ビクターのブルックナー交響曲全集付録CDより引用しました。

朝比奈隆ブルックナーを語る

ブルックナーに対する愛着

宇野 功芳  朝比奈先生どうもお早うございます。
朝比奈 隆  いやいや。
宇野   このたびはブルックナーの交響曲全集がビクターから発売されるってことで、おめでとうございます。
朝比奈   いえ。
宇野   しかも0番が入っている全集ってのはどうもねえ、世界でも初めてらしいんですよ。
朝比奈   あーそうですかねえ。0番がセットになってない、そういえば別になってますねえ。
宇野   ええ、別になってますね、0番は。めったに演奏されないですからね。
朝比奈   あーされないですね。
宇野   そういう非常に珍しいケースですので、先生のブルックナーに対する特別な愛着といいますかねぇ、そういうものを我々は感じるんですけれども、どうでしょうか、先生にとって特別な…
朝比奈   愛着というんでしょうか、ベートーヴェンの交響曲の場合はですね、愛着と言うより何か使命感みたいなものがありましてねぇ。これは一つずつ、一冊ずつ楽譜を積み上げていってですね、自分の一生涯の心のよりどころにしなきゃならんという何か神妙な気持ちもあるし。で、ブルックナーの場合はまあこれも一種の使命感かもしれんが、余りにも系統的にやられていない。2、3曲やってみて。非常に特別な存在でしょ。あのタイプの作曲家はとうとう他には出なかったですねえ。
宇野   あのタイプというのは…
朝比奈   あの作風ですねぇ。作風が0番から9番まで10曲として、中には完璧なロマンの世界を表しているというのもあるし、いかにも何かこう苦心して様式を確保しているといういろいろのものがあるけれど、それが全体として非常にこう…、一人の作曲家が生涯をかけて築き上げてきた何か特別な世界があって、我々は演奏家として、我々はヨーロッパ人じゃなくて東洋のこういうところに住んでいる演奏家ですけれども、意外とヨーロッパの演奏家たちがそういうところに目が行ってなくて、いいところ取りみたいなことして、お客さんに受けそうなところだけ出すとか、時々全集なんかを拝見してもあちこちでやったのを並べて、ただ九つ並んでいる、そういうのじゃつまんないんじゃないかと思っていたら、ビクターさんのほうから−よかれ悪しかれとはおっしゃらなかったですが−まあよかれ悪しかれ演ったものは全部記録しておきたいと、これは非常に正統的な考え方だと思いましてね。喜んでお受けしたんですけれども。
宇野   いま、ブルックナーの特別な世界とおっしゃいましたけれども、具体的に言うと先生、どんなものが特別だと思われますか。
朝比奈   やっぱり僕らは演奏家ですので、楽譜・スコアの書き方を見てですね、マーラーがどうだとか、シェーンベルクが十二音階だとか言ってもですね、楽譜の書法というのはベートーヴェン以来そんなに変わっていないわけですなあ。ただ自分の求める音が書いてあると。ブルックナーの場合は曲にもよりますけれど、たとえば1番2番3番なんかは、6番ぐらいもそうですけれども、これやったらどういう音になるんだろうというのが、ちょっとあの譜面からピンと出てこない。それじゃそれどうすればいいかと。それは演奏家が自分で演ってみるしかない。演ってみればこうやってもうまくいかないという、試行錯誤というと大げさですけれども、やっぱり経験といいますか失敗の積み重ねみたいなことをしていかないといけませんので。
 実はねぇ、これ、どうせ出るものだから。0番にはちょっと手を入れると言うとまた論争を巻き起こしそうなんだけど、手でなくて、音符でなくて、アーティキュレーションがですね、あまりにもほとんど何も書いていない。ただこうスラーでつながっていて、例えば弦楽器の場合どっかで弓を返さなくてはならないですね。足りなくなったら返すというものではありませんので、ここで返した方が形としていいとか、そういうことがほとんど書いていないので、これはかなりやってみました。これが適切であったかあまりよくなかったかは、それは自分の一言ではよくわかりませんし、責任はあるんですけれども。それ以外は何もいじらないで。そのいじらないでやるということがかなりこの難しいですね。あれだけね、手入れ版、改訂版が出たということはどうしてもこれはいじらなければいかんと思うんでしょうね(笑い)。

ブルックナーの特異性

宇野  じゃあ、次にそのブルックナーの交響曲を演奏するときにですね、他の作曲家と比べて特に違うところとか、こういうことが大切だとか、そういう指揮者の立場からレコードを聴く人に何か興味深いようなことをですねお話しいただけますか。
