶けられベートーヴェンの荘重な音楽が流れる中を「最後の退場」をされた。まことに英雄的な素晴らしい「引込み」であった。
 その後高血圧による身体障害で引退されてからも定期演奏会には必ず姿をみせられ、各セクションに細々とした注意や批評を忘れられなかった。
 ここで話を少し後ろに戻さなければならない。
 昭和十二年春、京大文学部哲学科の美学専攻を卒業−−三年のところを四年費やしたのはやはり学校勤めと掛け持ちのためだったが、それで井上靖君と同級生となり、先年文芸春秋の同級生対談で今や大作家となった井上君と対面、われわれは同級生だそうですなと大いに笑ったという珍聞もある−−した時ふと気付いたらメッテル先生の言う「石の上にも三年」はもう過ぎていた。先生は何も言われなかったし、私も伺いを立てるのも間が悪かったし、それに音楽の仕事もだんだんと形をなしてきていたのとで結局ずるずると石の上に坐り続けることになった。
 ヴァイオリンを持っての仕事や音楽学校での教職の他に指揮への志向がはっきりとしてきたのもその頃だったし、先生方もそんなつもりのようだった。
 レオニード・クロイツァー先生との出合もこの前後だったように思う。機縁はレッスンや講義などのドイツ語通訳兼世話係みたいなことで始まった。
 私はたちまちこの大音楽家の人と芸術に傾倒し、先生も息子のように可愛がってくださった。その時分私は何とかしてクロイツァーとメッテルという二人の先生を結びつけたいと心をくだき手を尽くしたが、この強烈すぎる個性を持つ二人のロシア人音楽家を握手させることは不可能で私は失望した。
 やがて昭和十四年支那事変も本格戦の様相を示してきた頃、メッテル夫妻は日本を去ってアメリカに移った。先生はその時に自分が今まで手塩にかけた京都と大阪のオーケストラの仕事を、もうお前がやれと残してくださった。
 明けて十五年一月、私は思い切って新交響楽団を指揮して東京にデビューした。気鋭のオーケストラは若い指揮者にとっても非常にやり易く、結果は良好で私は放響としてのNHKの放送にも指揮させて貰えるようになった。
 指揮者というものが独立した職業ジャンルとして成り立ってくる時期であったのかもしれない。私と前後して、山本直忠さん、小船幸次郎さん、そして若き尾高尚忠君などがデビュタントとして登場した。
 しかしプロフェッショナル・オーケストラらしきものは新響唯一つという状況の中で、私たち若い指揮者群はその周囲を取り巻いている形だったので関西に住む私はとくに骨が折れた。
 ローゼンシュトックは引き続き精力的な活動を続け、私は多くの示唆や忠告を与えられた。
 大阪で本格的なオーケストラができる見込みはまったくなかったが、私たちはNHKの大阪放送局にある三十数名のアンサンブルを基にオーケストラの音を響かせる努力は、愚かしいとさえ思われるほど続けていた。
 昭和十六年、結婚して六甲の現在の家に住むと間もなく、太平洋戦争が始まった。
 翌十七年大阪放送局の機構拡充に伴い、私は放送局専属の指揮者に任命され、ようやく指揮者一本立の生活ができるようになった。戦時中とはいえその頃はまだ気勢も上がっており、私は合唱に、オーケストラに動けるだけ動いて手当たりしだい何でもやった。その間も東京放送局の放送の仕事は続いていた。越えて十八年の秋、予期もしない指令を私は受けた。それは大東亜省の嘱託として上海大使館事務所に所属、上海交響楽団を指揮せよというものだった。日本占領下でも、完全なヨーロッパ都市の形態を保っていた上海のオーケストラの実力は大したものであった。ことにナチに追われたユダヤ系の優秀な楽人も多く、また古いハルビン時代メッテルの下にいた露人も多かった。翌年の三月までのこの任務を果しおえたとき、私の運命は大きく転回した。ついで満州の新京、ハルビンの楽団へ転出、敗戦、妻子とともに二十一年秋引き揚げ、二十二年一月関響の組織と私自身が振りまわされているような年月だった。それから幾度かの曲折もあり、また二十八年以来のヨーロッパ楽旅も偶然のように始められ、今におよびオーケストラも大阪フィルハーモニーとして立派に成長した。
 「私に残された時間」をいかに使うかが、同じく「残されたつとめ」であろう。


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