朝比奈   そうですね、五線譜見たらその通り音を出せばいいというのは基本なんですけれども、あの時代の人と比較するとワーグナーとかマーラーとかいう人はですね、大変そのプロフェッショナルらしいちゃんとした譜面でですね、これはもう機械にテープ入れたらすっと回るみたいにね、その通り弾けばたいていのものができる。ブルックナーの場合はやっぱりまずスコア見て、演奏にかかる前にこれはどういう奏法をしたらいいんだろうということを、まずはほんとは考えなくてはいけない。スラーはずっと1ページも2ページもつながっているときがありますしね。それから同じ形が延々とつながっているのもあるし、主題はたいてい長いですしね。ですから弦楽器の奏法ですとかね、まあ管楽器の場合はオルガンストップみたいな書き方してありますので、これはこの通りやらなければいけない。しかし息吸うところもあんまりないんですね。で、そういう具体的な現場でのいわゆる職人的な処理の仕方ですね、そういう事からね長い年数…。これ最初にあたしがブルックナーにちょっかいを出したのは1954年だと思うのですが、54年というともうずいぶん前ですね。40年にそろそろなる。初めのうちはだからそういう事で、模索をして。0番1番あたりを演っているのと、4番5番という非常に様式のしっかりしたものを演るのと、、それから7番8番9番というのとだいぶ様子が違いますんでね。まあそんなことも何十年もやっているうちに少しは何か見当がついたので。新しく一つ取り上げるとき、あるいは新しい別のオーケストラでやるときにそういう事からみんなが納得して貰えるような説得力のある準備をすることには慣れました。それからあたしが使う用の楽譜というのもつくりましたし、前にあの貸し譜でしかできない時代があったんですね。
宇野   いまは違うんですか。
朝比奈   これねえ、著作権法というのは変な、ずいぶん妙な法律でね、日本はワシントン条約というのに加盟していて、批准をしていてそれを守る立場にあるんですが、アメリカはワシントン条約を自分の国が主催していて批准してないんですなあ。うちはいいですよって。それからいわゆる海賊版ってのがいくらでもあるんですな。それは海賊版ていうのは間違いが多いというのは常識。ところがちっとも間違いのない海賊版、だから海賊じゃなくて普通の賊の…普通の賊ってのはないけど。その資料の点で初めは貸し譜ばっかりだったもんですから、大型スコアも貸し譜でですね、だいぶ苦労して、しょうがないから写譜をしたんですよ。写譜は禁じられているんだそうですけどね。アレレヒテフォアベヒャルテンと書いてあるでしょ。ベヒャルテンもくそもあるかと思って写譜をしてきれいにして。貸し譜ってのはみんなが使ったからいっぱい書いてあってね、直したりいろいろあるんですよ。それでまず写譜をしてやっていたら、そのうちにアメリカに聞いたら何でもありますよってんでパート譜でもスコアでもポンポン送ってくるんですよね。で、いまはスコアは全部アメリカ版で新しいの買えますし、パート譜もありますしね。そういう問題が非常に楽になりましたから、そうすると今度は初期の頃の作品をやるときは全部指揮者の責任になりますね。その貸し譜の場合はですね、前の人が中にはサインしてる人もあるんですよ、どこのオーケストラとか、それが信頼すべきオーケストラだったらこの手でいこうかとできますが、まっさらな楽譜だと全部考えなきゃなんないですけども。そんな事しているうちにいつのまにか全部で10曲入ってしまったわけですか。
宇野   そうですね。
朝比奈   だからまあこれは皆さんお聴きになる方が、長い時間にわたってそういう作品を見る読み方がだんだん進歩したというんでしょうか、だんだんに変わっていった足跡みたいなものが、足跡というと大げさで犯行の手口みたいなのがだんだんと変わっていくのもありますので。やっぱりおしまいの方の作品はあんまり問題がないですね。あとはあるのはこれは原作なのか手が入っているのかという、これ難しくてねえ。あのよく聞かれるんですけれども…、宇野先生はあれですか、そのウィーンの図書館に入ってこうやって探してですね、こういうのをつなぎ合わせて見るという趣味あるんですか。
宇野   いや、あんまりないんですが。
朝比奈   私は全くないんです。
宇野   そうですよね。
朝比奈   あのね、あれは文献学という特別の学問があってね、それでそういう方でないと、我々がこうやって紙をひっくり返してみても何のことかわからない。だからやっぱり信頼できる文献学者が編集なさったものを、今でいえばノヴァーク先生がいいのか、ハースの方がいいのかというくらいのところでこう見比べて。
 ぼくはあの聖フローリアンで大フィルの演奏会で、あそこで7番をやりまして、そのときノヴァーク氏がお見えになったんですよ。それで一番前の席に座ってね、真ん中にすわってこう腕組みして、なんだかやなのがきてるなって感じだったんですけどね(笑い)。その時、ほとんど版変わってないんですけどねハース版でやったんです。ちょっとしか変わってないんですけどね。済んでから大変結構だったって来られて、申し訳ないけど今日はハース版で、いやあれは大した問題ではないんだと。自分は文献学者だからこういろいろやって自分の考えと資料、ノヴァーク氏というのはある資料を全部並べて出しているんですよね。で自分はどっちがいいという選択はしていないで、こういうのもあるしこういうのもあると。あなたがこっちを選ばれたんで私は別に何も差し支えないと。まあそういうものじゃないですかね、版というのは。まあ、結論いえば版とか何とかいうのはあんまり気にならない。
宇野   しかしこうやってみるとほとんどハース版という…
朝比奈   何でハース版かというとね、ハース版が一番材料の省略が少ないですね。僕らやっぱり演奏家ですからね、作曲家が書いたものは全部やる義務があると思うんですよ。これはいらないだろうと思ってちょっと取ってあるのはね、やっぱり、特に8番でそう思ったんですが、長さが、小節数がひどく違うでしょ。
宇野   そうです。
朝比奈   そうすると、一番幼稚な話だけど小節数の長いのほどその作曲家の書いたものがたくさん入っていると、もうフィナーレなんかひどく違うでしょ。やっぱり作曲家の書かれたものが、それが少し無駄なものであっても…。で演ってみましたらね、別に無駄でもないんですね。ちゃんとうまくつながりますのでね。
宇野   4番のフィナーレの一番最後はノヴァークだと一楽章のテーマがでてきますけど、あれどうでしょうかねぇ。
朝比奈   ここはラッパッパッパパパ(歌う)で持っていくのでいいみたいに思うんですけどね。
宇野   あーそうですか。
朝比奈   まあ、どっちがどっちともいえませんが。舞台で演ってみますとね、あのホルンの3連音符が非常に強烈なものですからね、内声部が下がっても上がってもあまり効果がないんです。
宇野   聞こえないという意味ですか。
朝比奈   聞こえないんです。バーって吹いている方が支えになって。それとね、日本の今のオーケストラ、弦楽器が非常によくなってきましたんでね、弦楽器がタカタカ弾いているでしょ、これがかなり目立つんです。そうすると対位法としては上のホルンの大きな3連符とヴァイオリンの弾いている小さい3連符との組み合わせでかなりうまくいくみたいに思います。
宇野   あーそうですか。それは明らかに先生のお好みというか。
朝比奈   いずれを取るかということですね。問題は主として最後のページに入ってオーケストラの全ての楽器が十分に音を出しきっていて、ほんとうは幅の広い棒みたいなものでもいいんですけど、そん中で特にホルンが上に聞こえているということの方が、あんまり細かいこのパート、このパートというより迫力がある。
宇野   それで初めて意味がわかりました。
朝比奈   あれねえ、ブルックナーも迷って、いろんな事書いているんです。中動かしてみたりやめてみたりね。目で見るのと聞くのとやはり違いますのでね。

各曲について

0番
宇野      次に全集を買った人のためにですね、全部で10曲あるわけですけど、各曲についてですね、何かお話しいただけますか。
朝比奈   0番なんて久しくやってない。やっぱり一番厄介だったのは0番ですなあ。弦楽器の部分、どう弾いていいかわからないところがたくさんあったんです。弦楽器のパートは弓で弾くということが基本にありますから、一つの弓で弾いて次の形はこう返す弓で弾いてと言うのあるでしょ。それがどこで返していいかわかんないみたいな書き方してありますのでね、それを何もしなきゃ演奏できないし。発想がオリジナルな部分と、それと僕はよくわからないけど当時のウィーンあたりのシンフォニーつくる場合の一般の作風というような部分もあるみたいですね。その中でブルックナーの特徴が十分でていないことは確かですね。
1番
宇野   1番、2番というのはいかがですか。
朝比奈   1番になると、僕は第一楽章の出だしは大変傑作だと思うんです。おしまいの方はフィナーレ入ったらちょっと困っちゃたみたいで、何か古典派のフィナーレ弾いているみたいでしょ。だけど1番はやっぱり、あれ思いついたからシンフォニー書いたんでしょうね。あのパッパッパッパッ(歌う)と出てきてですね、その得体の知れないところで何かが発展していく、1番の第一楽章はあの人が初めて自分の作風というものを…。
 僕はずっと前、若い二十代の時にね、日本で聞いたことあるんですよ。あなたのあれにも書いてあったと思うけど、ヨーゼフ・ラスカというオーストリー人のまあまあ普通の指揮者ですが、この人が宝塚に呼ばれて、宝塚になんて用無かったと思うんですが、それで時々、あそこでレヴューやってるオーケストラが三組あったんですが、三組集めてちょっとオーケストラにして演奏会やって。そん時にブルックナーの1番を演って。
宇野   珍しい。
朝比奈   珍しいから聴きに行ったんです。それでパッパッパッパッと出てくるところ覚えてますが。それが日本で演った最初だと思うんですね、1番は。近衛先生は4番を時々やられてました。それで帰って僕の師匠のメッテルさんにその話をしましたら、えらく怒られましてね。まあやっぱり対抗意識がありますからね。おまえはあんなくだらん曲を…
宇野   あ、聴きに行ったのがいけないんですか。
朝比奈   聴きに行ったのがいけないんです。あんなのは無駄であると。音楽史的にもたいして価値はないと。1番がそんなに価値あるとは思えないですけどね。そんなものする暇あったら、ベートーヴェンとかハイドンとかブラームスとかもっと勉強しろと大目玉もらったのを覚えてますけど。やっぱりその時にあの時代に昭和の初めですからね、日本で誰かがやったことがあると、それを聴いたことがあるというのはやっぱり印象的ではありましたね。
2番
宇野   2番になると終楽章もとっても素晴らしいと思うんですけど。
朝比奈   あー、2番になると今度はほんとうに難しくなってきますね。それで2番もあれはドイツではほとんどやらないみたいですね。
宇野   そうですね。
朝比奈   初めのところなんかなかなかいいんですけどね。僕はねぇ、ラインランドのゲルゼンキルヘンというオパーのある街なんですが、オパーのオーケストラとやったんですけどね。わけわかんない曲だけど弾いている奴がわけわかんないんですね。それで、まず最初のティーラララていうチェロが意外と難しいんですよ。あのセロだけ稽古するのに半日ぐらいかかっちゃったんです。もう遅々としてね。そしたらね、あれ有名なホルンの難しいセクション、タリラララ、あれホルン吹きにとっては舌を使いません、舌をトントンあてられないのでボガイズみたいにやらないといけないんですね。そのホルンの人が大変上手でしてね。難しいところちゃんとやろうやと言ったら、やってみて素晴らしい演奏したんです。そういう事が一つありますとね、他のなんだかわけの分からないのもねぇ、そらあいいもんだなあという気になるんですね。それでその演奏は大変その街で評判になりましてね。ブルックナーって何だって言ってた人達にとってですね。
宇野   それはいつ頃の。
朝比奈   それはね、僕の記録にありますが、調べていただければ(1977年3月21日)。ゲルゼンキルヘンという街で。ちょうど真ん中ぐらいの今から27、8年前くらい、20年くらい前のことです。私が一応ブルックナーをやり終えてからなんです。そういうのをあちこちでやって。3番はさすがにヨーロッパのオーケストラは手出さないですなあ。
宇野   3番は特に何か難しい感じで…。
朝比奈   あー、3番じゃなくて2番です。いい悪いじゃなくて、難しくて長いんですよね。これもなかなかいい演奏してくれたと思いますので。
宇野   これはまだブルックナーがオーケストレーションというか、そういうのに慣れていないせいで難しいんですか。
朝比奈   いやあのね、やっぱり彼の頭の中でね、こういう風にこういう音が動きがほしいという動きですね、それをそのまま書いて。大体この人そうなんですけどそれが必ずしも楽器によってやりやすい格好じゃないわけですよ。
宇野   あーそうですね。
朝比奈   あの、クラシック(古典派)の人達だったらベートーヴェンでもモーツァルトでもハイドンでもあの辺だったら、まあ、ブラームスくらいまではホルンだったら吹けない音は使わないと、弦楽器でもとんでもないところへはいかない。やっぱりいわゆるスタンダードな教則本にある技術でできるわけですよ。それがないみたいですね。
 自分でこう鍵盤楽器(オルガン)ですから、鍵盤楽器で弾いてみてこう行きたい音へ。どえらい難しいときがあるんですよ、こっちにとってはねぇ。だけどもそれが作曲家ですから、演奏家は書かれたものを技術を研究して何とか弾かなければいけませんから。そういう難しさが2番、3番まではありますね。
宇野   3番までありますね。
朝比奈   ありますね。でそこんところをうまく乗り越えないと演奏もおもしろくない、お客さんも聴かない。だからこの2つの曲の場合は演奏家の責任だと思います。そんなに出来の悪い曲ではありませんから。演奏家がそれをいい演奏をすれば作品のいい部分も幾分かは聴衆に伝わると。いい演奏をしないでおいてね、これはつまらない曲だと行って片付けるのはあまりにも無礼ですなあ(笑い)。
宇野   2番なんかはブルックナーがウィーンフィルハーモニーに楽譜持っていって初演してくれって言ったら、これ初演できないって、まぁ練習だけはしたみたいですけどね。
朝比奈   いや、弾けなかったんでしょう(笑い)。
 そらぁねぇ、さっき言ってたホルンの自然音で上がるの大変難しいらしいです。あれは、都響の兼松君かホルンうまいこと吹きましたが、それはなんてんですかねぇ、あのー基本的に技術があればできるんだと。昔、何もない堅い輪巻いてね、ぷーと羊飼いのホルン、ああいう一本の棒で吹けるはずだと。まして今のはピストンがついている楽器で問題なく吹けるものなんだそうだけど、何となく危なっかしいんですな。だけど、できない、不可能なことはブルックナーは弾けない事書いてあるという伝説は間違いですな。不可能ではないんだけどやりにくいんですよ。
宇野   そうですね。
朝比奈   まあ2番3番ていうのは、それで彼のシンフォニー作家のスタイルが出来上がったんではないでしょうか。
3番
朝比奈   ただ、あの3番みたいに非常に短くコンパクトに作り上げ……、あれはだれが作り上げたんですか、いつもやっている第三版ていうのは。
宇野   一応本人なんです。
朝比奈   あと2つはあーしろ、こーしろってね。僕はあの第三版ってやりたくないんです。
宇野   3番の第三版、最後のノヴァーク版で出ているやつですね。
朝比奈   ええ。あまりにもうまく出来ていてねぇ。そんなはずないんですな、あの人の場合。
宇野   ずっと後になってブルックナーが、
朝比奈   20年くらいたって。
宇野   そうです。第八の頃ですね。
朝比奈   そうするとねえ、非常に上手になっててね、3番をつくった時代のあの人の作風とは全く違うものに、
宇野   確かに。
朝比奈   作風というより、様式が違ってしまって、あれだけは何だかやらないように。なんだか逆の意味で違和感がありますね。非常にすらすら出来ていて。
宇野   1番のウィーン版ていうのもまた何かオーケストレーションがすっかり違っちゃっていて。
朝比奈   ウィーン版でもね、だからあんまり年数をおいて30年も40年も年数をおいて書き直したやつは違う作曲家になってますからね。初期のものは初期ですね。3番はどれが入っているのかな。
宇野   フェスティバルホールでの(1984年7月26日のライヴ)。
朝比奈   大フィルのやつだと、一番野暮くさい全部あの長いやつをやっているのかな。
宇野   第二稿て書いてあります。
朝比奈   第二稿ですね。だからまあ、第三稿というのは録音には一度もやったことないです。
宇野   演奏でもですか。
朝比奈   演奏は一遍やりました。一番最初にやりましたがねえ。昨日あの部屋で、上野のあの部屋にすわって思い出した。3番をやって戻ってきたらクラウス・プリングスハイム先生が入って来られてねえ、ドイツ語で「おまえは今日この演奏会で何故この版を選んだ」。その時分ね、あまり知識がなくて、だいぶ何十年も前。まさかねぇ、本屋で売ってたなんてそんな馬鹿な返事もできない(笑い)。で、もたもたしてたら大変ご機嫌が悪くてねぇ。「おまえには判断というものがないのか」と(笑い)、えらいおしかりを受けたんだけど、ご自分の意見はおっしゃりませんでした。どうやら今考えるとあんな一番無難なコンパクトに出来た版なんてのは、僕は全曲やるコースにありましたから、それをご存じでしたから、それをやっとったのではいかんという意味ではないかと思ってねぇ、今は非常に感謝しているんです。あの、もっと恥ずかしい事はね、何故これをやったんだと言われたときに自分の意見がないわけですよね。一言わかりやすく言えば、手頃なその辺にあったからやったわけです(笑い)。それから全部調べたら全然違うものがあるわけです。だからプリングスハイム先生のご意志は、おまえは事情がわからんでたまたまこれやっとるけれどもちゃんと全部調べなさいと。その上で第三版が好きならそれはいいですよね。このごろヨーロッパ人の普通の指揮者はみんな三版でやってますね。
宇野   そうですね。
朝比奈   それで私は全部やることにして、全部を一回は演ってみたんです。それでこれはビクターには第二版が。そうしておけば後でこういう話をしても、3番は何とかって言う話ができるでしょ。一つしか知らなかったらこれ話にならない(笑い)。
宇野   でも当時の日本では仕方ない。
朝比奈   仕方なかったんです。
宇野   ブルックナーの交響曲聞いていると、ワーグナーからの引用がだいぶあって、それでワーグナーを非常に彼は尊敬していたんですけど。
朝比奈   そりゃそうでしょうねぇ。あの頃のワーグナーって言ったら神様みたいなものですからね。
宇野   どうでしょうか、あの、そういう主題の引用だけじゃなくてオーケストレーションとかそういうのは全く違うんでしょうか、それとも…。
朝比奈   私はワーグナーという人は作曲家としてもちろん偉大で、人間としても偉大なんだろうが、オーケストレーションに非常に特徴のあるパターン、例えばヴィオラとバスクラリネット、イングリッシュホルンというこの辺の楽器、ファゴットも入っているかな、いわゆる中音域の楽器を非常にたくさん使うっていうのは一つの技術というか作風。これはリングなんかでもあの長い4曲一貫している。そういう意味では技術的な面で特色があると思うんですが、それ以外ではどうなんでしょう。音楽そのものはあの人の頭からでてくるものに大きな意味があるんだけれども、いわゆるオーケストレーション・楽器法というものではそんなに後に影響を残してないし、残しているとすれば大規模な管弦楽を使うこととか、非常に長大な場面をねぇ1曲でやる。これはやっぱり大変な仕事ですからね。アルベッヒが出てきて、ヴィークが出てきて向かい合ったまま40分くらいしゃべってるってのはねぇ、これはボニッシュではないですな。ちょうど日本の浄瑠璃みたいですな。人物が一人か二人で一幕全部やってしまう。まあそういう事はだから演劇的な才能があった。だけどオーケストレーションに関してはマーラーとかリヒャルト・シュトラウスとかそういう人の方がはるかに技術者ですな。テクニックがこれはもう。だから僕は本来ワーグナーという人は劇作家でもあり、それからああいう自分だけの手法を非常に地味な手法であれだけの曲を書いていった人ですから、尊敬はしてますけど、ブルックナーにそれだけの影響を、具体的な影響を与えていないんじゃないかと思う。
宇野   あー、そうですか。
朝比奈   もちろん偉大な先輩として尊敬はしてたでしょうが。むしろマーラーの方がブルックナーを尊敬したことによっていろいろ華やかなことはやってみたけど、最終的にマーラーの9番のフィナーレなんかに来るとブルックナーの世界に戻っている。だからむしろブルックナーが人に与えた影響というのはかなりあると思いますね。ワーグナーのことは僕はいつも考えない。あのワーグナー・シンフォニーってあるでしょ。あれはまあワーグナーのモチーフをとってやったというのは、だんだん色あせてきてねぇ(笑い)。そんな事じゃなくてむしろ尊敬するワーグナーに捧げるシンフォニーなんですな。だからやっぱりワーグナーとブルックナーという命題より、むしろブルックナーとマーラーという僕の頭の中ではそういう似ても似つかないように見えますけどね
4番
朝比奈   4番5番になるともう文句言いようがないですけどね。
宇野   文句言いようがないですか。
朝比奈   弾けないのはこっちが悪いってことになりますからねぇ。昨日4番を新日フィルとやったんですけど完璧に音は弾けましたね。ダイナミックもppからffまで音も出るし、細かい動きも完璧に弾けて。もうだからあの曲になると演奏者に一定以上の技術があればなんの問題も起こらない。
宇野   4番はロマンティックって名前を自分で付けたりして。
朝比奈   あれは何ですか。どうしたんですか。
宇野   いやわからないですけどね。
朝比奈   自分がつけた?
宇野   自分がつけたんですね、ロマンティッシュって。
朝比奈   自分がロマンティックって…。ロマンティックていろんな意味があってね、非常に自由で劇的な一つの世界というのがロマンティックな世界ですな。古典的世界ではないですね。そういう意味なら非常に波瀾万丈ですよね。第二楽章なんか最初に出てくるチェロとヴィオラの弾いているみたいだけど、後段になるとすごい山が出来る。そういうのが一種のロマン的な、僕はおこがましいけども、二度目の大学で美学ではですね、僕の教授に言わせればああいうコントラストの激しい表現、大きな抑揚というのはロマン的であると言うことだった。そういうのならロマン的ですわなあ。だから何かロマン的というのはベタベタ甘ったるくてロメオとジュリエットが抱き合っているみたいな話ではないんですなぁ。
宇野   あーそうですね。
朝比奈   ドイツの芸術用語としてのロマンティックではないんでしょうか。
宇野   4番5番は、ずっと3番までに比べて立派な作品ですけど。
朝比奈   だからその4番も5番もロマンティックだと思う、そういう意味では。
宇野   ええ、そういう意味では。ただ、聞いていると4番と5番とまたすごく違うんですよね。
5番
宇野   5番は何かものすごい…。
朝比奈   ちょっとね、出来がよくなってますからね、構成が。
宇野   そうですね。
朝比奈   それで、僕らそう思うんですけど、4番と5番やっているときにはやっぱり弦楽器のプレーヤーはバロック奏法というものをいつも念頭に置かないと。
宇野   4番と5番ですか。
朝比奈   ええ、あの辺のものは明らかに基本がバロックですからね。バッハとは言いませんが、少なくともバロックの教会堂でのオルガン曲なんていっぱいありますね、無名の作曲家の。だからまあバッハを代表とするバロック奏法を、まあ、ヴァイオリンの弾き方でバロックシュピールって弓の弾き方がちょっと違いますからね。テケテケテケテケ弾くんじゃなくて。メンデルスゾーンのコンチェルトなんて、バロックシュピールいらないんですね。あの辺からロマンティックですから。バロックシュピールってのは音を一つ一つはっきり出して、やっぱりオルガンからきているんでしょうね、パーパーとやって。昨日もバロックシュピールでバロック式の演奏でとやかましく言って。あの5番でも明らかにバロック風ですよね。5番の基本主題なんてやってるとバッハみたいですね。
宇野   そうですね。
朝比奈   フーガの技法やってるみたいですよ。
宇野   4番の方がまだメロディックですね。
朝比奈   ええ。5番はねぇ、立派なバロック建築で。
宇野   一番何かこう密度が濃いような気がするんですよね。
朝比奈   私も5番が一番大シンフォニーだと。あれが一つの様式で、あれがクライマックスで、6番は出直しみたいですね。
宇野   ああそうですね。
朝比奈   出直したわけではないでしょうけど、一つの今度は多少ロマンティックな方向へ、大変ロマンティックですからね、6、7、8番なんてのは
6番
宇野   6番はどのようにお考えですか。
朝比奈   6番はねえ、第一楽章は大変立派に出来ていて…。フィナーレの作り方がねぇ、ちょっと。
宇野   魅力がないんですよね。
朝比奈   いや、演奏がよくないのかもしらんが、どうやっていいかわからないような。まあ自分で言うのも変ですが、今度ビクターがお使いになる東京交響楽団との6番は、私がやった範囲ではまずはいいとこ行っているように思うんですが。あの、一遍ねぇ、リンツでブルックナーフェスティバルていうの毎年やっているでしょ。あれにね頼まれましてね、6番やったんですが、6番は引き受け手がいないんだと思うんですね。でね、7番ならやるけどもってなもんだろうけど、スイトナーがね6番やり手がいないって、いなければ自分がやればいいんだろうけどね、で、やらされたんですけどね。ウィーンのオーケストラが全然6番弾いたことないんですよ。
宇野   あ、ウィーンシンフォニカーの例のあれですか。
朝比奈   それでね、全然弾いたことないみたいなんだ。やったっておたおたして。そうでなくてもデキが良くないでしょ。惨憺たるもんでしたけどね。だから東京交響楽団ぐらい出来れば大したもんですよ。日本人はね、わけわからなくても一所懸命やるでしょ、わかんないなりにもちゃんと正直に。
宇野   向こうの人はわかんないとダメですか。
朝比奈   わかんないとねダメだって言うんですよ(笑い)。それと勤勉じゃないですな、オーストリーのオーケストラ勤勉じゃないですよ。
宇野   6番はデキちょっと落ちますかね。
朝比奈   落ちるってちょっと…。まあ落ちるという言い方は失礼ならば…、ちょっと新しい書き方を模索して…、第一楽章は大変いいと思うんです。あの変拍子の使い方は面白いですねえ。あれね、3つにとっても4つにとっても難しくてね。そういう事もあって面白いです。音も良く響きますしね。どうもおしまいにきてから具合悪いですね。もう後7、8、9番は言うことないですね。
7番
宇野   7番はどうでしょう、あの聞いていると一番カドがないというか。
朝比奈   あ、あれは非常にやりやすい。一番ポピュラーなんでしょうな。
宇野   昔からそうですね。
朝比奈   私、今度演奏旅行に秋に行くんですけどね、いろんな街行ってベートーヴェンの7番とブルックナーの7番やります。全ての街がブルックナーの7番希望してきましたよ。
宇野   あーそうですか。
朝比奈   でも意地になって最後のベルリンだけはベートーヴェンやることにしましたけどね。やっぱり一番耳に親しまれているんじゃないでしょうかね。
宇野   あ、そうかもしれませんね。ただ四楽章がどうでしょうかね。
朝比奈   短いんですよ。非常に良いデキなんで、もう何とか真ん中の展開部をあんなに早くやめちまわないで、あの長さもう倍くらいほしいですね、あの中間部は。
宇野   やっぱり演奏している方でもそうですか。
朝比奈   コーダは非常に良くできていますからね、それはいいんですけど展開部がすぐ済んじゃうんです。あれは根気がなくなったのか、あんだけ書けるんだったらもっと書けるはずですね。もったいないです。
8番
朝比奈   その点8番はもう充分ですな。
宇野   8番はすごいですね。
朝比奈   8番はもうカットするところ一つもない。立派なもんで。演奏が良くなければもちろんいけませんが。それから説得力があるじゃないでしょうか。いつか目白でブルックナーばっかりやったことあったでしょ。
宇野   ええ、カテドラルでですね。
朝比奈   あの時大フィルが8番やったんです。若いお客さんばっかりでしてね。まあ演奏もちゃんと出来たとは思うんですが、とにかく大変な感動だったらしくて若いお客さん泣き出しましてね。僕なんかは客席見えないですから泣いているの知らなかったですが、うちの連中が裏から入って…。もうねえハンケチなんかぐしゃぐしゃでそこら辺見たら泣いてねぇ、僕は青年てのはいいね、なんで泣いているって悲しいわけでもないんでしょうね。
宇野   ええ、ええ…、そりゃ悲しいわけではないでしょう。感激してる(笑い)。
朝比奈   音がね、あのアダージオのこうやっていくところなんてね、何だか知らないけれどもたまらないですな。泣いて泣いてねぇ、演奏が済んで泣きやんだら今度は帰らないんですよ。駄々っ子、子供だね。三十分近く舞台にいましたよ。
宇野   あーそうでしたね、覚えています。
朝比奈   それだけね、日本の何の関係もない現代の青少年に深い感動を与えるってのは音楽というのは素晴らしいですねえ。
宇野   特にこのブルックナーの8番というのは。演奏もいいんですけど。
朝比奈   それとね、教会というのは十字架があって何とも言えないんですよ、あれ。だからやっぱりこの人の精神的なものが多いですね。
宇野   弦のボウイングなんかで非常に特殊な感じがしますね、見てますと。
朝比奈   私が使ってますブルックナーのパート譜は、4、5、6、7、8、9番まで全部私が考えたボウイングが付けてあるんです。それを使わないとちょっとあれだけの効果は出ない。ものすごく、あの、どうしていいかわかんない書きっ放しですから、あれを一つの形を復帰するようにしておいて演らないと。これはまあ私がヴァイオリン弾きだったおかげで出来ますので、それには随分…。だから貸し譜なんてのは問題にならないですよ貸し譜で汚いのは。海賊でも何でも新しいのできちっと書いて使ってますから。まあ最高峰でしょうね。あれフルトヴェングラーみたいな人が何で12小節だけ抜いているんでしょうね。
宇野   あーそうですね、ハース版を使いながらね。
朝比奈   あそこまでやってきたら、もうちょっと…。それから前の終止のところ2小節だけ何でもないところも取って。やっぱりあのような大家はね退屈だからどうぞなんてなもんでしょうな。深い意味はないんでしょう。それであの12小節のところは突然違うものがでてきて、それからトゥッティ入るでしょ。それはそれでいいと思うんだけど、うーん、あれは……。
宇野   クレンペラーなんかもっとひどいですよ。フィナーレの展開部がないんですから。
朝比奈   いらないって書いてあるんですから。いらないけども他の人は真似しない方がいいなんて、何言ってるんだろうな(笑い)。ヤになっちゃんたんだろうね。
9番
宇野   9番はどうでしょう、これ未完成ですが。
朝比奈   9番は僕は未完成で良かったと思います。もう曲としては言うことないですね。しかも、4楽章がないということが偶然なのかもしらんけど、何とも余情があってねぇ。それであの終わり方がいい演奏しなければならないけどあれはジーっと心をこめて静かに終わっていったら、あれにフィナーレはいらないですなぁ。良くできたもんですなあ。
宇野   一楽章も二楽章も8番よりもさらに深いというか。
朝比奈   あー、いいですね。二楽章はデモーニッシュですから、あれは悪魔の音楽ですなあ。何だかわかんなくて最初やった時に…、あれはねぇ原典版が良かったですね。書き直したのは弱くなってるでしょ。
宇野   もう最低ですよ、あれは
朝比奈   それがやっぱり、僕がその有名なエピソードになっちゃってるけど、フルトヴェングラーが「9番演るならオリジナル」の一言、それ言わなかったら僕はあのレーヴェのやつで演ってますよ。楽譜があっちの方がその頃出回ってましたから。
宇野   あれはもうちゃんと弾きいいように書いてあるんでしょ。
朝比奈   ええ、フルート重ねたりしていい音がするように。あの、原典版というのは助かりましたなあ。全く違う。第二楽章なんか全く違うものになっちゃってますから。
宇野   全く違いますね。最初ファゴットで出て来るんでしょ。
朝比奈   パンパンパンパンって。テュッティすごいですからね。やっぱり、それであの第三楽章がついていたら言うことないですな。決して易しくはないですけど。

日本の聴衆について

宇野   一番最後にですね、朝比奈ファンの方々に一言何かおっしゃっていただけると。
朝比奈   あのブルックナーに限らない、ベートーヴェンの場合でも同じだと思うんですが、いろんな大作曲家がいて誰がえらいということないですけど、まあ一番精神的な面において対象になるのはベートーヴェンとブルックナーだと思うんですよね。他の要素はみんなたくさんありますけど。最終的に何によってその音楽を強くひかれているかというと、ベートーヴェンとブルックナーの音楽というのはテクニックがあるなとかメロディがきれいだなということの他に、精神的なものに惹きつけられる。そういうこの二人のベートーヴェンとブルックナーというこの二人の作曲家に圧倒的に日本の聴衆、特に若い青少年層から青年、中堅の方まで、僕の演奏会を見ると圧倒的に多いんですね。それで、大勢、昨日なんかでも入りきれなくて、なかなかお帰りにならんで。それはとりもなおさず日本の聴衆ってのは精神性の高い音楽に対して非常に敏感だと思っている、近親感を持って共鳴する。あの絢爛たる華やかな音楽とか、新しい作曲技法とかそれはもちろん面白いだろうと思うけど。それは興味としてそれを聴いている人もいるんだろうけども、ベートーヴェンとブルックナーというもう言われなくてもわかっているようなもので、一番精神性の高いものに一番圧倒的に聴衆の数が多い。たまたま私がその二人の作曲家をやる回数が多いものですから、他の場合と比べてみて、知識を持っているとかの一部のグループありますよ、学生のくせに僕らより良く知っているなんちゅうのもいます。そんなんじゃなくって会場全体の雰囲気としてあれだけこの聴衆の席の方から舞台の方へ波が押し寄せてくるような雰囲気があるってのは、ものすごい吸収力があるわけですね、音楽の。それは僕は世界に誇るべき現象、日本の聴衆の精神性の高さ。やっぱり、欧州の聴衆は非常にいいレベルの聴衆はもちろん感受性もあり、知識もありいろいろなんだけど、いいものにはいいものを享受して、それによって非常に自分も楽しんで、その楽しさを演奏者に対する感謝の態度で表わすという非常に伝統的ないい聴衆だと思いますけどね。日本の若い聴衆のように感動して興奮するということはなくなっているみたいですなぁ。まあ、それはあまりにも長い伝統の中で、それで聞かないですからな。聴衆の層というのは決まっていて、他の社会の層は見向きもしない。大体クラシック音楽なんて来ない。ところが日本は、若い中学生、高校生が切符買って来るんですからね。それはやっぱり日本人というものが、これは本当に外国文化ですよね、それも特別な時代の。それでもその精神性の高い二人の作曲家に対して、社会の慣習とかそんなんじゃなくて直接にディレクトに音に対してあれだけの感受性を示すというのは日本の聴衆は素晴らしいと思いますね。
宇野   どうもありがとうございました。
92年5月14日、ホテル・オークラにて。


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